断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

「貨幣がなぜ受け取られるのか」はなぜ神学論争とは言えないのか

2021-07-03 11:49:08 | MMT & SFC
まあ、ちょっと話題になっていたので便乗する。どうしてこう便乗ばっかりしてんのか、というと
自分で話題を作る能力がないからじゃ。。。。(´・ω・`)
なんか異種格闘技をやってうまくいかなくて、IWGPに行ったらそっちもうまくいかなくて、
で、天龍が来て話題になったらそっちに手を出そうとしていたころの橋本みたいな感じで
みっともないな。いや、橋本はなんだかんだで
最後はそれなりにきちんと身を遂げたからいいけど、おいらと来た日には50も半ば過ぎでまだ
これだからねえ。。。(´・_・`)

貨幣をなぜ個人が保有しようとするのかについては、実際いろいろある。
問題は、社会全体としてみたとき、特定の貨幣がこうした個々人の欲求を支えるに足る
資産でありうるのは何故か、どのようなメカニズムによってそれが支えられているのか、
という話だ。そんなん、だれがなぜ貨幣を欲しがるかなんてこといくら積み重ねたって意味ないことぐらい
分からなったんかねえ。。。。
これは「神学論争」などではなく、具体的な政策の選択に直結している。
一番簡単な例がビットコイン。

もし貨幣の「価値(どのような意味にとらえようと)」を支えるものが
単に「誰かが受け取ってくれるはずだから」という漠然とした将来の期待にのみ
基礎づけられるのだとしたら、貨幣はその存在自体が(かつて誰かが言ったとおり)
バブルに過ぎない。「誰も」受け取ってくれる人がいなさそうになれば
何の価値もなくなる。ま、この考え方に従うなら、
具体的な発行者が「誰でも」なく、素材価値もないビットコインはもっとも純粋な貨幣ということに
なるんだろう。

MMTの考え方では、あらゆる負債は、最終的にはそれを発行した経済主体が
引き受け手になる、という意味で、漠然とした「誰か」ではなく「どこの何某が」最終的には
受取手になる。最終的な受取り手は(不履行がなければ)発行された時点で決まっている。
その点は、政府通貨も変わらない。他方で、この「どこの何某」が
受取手になるわけでもなく、単に誰かが欲しいと言っている間だけ
「カネ」が集まり、そして「カネ」が集まる間だけ、価値があるものを売り出すことを「ねずみ講」という。
価値が上がらなくなれば、持っている意味もないから、売りに出され、
そうなれば価格が急落し始めるだろう。そういう意味でビットコインは、
最もピュアな意味で「ねずみ講」だ。「カネ」が集まる間はそれ自体も「貨幣」であり
資産であり続けるけれど、「カネ」が集まらなくなるや否や、それは価値がなくなり資産でもなくなる
(そして「貨幣」でもなくなる)。
ピュアというのは、
アムウエイでも毒入り金融証券でも、一応は対象となる商品に
「価値」のもととなるものがないわけではない。ところがビットコインには
それすらない。初めから「誰かが(カネを払って)受け取る」という期待以外に何一つ
取引の対象になるものがない、という意味で、純化されたねずみ講だ。
それは単に、コンピューターを使ってマイニングをする、という
社会に対する貢献を何一つしない行為によって、ただ「誰かが
受け取ってくれるかもしれない」そしてその期待がある限り、
価格が上昇し続けるというだけの記号を生み出している行為だ。
もちろん、こうした行為を行い、そして実際そうやって発行されたビットコインを
カネまで払って受け取りたい、という人がいるのは事実だし、
それは個人の自由だ。短期的には価格が上がったり下がったりし、得する人間も
出てくれば、損する人間も出てくる。それもその他の投資と変わらない。
だからそれだけのことからはこうした純粋なねずみ講を規制をする必要性は
生じない。引っかかろうと引っかかるまいと、経済的には自由であり、そして
「ねずみ講」は引っかかる人間がいる限り、常に
繰り返される。そうした「ねずみ講」を支える手段として経済学の諸理論が使われるとしても、
それもまたいつものことだ。

ただMMTの立場から言えば、あらゆるねずみ講がそうである通り、
誰かが「いらない」と言いはじめ、
そして実際に受取手がいなくなればビットコインの「価格」(ビットコインと政府通貨の
交換比率)は急落する。そうした場合、その価格を下支えする責任は
政府にはまったくないだろう。むしろこうした資産価格の下支えこそ、
政府が最もやってはいけないことの一つだろう。

「他の人が受け取ってくれると誰もが思っている資産が貨幣になる」とする思考パターンの問題は、
受取り手はその資産の対価として実物資産のみを提供するものと想定されていることである。
ところがすでに貨幣が存在している経済においては、そのような資産が新たに生まれてくることは
ないだろう。ある資産が「他の人が受け取ってくれると誰もが思っているだろう」から受け取られるとき、
その資産を入手するの必要なのは実物資産よりは既に存在している「カネ」であろう。
そしてそうした資産の交換対象が主として「カネ」である以上、これは投機性の資産にしか
なりえない。すでに「カネ」が広く決済手段として流通している世界で
「実物資産」がこの金融資産の主たる交換対象となるとき、多くの人は、
ちょっとした信用不安があればこうした資産を持ち続けることに不安を感じるだろう。なぜなら
もはやこの金融資産と「カネ」の交換比率がどう変わるかわからなくなるからだ。

「値上がり」のみがそれを保有する理由である以上、
ビットコインが通貨として広範に使われるようになることはないだろう。ただただ
投機の対象となるばかりである。
もちろん、その結果、金融危機が発生したときにその価格が急落すれば、破綻する企業や個人が
発生するだろうが、それは「自己責任」だ。自分の責任で投資をしたものについてまで
政府が価格の下支えをしたり、損失を補填する理由はない。いつも通り”Too big to fail”は認められない。
勿論、そうして経済破綻した時には、人々が普通に生活できるだけの収入を伴う雇用は守らなければならないし、
公的年金も維持し、そして国内居住者の生存権と社会権を守ることは
必要だ。決済インフラストラクチャーを守るための対応も必要だろう。これもいつものことだ。
そしてそれは、通貨主権を有する主権政府には可能だ。

もし貨幣一般が、誰かの言うように、「ほかの誰かが受け取ってくれるとみんな信じていると私が思っていると
他のみんなが思っているだろうから」
(A.オルレアン風に、これ、どこまでも長くできるので、適当なところで切ってください)という理由で
流通性を維持しているという考え方を採るなら、
ビットコインも政府(中央銀行)通貨も違いはない。違いは、貨幣発行時に発生する
シニョリッジを政府が保有するのか、民間が保有するのか、それだけの違いだ。
不合理で、効率性がなく、仮に善意からだとしても馬鹿なことばっかりやってる政府に
シニョリッジを渡すぐらいなら、常に効率的で合理的で効用最大化を目指している
競争的個人に渡したほうがよほどましだ、、、という考え方も
出てくるだろう。ビットコインの価格急落による金融危機は、ねずみ講の破綻などではなく、
社会的なインフラストラクチャーである貨幣の危機と位置付けられるだろう。資本制とは
「不幸にして」「運悪く」「想定外の」金融危機に陥ることがある。貨幣を生み出したのが誰でもないように、
金融危機の発生も誰のせいでもない。政府は
すぐれた決済手段(というより投資対象)であるビットコインの価格を下支えし、経済活動を
維持すべきだ。雇用や年金を守るためには(彼らに言わせれば)それが必要なのである。
しかしビットコインというものが、
単に「誰かが受け取ってくれるから」というだけの理由で「カネ」を払ってでも入手したいという人がおり、
そしてそれのみによって価値が維持されている、そうした性質のものであるなら、
広く決済手段として使われそうになるその瞬間、つまり
もう値上がりしないよ、となったとき、その価格は急落するだろう。投機対象としての
ビットコインと広範かつ一般的な決済手段としてのビットコインは両立しないだろう
(近年ではペイペイやらなにやら様々な電子マネーが使われるようになっているが、こうして
一般的な決済手段となるマネーのどれが投機的な値上がりをしているだろうか)。
政府中央銀行がそれを放置し、「ああ、価値がないものはやはり価値がないのだ」と
市場関係者が身に沁みれば、同じことはそう頻繁には繰り返されることはないだろう
(残念ながら、経験が持続する期間はそれほど長くないので、似たようなものは
繰り返し生まれてくるだろう)が、
政府が価値を下支えしてしまえば、ビットコインは投機の対象であり続け(典型的な
モラルハザード)、
こうした金融危機の頻度はますます増えるだろう。
それによって利益を受けるのは、多額の投資でコンピューターを買いそろえ
マイニングに精を出せる人たちであり、そうして生み出された記号を
投機の対象とする人たちである。

「租税貨幣論」というのは、単に「租税が貨幣を駆動している」ということだけでなく、
貨幣制度を支えているものは何か、という基本的な考え方を示すものだ。ましてや
「個々人がなぜ貨幣を欲するか」などという話とは全く次元を異にする。
租税が政府貨幣を成り立たしめるのには十分条件であり、かつ
租税以外の決済を認めなければ、政府は常に負債の決済をすることが可能なのであり、
そしてそうした政府通貨を決済手段とすることで、銀行預金通貨システムが
安定し、民間の数多くの負債がこうした銀行預金通貨によって決済されることで
経済・生産活動全体が相対的に安定して再生産可能になっている、
という認識を指している。こうしたシステムによって貨幣制度が支えられているという認識が
あれば、次には、貨幣機器・金融危機・経済危機が訪れたとき、政府中央銀行が
何をなすべきか、という行動の指針となる。なぜなら貨幣がなぜ受け取られるのかを
考えることは、貨幣が何によって支えられているのかを考えることであり、
そしてそれはどうすれば貨幣制度を安定させることができるか、に直結しており、
そして結局貨幣制度を守るということは、誰の何を守ることなのか、、、へ
直結するからである。「貨幣がなぜ受け取られるのか」を
考える、ということは、こうした政策を判断する上で決定的な基準を提供する。
単に個人がなぜ貨幣を保有しようとしているのか、
その動機の説明として租税貨幣論を持ち出すとしたら、まるでばかばかしいし、
そういうレベルでしかものを考えられない人が大学でものを教えているとしたら
(と言うか、現にそうなんだけれど)、ちょっとした悲劇であろう。

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