Lambdaカクテル

京都在住Webエンジニアの日記です

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震災が残した社会的呪いと、それを解くための言葉

価値観に激震をもたらす出来事というのは、人生にあふれているとまでは言わないにしても、大きめのケガをする程度の頻度でふりかかってくる。自分の場合は、身内の死だとか、高校の頃に日本のどっかで起こった震災*1だとか、そして最近はコロナによる生活習慣の変動によって、良い暮らしとは何なのか、何が良い人生なのか、自分とは何なのか、という事と向き合わなければならなかった。今まで矛盾無く純朴に信じていた暮らしの指針、言い換えれば信仰心のようなものが打ち壊されて、同じ事をしても希望を感じられなくなる、未来を感じられなくなる、暮らしの中から動機付けが奪われる、そういうことがたまに起こる。大きな出来事が起こると、これまでに興味を持っていたものが興味の対象ではなくなったり、またはその逆が起こる。震災を機に社会や政治にシフトしていった人は数知れず、自分もまたその一人だった。

震災以前と震災以降とでは、あきらかにインターネット上の政治や社会をめぐる空気は異なっていた。「それまで」よりも遥かにマジになったり神経質になったり、およそ言葉の隅から隅までを尖らせるようになっていた。興味を持つ、感心を持つというよりは、それよりもはるかに漠然とした、大きな動きに絡め取られるような、そういう不穏さが、SNSを徘徊するようになっていた。

誰もが政治とは無関係ではないのだ、という強烈なメッセージが、繰り返し繰り返される震災の報道、現われては消える出所不明のデマ、不謹慎だとかそうじゃないとか、そういう挑発的な言葉の応酬、そういうものを経て、人々の間に吸収されていった。すると、絵描きも音楽家もふつうのオタクも、社会的なカードを見せた途端に反応せずにはいられなくなって、社会運動の枠組みに、自ら気付かないうちに組込まれている。これは震災が残した一種の呪いだ。我々と一緒に反対の手を挙げない者は賛成と一緒だ、なぜ反対しないのですか、という、立場表明の強制のようなものが当たり前のように通用していて、誰もが逆賊になりたくないので、賛同するか拒絶するかを、いつの間にか選ばされている。参加しなかった奴は助けないぞという脅迫を受けている。意思表示という選択を自動的に選ばされていることに気付いていない。言い換えると、人間を政治的ゲームに巻き込むための技法を、政治的な人々は洗練させている。いつのまにか、顔も知らないような他人の感情の責任を負わされて、同調させられたり報復させられたりしている。いつのまにか、自分は自分でしかありえないのに、他人にさせられている。それはおかしいと思う。

政治/社会参加は自由である

誰もが社会とは無関係ではいられない、だから、自分も社会的な出来事に無関心であってはならないのだ、と自分は考えるようになっていた。だが、この「だから」には論理の飛躍があって、政治参加は自由であるという大前提を、無意識に読み飛ばしているのである。これは震災の呪いの成果だと思う。SNSに政治的話題がどんどん流通するようになり、あらゆるジャンルで、例えばイラストの乳がデカいだのなんだのといった、政治的な小競り合いが起こるようになり、人々はこの大前提を無意識に読み飛ばせるように訓練させられてきたのだ。

だがその要求に背を向ける勇気があっても良いと思うのだよな。参加するかどうかは自由なのだ。やりたい人はやればいいし、別にいいやという人はどうでもいいのだ。そのどうでもいいやという人を許さないようなSNSの雰囲気には、ノーと言わねばならないなと思っている。参加しなかったことで不利益を被るということがあってもいけない。

あらゆるものは政治的である、という感じの、どっかの思想家が言ったらしい言葉があって、それを愛用する(だから俺達と一緒に戦ってね!という)人の多いことよと思うけれど、政治参加は自由でしょという当然の事を巧妙に誤魔化しているように思えてきて、かなり不誠実というか、詐術的な言葉だと思えてきて、非常に好かない言葉のひとつになった。

社会に対する意識が高いことは立派だと思うけれど、それに傾倒することによって、社会と一体化することによる快楽に取りつかれてはいけなくて、一人の人間として、あそびや暮らしを大切にするという態度も忘れてはいけないと思うし、面白いものが生まれるのは絶対に後者だと思うのだよな。

*1:僕はその頃九州に住んでいたので、実態的な何らかの破壊を見ることなく、純粋に世の中の空気が破壊されたように感じられた

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