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忘れない、という行き方

ある日、あなたは福島県から来た企業家に会って、こんな話を聞く。
「震災から4年余りが経ったが、地域の復興はなかなか進まないばかりか、世間の人はもう忘れたがっているようにさえ見える。あなたは東大で環境の研究をしておられるそうだが、東北の環境浄化や自然エネルギー活用のための斬新な案をお持ちではないだろうか。もし良いアイデアがあれば、わたしも事業の傍ら応援したいし、資金獲得のお手伝いくらいはできると思う。」

あなたは「環境再生ないし自然エネルギー活用による、東北地域復興プロジェクト」の案を考えて提案することを約束した。
プロジェクトの総予算は3億円とする(ちなみに復興庁の今年度予算は3.9兆円で、「再生可能エネルギー」関連だけで計23億円ある)。また、必要に応じてクラウドファンディング(「セキュリテ被災地応援ファンド」等)でも公募できる。

・・これは、東大の大学院・新領域創成科学研究科でわたしが教えている「プロジェクトマネジメント特論」の、グループ最終課題として今年出題した問題である。受講する院生はほとんどが環境学系の所属のため、このようなテーマ設定にしてある。グループ編成は、5〜6名。班の中で、プロマネ・APM(アシスタントプロマネ)・チーフデザイナー・プロジェクトコントローラーなどの役割分担を決めて、約1ヶ月半で事業構想とプロジェクト計画を作る。発表は、8分間の動画ファイルを作り、それを皆の前で提示してもらう。

なお、これはプロジェクト・マネジメントの授業なので、事業コンセプト(概略イメージ)だけでなく、予算・期間を提示してもらう。プロジェクト計画は、以下の図表と説明を入れるよう義務づけている:
・ActivityリストとWBS構造図
・ネットワーク・スケジュールとガントチャート
・予算表 (自分たちの人件費は時間あたり2,000円。他の費用は「月刊積算資料」などを参考にする)

採点はわたしがするのではなく、出席者全員に採点表を渡して、他の班を採点してもらう仕組みにしている。内容の良さ、そしてプレゼンテーションの上手さ。両者の評点を集計して、総合評価を決める。プロジェクト・マネジメントは知識だけあってもしかたがないので、学期末のペーパーテストやレポート提出ではなく、グループ課題での発表にしているのだ。

今年の最終発表会で一位になったグループの案は、『阿武隈ダイヤモンド・ チャコールプロジェクト』というタイトルのものだった。プロジェクト実施の場所は福島県浜通地方にある川内村。この村は1960年代までは、豊かな森林資源を活かし、日本一の木炭生産量を誇っていた。しかしエネルギー革命で電気や石油が燃料の主役になってからは、住民は里山を捨て、原発産業などに従事するようになった 。そこに、東日本大震災である。現在の川内村は、仕事を失い、人が戻れない状況にある(村の東部は避難指示地域)。そこでこの班は、製炭業を復活させ川内村を再建するプロジェクトを提案する。

そのキーとなるのが、高品位な木炭(チャコール)という訳である。これを『阿武隈 ダイヤモンド・チャコール』と名付け、世界一のブランドを川内村から作る!という。この班は実際に教室に木炭を持参して、皆の前で簡単な実演をした。炭と炭を打ち合わせると、高級な木炭はカンカンという硬質な良い音がするのに対して、量販店で売っているBBQ用の安い炭はボソボソッという音しか出ないのだ。百見は一聞に如かず、である。単なる木炭にも、ずいぶんと品質ランクに差がある事が分かる。良い木炭は当然、用途も広いし単価も高い。

この班は製品の試作・分析から量産準備までをプロジェクトとしてとらえ、3億円の投資で、IRR=10%が可能であると試算した。経済性評価ではちゃんと感度分析をしている。またスケジュールも、クリティカル・パスを求めただけでなく、モンテカルロ・シミュレーションを実施して、工期の達成の幅まで検討している。まあ限られた期間内の院生の仕事だから、計画の精度は高くないが、プロジェクト計画のアプローチは、下手な上場企業よりもずっとしっかりしている。

2位になった班は、畜産廃棄物(家畜糞尿)からのバイオガス発電のプランを出してきた。売電による収益で畜産農家を支援するという案だ。プレゼンテーションは地味だったが、他の受講生からの評価はなかなか高い。きちんとPREET/CPMでスケジュールを作成し、コンティンジェンシー・リザーブ(予備費)によるリスク対策もみている。ほかにも面白い案がたくさんあったが、紹介しきれないので割愛しよう。

こうしたプロジェクト・プラン立案のグループ演習を課すのは、班で共同作業すること自体がちょっとした「プロジェクト体験」にもなるからだ。そのためには、アイデアが宙で空回りしないよう、予算規模の制約をつけるとともに、地に足がついた具体的な地域性が必要になる。だから福島県を選んだのだ。

いま、なぜ福島県か。それはもちろん、「忘れないため」でもある。

課題発表会の直前、わたし自身も東北を旅行した。震災から4年後の現在、現地がどうなっているのかを、少しでも見ておきたいと思ったのだ。最初に福島県の郡山に入り、それから二本松、土湯温泉、さらに飯館村を通って福島県の浜通地方に出る。そして国道8号線沿いに、被害の最もひどかった太平洋岸の浜通地域を通る。このときはボランティアのバスに同乗させてもらい、カリタス原町センターのスタッフの方に案内していただいた。そのあと、岩手に抜け、最後に宮城県の涌谷町・仙台市を通って帰ってきた。

浜通地方の原発事故被害にあった地域は、今もまだ多くが避難指示区域で、立入り制限ないし居住制限下にある。居住の制限された区域は、昼間のみ、地域に入れる。実際、多くの除染作業従事者が入って働いており、除去した表土などは黒いビニール袋(通称「トン袋」)に詰めて、空き地などに並べている。わたしたちの乗ったバスは国道8号線を走ったが、「帰還困難地域」に入ると、道の両側に鉄のバリケードが並ぶ。国道からそれて、中に立ち入れないよう制限しているのである。山野も町も、道の両側の建物も、ほぼそのままの姿で残っている。青葉は陽光に輝いている。だが、住む人がいないのだ。この異様さは、実際に走ってみないと分からない。制限区域をすぎて、南相馬市の人の暮らす地域に入ると、なんだかほっとする。人がいることが、こんなにも安心するものなのか、と思う。

福島県ではあちこちに、空間線量計が立っている。二本松市の幼稚園の庭に立っているのを見たときは、なんともいえぬ困惑を感じた。幼稚園の庭には砂場があるのだが、鶏小屋のような屋根とプラスチックの囲いがつけられている。子ども達はどうしても砂遊びがしたい。砂はもちろん新しいものに入れ替えてあるが、周囲を取り囲む山野は除染ができない。だから、砂が風雨にあたらないようにつけてあるのだ。線量についていえば、わたし達の通った国道8号線で最も高い場所は、8μSv/hr以上あった。一応参考までにいうと、従来の放射線管理区域の目安は、約0.5 μSv/hrである。周知の通り、放射線の健康影響にはいろいろな議論がある。だが、8μSv/hrとなると、率直なところあまり無用な長居をしたい気分になる場所ではない。

写真を2枚だけあげよう。上は、常磐線富岡駅前の光景だ。4年前の津波にえぐられたままの商店街の建物が、今も手つかずで残っている。ここらはまだ除染作業も進んでいないため、撤去修復にも戻れないのだ。下の写真は、南相馬市の常磐線小高駅の自転車置き場である。4年前の3月11日の朝、通勤・通学の人達はここに自転車を駐輪して、常磐線に乗っていった。そしてそのまま、誰も取りに戻れずに日々が過ぎたのだ(かりに帰還しても、自転車は汚染している可能性が高いから引き取れないだろう)。列車もその日以来、動いていない。ここではまだ、時間が全く止まってしまっている。
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郡山市では、「ふくしま心のケアセンター」所長で、精神科医の昼田源四郎先生にお目にかかった。昼田先生とお会いするのは2年ぶりである。震災後、岩手・宮城・福島の3県にそれぞれ「心のケアセンター」組織が立ち上がった。昼田先生は福島大学を退任されたあとすぐ、所長として臨床心理士などの職種のスタッフを集めて組織されてきた。しかし震災後3年経ち、4年経っても、まだ相談件数は目に見えて減っていない。そればかりか、「ハサミ状格差」「支援疲れ」などの具体的な事例をあげて、まだ困難が続いている事を語られた。

こうした心のケアセンター組織は、阪神淡路大震災以来の教訓として作られたものである。昼田先生によると、阪神・中越大地震のいずれのケースも、心のケアセンターは約10年で役割を終えたという。そして、岩手県や宮城県も、おそらく10年程度で完了できる。しかし福島県の場合は、自分の見たところ30年か40年かかるのではないか、と言われた。長年、精神科の臨床に携わってこられた専門家の洞察とはいえ、まるきり一世代分の時間である。福島の問題の難しさが浮き彫りになっているといえるだろう。

このような困難を抱える地域に対して、わたしが復興のために何かとびきりの名案を持っている訳ではない。たぶん、誰にもないだろう。学生達の示した案もまた、かりにフィージブルだとしても、福島県全体を救える訳ではなく、広大な東北地方から見れば「点」のようなものである。

しかし、小さな点と点をつないで、少しずつ状況を改善し続けるしか、道はないのだとわたしは思う。だから昼田先生は30年かかるといわれたのだろう。

ただ、有用な策を考えるためには、現実がどうだったのか、そして現在どうなっているかを知る必要がある。ところで震災後4年もたったのに、あの東日本大震災は何だったのか、その被害状況はどうだったのか、具体的な全体像を多面的・客観的にまとめた書籍や研究は、いまだに決定版がほとんど見当たらない。たしかに、途方もなく大きな事象ではあった。だが、個別の専門家達による、群盲象をなでるかのような分析やレポートはあるが、全体像が分からない。全体像が分からないと、どこから優先して解決に手をつけるべきかも見えないことになる。ポートフォリオ・マネジメントもなく、プログラム・マネジメントもなく、ただ個別のプロジェクトが動いているきりなのだ。

どうやらわたし達の社会は、大きな出来事を、カメラを引いて全体を冷静に認識・理解する能力が、欠けているのではないか? わたしの中で、そんな疑問が大きくなってきた。リスク・マネジメントの語は、震災前後から流行語になった。しかし、リスク・マネジメントの中核にあるのは、「学ぶ能力」である。自分たちの過去の経験を直視し、教訓を学び取る能力。自然災害はいつでも起きうるし、人為ミスの災害も完全には防ぎ得ない。である以上、わたし達は、痛い思いをした経験に学んで、少しずつ賢くなるしかないのだ。その賢さを、次の世代に伝えなければならない。

もちろん経験の中には、あまりに傷が大きすぎて、思い出すことさえ苦痛であるような記憶もあるだろう。だからといって当事者が、それを忘れられる訳でもない。そうした記憶は、おそらく他の多くの人が共有することでしか、薄めることができないのだろう。深く傷ついた人びとは、周囲が支えなければならない。他者がかわりに記憶することで、たぶん当事者は心にふたをしていけるのだ。

福島の人達が、「忘れないでください」と言い続けているのは、そういう意味なのだと思う。わたし達は、忘れやすい。過去は水に流して、未来志向に生きていく方が、ポジティブでカッコいい。だが、マネジメントを学生達に教えている以上、忘れない工夫と技術も、わたし達には必要なのだ。


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by Tomoichi_Sato | 2015-08-13 23:10 | 考えるヒント | Comments(0)
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