検閲2014:なぜいまだにビデオゲームは生け贄の羊とされるのか

2014年12月30日 ケイトリンマッケイブ

今年初め、米国の議員は2014年の税制改革法を制定することで暴力的なビデオゲームの生産を抑制する試みを行った。本法律は暴力敵なビデオゲームを作らないビデオゲームクリエイターに税額控除を行うものだった。ある者はビデオゲーム産業により暴力的でない健全なゲームを作るよう奨励する斬新的な試みと呼ぶかもしれない。政府は「暴力的な」モデルに合うゲームのクリエイターは税額控除から除外するという間接的な形で理解を訴えた。

この税制改革の合憲性について、どのように「暴力的」もしくは「暴力的でない」かを決定しどの程度税を控除するのか、そしてこの主観的な定義が産業にどのような影響を与えるのかという疑問が生じる。

けれども、究極的には、この税制改革がもたらす真の論点とは、政府とその他の公的機関が子どもを守るという口実で創造的な産業と個々のクリエイターの表現の自由を制限するという隠れた方法であるということだ。

税制改革は「最終的には、永続的に研究開発インセンティブを持つ外国の競合会社との競争にさらされるアメリカ企業に改良され永続的な研究開発に関する税額控除」を提供するものだ。政府は諸外国のデベロッパーと競争するため、アメリカのゲームクリエイターに積極的に力添えしてきた。暴力的なビデオゲームがアメリカ(のゲーム産業の発展)を阻害しているとして、政府が発表した恒久的税額控除を使ってアメリカのゲーム産業を財政的論理的環境のもとで再構築しようとした。過去の政府による試みと違ってこの新らしい改革は暴力的なビデオゲームを作る企業に対するペナルティを与えない。税額控除を受けられないだけだ。

「暴力的」の定義や暴力的でないビデオゲームの基準(たとえば1954年のコミックコードのような)をどのように定義するかを決して明らかにしない事実を除けば、以前よりよくなったように聞こえる。この税制改革は政治家が公共の怒りを扇動し主導権を握るための生け贄の羊としてビデオゲームを用いようとする試みの一つであるようだ。

けれども最も重要なことは、税制改革は税額控除がクリエイターが作りたいゲームの制作にどの程度否定的な影響を与えるのかという点だ。Brown v. EMAによればゲームクリエイターは修正第一条の保護の下にある。ビデオゲームは本当にゲームを遊んだ人々に影響を与えるのかという長年の論争に火を付けることとなった。

オックスフォード大学のインターネット研究所とロチェスター大学が実施した研究では、暴力的でない変更版バージョンのHalf-Life2を遊んだ人と正規版のHalf-Life2を遊んだ人との愛だで振る舞いや態度の顕著な違いはなかった。実際には、双方のグループ間の攻撃レベルは一定のままであった。

けれども研究者は、ゲームを遊ぶにあたって事前にチュートリアルを受けたプレイヤーはチュートリアルをほとんど受けなかったプレイヤーより攻撃的でない反応を起こした。必ずしも攻撃的な反応をあおり立てるだけでなく、個々のゲーム体験の方法にもたらされる。
BBC Newsは「ゲームをマスターすることは暴力的な内容を含むゲームよりも大きな影響を与える」と報じた。

ミズーリ大学の研究者グレッグペローによる研究では、暴力描写が視聴者にどのような影響を与えるのかの論争は、公共的な心配事への責任を転移させる「モラルパニック」についての論争より少ない。1950年代の上院委員会ヒアリングにおけるアンチコミックの感情と同じものを、アンチビデオゲーム感情に見て取ることができる。ビデオゲームは今日の政治社会的な生け贄の羊
となり、政府の研究は暴力とビデオゲームの関係を証明しようとし続けている。

まだ現実のものとはなっていないが、2013年サンディフックの出来事に照らして、オバマ大統領は(関係はないとする大量の証拠があるにもかかわらず)ビデオゲームの中での暴力とプレイヤーの現実世界での暴力的傾向の関係についての研究への1000万ドル計画を呼びかけた。確かにこれは大規模な努力だが、この種のプランが成果をもたらしたことはなく、おそらくはこれからもないだろう。民間機関や個人が研究を続けてきたが、政府が国民の税金を使ってはじめたこの計画は暗礁に乗り上げると思われる。

不必要な研究に金を使うよりも、子どもの行いに目を向けよう。子どもたちは何を遊び、読書し、鑑賞しているのか。もっと重要なのは、子どもたちが出会ったコンテンツをどう感じているのか。監督不行届の後作用を待つのではなく、親と教師は子どもが日々さらされ、出会うものについて子どもたちと一緒に話し合いを始めるべきだ。ジョアンナは検閲とスケープゴートを受けた古いマンガの暴力描写について執筆した。

アニメーションのなかの暴力を完全に検閲することで、社会における暴力について子どもによりよい教育を行おうとする私たちの目的は一歩進むのか、二歩下がるのか? 銃(の描写)を禁止する代わりに、マンガや映画を子どもたちが武器の危険や人に向けるべきではないといったことについて会話を広げるための機会とすべきではないか。やはり、親としての私たちの仕事は教え、説明し、もっと(効率的に)アメリカでの銃を使った事故を防ぐことだ。

言うまでも無く、ビデオゲームは熱い話題でありしばしば標的にされる。税制改革の他にも、学術研究、一般市民の抗議。けれども、地域社会やコミュニティや国レベルですべての産業を生け贄にしようと撃鉄に指をかけていることについて国民が批判的になることが必要なことは明らかだ。ビデオゲームの暴力は社会不安の源であり「モラルパニック」はアメリカの問題を修正するバンドエイドだという声がある。そういった声を認識し、創造的産業ひいてはビデオゲームを作る個々のプロの修正第一条の権利を守るため協力することが重要だ。