神戸連続児童殺傷事件の弁護団長が初めて明かす「少年A」の実像。少年法の厳罰化では非行はなくならない。
野口 善國 (著) 1997年神戸連続児童殺傷事件の弁護団長を務める。88‐90年神戸弁護士会少年問題対策委員長。現在、兵庫県弁護士会子どもの権利委員会委員、同人権擁護委員、神戸拘置所篤志面接委員、保護司.
いきなりですが、厳罰化に効果があった典型例もあります。
近年、酒気帯び、酒酔い運転の罰金が上がったら、とたんにお酒を飲んで運転する人が減りましたよね。お酒を飲む前は損得勘定が働きますから、お酒飲みもビビっちゃって、厳罰化が功を奏しました。
ところが、厳罰化が役に立たないと立証されているのが実は、凶悪犯罪中の凶悪犯罪、殺人です。
古来、殺人はドラマになるような計画殺人は稀で、殺人事件と言えばほとんどカッとなって起こす激情型衝動殺人なので、殺しちゃったら死刑になるからやめておこうなんて冷静に計算できないんです。
これが死刑反対論者の根拠の一つで、死刑には凶悪犯罪を抑止する効果が統計的に見られないというものです(アメリカやイギリスなどで死刑を廃止したり復活しても、凶悪犯罪の数に有意な差が表れない)。
ところで、少年の一般犯罪も凶悪犯罪も、下の表のようにもう10年近くも減少の一途をたどっているのに、以下のような報道がされています。またぞろ官僚の権益拡大のために、さらに政治家の安直な人気取りのために、青少年の成長にとって有害な法改悪がなされるかもしれません。
法務省、少年の刑罰の厳罰化 2013年通常国会に改正案提出へ
少年による凶悪犯罪が相次ぐ中、法務省は、罪を犯した少年の刑罰をより厳しくする方針を固め、2013年の通常国会で改正案を提出する方向で検討を進めている。
滝法相は24日午前、「成人に対する量刑と少年の量刑がギャップがありすぎるという議論は、昔からある」と述べた。
現行の少年法では、罪を犯した少年に対して言い渡せる有期刑を最長で懲役15年と定めている。
また、犯罪時に18歳未満だった少年については、成人の場合は無期懲役を言い渡す犯罪でも有期刑になるほか、死刑を宣告できないなど、成人より刑を軽くする規定が設けられている。
法務省では、少年に対する有期刑の年数の引き上げなどを検討し、早ければ9月にも法制審議会に諮り、2013年の通常国会に改正案を提出したい考え。
(FNN 2012/08/24 13:25)
少年による刑法犯の検挙人員の推移には,昭和26年の16万6,433人をピークとする第一の波,39年の23万8,830人をピークとする第二の 波,58年の31万7,438人をピークとする第三の波という三つの大きな波が見られる。59年以降は,平成7年まで減少傾向にあり,その後,若干の増減 を経て,16年から毎年減少し続け,22年は12万7,188人(前年比4.1%減)であった。人口比についても,16年から22年まで毎年低下している。
ところで、今回の主題ですが、厳罰化が役に立たないとしたら、子どもたちのいじめや少年の非行はどうしたらもっと減らしていけるのでしょうか。
ちなみに、飲酒運転の例で言うと、酔っ払い運転はなぜ悪いんでしょうか。それは、お酒を飲んで運転したら人をはねて死なせてしまうかもしれないから、危険だからですよね。なのに、罰金高いからやめておこうというだけの人はどうなるか。なかには他人に悪いから飲酒運転しないでおこう、というのではない、損得勘定だけの倫理観の低い人は、絶対バレないという保証があれば悪いことをするということになりかねません。
しかし、実際は飲酒検問がしきりと行われるので逃げ切れないから、悪いことをしないだけなんですね。
さて、非行少年の弁護をやっていると、驚くことに100人が100人、ばれるとか捕まるとか思っていないんです。
たとえば、パトカーからでも逃げ切れると思っているから無免許運転をします。店員さんに見つからないと思っているから万引きをします。被害者が追い付けないと思っているからひったくりをし、先生にチクられないと思っているからいじめや恐喝をするのです。こんな子たちに厳罰化を用意してもほとんど意味がありません。
彼らは、道徳心や倫理観、罪悪感がまだ未熟で、実際に捕まってみないと、自分の行いが捕まることだと実感できないんですね。悪いことをしたらいずれは捕まるという想像力が著しく欠如しているんです。罰を受けることになるとサラサラ思っていないのですから、厳罰化なんて役に立ちません。
いや、さらに言えば、人間が本来持っているはずの予測能力・危機意識の欠落が彼らの特徴です。また、さらに、漠然と「見つかるかもなあ」「捕まるかもなあ」とは思っていても、「なんとかなるだろう」と安きに流れる、「どうでもいいや症候群」(=浅はか)に陥っていることが多いです。
とにかく、彼らは、いじめも、ひったくりも、ばれないと思ってやっているんです。ドラマなんかでは、俺は少年だから刑が軽いんだよとうそぶいて悪いことをする奴が出てきますが、そんな悪知恵での働く非行少年なんてお目にかかったことがありません。
私が彼ら非行少年に対して、むしろ根本的に問題だと思うのは、子どもたちが「自分のやっていることが悪い。人間として許されない」と実感できていないことなんです。捕まるからヤバい、からではだめなんです。自分のやったことが非人道的で、相手の被害者がお気の毒だと感じられていないことこそが問題なんです。
では、彼らが極悪人かというと、いじめをする子や非行少年も、皆さんのイメージとは違うでしょうが、普通の子供なんですよ。接してみれば、生身の彼らには、東野圭吾の小説に出てくるような知的犯罪者なんていません。確かに並より幼いですが、どちらかといえば、ある意味バカ正直で、むしろ非行少年は単純なある意味「良い奴」ばかりです。
でも、人間として決定的に足りないのは、自分がしたことが被害者やその家族、そして自分の家族、ひいては自分自身を傷つけることへの想像力なんです。
だから、私は付添人弁護士についたら、彼らには、自分のやったことの動機・行動・結果を徹底的に想像させ、つきつけます。
彼らは捕まって鑑別所にいますから、外にいる人と話をできるのは私だけです。たとえば、彼ら非行少年に会いに来て面会の時には笑ってくれる親御さんが、実は自宅やうちの事務所ではどんなに号泣しているか、彼らは知りません。私は必ず彼らの自宅に行って、親はどう暮らしているか、弟や妹はどんな思いをしているか、観察し、それを本人に伝えます。
もちろん、一番大事な被害者の方に何度も謝りに行って、どんなご様子だったか、事こまかに犯行当時の恐怖やその後の思いをお聞きして、鑑別所で加害少年に話すのです。
世間では、弁護士は加害者の人権ばかり大切にするなどと揶揄されますが、実際には、加害少年の弁護をする私たちにとって一番大事なのは、被害者の方の思いを汲み取ることなのです。
被害者への真摯な反省と謝罪と慰藉なくして、非行少年の更生なんてありえないのですから。
歌を忘れたカナリヤたち-子どもは必ず立ち直る 野口 善國 (著)
子どもは社会の鏡。厳罰化は何も解決しない。神戸連続児童殺傷事件で少年Aの弁護を担当した野口弁護士が、「少年法」再改正の動きに疑問を呈し、愛とゆとりのある社会と家庭の再建を訴える。
たとえば、バイク好きの少年が、他の人のバイクを乗り捨てしたり、パーツを盗むことがよくあります。
「自分がバイトでためた金で買ったバイクが、同じことになったら、おまえ、どんな気持ちすんねん?!」
こう問いかけられて、うつむかない少年はいません。
年少者をリンチした少年に、「お前の弟がおんなじことされたら、どんな気持ちがするか考えてみい!」と言われて、引きつらない子もいません。
以前、こんな事件がありました。ある少年のひったくりの被害者が、キリスト教の老牧師さんだったのです。この被害者の方は、私が謝罪に伺うと、失った大切なものは被害金品そのものではなく、
「自分の神への信仰が足りなかったから、こういう目に遭ったのではないか」
という思いだとおっしゃいました。そのことに悩んでいるのだと、苦しい心境を吐露してくださいました。
私も思いもかけないそのお言葉にショックを受け、鑑別所に行って少年にそのことをそのまま伝えました。すると、少年は鑑別所の面会室で涙が止まらなくなったのです。
この少年の場合には、保護観察になり、幸いにも被害者の方のお許しを得て、釈放後に私と一緒に被害者の牧師さんに謝りに行き、ずいぶんお話を伺うことができました。
彼にしてみれば、お年寄りだから追いかけてこないだろう、というだけで目を付けたターゲットです。非人間的な酷い感覚しかなかったのです。
しかし、逮捕され、身柄拘束期間をへて、警察・鑑別所技官・調査官・裁判官・弁護士に諭され、被害者のお話を伺う中で、自分のした行為で、被害者の方の人生をかけた命そのものともいえる信仰が傷つくことさえあることに、彼は気づくことができました。
彼は、この事件で捕まったことで、人生で初めて自分のやった行為の罪とその結果に向かい合い、「罰」を受けたのです。
こんなこともありました。私の担当した少年は、被害者に因縁をつけて恐喝して借用書を書かせました。私がその相手の被害者の方のご自宅に伺った時のこと。実は、少年に資力が全くなく、示談金をお支払いすることさえできなかったのですが、被害者はそのことを承知で自ら申し出てくださり、担当の家庭裁判所に
「寛大な処分をお願いします」
と上申書を書いてくださったのです。自分も悪さをした時期があった、少年院まで行くことはないとおっしゃって。
審判まで、私はその上申書のあることをわざと少年に話しませんでした。そして、審判のその日、裁判官や調査官たちの前でいきなり、彼にその上申書を見せながら、こう諭しました。
「被害者の方はな。『今回の事件を最後に必ず立ち直ってくださいね』と行ってくださったんやで。おまえなあ。遊び金欲しさに恐喝して借用証を書かせたお前と、被害者なのに見ず知らずのお前のために立ち直ってほしいと家裁にお願いしてくれる被害者の方と、人間として、どっちが大きな人間やと思う?お前はどんな人間になりたいんや」
そう話している間に、190センチはある大きな体の少年は、みるみる体を小さくして、ぶるぶる震えて泣き続けたのでした。
親をせめるな―わが子の非行に悩む親たち、親を応援する人たちへのエール 野口 善國 (著)
野口弁護士が語る子どもの立ち直りにほんとうに必要なこと。子育ての悩みを理解し励ますことから始めよう。
人の善意は必ず伝わります。
逮捕されて留置場に入れられたり、鑑別所に入るような子は、とんでもないワルだろうと一般の方は思われるでしょうが、世間的にはワルでも、感じる心は持っています。ごく普通の、いや、むしろ付き合いやすい子たちがほとんどです。
そうでなかったら、灘中・灘高・東大・司法試験なんて言う、およそ非行の非の字とも縁がなかった私が、何十年も少年事件をやれるわけがありません。心弱き、欠点の多い、同じ人間です。
いじめをする子も、犯罪をする子も、モンスターではありません。人の子です。同じ人間なのです。
もう一度言いますが、弁護士の仕事は、加害者の弁護をすることが仕事で、加害者の人権ばかり言うといわれます(私の場合は依頼者の半分近くは被害者ですが)。
でも、くどいようですが、本当に加害者の弁護するためには、被害者に寄り添うことこそが必要です。私の少年弁護は、非行少年が起こしてしまった事件を反省し、償いをする中で、少しでも加害者が成長できるサポートをするためにこそ努力しています。
そして、この事件を機会に少しでも成長するために、加害者が立ち直るために一番大事なのは、自分が被害者の方に何をしてしまったのかを知ることなのです。
大事なのは、少年が被害者に精いっぱいの謝罪を心からする気持ちになることなのです。
そして、自分を大切にしてくれた家族に対して何をしたかを感じることなのです。
つまり、自分のしたことは、この人間社会でいったいなんだったのかを感得することなのです。
私が尊敬する野口弁護士の上の「親をせめるな」という本にあるように、どの少年弁護士も同じような営みをしていることを信じてください。。
厳罰化に次ぐ厳罰化で、いじめや非行をすれば厳しい罰が待っているようにする。たしかに、そのことで、いじめや犯罪は悪いことだと抽象的に感じることができる子もいるでしょう。わたしのような「良い子ちゃん」なら、失うものの大きさから悪いことをしないという子も多いでしょう。
けれども、ばれなきゃいいんでしょ、という子どもだっているかもしれない。
本当の意味で、子どもたちが他人を傷つけることをなくすためには、
「人は傷つきやすい存在なのだ」と。
「人を傷つけることはいかに惨いことか、悪いことか」と。
心底、子どもたちの心に沁みさせてやることだと、私は思っています。
人を傷つけることで、傷つけた側も必ず傷ついています。それを見ないようにしているか、見つめはじめるかの違いは大きい。
自分も他人も傷つきやすい生きとし生けるものであると知ること。それは、とりもなおさず、他人も自分も、この世に一人しかいない、かけがえのない存在だと気付くことです。自己評価の乏しい子供は他人を傷つけることで満足を得ようという傾向がある。そうではなくて、
「あなたは、あなただからこそ素晴らしい」。
と感じてほしい。
勉強ができるから、可愛いから、足が速いからじゃない。なにがあるから、ないからじゃない。条件付きじゃない価値。それが、日本国憲法が最高価値としている「個人の尊厳」です。日本国憲法はまだ本当の意味で実践されたことがないのです。我々はまだその真価を知らないのだと思います。
我々は、もっと、個人の尊厳を味わいつくしたらいい。
この競争社会では難しいことだけれど、勉強ができるからとか、痩せていて綺麗だからとか、理由付き、条件付きの親の愛は時に子供を疎外します。ただただ、「お前はお前だから素晴らしい」と伝えることが教育です。子育てにそれ以外の何物もいらないと私は思います。
上の表のように、少年による殺人事件数は、とうとう50件を切っています。これは、300件を超えていた半世紀前の15%です。数年前の半分になりました。これは少子化だけではとても説明できない減少率です。
実際には、日本の家庭と地域と学校の教育力は捨てたものではありません。これだけ、悪い大人の見本(ex 政治家 笑)が目立つのに、景気が悪くて、失業率は高くて、それなのに大人も子供も良く頑張っている国ですよ、日本は。
経済状況は悪くなる一方で、希望は減っていくばかりなのに、子どもたちのいじめ事件や少年の凶悪犯罪が増えているわけではありません。マスコミとネットでの報道量が莫大に増えているから、事件が物凄く多い世も末な事態になってしまったと錯覚しているだけです。
これからたぶん、大津の事件の影響でいじめ事件が数年増えて見えるでしょう。実際には、表ざたになるようになっただけのことです。それは悪いことばかりではありませんが、それだけではいじめの解決にはまだ遠い。
子どもたちに、「なにが持っていようが、いなかろうが、あなたは素晴らしい」=個人の尊厳を伝えましょう。
また、心底、そう自信を持って言えるためには、我々大人自身も自分が最高に素晴らしい、と実感しなくちゃね!少しでもそんな手ごたえのある生き方を。
そう、そして、日本に住む私たちだけでなく、どこの国の誰もが、最高に素晴らしいんだと感じられる生き方を。
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私は私だから素晴らしい。あなたはあなただから素晴らしい。個人の尊厳が身に沁みたらほとんどの問題は解決するのにな。
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毎日新聞 2012年08月24日 17時27分(最終更新 08月24日 21時56分)
少年法の見直しの是非を検討している法務省は24日、加害少年の法定刑の引き上げや、弁護士が国費で審判に付き添う制度(国選付添人制度)の拡充について、9月の法制審議会の総会に諮問する方針を固めた。
同省は3月から「少年法に関する意見交換会」を開き、被害者遺族や弁護士、専門家の意見を聞いてきた。 被害者側は「成人と少年の法定刑に開きがありすぎる」と訴えたほか、殺人、傷害致死、交通死亡事故などに限られている審判傍聴制度の範囲を拡大するよう主 張。弁護士は加害少年の立場から、重大事件に限定されている国選付添人制度の対象を広げるよう求めていた。
現行法は、犯行時18歳未満の加害者に無期刑を言い渡す場合、10~15年の有期刑にすることができる と定めているほか、有期刑の上限も成人が複数の罪で「30年」なのに対し、判決時に20歳未満の少年は「10年」と開きがある。滝実法相は24日の閣議後 会見で「(少年の刑罰が)今のようにあまりに低い刑で良いのか」との認識を示したうえで「単なる厳罰化だけでなく、少年の立ち直りを考える必要もある」と 述べた。
法務省幹部は「少年の法定刑引き上げは『厳罰化』ではなく、成人の法定刑とバランスの取れた法整備を目指すものと考えている」と話している。【伊藤一郎】
結局は生命の尊厳と人数が限られることからそうまでして殺さないといけないのか?・・ということかと思います。
読者の皆様にお願いがあります。
この記事、私、BLOGOS編集部に平身低頭してお願いして、やっと転載していただいたのです。
しかし、褒めてくださる読者より、厳罰化賛成!っていうコメントが多いのが現状です。
もし、このブログに共感していただけたなら、BLOGOSのこの記事に参入して、思いをコメントしていただけませんか?
目下、多勢に無勢です。
コメントするには、いろいろ面倒な手続きがあるかもしれませんが、伏して、伏してお願い申し上げます。
「支持」するだけでも結構ですから。
たぶん、いま、個人の尊厳志向か安易な厳罰化の瀬戸際だと思います。
「いじめや非行の解決策は厳罰化ではなく、「個人の尊厳」を伝えること」
http://blogos.com/article/45629/
だからこそ厳罰化が必要だと思いますし、より低年齢から大人と同じ刑罰を課すことが必要だと思うのです。
>彼らは、道徳心や倫理観、罪悪感がまだ未熟で、実際に捕まってみないと、自分の行いが捕まることだと実感できないんですね。悪いことをしたらいずれは捕まるという想像力が著しく欠如しているんです。
これは、今まで子どもとして扱われすぎたからこそではないでしょうか? だから、大人と同じ法を課すこと、また、加えて私が日々感じていることを言えば、中高ではバイト禁止、などといわず、むしろバイトを進め早く自立を意識させるべきだと思います(むろん、無理に仕事ばかりさせて、子どもに望む教育を受けさせない大人はそれなりに罰すればいいわけです)。少年法をなくすか、もっと低年齢の子どものみへの適応とし、あとはケースバイケースで、どこまで本人に責任能力があるかなど考慮して罰の軽重を考えればいいのだと思います。
しかし、死刑制度が存在する我が国において、凶悪かつ残忍な殺人事件は数多く起こっています。 死刑以上の厳罰はありますまい。 そしてその死刑を絞首ではなく鋸引きや磔にすれば殺人が減るというものでもありますまい。
問題は、結果に対する「罰」に専ら目が行き、犯罪・非行を防ぐ方策が等閑にされているのではないかという点にあります。
「罰が怖いからしない」ということも考えられないことではありません。 しかし「叱られるからしない」というのでは、互いの基本的人権を尊重しともに社会で生きるという本来の人間の在り方は身に付きません。逆に「叱られなければしてもよい」ということになる―。
また「処罰が怖いからしない。」という方向は、たとえば戦前の「治安維持法」のような法律が万一成立した場合、「声なき国民」「権力に唯々諾々と従う国民」を生むことにつながりかねません。そしてその方向は「核兵器があるから平和が保たれているのだ」という「核の抑止力」論者の考えにも通じます。
少年犯罪に対する「厳罰化」への危惧は、その加害者を免罪しようというものでもその行為の責任を問わないということではありません。彼らの所業はそれなりの懲戒受けるべきです。
先述の如く、その「厳罰化」方向は短絡的にそれにによってすべてが片付くような錯覚を多くの人間に抱かせ、たとえばイジメ問題の場合、「それを防ぎえなかった学校での学習環境・教育環境に問題がなかったか、あるとすればどう改善してゆくか」を考えることから遠ざける恐れが多分にあります。
「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」教育を担う学校での学習環境・教育環境の問題を考えることは、非行を防ぐのみならずすべての子どもたちの福利になることです。
大切なのはそちらの方ではありませんか?
レスありがとうございます。
>教育を担う学校での学習環境・教育環境の問題を考えることは、非行を防ぐのみならずすべての子どもたちの福利になることです。
おっしゃられるとおりだと思います。また、死刑については、大人の場合についても同様に未だ疑問を持っており、立場は決まっていません。ただ、それ以外については子どもも全般において、もっと大人と同様の法のもとにおくべきではとは思っています(ただ、犯罪者としての実名公表などは、子どもの場合はしないほうがいいのではないか、など、色々修正点はあると思いますが)。また厳罰化ゆえに、本来の人間としてのありかたが身につかないということはなく、あるとすれば別の原因があるのだと思います(言葉で語り合って自他の違いが分かり、他者は自分の思い通りにはならないのは当然で傷つけても従わせようとするのは変だ、とわかるような教育をせず、むしろ言葉を押し込めさせるから、など)。むしろ、「人間的な対処だ」と勘違いして体罰などで治めようとするから逆に自己尊厳などもできなくなるわけで、きちんと法で明文化され規定されたものを提示するほうが、それにしたがって自己コントロールも出来、自分で自分の人生を支配しているのだと感じ取れ、自己尊厳もできるのだと思います。
>学習環境・教育環境の問題を考えること
私とて考えていないわけではありません。教育が自己表現を助ける場にはなってなく、大人の美意識(無意味な規則-子ども本人の安全を守ったり人に迷惑をかけないためのきまり以上の規則-)に無言に従わせられ、それに疑問を呈すると「屁理屈言うな」と言葉と論理を蹂躙され、「社会に役立つスキル」などという実は社会の奴隷になるスキル教育が横行し、少なくとも「標準」には達することが求められるというような大人から要求ばかりかけられる場になってしまっていることこそ子どもたちの自己尊厳を奪っているものでしょう。このような子どもたちを蔑んでいる状況が解除されれば、あえて「自己尊厳」とか、「お前はお前だから素晴らしい」などと言わずとも自己卑下は減少するかなと思っています。ちなみに、あえて「自己尊厳」とか「お前はすばらしい」と言うのも、何か言いすぎで、今までのアンチテーゼとしての効果はあっても、余分な心・心の持ち方をつけ加えてしまうように思います。大人が要求ばかりする教育、子どもに自由に言葉を言わせない教育を残したまま、一方でこんなことを言っても、右手と左手のやっていることが違うというような状況になるばかり。そういう教育状況をこそ改善して、不要な自己卑下がなくなるところまで行けばいいのだと思います。
それと、核兵器の場合は、戦争で無実の人間もまきこむことにつながるし、治安維持法は、思想統制なども関与していることだから、話は別だと思います。むろん法を作るうえでは、思想的なバイアスがどれだけ排除され、他者を傷つけることへの罰に限られているか、ということを常に見つめておかねばと思いますが。
真剣に考えておられることはよく分かります。
しかし、その根拠が具体的に述べられていないのが残念です。上記のようにするのであれば、権利・義務も成人と同様にせねばならない。それなしに 「罰」のみ成人(「大人」という曖昧な言い方は避けます。)と同じにする根拠は奈辺にあるのでしょう。 成人は「社会人」として活動し得るための「教育」を受けていること 成人は為してはいけないこと―「公共の福祉に反すること」、為すべきことー「不断の努力によつて、これを保持しなければならない」ことを知っているということを前提としてを、その権利の行使・義務の遂行が認められています。親権者の保護下にあり、「教育の過程にある」-すなわち「自立」が為し得ない「未成年」に対し、成人と同様の責任能力を求めることは適切ではありません。
「厳罰化ゆえに、本来の人間としてのありかたが身につかないということはなく、あるとすれば別の原因があるのだと思います(言葉で語り合って自他の違いが分かり、他者は自分の思い通りにはならないのは当然で傷つけても従わせようとするのは変だ、とわかるような教育をせず、むしろ言葉を押し込めさせるから、など)。」<
上記にある「教育」とはどういう内容のものを言うのでしょうか? 結局は「教育が本来の目的を十全に達成できるようには行われていない」というのであれば、その原因がどういうところににあるのかを追究することがまず第一でしょう
当然、1人1人の児童・生徒への目配りが不十分にならざるを得ない、そうした状況が現状です。 だからこそ「個別指導塾」が盛行するのです。そこは当然「教科の学力向上」を商品として提供し、代価を得ることが目的ですが、まずは「やる気」を喚起すること、そのためにはその児童・生徒がどういう性格か、どういう意識を持っているかをしっかり把握しておくことが必須です。 学校の多人数クラスでは、教師がそうしたくてもできないのです。
「教育が自己表現を助ける場にはなってなく、大人の美意識(無意味な規則-子ども本人の安全を守ったり人に迷惑をかけないためのきまり以上の規則-)に無言に従わせられ、それに疑問を呈すると「屁理屈言うな」と言葉と論理を蹂躙され、『社会に役立つスキル』などという実は社会の奴隷になるスキル教育が横行し、少なくとも「標準」には達することが求められるというような大人から要求ばかりかけられる場になってしまっていることこそ子どもたちの自己尊厳を奪っているものでしょう。」<
「中央教育委員会」の答申をお読みになりましたか? そこでは「教育」は、「激化する国際経済競争に勝ち抜くための国家戦略」と位置付けられています。
すなわち「経済競争」のための「道具ー人材」育成が「教育」の目標とされているのです。 それを効率的に行うためには「安上がり」でいくのがよいー教育に金をかけない、1人の教師にたくさんの児童・生徒を扱わせればよいー1人の労働者に出来るだけ多くの商品を作らせるーということになります。
おっしゃっているのはそうしたことですね?
(「中教審答申等では「自己表現」ではなく「自己実現」と言っていますが。)
学習環境・教育環境の改善は、さまざまな面で考えられねばならぬことですが、少なくとも「教師の目配り・配慮」が1人1人に行き届く状況は、「学力向上」した県の例からも分かるように、まず「少人数クラス」への移行によって形成される可能性が高いはずです。 それほど難しいことでしょうか。 施設と人員は費用さえかければ確保できることです。
「核兵器の場合は、戦争で無実の人間もまきこむことにつながるし」<
戦争は「国家の行為」として行われます。 国家の形成者である「国民」がそれと無関係ー無実、巻き込まれた存在ということはできますまい。
「治安維持法は、思想統制なども関与していることだから、話は別だと思います。」<
「罰」で脅す」ことが目的という点で同じでしょう。
「厳罰化」ですべて解決がつくということが現実的でないことはおわかりのはずです。
表層的でない、根本的なそして具体的な学習環境・教育環境の改善を考え、御教示いただきたく思います。
すなわち「経済競争」のための「道具ー人材」育成が「教育」の目標とされているのです。 それを効率的に行うためには「安上がり」でいくのがよいー教育に金をかけない、1人の教師にたくさんの児童・生徒を扱わせればよいー1人の労働者に出来るだけ多くの商品を作らせるーということになります。
おっしゃっているのはそうしたことですね?
そうですね。そのように国など、誰か、何かに都合の良い子どもを作り出そうとする教育が問題だというのです。何か、誰かの求めに答えるための教育、というのがそもそも問題です。そういうことがいじめや少年犯罪と全く関わってなくもないと思います。本人が自分の本当の欲望を生きれるための教育が大切だと思います。
>少なくとも「教師の目配り・配慮」が1人1人に行き届く状況は、「学力向上」した県の例からも分かるように、まず「少人数クラス」への移行によって形成される可能性が高いはずです。
おっしゃられたいことの主旨からはそれた、末節なことかも知れませんが、学力向上が判断の基準になっているところには、いささか違和感があります。本人が本人なりの自己表現を許され、それを学問なりで(その他のことを通してでもいいですが)助けられた、という経験こそ大切だと思います。
>「核兵器の場合は、戦争で無実の人間もまきこむことにつながるし」<
戦争は「国家の行為」として行われます。 国家の形成者である「国民」がそれと無関係ー無実、巻き込まれた存在ということはできますまい。
そういうふうに本来核に反対であった国民まで国が巻き込んでしまう、また、相手国の戦争に反対であった人さえ巻き込んでしまう、というのが、子どもへの厳罰化の「個々人が罪を犯して罰される」という状況とは違う、ということです。治安維持法は、思想と言う本来自由なものまで脅かされているわけで変なのであり、本当に迷惑な行為について正当な罰で脅かされてもそれは当然だと思います。前にも申しましたように、本当に迷惑なことを脅かされているからしないだけ、という人は、別に問題があるのだと思います。
>上記にある「教育」とはどういう内容のものを言うのでしょうか? 結局は「教育が本来の目的を十全に達成できるようには行われていない」というのであれば、その原因がどういうところににあるのかを追究することがまず第一でしょう
原因の基本は、私の思うところでは、繰り返しになりますが、大人の「要求」ばかりが先行していること(これは既に幾つか述べましたが)、そして子どもが色んな思いを言葉にするのを許さないことにあります。それは日常の些細なことにまで及びます。例えば「先生はそんなことする子嫌い」的な指導。何が悪いか論理的に言わず、先生の好みに従わせようとする、とか。「言わなくてもわかってるだろう」「規則だから従え!」「自分で考えろ(人に聞くな!)」なども言葉を押し込めます。また、文章にしろ、絵にしろ、上手い下手は問われず、おぞましいものも迷惑をかけない限りどんどん表出させる時間も必要だと思います。(で、時には描かれたキャラクターなどについて、「この子はどんなこと思ってるの?」など聞くと、自分(子ども)の思いの表現をはぐくむことにも役立ってくるかと思います)。きれいな整然としたものを尊ぶばかりでは子どももそれを引っ込めてしまいます。子どもの心を傷つけぬかと先回りし、家族が家のことを隠しがちなのも、問題でしょう。離婚なども理由をはっきり告げられないと、自分が悪かったのでは、そんな自分は自分の欲望にそって生きる価値はない、ものを言う価値は無い、と消極的になります。言葉が自由にいえるようになるには、そういうことをなくすことが必要です。また、やる気については、学校に行く意義を、そうなってるからただ行け、ではなく、「あなたが言いたくても難しいことあるでしょ?国語はそれをうまく言えるように教えてくれる。算数や数学は、ものをどう論理的に考えるか教えてくれる。色いろの方向から考えることを学ぶことは、間違った情報にだまされないようにしてくれる(学校の言うことも、自分で確かめないままでまるまる信じてはいけない)。成績を重視する教師も居るかもしれないけど、学校は本当はそのために有る。」と小1から伝えることが基本だと思います。それでやる気が出なくとも、伝えること自体が大切だと思います。まあ、ただ義務教育が就学義務も含んでいる、ということにはいささか疑問はありますが。ともかく「やる気」というのも、そういう基本的な意義を伝えないと、子どもたち本人にとっても、余り根拠のないままのから元気になってしまいかねないと思います。よくても「先生が励ましてくれたから」、のレベルで終わってしまう。そして思春期になってがくんとくる、ということにもなりかねません。一旦言葉の自由な表出が許されれば、言葉は弁証的に進まざるを得なくなっている(ひとつの文を言って、これでOK!とはならず、必然的に、こう考えたが、しかし、ああいう考えもあるな、と、進むようになっている)と色々疑問もわいてきます。自分や世の中の様々なものについて。そうすると「やる気」などと言わずとも、もうそれ自体が勉強になっている、そういう風に出来ると思うのです(こうできるようにすることが上で述べた、他者の求めに答えさせる教育とは違う、自分の本当の欲望を生きさせる教育ということです)。あとは、バイトなどももっとさせるべきでしょう。今の子は、携帯電話やゲームなどでやはり昔以上にお金を親にもらっていることになっていると思いますが、この負債の意識は罪責感を増やし、自分の欲望から生きることを萎えさせてしまっているのではとおもいます。また、バイトによって、将来ひとりで生きていかねばならない自分というものにも気づくとも思いますが、こういうことが自分の人生に対する意欲を育んでくれるのだと思います。しっぱいしても支えるから、バイトやってみろ、そういう教育も必要だと思います。教育では、どうすれば、子どもが本来出したいと思っている言葉を出すのに制限をかけずにいられるか、を基本として考えるとよいと思います(無理に言葉を引き出すのでなく。本来、言葉はもともと表出されたがっているものだから)。
>親権者の保護下にあり、「教育の過程にある」-すなわち「自立」が為し得ない「未成年」に対し、成人と同様の責任能力を求めることは適切ではありません。
なるほど。私は、まだ、法のどの部分が、未成年に対してどこまで緩和されているのか、がよくわかっていませんのでここはもう少し勉強させてください。ただ、大津などの問題からみても、あるいは、大津に限らず今迄いじめとしてすまされていたものについて、刑事罰を加えるべきものも多くあるではないか、という思いはあります。重さを大人と同等にはしないにしろ。
いじめを本気で減らそうと思うなら、隠匿の罪の厳罰化が良いのかな、と思います。あとは特命告発の奨励かな?
これらを進めると目先の数字(いじめ件数)が上がるんですけどね。
< 「いじめを本気で減らそうと思うなら、隠匿の罪の厳罰化が良いのかな、と思います。あとは特命告発(匿名告発?)の奨励(橋下徹氏の好きそうな方法ですね)かな?」
そうした結果が生まれないような根本的解決策が必要でしょう。
現在の教育・学習環境をそのままにしておいて、そこから次々生まれてくる「イジメ」などの非行をどうなくせるというのですか? 限りない「モグラ叩き」になるでしょう。
「ともかく、学校が生徒にとってそれほど警戒して行かないといけないような、戦場に行くような場であるのは異常です。」<
その通りです。そのような状況をなくすことが必要なのです。
「義務教育から就学義務をなくす」<
「義務教育」というのは、子どもにとって学校へ行くことが義務ということではありません。子どもは「教育を受ける権利」を持っているのです。その「権利」が充分に守られていないのが問題なのです。
「教育の義務」は、国・保護者が子どもたちに対し負っているものです。
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
「日本国憲法」
第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。(その権利を保障するのが国なのです。)
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。