せなけいこ氏と柳亭燕路(2024年10/30日分)

長谷川摂子によるせなけいこの絵本批評 - 紙屋研究所
 紙屋記事に触れたいわけではなく、せなけいこ氏(1932年生まれ。2024年10月23日逝去。享年91歳)の「有名(?)なご家族達(落語家である夫・柳亭燕路など)」について簡単に触れるための前振りにすぎません。
 「紙屋の駄文*1」は一切紹介しません。
 先日も「いやいやえん」「ぐりとぐら」等で知られる絵本作家、童話作家「中川李枝子氏(1934~2024年、享年89歳)」の訃報が報じられましたが、せな氏も『ねないこだれだ』等で知られる絵本作家です。
 ふと思いついて確認してみましたが「村山元首相(1924年生まれ)」「不破哲三氏(1930年生まれ)」で、中川氏やせな氏より年上なんですね。今年の大会で不破氏が名誉役員になって常任幹部会委員を勇退されたのも「残念ながらやむなし」ではあるでしょう。

立川談四楼リツイート
◆神保喜利彦@『東京漫才全史*2』(筑摩選書)発売中
 せなけいこ先生の旦那は落語界随一の研究家と謳われた(ボーガス注:6代目*3)柳亭燕路*4。何かの寄り合いで知り合ってそのままいい仲になったとか

 せなけいこ(瀬名恵子)氏の「瀬名」は旧姓で、結婚後は「黒田」姓とのこと(柳亭燕路の本名が「黒田」姓)。
 息子さん(黒田龍之助氏*5:1964年生まれ)は言語学者(ロシア語等)。娘さん(くろだかおる(黒田薫)氏:龍之介氏の妹)はお母さん同様に絵本作家とのこと(せなけいこ - Wikipediaã‚„ルルとかおる|ポプラ社 こどもの本編集部|note(くろだかおる氏のエッセイ)参照)。
【参考】

「お母さんは、せなけいこ。私はルルちゃん」絵本作家の母と落語家の父を持つ、くろだかおるが振り返る、ちょっとかわった家族の思い出 小学生編|ポプラ社 こどもの本編集部から一部引用
 母にある日、1本の電話があった。相手は先代の林家三平さん*6の奥さん*7。電話の用件は、「あなたも落語家のおかみさん会に入ってくれないかしら」というものだった。母は即座に「いえ、私には仕事があって、それが忙しいもので」と断ってしまった。それ以来「おかみさん会」からの電話が鳴ることはなかった。母にとっては、本を読むことや映画を観ること、展覧会へ行くことも仕事のうちなので、そんな時間はないのであった。学校のPTAの役割分担も「自分にはできないから」と、かわりにPTA便りに文章を書くことで免除してもらっていた。
 うちの家は他の家と違うのかもと思いはじめ、どうしたら皆の家と同じように話ができるか、というのが私の課題になった。そこで活躍するのが、長谷川町子さんの「サザエさん」である。「サザエさん」は家になかったので、兄も私も児童館の図書室で全巻読破した。すると、「お母さんというのは、家でこんな家事をするものなのか」とか「サラリーマンという職業にはボーナスというものがあるらしい」という事がわかるのである。「みんなの家は、お父さんは外で仕事をするけれど、家に帰ると何にもしないんだなあ」なんて発見も。というのも、うちの家では、父が家事もよくやっていたし、自分のことは自分でやるのが当たり前だったから。
 落語家だった父は、前にも話したとおり、短期でキレやすく、怒りんぼうである。
 父は説明書というものを一切見ない。ある時は、上履き洗い用のクリームクレンザーで頭を洗いそうになって家族にとめられた。
 家庭内のことだけならまだいいのだが、それが仕事にもおよぶのである。池袋の寄席で話をするときは、家族全員を連れていき、その帰りに、当時あった池袋スイミングセンターで泳ぐことが父の楽しみだった。寄席で話している最中、客席で見ていると明らかに早く話を終えたくてうずうずしている様子がとって見られ、家族はハラハラしたものである。
 父は、私だけを寄席に連れていく日は、帰りにスイミングプールに寄ったあと必ず立ち食いそば屋に連れていってくれた。そこではそばの食べ方を教わった。
「いいか、かおる。そばっていうのは、モグモグ食べるものじゃないんだ。こう、そばをツーとたぐって、少しだけつゆにつけて、一気にのどで食べるんだよ」
 そこで父の落語家という仕事をしみじみ感じた。

「お母さんは、せなけいこ。私はルルちゃん」絵本作家の母と落語家の父を持つ、くろだかおるが振り返る、ちょっとかわった家族の思い出 両親の新婚時代編|ポプラ社 こどもの本編集部から一部引用
 担当編集者から「今回は両親がどうして結婚することになったのか、どのように結婚に至ったかお話いただければ嬉しいです」というメールがきた。
 知らんがな。しかし今私に求められているのは、絵本作家・瀬名恵子と落語家・柳亭燕路の話をもっと知りたいという読者の願望であり(中略)そういえば母から聞いた話はこんな事だった。
 父と母が出会ったのは、母の絵描きの先輩が寄席好きで、たまたま父の知り合いだったからだ。
 ふたりの共通の趣味といえば、「本」。すぐに神田の古書店めぐりをするようになり、これで意気投合したのか、父は大森にいる自分の両親に母を会わせ、あれよあれよという間に結婚ということになった。
 母の家のほうでは、「(ボーガス注:結婚する)男は東大卒で、一流会社のエリートサラリーマン」と決まっていたので、最初は大反対だったようだ。しかし、いざ父に会ってみると、人当たりのいい、話の面白い人だったので、すっかり気に入ったらしい。しかし、母・瀬名恵子と祖母はもともと気が合わなくて、たとえ反対されようが結婚していたと思うが。
 そういえば小さなころ、父に「どうしてママと結婚したの?」と聞くと、「結婚してくれなきゃ崖から飛び降りるって脅されたからだよ」と言われ、母に「どうしてパパと結婚したの?」と聞くと、「結婚してくれなければ死んでやるって脅されたのよ」と、ふたりとも同じことを言っていた。
 社交的だった父は、若手落語家のなかでもよくモテたそうである。とにかくモテたのは、父と故・三代目古今亭志ん朝さん*8で、飲み屋やクラブでもとにかくすごかったらしい。お亡くなりになられたが、母の絵の先輩の内藤ルネさん*9も、母に会うと必ず「おたくのムッシューによろしく♡」と言って、ウインクしたそうである。
 享年56歳だった。兄は26歳、私が23歳の時である。葬式の後、5代目*10柳家小さん師匠がわざわざ家まで来てくれて、私たちにお悔やみを言ったあと、悔しそうに「バカヤロウ、オレより先に死にやがって!*11」と吐き捨てるように言葉が出てしまったことが、私にはショックだった。
 私たち兄弟にわかったのは、母がショックのあまり、何もかも手につかなかったという事だ。当たり前の事かもしれないけれど、母は深く父を愛していたのである。
 私が学生のころ飼っていたうさぎが死んだとき、母は泣きながら「わたしの胸のなかにウサギ型の大きな穴があいてしまったわ」と言っていたが、父は「どうせおれが死んでもそんなに泣かないんだろうよ!」と怒っていた。父の死でも、母の胸のなかに「父型の大きな穴」があいてしまったのは間違いない。

*1:滑稽にも「自信家のご本人」は「素晴らしい文章を書いた」と今日も鼻高々のようです、コメント欄に出没する紙屋シンパ(とはいえ少数にすぎませんが)が持ち上げるから図に乗るのでしょうが

*2:2023年刊行

*3:現在7代目の燕路(1959年生まれ。十代目柳家小三治(1939~2021年)の弟子)がいる(柳亭燕路 (7代目) - Wikipedia参照)

*4:1934~1991年。1954年、五代目柳家小さん(1915~2002年)に入門し前座名は小助。1957年に二ツ目で五代目柳家小団治となる。1968年、真打に昇進し六代目柳亭燕路を襲名。著書『子ども落語』全6冊(1981~1982年、ポプラ社文庫)、『落語家の生活』(1988年、雄山閣出版)(柳亭燕路 (6代目) - Wikipedia]参照)

*5:著書『はじめての言語学』(2004年、講談社現代新書)、『世界の言語入門』(2008年、講談社現代新書→後に『世界のことば アイウエオ』と改題し、2018年、ちくま文庫)、『大学生からの文章表現』(2011年、ちくま新書)、『語学はやり直せる!』(2012年、角川oneテーマ21)、『外国語をはじめる前に』(2012年、ちくまプリマー新書)、『ポケットに外国語を』(2013年、ちくま文庫)、『もっとにぎやかな外国語の世界』(2014年、白水Uブックス)、『外国語を学ぶための言語学の考え方』(2016年、中公新書)、『その他の外国語 エトセトラ』(2017年、ちくま文庫)、『物語を忘れた外国語』(2021年、新潮文庫)、『ロシア語だけの青春』(2023年、ちくま文庫)等(黒田龍之助 - Wikipedia参照)

*6:現在、初代三平(1925~1980年)の次男が二代目三平(1970年生まれ)

*7:海老名香葉子氏(1933年生まれ)のことか?

*8:1938~2001年。五代目古今亭志ん生(1890~1973年)の次男。十代目金原亭馬生(1928~1982年)の弟

*9:1932~2007年。イラストレーター、デザイナー。本名は内藤功。フランスの映画監督ルネ・クレマンからとって筆名を「内藤ルネ」とする。(内藤ルネ - Wikipedia参照)

*10:現在は5代目の息子が6代目小さん(柳家小さん (6代目) - Wikipedia参照)

*11:5代目小さん(1915~2002年)の弟子では「六代目柳亭燕路(1934~1991年)」の他にも「柳家きん平(1922~1966年)」「五代目柳家つばめ(1928~1974年)」「二代目柳家菊語楼(1943~1999年)」「四代目桂三木助(1957~2001年:小さんと親しかった三代目三木助(1902~1961年)の息子。なお、現在、三代目三木助の孫、四代目三木助の甥が五代目三木助(1984年生まれ))」が小さんより早死に(きん平、三木助は自殺、後は病死)しており、そのときも『同様の嘆き』が小さんからあったと何かで読んだ記憶があります。