BUG/バグ [DVD]アミューズソフトエンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
昔から、世の中には妙な電波を受信してしまう人というのがいる。
いわゆる電波系という人たちだ。
同時に、自分には受信能力は無いのだけど、受信力のある人を介して受信できる
ようになってしまう弱電波体質の人もいて、こっちは結構多い。
両者が出会ってしまい、化学反応を起こしてしまう話を描いたのが本作だ。
人生に倦んでいる一人の女と、どこか陰のある一人の男が出会ってしまったことに
より、徐々に歯車が狂っていき、物語は想定外の結末を迎える。
その狂う様子をよりによってエクソシストのフリードキンが描くものだから、
(気持ち悪いという意味で)完成度の高い映像に仕上がっている。
間違っても恋人や家族と見る映画ではない。
さて、話は変わるが、最近ネットの功罪についていろいろと議論されることが多い。
いろんな可能性を秘めているのは事実だが、結局は低レベルな使われ方に終始し、
新たな価値は生み出せないのではないかといった内容だ。
個人的には、“罪”の部分の筆頭は、電波系同士の出会いだと考えている。
そういう人同士がWeb上で妙なネットワークを作っているのを見ると、まるで
リアルBUGを見ているようないやーな気分になる。
普通に健全な文化的な人生を送れるはずだったのに、
Webのおかげで頭がゆるゆるになっちゃったんだなあと考えると
確かにWebは罪作りだ。
ちなみに、常識という枠組みからフリーな存在である電波には、右も左もない。
「コミンテルンの陰謀だ」とか「郵政民営化はユダヤ人の陰謀である」とか
「9.11はアメリカの自演である」とか…。
もし、1gでも「いやありえるかも」と感じている人がいれば、本作を見ることを
お勧めする。自分を客観視するきっかけくらいにはなるだろう。
「主人公たちは間違っていない!」と思ったら、とりあえず病院へGO!だ。
あと、以来amazonトップにアクセスするたびに似たようなジャンルの本が表示されるんですけど勘弁してください。
「精神」是非観に行こうと思います。
かたや妄想的な言動が大きな金になる。
一方普通の人たちが普通に生きていくのが難しい。
一体なんだろう、この国は・・・。
ブログなどは、その内容もさることながら、やはり書く人の考えとか、心構えだろう。之はしばらく見ていると、分かるから、其れで判断するしかない。
然し情報はやはり受けての能力とか、感性が物を言う。
したがってウェッブは出すほうの人ではなく、受けル方の人の意識を表すと私は思っている。
逆にネットサーフィンをすれば自分が現れる。そして似たもの同志がそこに現れる。この頃これが分かり、少し嫌になっている。
池田信夫氏のブログ読者は多分、城氏のブログ愛好者だろう。
この本もオススメですよ。
小林よしのり氏も最初は反体制だったのに、
今じゃただのおかしな保守の人間になってしまいました。
妄想質ということでしょう。
ただ社会問題を芸術家ベースで考えると、結局おかしなことになりますね。
小説家などは物語を通して、ある種の社会問題を顕在化・普遍化させることに価値があると云えるのでしょうが、学者がそれでは困ってしまいます。
経済学が科学かどうかと云われてしまう由縁がこんなところにあるのかもしれないと思います。西洋合理主義はデカルト以来、心身二元論をベースに考えられてきました。
科学は定量化出来るものだけを対象に扱うことが前提ですが、経済学も科学であれば定量化されたものを扱わなければならない。
幸福というのは質の問題であって量の問題ではない。
経済学で幸福という質を扱おうとするところに問題がある。日本は企業文化においても精神論が根付いているだけに、この問題は特に根深いですね。幸福という個人の生活の質の問題と、仕事というお金を稼ぐための量の問題(福祉なども量の問題であるべき)と合理的分けて考えていく必要があるんです。
だからおかしな宗教ばかりが乱立し、意図された悪意の下に量と質の問題を混同させられてしまうんです。
御参考までに。
思わず「素敵!」と思ってしまいましたが・・。こういう↑ロマンスって意外と無いですよ、市井には。だから映画になる。「ありきたりの日常に埋没するより破滅的な情熱(受難?)を選ぶ」とか、そんなドラマチックな選択を繰り返していたら男も女も疲れ果ててしまう。
>ネットの功罪についていろいろと議論されることが多い。いろんな可能性を秘めているのは事実だが、結局は低レベルな使われ方に終始し、新たな価値は生み出せないのではないか。個人的には、“罪”の部分の筆頭は、電波系同士の出会いだと考えている。
あらかじめ記録された文字と画像と音声だけで出会うネットは、それ以外の要素が必要ないですね。「ネット社会の怖さ」とは「言葉そのものの怖さ」ですね。科学技術の進歩しすぎが怖いとかそういう文脈じゃなく。
>芸術家などクリエイティブな仕事をする人には、この傾向強いですね。妄想質ということでしょう。ただ社会問題を芸術家ベースで考えると、結局おかしなことになりますね。
社会を構成するのは人間であり、人間は誰もが創造的な存在。「結局おかしなことになる」のはたった一人の芸術家の意見しか聞かなかった場合で(一人で騒いでいる場合ね)、三人ほど芸術家を集めて討論させれば一番よろし。別に芸術家でなくても政治家でも独裁やっていたら変になりませんか?
医学は科学ですか?科学でないとすれば何学ですか?
>幸福というのは質の問題であって量の問題ではない。経済学で幸福という質を扱おうとするところに問題がある。
幸福はある程度まで量の問題ではないでしょうか。
>福祉なども量の問題であるべき
「福祉を量の問題にする」って、全要素を数字で置き換え可にすれば、全体がすっきり見通せるという意味ですか? (それでは人間の悲鳴は聞こえてきませんよ。)
>意図された悪意の下に量と質の問題を混同させられてしまうんです。
混同しているのは、幸福の「質と量を分ける」という意図そのものです。
なんだかそこの売上ランキングにも入ってたみたいですが、素通りして本棚を見ていったら非常に建設的な本が見つかってよかったです。
地侍の魂
http://www.amazon.co.jp/%E5%9C%B0%E4%BE%8D%E3%81%AE%E9%AD%82-%E6%9F%8F-%E6%96%87%E5%BD%A6/dp/4794217072
先日紹介されてた「自助論」の日本人版かもしれませんが、昔の日本人の独立独歩の精神がいろいろと例を挙げて紹介されてます。