Don't Repeat Yourself

Don't Repeat Yourself (DRY) is a principle of software development aimed at reducing repetition of all kinds. -- wikipedia

2024年読んで印象に残った本(非技術書編)

2024年は終わってしまいましたが、2024年読んで良かった本を紹介したいと思います。今回は技術書でない本を紹介します。

2023年くらいからこちらのブログでやっています。

blog-dry.com

免責事項ですが、完全に読了したものではなく読みかけの段階でも「これは…」という本も紹介しています。内容については記憶を頼りに書いているので、一部解釈誤りや記憶違いなどを含む可能性があります。アフィリエイトが入ってるのであらかじめご了承ください。

目次

技術革新と不平等の1000年史

『国家はなぜ衰退するのか』を書いたアセモグルらによる新しい本です。この本を読み終わったくらいにアセモグルやロビンソンがノーベル経済学賞を受賞し、一躍話題の一冊となりました。

2024年はというと、生成AIが技術的な話題の多くを席巻していたように思います。年の初めにはこれまでの機械学習や深層学習の成果物と比べると一段レベルの違うものに仕上がっているように感じていました。そして一般に広く普及し、仕事をしていてどの職種からも生成AIのワードを聞く時代となりました。いわゆる技術革新が起きたタイミングとして、2024年は歴史に残っているだろうと思います。

こうしためざましい技術革新が進む一方で、技術革新の結果生まれたであろう生産性向上や「繁栄の共有」は幅広く行き渡っていると言えるでしょうか?答えは今のところはおそらくノーです。少数の巨大なテクノロジー企業が新たに生まれた富を寡占するような事態になっており、富はそこに集中しています。下手をすればひとつの国規模の経済圏を持っているとも言えるかもしれません。そしてその富は、経済圏にいない人々には行き渡らない状態になっているでしょう。

技術はこれまでの歴史において、きちんと人類に富をもたらしてきたのか?という疑問に対して、実証的に答えていく一冊です。著者らは、まず技術に対する下記のような楽観的な表明(本書では「生産性のバンドワゴン」と呼ばれています)に対して疑義を表明します。

企業は生産性が向上すると、生産量を増やしたいと考える。それにはより多くの労働者が必要なので、雇用の確保に奔走することになる。多くの企業が同時に同じことをしようとして、賃金をいっせいに引き上げるのだ。

技術は、それ自体で富を社会全体に行き渡らせることは決してないといいます。技術革新の恩恵に多くの人々があずかれるかどうかは、技術のビジョンによるといいます。要するに技術がどう使われるか、その結果得られる恩恵をどう分配するかをどう設計していくかに委ねられているということです。ただしその設計は、政策などの意思決定に関われる「選択をできる人」らの選択に完全によります。翻すと、技術革新や技術それ自体が手放しでいい結果を労働者や社会にもたらすことはないのです。

この議論について、歴史的な技術革新のタイミングを振り返りながら検証を進めていきます。とりあげられるのは、農業革命、ピラミッド建築、科学革命、産業革命、フォード、コンピュータ革命などです。このうち条件付きでうまくいったのは産業革命、フォードのみで、他は散々な結果になっています。注目すべきなのはコンピュータ革命も、決して技術革新の恩恵が広く行き渡ってはいないということです。私にとって重要だったのは、つまり現代は、恩恵を受けられていない時代であるという認識を持つ必要があるのだということです。

そして注目すべきは最後のAIオートメーション革命に対する著者らの警鐘でしょう。これまでの歴史上大半がうまくいっていないように、やはり同様にAIオートメーションもその結果得られた富が広く分配されているとは言い難い状況にあるようです。AIについて楽観的な議論を始める前に、一度1000年分の技術の歴史を確認し、現実を知るのもよいかもしれません。

論理的思考とは何か

論理的思考というと、コンサルの人たちが書くああいうロジックツリーをはじめとした思考方法や文章の書き方を指していると思いがちです。そして、あれこそが「論理的」なのであり、たとえば日本の読書感想文のような、結論のよくわからないお気持ち表明大会は「論理的ではない」、およそ教育的ではない[*1]何かと切り捨ててしまいがちではないでしょうか。実際私も読了後でさえ半分くらいはそう思っていますが、それは置いておいて、論理つまり人の説得のフォーマットには、文化圏によってさまざまな手法があるのだと視点を相対化できる一冊です。

筆者によれば、論理的思考は4つの様式が観測可能で、文化圏によってそれぞれ独自の体系をもっていると説明します。代表的な4つは下記です。

  1. アメリカ: いわゆるロジカルシンキングとしてビジネスシーンなどで習うスタイル。
  2. フランス: 正反合を大事にしながら議論を展開するスタイル。
  3. イラン: 真理かどうかを詩などを援用しながら、ある種宗教的に定められた結論に論証しながら向かうスタイル。
  4. 日本: お気持ち表明大会。というか、筆者の体験や経験を共有し共感を誘うスタイル。

ところで筆者がわざわざ類型を4つあげていますが、この目的は思考方式の相対化です。これらの間に優劣や良し悪しがあるのではなく、差異を示しているのだということを念頭に置く必要があります。「論理的思考」というと、私たちのようにビジネスシーンに触れる人からするとついついアメリカ式のそれを思い浮かべてしまいがちです。しかし、世界にはその土地の価値観に基づいたさまざまな思考体系があると念頭に置いておくだけでも、異文化の相手の理解に一歩踏み出せるようになるかもしれません。

私がおもしろかったと感じたのはとくにフランスの部分でした。学生のころ、フランスの現代思想哲学書を読まなければならなかったのですが、中で展開されている議論はおよそわかりやすく直線的に仕上がっているとは限りませんでした。いろんな文学や音楽、映画などからの引用はもちろん、そもそも議論それ自体が入り組んでいるのです。英米系の哲学書は対称的に、議論の流れをとても追いやすく直線的な流れだったように思います。

本書を読んで、それがフランスの議論のスタイルなのだというのを知りました。本書ではフランス式の思考体系は「政治領域」として扱われていますが、政治ではさまざまなバックグラウンドをもつ人々の間に立って利害調整しなければなりません。そうした議論は、直線的かつ構造的にわかりやすいものになっているとは限りません。また、直線的な議論をすると、思わぬ考慮漏れを起こすかもしれません。正反合のスタイルにならって緻密に議論を練り上げることで、より多くの物事を考慮の中に入れられるという良さをもっていると言えるでしょう。

フランスの思考法が個人的にはおもしろかったのもあり、下記の本も読んでみようかと思っています。

近代美学入門

もともと美術館が好きで、美術検定なども実はもっていたりするくらいなのですが、子どもが生まれてから主には子どもが急に騒いでしまうことを遠慮して行かなくなってしまいました。行かない(行けない)代わりに、美術に関する書籍を買っては読んでしまった1年だったなと思いました。

去年だと、ゴンブリッチのこの本が手頃な価格で売り出されていたので、思わず買ってしまいました。なお、我が家の大きめの文鎮になっています。時間見つけてコツコツ読みたい。

ところで最近調べて知ったのですが、国立美術館などでは子ども向けのイベントを定期的に催しているようです。平日に時たま検診が入って行く必要があるので仕事を休むことがあるのですが、そういうタイミングで連れて行ってもいいなと思っています。お子もそろそろこちらのお願いを聞いてくれるようになってきましたし、2025年はぼちぼち復活させていきたいですね。

話はそれましたが、美学というのは美しさに関する哲学の一分野です。美しいとはどういうことかを論じている学術領域です。私も美学という単語自体は知っていました。学生のころにこっそりカントの『判断力批判』を読んで、わけがわからなくて挫折したことがあります。純粋理性と実践理性はそんなことなかったのにと思うんですが、今思えば美学に関する歴史的な経緯の知識や前提知識が完全に脱落してたのだなと思います。

この本で一貫して述べられていたように思うのは、我々が今当たり前のように「美しい」とか「これが芸術だ」と思うその行為それ自体が、近代以降に「発明」されたものなのだ、ということでしょう。そもそも芸術という概念自体は、近代以前の時代にはありませんでした。というのも、芸術品はギルドやパトロンの依頼によって作られるものだったからです。また、「美しい」という言葉それ自体も、近代以前は数学的な美しさのようなものを指していました。なので、普遍的な「美しさ」を追求する研究がずっと行われていました。

近代に入って、ギルドからの依頼制が解体されて美術アカデミーができたり、また一般の人も芸術を楽しむようになるなどの変化が起こりました。思想上でも、美しさというのは客観的なものばかりではなく、もっと「美しいと思う」感情のような部分があるはずだという議論がなされるようになりました。美の主観化です。

加えて、私が別の本を読んでいて詳しく知りたいと思っていて、本書を読む動機にもなった「崇高」という概念の解説も入門的ながらも、十分に行われていると思います。崇高というのはやはり感情で、美の主観化発生以降、「美」それ自体から分離する形で生まれたものだったようです。大自然を見た時に感じるような畏怖を含むアレです。

崇高自体は千葉雅也さんの『センスの哲学』を読んで興味を持ちました。そういえば、これも2024年に読んだのだったかな。

カントの判断力批判をちょっとは読めそうな気がしてきたので、次はチャレンジしてみたいなと思っています。美学、おもしろい。

エビデンスを嫌う人たち

非科学的な言説や陰謀論を信じている人たち(という言い方が、すでにそういった人々との線引きをしていることに他なりませんが…)とどう向き合っていけばよいかを哲学的な目線から論じた一冊です。結構話題になっていた本だと思います。

結論から行くと、まず仮に自分の友人知人が非科学的な言説や陰謀論に染まった場合、放置すると余計に悪化するので放置しないようにしましょう。次に、対話の仕方があるのでそれを学びましょう。具体的には、書籍で紹介される5つの誤解を丁寧に解消していきましょう。これを行う際には、まず感情的にならないことや、相手に敬意をもって接すること、相手がそう考えるに至った経緯をきちんとヒアリングすること、その上で、相手のそこに至った経緯は理解したことを伝えつつも、はっきりと別の立場を伝えるといった流れにすると良いだろうと、著者は言います。

そしてこれらに加えて、誰からそれを言われたかも意見を変えるファクターになりえます。相手との信頼関係がない状態で、相手の信念を変えさせるような話をしたとしても、無用な反発を抱いて終わるだけだという話です。何を当たり前のことを…と言いたくなりますが、この当たり前が一切成り立っていないように見える空間があります。SNSです。SNSでは日夜、こうした著者の提案するパターンとは逆の行動がとられ続けており、余計に「あちら側」と「こちら側」の分断を生んでいると思います。

ところで私は著者をちょっと狂っているなと思ったのですが、なんとフラットアースの集会や非科学的な言説を信じる友人と実際に対話をしに出向いています。狂ってるなというか極めて実践的な哲学者だな、と評するべきかもしれません。私は身の危険を感じそうなのと、普通に感情的に言い返してしまいそうなのでちょっとできませんが。こうした人々との対話も具に記述されており、味わい深い一冊に仕上がっていると思います。

こうした「あちら」と「こちら」の対立構造はいたるところで発生しており、その根元にあるのは、どちらかサイドからの軽蔑のまなざしなのかもしれません。この辺りの話は、マイケル・サンデルの書籍にも書いてありましたね。

乳幼児は世界をどう理解しているのか

文字通り、乳幼児の世界の認知に関する学術的な議論が詰め込まれた本です。この手の話はテレビなどでは謎のオカルト的信仰も相まって、いわゆる非科学的な話がまぜこぜになって紹介されていますが、そうしたものに裏付けが一切ないことなどが紹介されています。否定される代表的なおとぎ話は、胎児は子宮の中にいるときから記憶があるという類の話です。

子育てをしていると、子どもがどうやって認知能力を獲得していくのかを体系的に説明した本が少ないことに気づきます。子どもに関する話をちょっと調べたりすると、世の中にはいい加減というか科学的に十分な裏付けのない俗説がたくさん流れていることに気づきます。子育てに関わる多くの人が、そうした体系的な知識を学ぶことなく仕事に就いているのではないか?という気持ちにさせられるくらいです。

私が実際役に立ったのはたとえば、

  • 赤ちゃんの成長においてはいわゆる三項関係の成立が非常に重要だが、三項関係の発達は歩き始めと大きな相関がある。というか、歩くことそれ自体が赤ちゃんの認知能力を飛躍的に向上させる。身体的な成長が認知能力を底上げするという議論はおもしろく感じる。
  • 幼児期健忘と呼ばれるものがある。大人になって思い出せるのは基本、4歳以降の記憶のみで、それより前の記憶は忘れられてしまう。おもしろいのが、3、4歳の子どもでも、2歳より前のことは忘れているらしい。
  • 子どもが記憶を頼りに何か話をするときは、とても大人に誘導されやすいことに注意がいる。なので、基本的に誘導されていないか注意しながら話を聞かないといけない。
  • 親の会話では、子どもがきちんと自分の説明をより掘っていけるように質問してあげるのが大事。精緻型と呼ばれる会話スタイル。単に子どもの言ったことを繰り返す場合、子どもの言語面の成長は、精緻型の会話をする親と比較すると遅い。
  • 「いないいないばあ」がおもしろいのは、大人の顔が消えた後に「現れるだろう」と予想を立て、その予想が当たるのがおもしろいらしい。(なので、いないいないばあで笑えるということは、物事の流れの予測が立っていると言えるのかもしれない。)
  • 「風邪を引いたのは大人の言いつけを守らなかったからだ」(みたいな、要は原因が自身の道徳的によくない行いにあると考えること)という考えは、子どもだけかと思いきや大人にも残り続けている。

などでしょうか。

とくに、認知能力が体の発達に伴って向上する点は、私にとってはおもしろい点でした。というのも、従来の哲学的な議論では、いわゆる認識は精神(心)でのみ取り扱われ、身体側が干渉することがないかのように語られることが多かったためです。私は身体性と認識は切っても切り離せない関係にあると思っていましたし、その点について従来の哲学はかなり改善できるポイントがあると思っていました。個々人で身体的特徴が異なる分、身体を通じて認識される世界は当然個々人によって異なるはずだと思っていたからです。それだけでなく、認識の成長は身体に駆り立てられるのだという今回知った議論は、この考えを前に押し進めるものになりそうな気がしました。

昨年紹介したかもしれませんが、下記も関連してよかった本でした。

他者と沈黙

まだ読みかけです。本書を読む前、ウィトゲンシュタインというと他者性が1ミリもない感じの哲学者では…と私は半分くらい思っていました。実際、『論理哲学論考』は「独我論的では」という批判を受けていたようですし、ウィトゲンシュタインもそのことに気づいて、のちに別の論考を発表して自身のアイディアを少し調整しています。

サブタイトルにある「ウィトゲンシュタインの哲学からケアの哲学へ」という流れに興味を持ちました。ケアの哲学というのは最近よく見る話なように思っています。本書を読んだ限りの入門的な知識によれば、ケアというのは看護や介護のことそのものを指しているのではなく、「他者が成長すること、自己実現することを助ける」ことを指しているのだそうです。これは従来においては介護や看護の現場に閉じていたといえば閉じていたようなのですが、この概念自体を取り出して生活知にできないかという取り組みが至るところで試みられているように思います。ただ、この概念自体は確かにあるものの、内実は結構曖昧で漠然としているし、場合によっては「愛」「共感」などの規範化された自然的感情によって覆い隠されてしまい、実際何であったかの把握が難しくなっていることも多いでしょう。要はさまざまな方向からの定義づけが必要な段階なのかな?と私は本書を読みつつ理解しました。

私自身はウィトゲンシュタインはまったく詳しくないので概要的な部分しか正直知らないのですが、著者も冒頭に書いている通り、やはりウィトゲンシュタインとケアを結びつけて論じることは珍しいことのようです。ただ、ウィトゲンシュタインが後期に提唱した言語ゲームという概念が、ケアという概念の輪郭をはっきりさせるための足掛かりとなるのではないかと著者は考えているようです。

ウィトゲンシュタイン関連では、2024年は下記の本も読んでいました。完璧主義者で近寄りがたい人かと思っていましたが、意外に友だちを大事にしているなど普通の人でした。カントみたいですね。

私もまだ半分くらいしか読めておらず、本書の内容は正直なところ若干消化不良ではあります。が、着眼点のおもしろい本だなと思ったので紹介しておきます。

モヤモヤする正義

まだ読みかけです。本屋で見かけて少し読んだときに、SNSやその他の言説を日々見ながらもやもやする話の核心を的確に言語化し、それに対して哲学や倫理学の概念を使ってアプローチしていく流れがおもしろく購入しました。コレクトネスとどう対峙していけばよいかを悩んでいる人におすすめできるかもしれません。たとえば、表現の自由というけれどどこまで許容されるんだっけ?とか、キャンセルカルチャーになんとなくモヤモヤを感じるけど、果たして何を認めて何を認めたらいけないんだっけ?とか、XXXという集団は特権をもっていると言われるけど、そもそも特権をもっていると言われる謂れはない。どう反論していけば?といった疑問について、何が問題でどういう背景があるかなどを述べてくれます。

哲学の類の本なので、著者が解決策を「これだ!」と提示する類の本ではないです。というより、多くの人々はこうした問題に感じる「モヤモヤ」について、なんとなく漠然と違うと思っているが、何が違うのか具体的にはわからない、どこから手をつけていったらいいかもわからない、という状態にあるように思います。こうした漠然とした課題について、どこから切っていけばよいかを言語化してくれている類のものだと考えるとよいと思いました。さらにいうと、その切り口を哲学や倫理学というレンズを通じて眺め、問題の解像度を上げていっているという構成になっているのではないかと思っています。

まとめ

読書は常に時間の捻出との勝負です。2024年もあまり時間を捻出できずに負けました。2025年こそはと思っていますが、多分全部読み通せる本の方が少ないでしょうね。諦めています。

とりあえず積んでる年末年始の本は下記です。

庭の話は、とりあえず『中動態の世界』の続きの議論っぽいので買っちゃいました。庭という比喩がおもしろそう。

仮説とか問いとかそういう方向の研究における問いの立て方的な話が最近仕事でも大事そうだなあと思い始めていて、関連する本を何冊か読み漁っています。たとえば下記です。

*1:啓蒙された市民には相応しくない何か、の意。