今年に入って、いわゆる「議論したい人」のお話を聞いているうちに、どうやら、議論できる人とできない人、2タイプいるということが分かってきました。
A「俺、朝は毎日納豆に味噌汁だよ。納豆サイコー!」
B「あー、あたしも納豆大好きー。ねぎとか入れるとおいしいよね!」
A「だめだよ。納豆にねぎ入れるなんて邪道。」
B「えー、おいしいのにー。」
C「は?納豆なんて食べれたもんじゃないじゃん。あんなまずいもののどこがいいんだよ。」
A「え?だって納豆うまいじゃん」
C「うまくないよ。腐ってるんだぜ。」
という会話が交わされているとします。
この場合、「納豆はうまいかどうか」「納豆にねぎを入れるかどうか」について話し合われているのであり、
「納豆を食べる人をどう思うか」
「納豆にねぎを入れる人をどう思うか」
について話し合われているのではありませんね。
議論に向いている人というのはつまり、
「自分が納豆を好きである」ということと、「納豆を好きな自分」、また「相手が納豆を嫌いである」ということと「納豆が嫌いな相手」を分けて捉えています。
議論に向いていない人には、“攻撃特性を持っているため向いていない”人と、“異論を受け入れる特性を持ち合わせていないため向いていない”人の2種類があるようです。
攻撃特性を持っているため向いていない人というのは、本人は無意識なんでしょうけど、「相手が納豆を嫌いである」ということと「納豆が嫌いな相手」を混同し、人格攻撃を始めます。
(例)「納豆が好きな人の気が知れない」「納豆が好きな人はおかしい」
これについては気をつけていただくしか方法がありません。きちんと分けていらっしゃる方も多くいますので。異論反論、堂々と書くのは大変結構ですが、人格を攻撃するのは、ほんとにその人となりに問題があるとしか言いようがないときだけに限ったほうがいいですよね。
受動特性を持っていない人は、「自分が納豆を好きである」ということと「納豆を好きな自分」を別なものとして考えていません。おそらくは、「納豆を好きな自分が好き」なんだと思います。自分の好きなものを反論されると、そのまま自分が悪く評価されたと受け止めてしまいます。
これ、僕もそう感じる人なんですけれど、「議論が好きな人」に言わせると、この時点ですでにだめなんだそうです。これを直すには、理解者の手助けと医者の協力が必要だとのことでした。
この手の人に共通した反応の仕方がいくつかあるそうです。
『いつも交流している親しい間柄の○○さんに言われるのならともかく、名無しのお前にそんなことを言われる筋合いはなーい!』と憤慨する人。相手がどうとか言ってる時点でダメだそうです。根本的には受動特性がないが、言われた相手が親しい人だから、権威のある人だから、あるいは女性だからとかなんとかそういう理由で、傷つかないようにキャンセルできるスイッチを心の中に設けているわけです。僕もこのタイプです。
『それはあなたがそう思っているだけでしょう?』と反論する人。いわなくてもよいことなのにこういってしまう時点でダメだそうです。こう発言する前の段階で、相手が発した反論で自分の自分自身に対する評価が揺らいでしまっているため、そうではない(つまり、自分の信じたものは間違っていない)ことを強調したいがためにあえて『それはあなたがそう思っているだけでしょう?』と発言していることになります。自分の評価に絶対的な自信がある、つまり自我が確立されている、而立している人は、そもそも何を言われたところで“自分が自分自身に抱いている評価”は変わらないそうです。
『まあ、ひとそれぞれですから』とお話をオシマイにしちゃう人。これも同類だそうです。それ以上の話を望まないがゆえに、あえて話さなくてもいい、書かなくてもいい、それでおわっちゃう「ひとそれぞれ爆弾」を投下して議論を終結してしまうんですね。
自我があやふやで、何かを信じるあるいは誰かを信じる、そしてそれに依存し、その上に自分自身を置いている人、たとえば自分の乗っている車を否定されて怒る人、自分の彼女の悪口を言われて怒る人、そういう人は、「議論できない人」に分類されるようです。
A「俺、朝は毎日納豆に味噌汁だよ。納豆サイコー!」
B「あー、あたしも納豆大好きー。ねぎとか入れるとおいしいよね!」
A「だめだよ。納豆にねぎ入れるなんて邪道。」
B「えー、おいしいのにー。」
C「は?納豆なんて食べれたもんじゃないじゃん。あんなまずいもののどこがいいんだよ。」
A「え?だって納豆うまいじゃん」
C「うまくないよ。腐ってるんだぜ。」
という会話が交わされているとします。
この場合、「納豆はうまいかどうか」「納豆にねぎを入れるかどうか」について話し合われているのであり、
「納豆を食べる人をどう思うか」
「納豆にねぎを入れる人をどう思うか」
について話し合われているのではありませんね。
議論に向いている人というのはつまり、
「自分が納豆を好きである」ということと、「納豆を好きな自分」、また「相手が納豆を嫌いである」ということと「納豆が嫌いな相手」を分けて捉えています。
議論に向いていない人には、“攻撃特性を持っているため向いていない”人と、“異論を受け入れる特性を持ち合わせていないため向いていない”人の2種類があるようです。
攻撃特性を持っているため向いていない人というのは、本人は無意識なんでしょうけど、「相手が納豆を嫌いである」ということと「納豆が嫌いな相手」を混同し、人格攻撃を始めます。
(例)「納豆が好きな人の気が知れない」「納豆が好きな人はおかしい」
これについては気をつけていただくしか方法がありません。きちんと分けていらっしゃる方も多くいますので。異論反論、堂々と書くのは大変結構ですが、人格を攻撃するのは、ほんとにその人となりに問題があるとしか言いようがないときだけに限ったほうがいいですよね。
受動特性を持っていない人は、「自分が納豆を好きである」ということと「納豆を好きな自分」を別なものとして考えていません。おそらくは、「納豆を好きな自分が好き」なんだと思います。自分の好きなものを反論されると、そのまま自分が悪く評価されたと受け止めてしまいます。
これ、僕もそう感じる人なんですけれど、「議論が好きな人」に言わせると、この時点ですでにだめなんだそうです。これを直すには、理解者の手助けと医者の協力が必要だとのことでした。
この手の人に共通した反応の仕方がいくつかあるそうです。
『いつも交流している親しい間柄の○○さんに言われるのならともかく、名無しのお前にそんなことを言われる筋合いはなーい!』と憤慨する人。相手がどうとか言ってる時点でダメだそうです。根本的には受動特性がないが、言われた相手が親しい人だから、権威のある人だから、あるいは女性だからとかなんとかそういう理由で、傷つかないようにキャンセルできるスイッチを心の中に設けているわけです。僕もこのタイプです。
『それはあなたがそう思っているだけでしょう?』と反論する人。いわなくてもよいことなのにこういってしまう時点でダメだそうです。こう発言する前の段階で、相手が発した反論で自分の自分自身に対する評価が揺らいでしまっているため、そうではない(つまり、自分の信じたものは間違っていない)ことを強調したいがためにあえて『それはあなたがそう思っているだけでしょう?』と発言していることになります。自分の評価に絶対的な自信がある、つまり自我が確立されている、而立している人は、そもそも何を言われたところで“自分が自分自身に抱いている評価”は変わらないそうです。
『まあ、ひとそれぞれですから』とお話をオシマイにしちゃう人。これも同類だそうです。それ以上の話を望まないがゆえに、あえて話さなくてもいい、書かなくてもいい、それでおわっちゃう「ひとそれぞれ爆弾」を投下して議論を終結してしまうんですね。
自我があやふやで、何かを信じるあるいは誰かを信じる、そしてそれに依存し、その上に自分自身を置いている人、たとえば自分の乗っている車を否定されて怒る人、自分の彼女の悪口を言われて怒る人、そういう人は、「議論できない人」に分類されるようです。
なんだか深いですよその言葉。
ブログに目的を、意味を見出そうとしている人と、そうでなく議論する手段としてブログを利用している人と。
確かに!2分されますよ!おお!
お互いのスタンスを分かって交流すれば、なーんだ衝突なんて起こりっこないじゃないですか。
おおー
laisoさん、グロガーって…なんかキモイ感じがしてヤダ。うわーん。
メタブログはメタ自分をめざす…。
2、3回読ませていただきましたけど、いまは内容のコメントはキャンセルさせて。
頭が痛くなってきたんですよ。日ごろ使わないんで(笑)。
でもこれ、おれの知ってる若い知性たちに紹介したい。CCのメールでも出してみようかな。TB打ったら、ほんと嫌われちゃう感じが濃くなるし(笑)。あ、ブログ紹介の記事アップ、って方法もあったな。
そういう人は往々にして「向いてない」という自覚はないような気が…。
>いわなくてもよいことなのにこういってしまう時点でダメだそうです。
え?「あなたがそう思っているだけ」のことっておおいと思うんですが?
私(あなた)の意見は所詮「私(あなた)の意見」でしかないと思うのですが…みんな謙虚になろーよぉ…。
まあたしかに、そういうのをストレートにいうというのは、テクニック的にはいいとは思わないばあいが多くて、だから私は遠まわしにしか言わないことが多いですが…。
…ということは、私は議論に向いているとはとてもいえませんね…(少なくとも「討論」には向いていない自信はあります…)
1番目は「そう思わないように、冷静であろうと努力」してますが、2・3番目は私の考え方の基準に近いものがあるし…。
で、上の3人、仮に、Cさんが「納豆苦手なんだ」といったとしたら、A.Bさんは「あんなうまいものなぜ食えないんだ?」となるようなきがするのですが…。
『まあ、ひとそれぞれですから』
これらは相手の発言によってはOKと思います。
データソースも無い事をあたかもすでに世間の常識であるように論ずる人に対して。
矛盾や客観的データの議論がいつのまにか趣味のレベルの話にすり変わってしまってた時。
こんな時には必要かと。
逆にお互いにブログ持っていて、トラックバックをお互いに打ち合い議論する方がフェアかな?と思った時期もありましたが、議論がかみ合わない、お互いに使う「言葉の定義」の違いに気付かない、面を見ますと、う~ん。
そもそも、ブログ抜きにしてオフラインの世界でも、議論と言うものが出きる人がいるのか?なにを以って議論というのか?私の頭の中でも整理できていないし。
少なくとも私は「議論に向かない人間」ですね。「ひとそれぞれ爆弾」を使うか、いざとなれば「三十六計逃げるを上策とす」とでも言って逃げますから。うわ~嫌なヤツ
議論においてそれなりの意見も言えるけど実は曖昧、という人が該当します。
なおこの「議論」は、「理系/法学的意見交換」という意味で考えています。
例えば、根拠の弱い似非論理にころっと騙される(あるある大辞典みたいなの)、議論の最中なのに対象の定義の話が出てくる(非モテとはなにかとか)、定義の話をふっかけられると俺定義を持ち出す(「そういう人は『俺は』オタクと認めない」とか言ったり)、あたりがいい例です。
さらに極端な例がソーカル事件でしょう。
思いっきり経験則ですが、出来ない:もどき:出来る=65%:30%:5%、というイメージがあります。
ちなみに私は「出来る」を目指す「もどき」のつもりです。
え!わどさんのトラックバックならいつでもMAX歓迎ですよ。
でもこの記事は伝聞がほとんど、中身はないようなもんですからね(^^;
>Leftyさん
「そう思ってるだけでしょう?」って、口に出すか出さないかですかねー。口に出した時点で“言われたくないことを言われている”ことになりますもん
>スラ木公さん
はじめましてー。
>いつのまにか趣味のレベルの話にすり変わってしまってた時
そうですね。おいおい、俺が話したいのはそうじゃなくって、ていう時は大事かもしんないですね。
>アキさん
とりあえず、2・3回自分で読み直して、場合によっては第三者に見せて、ミスリードされる要素をなくそうと努力しても、トラックバックで議論が始まると感情のためかフィルタがかかって読まれてしまうこともあるんですよね。そこで沸騰しちゃいけないんだとは思いますけども、そういう点ではオイラも全然向いてないですよ~
>通りすがりのモヒカン族さん
はじめまして!
たぶん、おいらも同じタイプです>議論もどきをする似非モヒカン族
文章の切り口が鋭く、その内容が読者をうならせるようなできであれば、中身の是非を伴うことなく正義となれるって訳ですね。
これの1個前に「詭弁」というエントリを書きましたけれども、世の中議論のように見せかけて詭弁を書いているテクニシャンもいますからねー。
難しいですね。
匿名でお越しいただきましたけど、なにやらオイラと似たものを感じますです。
つたないブログですけど今後ともよろしくお願いします。
私自身は,貴記事「詭弁」へコメントしました時のように,未だにオットへの有効な反論がみつからないままではあります(笑)。が,今回「たたかう」という題で記事を何とかまとめてみましたので,こちらへトラックバック致しました。この記事も大変参考になります。
はじめま略さんのお陰です。有難うございます^^