松竹伸幸&紙屋研究所に悪口する(2024年10/18日分)

『“町内会”は義務ですか?』8刷です - 紙屋研究所
 引用紹介はしませんが、「自著の自画自賛と、共産への当てこすりご苦労様です(棒読み)」としか言いようがない駄文です。


共産党幹部はまず自分のハラスメントと向き合え - かみや貴行のブログ 1%でなく99%のための福岡市政を

 社会的な制裁を受けるしかありません。

 神谷らしい「意味不明な文章」です。「社会的な制裁」の「主語」は「誰なの?(神谷なの?)」ですが、言いたいことがあるなら「俺の要望(パワハラ加害者への懲戒処分?)を受け入れないなら、パワハラを理由に民事提訴する(まあ、以上は、神谷が「パワハラ被害」を言い立ててることに寄る『一つのあり得る解釈』であって紙屋が何が言いたいのかは全く意味不明ですが)」とかはっきり言えばいいのに、とは思います。


共産党の財源論はもっと具体的に - かみや貴行のブログ 1%でなく99%のための福岡市政を
 予想の範囲内ですが、いくら除名の恨みがあるとは言え、「共産への叱咤激励」とか抜かして、選挙期間中、ブログやツイで「共産への悪口しかしない(自民、公明、立民、維新、国民民主、れいわ、社民、参政、保守党など共産以外の他党の公約や、選挙期間中の政治的言動*1等について論じたりしない)」辺り、紙屋も「どうしようもないクズでバカ」です。
 松竹といい、紙屋といい、「反党分子のクズさ」には「除名されて当然だな」の思いを日々強くします。というか松竹も紙屋も偉そうなことを抜かすのなら「自民党を離党した武村正義*2(新党さきがけ)」「社会党を離党した江田三郎(社民連)、矢田部理(新社会党)」等のように新党でも作ったらどうなのか。新党を作る能力もない癖に何様のつもりだと心底呆れます。
 なお、上記は紙屋記事にコメントし「一応掲載」されました。掲載拒否常習の松竹よりは、紙屋の方がいくらかましではあるでしょう。


「政治を変える」方法を考える選挙・3 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba

 共産党が大きければ大きいほど野党共闘が近づいてくるなら、京都が共闘の先進県だったはずだ。しかし、今回の選挙を見ても、1つも共闘は実現していない。
 なぜそうなるかというと、言葉は良くないが、共産党が大きすぎたからだろう。一党で京都市長を取りに行けると判断できるほど、共産党の大きさはすごかったのだ。だから、他の野党の協力を得ることなど考えないでもよかった

 「共産党誹謗のデマカセ」も大概にしろと呆れます。
 京都で「民主党(その後は民進党、立民党)」との共闘が上手くいかないのは「前原*3(民進党の元代表。その後、希望の党、国民民主党、無償会を経て現在は維新に所属)」「福山(民主党の元政調会長(海江田代表時代)、立民党の元幹事長)」「泉(立民党の元代表)」といった「反共ウヨ」が京都民主党の中心人物だった(何故、京都の立民がそんなに右寄りなのか知りませんが)からで共産が「俺一人でやっていける」と思い上がっていたわけでは全くない。
 そもそもその松竹の理屈なら「共産がそれなりの勢力を持つ沖縄」で野党共闘が成立してることはどう評価されるのか?
 また、実は「オール相乗り首長選挙の最初は舩橋求己・京都市長」という説があるように「1975年の京都市長選」では

舩橋求己 - Wikipedia
 社会党、公明党、民社党の推薦と共産党の支持*4のほか、自民党も支援を打ち出したことから、全国でも珍しい『保革5党相乗り』となり、この時の選挙は京都名物の「五色豆*5」に擬えて五色豆選挙と呼ばれた。1979年の市長選でも従来の5党に新自由クラブを加え、社民連以外の6党による支援を背景に3選。3期目途中の1981年5月、自宅においてクモ膜下出血で倒れ、同年7月引退を表明。1984年2月、肺炎のため京都市中京区の京都市立病院で死去。

という位で「京都の党が唯我独尊」であるかのような松竹の物言いは「明らかに嘘」でしょう(無知なのでこの時の京都市長選での「共産の相乗り」については特に評価しません。勿論「野合」と共産批判する人間もいるらしいことは知っていますが)。
 あるいは革新府知事として著名な「蜷川京都府知事(1897~1981年:1950~1978年まで7期28年府知事)」も「社会党との共闘」であって、「共産単独支援」ではない。というか、蜷川はそもそも社会党員ですし。
 なお、広原盛明(京都在住)などは

第50回衆院選が10月15日告示された、京都選挙区では立憲民主党と共産党が全面対決し、維新の消長も注目される、共産党はいま存亡の岐路に立っている(その41) - 広原盛明のつれづれ日記
 前回衆院選では、立憲が候補者を立てない「京都1区」の票欲しさに、共産が「京都3区」「京都6区」での候補者擁立を見送るという(信じられないような)駆け引きがあった。だが、結果は悲惨なもので、京都1区の穀田恵二*6候補には立憲の票がほとんど入らず、自民新人に大差を付けられ、維新新人には3千票差に迫られるという惨敗*7を喫したのである。
 その結果、京都3区と6区では立憲の泉健太氏と山井和則氏*8が楽勝し、泉氏は立憲代表、山井氏は国対副委員長とそれぞれ党の要職に就いた。しかも泉氏は代表就任後、共産との共闘には一貫して否定的な態度を取り続け、その流れが現在の立憲の基本路線になっていることは皮肉としか言いようがない。共産は「敵に塩」を送ったつもりだろうが、自分が辛酸を舐める結果になった*9のである。
 共産は前回の失敗に懲りたのか、それとも野田代表の政治姿勢への反発からか、今回は京都選挙区の全てに候補者を擁立して立憲と対決する。
 野党共闘が、北海道や宮城、長野など一部を除いて再構築される気配がないことを嘆く必要はない。京都のような「裏取引」の臭いのする野党共闘は根元から刷新しなければならず、そのためには立憲と共産の真っ向勝負が必要なのである。

として、松竹とは全く逆の「京都の共産党」評価をしています。
 なお、広原は過去には『議長時代の不破氏、委員長時代の志位氏』を『老害』呼ばわりし、議長や委員長の退任を主張したこと*10もある『共産党には極めて敵対的な人物』でシンパではない。「広原の存在」で分かるように「共産に批判的」ということは「松竹に肯定的」「松竹同様、泉立民や野田立民に肯定的」ということを必ずしも意味しません。

 高知も京都と同じように共産党の影響力はそれなりに強いが、自分だけで多数になるなどとは考えず、一貫して他党と協力して多数になる努力を積み重ねてきた。橋本大二郎を県知事選挙でも推してみた*11り、社会党を離党した元参議院議員を衆議院選挙で推薦*12したり、目に見えることをやってきたのだ*13。

 「京都ではそうした共闘の条件がないから、民主党と共闘できなかっただけだろ。京都の党が唯我独尊だったわけじゃない。大体、1975年京都市長選では『是非はともかく』京都の党は他党と共闘(?)してるんですけど。松竹はデタラメ抜かしてるんじゃねえよ。さすが『除名された反党分子』はクズさが半端ねえな」ですね。
 ちなみに無礼にも松竹は名前を出していませんが、社会党を離党した元参議院議員とは西岡瑠璃子氏*14のことです。西岡氏ほどの知名度、人望、人脈もない「社会的影響力皆無の無能」「礼賛するのは紙屋研究所など少数のマツシン(松竹信者、松竹シンパ)だけ」のくせに、全く何様のつもりなのか。
 ちなみに松竹は何故か名前を出していませんが「大阪市長選(反維新を重視)や名古屋市長選(反河村を重視)での自民候補支援」などその種の例はいくらでもあります(自共共闘 - Wikipedia参照)。何も高知だけの話ではない。
 なお、以上は松竹記事に投稿しますが掲載拒否でしょう。「賛同コメントしか掲載しない」松竹のクズさには心底呆れます。

*1:例えば玉木の「尊厳死」暴言など

*2:細川内閣官房長官、村山内閣蔵相を歴任

*3:鳩山内閣国交相、菅内閣外相、野田内閣国家戦略担当相、民進党代表、国民民主党代表代行など歴任

*4:その後も、1981年市長選では共産は今川正彦(船橋市長時代に助役。1981~1989年まで市長)に自民、社会、公明、民社、社民連と共に相乗りしたが、1985年市長選以降は独自候補を立てている。まさかとは思いますが、松竹は、「1985年以降もオール相乗りに参加すれば良かった」とでも言う気なのか?

*5:明治20年(1887年)、京都の和菓子屋「豆政」の初代・角田政吉が、白色しかなかったえんどう豆菓子に青・赤・黄・黒の四色を加えた「五色豆」を考案。人気を博し京都の銘菓となった(五色豆 - Wikipedia参照)

*6:共産党国対委員長(選対委員長兼務)。今回の衆院選には出馬せず引退

*7:但し比例復活で当選

*8:鳩山、菅内閣厚労大臣政務官、民主党国対委員長(野田代表時代)、民進党国対委員長(蓮舫代表時代)を歴任

*9:泉支援をしなかろうと、立民は今のような態度になったでしょうし、山井はともかく当時「立民党政調会長」と言う幹部だった泉に対立候補を立てるわけにも行かないでしょう。そういう意味で広原の非難は「全くの言いがかり」だと思います。

*10:なお、今年1月の党大会で二人とも退任し、不破氏は名誉役員に、志位氏は議長に就任

*11:そもそも当時の橋本は『自民とは対立関係』にあったので、そういう面では橋本、共産共に手を握りやすかった。

*12:但し残念ながら落選

*13:勿論こんなことを言ったところで高知の党が松竹に好意的なわけでは全くないでしょうし、そもそも高知の党は「党中央の了解を得た上でそうしたことをやった」わけです。

*14:1934年生まれ。日本放送労働組合(NHK労組)高知分会書記長、高知県労働組合総評議会婦人部長、日本婦人会議(社会党(社民党)系の女性団体で現在のi女性会議(あいじょせいかいぎ)の前身)高知県本部議長などを歴任。1989年の参院選挙に高知県選挙区から日本社会党公認で立候補して当選。社会党が賛成した小選挙区制導入に反対を表明し、1994年に離党。1995年の参院選挙に無所属で立候補し、落選。1998年の参院選挙に無所属で立候補(日本共産党推薦)し、落選、政界を引退。その後は歌人として活動を続けて、高知県歌人連盟会長を務める。(西岡瑠璃子 - Wikipedia参照)