夜中に目が覚めて、眠れなくなった。目を閉じても、頭がループしたように、考えるのは同じ事柄とシーンばかり。しばらくしてから、ようやく自分で「ああ、また心で残業してしまっている」と気づいた。こんな残業を深夜に自分の寝床でしても、誰も手当を払ってくれる訳でもない。やめよう、やめよう。 「仕事に心をつかってはいけない」と、昔、あるベテランのプロジェクト・マネージャーから聞いた事がある。でも、聴いて真意をすぐに理解したとはいえない。仕事は複数の人間が協力して進めるものだし、人に気遣いをするのは、ある意味、大事じゃないか。そうも思った。 しかし、この方が言われていたのは、もっと深い話だった。「心をつかう」とは、じつは気遣いとか心遣いの事ではない。心を浪費する、という意味なのだ。あるいは、わたし達の中にある、感情と思考という大切な脳のリソースを無駄につかってはいけない、というアドバイスだ。 仕事の時間が終わったら、もう、仕事に関する心配も気苦労も、終わりにする。余計なプライドも他者へのイライラも、心の中で追いかけない。それを時間外に家に持ち帰ったって、ほとんどの場合、自分で仕事の歯車を前に回すことはできない。自分をすり減らし、自分の時間と大切なリソースを浪費するだけだ。そう、言われていたのだ。
『感情労働』という言葉を知ったのは、もう10年以上も前のことだ。感情をリソースとして他者に提供するサービスを、『感情労働』と呼ぶ。社会学から出てきた言葉で、仕事の一環として自分の感情をコントロールしたり、顧客に「感情の贈り物」を提供したりすることを指す。 世の中の仕事はふつう、知識労働と肉体労働に分離される(と、ほとんどの人は思っている)。だが社会学者たちは、それ以外に第3の労働の種類、感情労働が存在すると指摘したのだ。わたし達は感情を上手に表出し、他者に伝え合うことで、人間関係を円滑に成り立たせている。それは普通、プライベートな関係における機能であるはずだが、現代社会はその感情を商品化し、仕事で売買するようになる。 もちろん接客サービス業などの仕事は、紀元前から存在しており、彼ら彼女らが上手に、ビジネスで感情表現を使ってきたことは誰もが知っている。だがそうしたことは、売買する商品・サービスのおまけであり、一種の個性だと考えられてきた。現代の社会学は、それが個性と言うより業務上のスキルであり、かつ広く薄い形で、様々な職種において求められていることを明らかにしている。 プロジェクト・マネージャーという職種も、感情労働を求められる典型の一つだというのが、わたしの推論である。そして感情は、『リソース』としては目に見えず、捉えどころもなく、どれだけ消費し、どこまで再生されているのかが、とても分かりにくい。だから感情労働の強化は、働く人の情緒障害と自己疎外を招きやすい、というのが社会学からの警告である。
わたしの普段している仕事が感情労働に分類されるかどうかは、わからない。しかし、夜中に仕事のストレスで目が覚める経験は、自分が仕事で相当な感情的な負荷を感じていることを示している。そうしたネガティブな感情は、自分の脳内で思考(想像力)を勝手にドライブしていく。それによって、わたしの脳内リソ−スを浪費してしまう。わたしはこれを『感情負荷』と名付けている。 負荷とは、対応・処理しないと自分にストレスがかかるような、外部要求である。もっとも感情負荷は、誰か外部の人間から「感情を使え」と、直接要求される訳ではない。仕事の負荷とは、アウトプットや金銭や評価に関わる要求事項だ。しかし仕事はほとんどの場合、対人・社会関係の中で成立する。そして、わたし達は人間関係において、「承認欲求」だとか「支配欲求」といった欲求を生まれつき持っている。これが満たされないと、結果としてネガティブな感情が発動してくるのだ。 こうした感情負荷の存在の何がまずいかというと、思考の流れが偏流しやすくなることだ。何を見ても、どんな事柄を知っても、気がついたら同じテーマの思考ルーチンに陥ってしまう。理知的であるとは、ある意味、多面的・客観的に考える能力だ。だが同じ一つの方向、一つの結論にばかり頭が向いてしまう。あなたの周囲に、こうした傾向の人はいないだろうか。だとしたら、その人は一種の感情負荷を背負って、それに縛られているのだ。 わたし達は、感情のドレイを卒業する必要がある。その出発点は、自分の感情に対して気づいて自覚することだろう(こういう能力を心理学では「メタ認知」と呼ぶ)。わたしは自分の感情負荷に気づいたら、日誌に書くことにしている。見える化はまあ、対策の第一歩だからだ。
では、その先はどのような方法、道のりがあるだろうか。わたし自身、まだ旅路の途上なので、自信ある答えを持ちあわせている訳ではない。単に、自分の試行錯誤の旅程を三つほど、恥を忍んでご紹介するだけだが・・ まず一つ目は、「自律訓練法」である。この方法は、学生の頃読んだ、池見酉次郎・著「心療内科」 (中公新書)で知った。随分古い本だが、この技法のコア自体は変わっていない。 自律訓練法では、6つのステップをたどって、自分の身体をリラックスさせていく。それは、落ち着いた姿勢で座るか横たわるかして、自分に、次のような順番で言い聞かせ、それを身体的に感じ取っていくのである。
昔はこの手法については、(専門医に聴きに行く以外は)ほとんど資料がなかった。わたしも見よう見まねで全くの我流でやってきたに過ぎないが、睡眠導入につかっていて、それなりに効果は感じている。夜中に目覚めたときも、「ああ、これは感情負荷状態だな」と気づいたら、この方法を用いる。幸い今は、ネットでもいろいろな情報が手に入るようになったようだ。 ついで、数年前から学んで取り入れているのが、『セドナメソッド』と呼ばれる感情リリースのテクニックである(「新版 人生を変える一番シンプルな方法 ― セドナメソッド」 参照)。これは自分が、怒りや不安・恐怖や嫉妬などの感情にとらわれていると気づいたとき、次のような自問自答をたどることによって、感情を解放していく技法である
「手放す」の原文は、英語で"Let go"である。感情というシロモノのやっかいな点は、それを押さえ込もう遠ざけようと、もがけばもがくほど、かえってからみついてくる点にある。寝ようと必死になればなるほど、眠れなくなるのと似ている。セドナメソッドの中心概念は、感情を流れに任せて解放することで、負荷にとらわれた状態をほどく事にある。このため、「リリーステクニック」と呼ばれることもある。 なお、感情の多くは対人関係で生じるため、セドナメソッドを適切につかうと、対人関係が円滑に回るようになると言われている。わたしは対人スキルに問題がある(すぐカッとなりやすい)ため、これが少しでも役に立つとありがたい。 セドナメソッドの難点は、指導者が日本に非常に少ない点だ。本だけではやはり、実際上は分からない部分がいろいろと出てくる。訳書の監修者のセミナーを聴いたりしたこともあったが、習える機会が少ないのは残念である。 そして3番目が、瞑想である(マインドフルネス、座禅もその類に入れていいだろう)。これについては、先頃、書評で「サーチ・インサイド・ユアセルフ ― 仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法」 チャディー・メン・タン著 を紹介した。今のところ、毎朝10〜15分ほど、静かに座って心を落ち着かせるようにしている。 その効果はいかほどか、自分では今ひとつよく分からない。ただ、「瞑想は自分のメタ認知能力を上げる」という知人のアドバイスがあり、それは正しいのかなと思う。自分の感情に気づくのが第一歩だと上にも書いたが、これが実はとても難しいのだ。不思議なことだが、感情にとらわれている人(特に怒っている人)は、その事を指摘すると、かえってムキになって「俺は感情的になんかなっていない!」と反論してきたりする。自分の感情状態に気づくためには、「我にかえる」必要があるが、感情ループに入っていると、とても困難なのだ。 瞑想は、それこそ禅寺のお坊さんまで含めると、指導者が大勢いる。むしろ居すぎて迷うくらいだ。でも、こうした心身に関わるデリケートな事柄については、自分に合った良い指導者に巡り会えるかどうかが、とても大切である。誰でもいい、という訳にはいかないのだ。 (何を食べ何を着ようかと考えて)「明日のことを思い煩うな。一日の苦労は一日で足れり」と、かつて2千年前にパレスチナの地を歩いた賢人は語った。夜中に目を覚まして眠れなくなった経験のない人は、幸いだと思う。でも、少しでも感情負荷に悩む方に、この小文がわずかでもお役に立てばありがたい。 そして、心の残業は、もうやめよう。 <関連エントリ> 「仕事に心をつかってはいけない」 https://brevis.exblog.jp/16701913/ (2011-11-13) 「知識労働、肉体労働、そして『感情労働』」 https://brevis.exblog.jp/15300953/ (2011-08-19)
by Tomoichi_Sato
| 2024-07-19 22:29
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