『シビル・ウォー アメリカ最後の日』
「エクス・マキナ」のアレックス・ガーランドが監督・脚本を手がけ、内戦の勃発により戦場と化した近未来のアメリカを舞台に、最前線を取材するジャーナリストたちを主人公に圧倒的没入感で描いたアクションスリラー。
連邦政府から19の州が離脱したアメリカでは、テキサス州とカリフォルニア州の同盟からなる「西部勢力」と政府軍の間で内戦が勃発し、各地で激しい武力衝突が繰り広げられていた。就任3期目に突入した権威主義的な大統領は勝利が近いことをテレビ演説で力強く訴えるが、ワシントンD.C.の陥落は目前に迫っていた。戦場カメラマンのリーをはじめとする4人のジャーナリストは、14カ月にわたって一度も取材を受けていないという大統領に単独インタビューを行うべく、ニューヨークからホワイトハウスを目指して旅に出る。彼らは戦場と化した道を進むなかで、内戦の恐怖と狂気を目の当たりにしていく。
出演は「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のキルステン・ダンスト、テレビドラマ「ナルコス」のワグネル・モウラ、「DUNE デューン 砂の惑星」のスティーブン・マッキンリー・ヘンダーソン、「プリシラ」のケイリー・スピーニー。
やはりA24が手掛ける作品はこういうテイストであってもただでは終わらない。
冒頭から味付けが完全にA24印と言いますか。個人的には『28日後』からの印象が強いアレックス・ガーランドですが、こちらも似て非なる現実と虚構の間のリアリティに尽きる。
まさに2024年、トランプが大統領に返り咲き、アメリカの混沌とした政治、世界に蔓延する虚構の世界。
各国で見えている現実と並行して存在する事実に目をつぶり、というか見えていないと言ったほうが正確なのかもしれないが。そんな潜在的なリスクが顕在化したような文字通りの地獄絵図が淡々と描かれていく。
冒頭のモアレがかった映像に、大統領の述べる勝利宣言に始まり、アメリカ分断の内戦が勃発する渦中へと引きずり込まれていく。
記者として第三者的な視点で戦争という現実に身を置くことで、あくまでも客観的に事実として自体を把握していくという構成が面白く、同時に残酷さとも対峙しなければならないという枷をかけられる。
冒頭のあの現場が全てを物語っており、日常=戦場という多くの人が想像だにしない現実を目の当たりにすることになる。
あれは衝撃でしたね。あそこまで急激に転換し、待った無しに渦中へ飲み込まれるとは。映画ならではの演出であり、あれが現実に成り得るという既視感もあり。
主に4名を中心に物語が進行していくことになるんですが、ある意味でのメインとしての存在がケイリー・スピーニー演じるジェシー。
彼女は『エイリアンロムルス』に出てきたあの主人公的な女性なのですね。
全然タイプが異なり全く気づきませんでした。
振り幅が凄い。
まあ実際にはこちらの方が先に撮られているのでなんとも言えないところではありますが。
そんな彼女はまだ若きフォトグラファーの駆け出し程度という設定。
戦場で写真を取り、報道の最前線で活動するとはどういうことなのか。
こう言うと格好良く映るわけですが、実際に見る世界は泥臭く、死の匂いが常に付き纏い、人の影の部分を目にするという極めて過酷さそのもの。
それが本当にそのままに描かれていく。
映像や音楽的な演出も変わっている部分もあり、映画としての魅力もそうした細部に詰まっている。
まず、映像に関して。
不穏なカットや安定しない視点、戦場のリアリティを推し量るのに十分なスリリングさ。
気分が悪くなるようなカットも多く、それでもそれが現実なんだと言わんばかりの正面突破が潔い。
かと思えばマジックアワーのような夕暮れのような美しい空を写したカットや牧歌的な画なども差し込まれ、なぜこのような場面を映すのかと考えた時、勝手に頭に浮かんだのは”生の実感”なのかなと。
どんな局面にあっても、生を実感し、美しいと感じとることはあくまでも無意識的で、むしろ平時以上に生を実感していればこそ逆説的にそうしたものを感じてしまうのかもしれないなと。
なぜなら観ているこちらですら、なぜこの状況、この流れの中で、空や空間、雰囲気を包括して美しいと感じてしまうのだろうと思ってしまうくらいなのですから。
音楽に関しては挿入される楽曲、歌詞、リンクしている部分がブラックジョーク的で、かつサウンドのパキッとしたメリハリが戦場の出来事からリアリティを希薄させているような気すらさせる。
あえてこのゲームというかポップさを組み合わせることで非常さを麻痺させている感もありで、これも現代の非常さを直視できないような我々を皮肉っているようにすら思えてくる。
変わって、銃撃戦の効果音を過剰にしているところなどは戦争というものの恐怖を煽るような、現実に目を向けろよという注意喚起を漂わせる。
物語においてもこれらの映像的、音楽的な志向は反映されており、弛緩と緊張の狂ったようなドライブは最後まで続いていく。
特に張り詰めた時のその鋭利さはエゲつなく、どこまでもその緊張感を高めていく。
終盤での軍人に連れて行かれたシークエンスは途中までは展開的にも、もしかしたら、と思った期待も虚しく、すぐに危険しか無いことが想像出来るような容赦の無さを纏っている。
なぜ人は争うのかという根本を考えても結局のところ暴力の前では無に帰すわけだし、そういう相手に対してどういった姿勢で向かえば良いのかと考えた時に回答が非常に難しいことを認識させられる。
報道というものもそう。本来は真実を明らかにし、争いの無い、開かれた世界にしたいからこそ打ち込んでいる仕事なはず。
それなのに実際にそれは成されているのか。
冒頭に書いた大統領の勝利宣言とラストのエンドロールで流れる笑顔の軍人の写真を見た時、事実というものは概ね存在するが、真実というもの、事実の正当性については必ずしも必要でなく、絵空事のような事実それのみが現実として存在するのみ。
そのように考えるとジェシーがリーの死に際を撮ったことも皮肉なもので、ジャーナリストフォトグラファーになり、どういったことがしたかったのか。
それが手段化してしまい現実を独り歩きする中で、事実としてのフォトグラファーになってしまったのかなと。
そんなことを思いながら、今年度観るべき意味を考えてみたりもした。
本当に今の世界は安全で安心なのだろうか。潜在的な現実を直視し、自ら考えることが必要なタイミングなのかもしれないと。
では。