オーソレ、何それ?

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適当に書きつづります。

厳島の合戦:元就の綿密な知略・謀略

2004-10-26 22:59:48 | æˆ¦å›½æ™‚代
厳島の合戦は毛利元就が四千の兵で二万の陶晴賢を打ち破った「寡よく衆を制す」の代表的な戦いとして名高い。この合戦は織田信長が今川義元を奇襲攻撃で破った桶狭間の合戦になぞらえて「海の桶狭間」とも呼ばれる。

1554年9月毛利方の厳島宮尾城を陶軍は二万の大軍を擁してこれを攻めたが、翌10月1日の明け方、毛利軍本隊が風雨をついてこれを奇襲、村上水軍も陶軍を挟み撃ちにしたため、陶軍は潰走し、陶晴賢は厳島であえなく自害した。

元就は、この合戦に至るまで知略、謀略、あらゆる手段を駆使して兵力5倍という不利を克服した。以下に主なものを列挙すると、

1. 敵の戦力をそぐ
まず陶方の江良房栄を味方に引き入れようとしたが、それが叶わないと知ると懐柔工作を逆手に取り、江良房栄が毛利方に内通していると見せかけ、陶晴賢に江良房栄を討たせた。元就は戦わずして敵の有力な武将を取り除くことに成功した。

2.敵の数的優位を殺した地の利
元就は決戦の場所を厳島に選んだ。厳島は船を使わないと渡れない、また狭い地形から大軍を押し込んだため自由に行動が取れなかった。陶軍をおびき寄せるために元就は厳島に宮尾城を築き「ここに城を作ったのは失敗だった」と語ったとう噂を流した。さらに厳島の対岸の桜尾城の守将桂元澄に命じて陶晴賢に「毛利軍を厳島の両岸で挟み撃ちにしよう」という密書を出させた。桂元澄の父広澄はかつて謀反のかどで元就に討たれており、陶晴賢は、桂元澄を信用し厳島攻めを行った。

3.後門の狼の牙を抜く
山陰には衰えたりといえども尼子が控えており、毛利と陶が互いに傷ついた場合、漁夫の利を得られかねない。そこで元就は尼子一族の有力な先頭集団である新宮党が毛利方へ内通していると尼子晴久信じ込ませ新宮党を攻め滅ぼさせた。尼子晴久は自らの力を減弱させた。(1と3の話が余りにも似ており、出来過ぎのような気がしますが)

4.村上水軍を味方につける
村上水軍は毛利、陶両軍から援軍を依頼されたが結局毛利方についた。これは同じ水軍である小早川氏に元就の3男の隆景が当主であること、傲慢な陶に対して、毛利が辞を低くして依頼したことが要因であると考えられるが、利に聡い瀬戸内の水軍が自分達をより高く買ってくれそうな毛利を選んだことも挙げられる。

この勝利によって毛利元就は西国の覇者としての名乗りを上げる。このとき59才で、当時はもちろん現代でも定年の1年前と老境の域に差し掛かっている。しかし元就は寄る年波をもろともせず、西国の覇者への道を突き進んでいった。

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