Merry Christmas ! 夢の中で試験を受けたり、宿題に悩んだりする人は案外多いらしい。心理学者の河合隼雄の説によると、こうした夢は、無意識からの自分への警告であるという。本来はとても大事なのに、普段の生活の中では考えるのを怠っている問題を、忘れないように『無意識』が警告しているのだ。それはすなわち、自分の限りある生にはどのような意味があるのか、という根源的な問いである。十代の頃は誰もが考えたはずのこの問題も、社会に出て日常に追われる中では意識にのぼってこない。社会というのはむしろ、人間をそうした根源的問いから遠ざけておくために、わざわざ忙しくさせるための装置なのかもしれない。 「隣百姓」という言葉がある。隣が田植えをしたら自分も田植えをし、隣が刈り取ったら自分も刈り取る。季節は毎年少しずつ微妙に違うので、農作業ではタイミングの判断が非常に大事である。そのタイミングもやり方も、隣を見て真似るのが「隣百姓」である。もし隣人が経験を積んだ頼りになる人なら、これはまあ、ある意味で賢いリスク・マネジメントの方策だと言える。「真似る」ことは「まねぶ」、つまり「学ぶ」ことのはじまりであるから、すなわちナレッジ・マネジメントの第一歩だと考えることもできる。「隣百姓」とは要するに、自分では何も考えないでもすむ仕掛けである。 しかし、いうまでもないが、これは隣人が自分より頼りになる人である、ということが前提になる。周りが自分と同じ程度のスキルだったら、みんなで同じ間違いに陥るかもしれず、全然リスク対策にはならない。誰かに学んだり真似たりするときの一番の前提条件は、相手が自分よりもはるかに上のレベルであること、そしてその相手が信頼できること(言いかえれば利害が共通していること)である。ここを忘れて、単に皆がお互いの真似をして、同じバスに乗りおくれまいと争うのは、バブルを生む元である。 9月の米国発金融危機以来、ひどく景気のわるい話が続いている。あちこちで操業停止、非正規雇用者の切り捨てがアナウンスされている。売上げが落ちる、だから単価を下げる、そのために人件費を削減する、おかげで雇用が減ってますます消費が冷え込む。これはまさに、逆のバブルではないだろうか。まわりがこうしている、だから自分も同じ事をする、その結果ますます状況にドライブがかかる--どうしてこういう不思議な現象が起こるかというと、現代の経済システムが、付加価値ではなく、資産価値という「夢」によりかかって出来上がっているからだ。 付加価値というのは、あなたが外部から買ったモノに何らかの加工を施し、より高い値段で売ったときに生じる。これは、いわばフローによって生じる価値である。ところが、あなたが金の延べ棒を買って、数日後に相場が上がったから売ったとしたら、どうだろうか。金の延べ棒自体には、何の変化も生じていない。これはストックの評価額によって生じるキャピタル・ゲインであるが、ではその資産評価額はなぜ上がったのか? それは、「金が上がりそうだ」と多くの人が思ったからに他ならない。 一般の消費財や生産財の価値は、買い手側の「使用価値」によって決まる。これは他のユーザーの価値判断によってはあまり左右されない(むろん多少の需給変動はあるが)。しかし、知っての通り、会社の株価はしばしば短期間に大きく変動する。会社自体の配当能力や物的資産の量は、1日や2日で急に変わるものではないにもかかわらず、株価が短期的に変動するのは、買い手の憶測が重なるからだ。金の延べ棒や土地や株式などの資産は、配当云々よりも、転売価格によって基本的に動かされる。だから、他の売買者の夢や憶測が非常に重要になり、それが同調したときは正のフィードバックがかかったように急速に変動するのである。 物づくりにしんどい思いをして付加価値を上げるより、夢を売ってキャピタル・ゲインで儲ける方がはるかに手っ取り早い。逆バブルでしぼんでも、一度いい思いをした人は、なかなかその夢を忘れられまい。だが、夢と憶測の重なりで生じる資産価値の増大は、基本的に「まぐれ」の一種であり、それは運が良かったということとほぼ同義語でしかない。もしこの社会が、運の良かった者を報い、運のわるかった者を罰するだけの存在だったとしたら、いったい誰がまじめに働こうとするだろうか。 今日の社会では、「夢」はあたかも良いものであるかのように語られる。夢を持て、夢を忘れるな、若者に夢を、というわけだ。誰もそれを疑わないらしい。しかし、はたして夢はそのように一方的に良いものなのだろうか。夢は意識や理性を少しばかり抑えたところに生まれる。夢には根拠はいらない。そして、その夢に踊らされる社会のツケは、いったい誰に回されるのか。それは、近々1000兆円を超える負債を抱えることになる、今の20代以下の世代の人たちではないだろうか。 今の若者には夢がない、などというのは嘘だ。正しくは、今の社会では若者は希望を持てないので、夢を見るしかない、というべきだ。ここで私は「希望」という言葉を、「夢」とは峻別して使っている。希望とは何か。それは、人生は運不運だけで決まるのではないはずだ、と思うことだ。より良い未来を期待し、それに対して自分が“働きかけることができる”と信じることだ。努力すれば報われる可能性がある、と信じることだ。夢は希望ではない。未来に自分で働きかける方法がないとき、人は夢を見るのだ。 夢見る「隣百姓」のまま、定年近くまで働き続けてきた大人たちが、今の社会を作った。その社会は、巨大な試験と宿題に悩まされる状態にある。それは、日々に追われ何も考えずに働いてきた大人たちにつきつける、無意識からの警告である。もしも若い子ども達の世代に希望をもって生きてほしいなら、私たち大人がまず夢から覚める必要がある。地上がひとときジングルベルと夕暮れのキャンドルの灯につつまれるこの季節、日常の雑事を遠ざけ、しばし静かに考えをめぐらせるのが今の私たちのつとめではないだろうか。
by Tomoichi_Sato
| 2008-12-24 00:08
| ビジネス
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