お仕事小説の名手、三浦しをんさんが新刊「ゆびさきに魔法」(文芸春秋)で取り上げた職業はネイリスト。軽妙な筆運びに細かいうんちくを交えた物語は、爪のケアに興味のある人はもちろん、全く縁のない人にも、奥深きネイルの世界への扉を開いてくれる。
主人公は庶民的な商店街でネイルサロンを営む月島美佐。丁寧かつ正確な施術で仕事は順調だが、30代半ばなのに老眼ぎみで色恋ごとには縁遠い。ある日、ひょんなことから求職中の新米ネイリストの大沢星絵を雇い入れることになり……。
「仕事柄、自分の手をずっと見ているせいか、きれいに塗ってあると、すごく気分が上がるんです。マニキュアより頑丈で剝がれないジェルネイルをしてもらおうとサロンに通ううちに、業界のいろんな話を聞いて、興味深い世界だなと思って書き始めた」
偏見や警戒心 縛られた人々へ
ネイルに対して「日常生活の邪魔では」といった偏見を抱く人は老若男女問わずいる。サロンの隣の居酒屋の大将もそう。巻き爪の痛みに悩む中年男で、星絵にサロンに連れ込まれ、月島の施術を受ける。痛みのとれた大将は、爪を飾り立てるだけだと思っていたネイリストの技術が実はケアの発想に基づいていることを知る。
「人は知らないものに対して、偏見や警戒心を抱くものです。少し前までは髪を染めたり、パーマをかけたりする人をみて、チャラいと思う人もいたけど、いまはそうしている人の方が多いぐらい。要は慣れの問題だと思うんですよ」
月島はまる一日、根を詰める作業をした後も、長風呂しながらスマホを眺め、斬新なネイルアートや最新のジェル商品のチェックに余念がない。かつて東日本大震災の被災地に通い、仮設住宅でネイルケアをした過去もつづられる。仕事一筋の月島の姿を通して、読み手はネイル業界の奥深さにふれ、固定観念を崩される。
痛む爪のケア 美の癒し 奥深い世界
サロンには、世間の目を気にしながらも、ネイルを愛する人々が次々と訪れる。周りから「母親失格」と思われたくなくて、施術をがまんしている子育て中の女性。パブリックイメージを崩さぬため、CM撮影の前にキュートなネイルを落とす国民的イケメン俳優。日常にぼんやり漂う偏見に縛られた人々の心を、月島はネイルの魔法でほぐしていく。
本屋大賞の「舟を編む」や映画化された「神去(かむさり)なあなあ日常」と同様、仕事熱心な人物がハブのようになり、人々をつないでいく群像劇。小さな騒動は数あれど、大きな事件は起きない。ほのぼのとした日常を描いているが、執筆中はずっとコロナ下だった。三浦さんは、試行錯誤しながら営業を続けるサロンの現場を目の当たりにした。
「大変な時期だったからこそ、あくまでも日常に寄り添う形でネイルの魅力を伝えたかった。どんな状況にあっても、人は身近に美しいものを求める。小説と同じで、腹の足しにはならなくても、心を豊かにしてくれるものだと信じてます」(野波健祐)=朝日新聞2024年12月11日掲載