どのようにして辺野古に米海兵隊基地「キャンプ・シュワブ」が作られたのか ~ 『辺野古誌』を読む
政府が批判されれば、とたんに紙吹雪のようにデマが飛散し、それに乗じて政府が優位な立場で相手を潰す。今、菅政権が日本学術会議に対してやっていることは、さんざん沖縄に対してやってきたことである。
さて今日は、辺野古の代表的デマの一つ。キャンプ・シュワブは地元が誘致したというデマと、そのデマ元とを検証し、どのようにシュワブが作られたのかを確認していきたい。
辺野古区編纂委員会編集「ひぬく誌」を読む
辺野古区編纂委員会編集『辺野古誌』辺野古区事務所 (1998年4月)
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第一節 軍用地
一、収容予告
一九四五年、米軍進攻後に長崎原と思原一帯に処置された大浦崎収容所に強制収容されていた他村民や集落内に抑留された疎開民の出身地への帰村が完了すると、一九四六年一月五日、久志地区の収容所は廃止され、駐留軍も次の任地へと移動し、ようやく戰前の閑村にもどり、住民も農耕や生業の主流をなしていた林業をたよりに平穏な生活を営み初めていた。しかし一九五〇年六月、朝鮮戦争のぼっ発により駐留米軍の動きが緊迫する中、米国政府は軍事政策上、沖縄の基地の強化を図らなければならなかった。
米軍占領下におけるこれまでの軍用地は一九五二年の対日講和条約の発効するまでは、ヘーグ規則といわれる軍の権限を行使して主要な土地を無償強制使用していたが、極東情勢の緊張によって各地での軍用地収用は益々強硬なものになっていた。
こうした占領下での動きもシマに於いては、対岸の火事とばかりに住民も荒廃した農用地の復興や文化生活の確立を目ざして日々生業に勤しみ、字行政に於いても生活環境の改善や健全な運営を図るに行政内規の整備に着手し区長を中心に自立再建に向けて動き出していた。
ところが、このような半農半林の静かなシマに一九五五年一月、米軍は久志村を通して、久志岳・辺野古岳一帯の山林野を銃器演習に使用したいとの連絡があった。軍側の一方的な使用通告に驚いた村では、臨時議会を招集して山依存の高い住民の生活権を守るに反対決議をして、民政府等の関係機関に陳情を行うと共に阻止行動を起し、その時点では一応の成果を得られるかのように見えた。
しかし同年七月二十二日、民政府は再び辺野古・豊原・久志区域の山林地帯と風光明媚な思原と長崎原をキャンプ基地に総面積五〇〇エーカー(約六二万坪余)の広大な土地使用の新規接収を予告してきた。
古くから山を生活の糧にしてきた住民も、ふってわいたような軍用地接収に騒然となり、しかも海岸段丘の突出した岬のある長崎一帯は既にそれぞれの地主によって生産活動も行われていた事から日々の暮しにも窮するのではないかと収用予告に不安を募らせていた。こうした動きの中で、米陸軍工作隊 (DE) は同年八月頃に、辺野古地区内の測量実施に向けた入域許可の申出があったが、シマでは測量は軍用地接収の前提となるとの懸念から常会に於いて、これを拒否する一方、軍用地反対等を採択して久志村当局へ要請した。
二、土地接収
米国民政府の軍事施策は全島民の軍用地接収反対にもかかわらず、収用令など公布して必要な土地については、集落ごと強制立退きを行使する等次々と接収して基地建設の増強を図りつつあった。
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こうした軍の強行手段に琉球政府や立法院、各市町村はいっせいに反発し、土地の強制収用とこれまで使用した軍用地の返還を求めた抗議闘争に起ち上がった。しかし占領下での民政府の壁は厚く、全島民の要求する目的を達成するに至らず、ついに一九五四年立法院に於いて土地を守る、次の通りの四原則を採択して請願行動を起した。
1 一括払い反対 (土地の買上げ永久使用一括払を行わない)
2 適正補償 (強制使用の土地補償)
3 損害補償(米軍の加えた損害に対する賠償)
4 新規接収反対
などの要求をかかげた、いわゆる「島ぐるみ闘争」(四原則慣徹運動ともいう)である。
このように全島的な軍用地闘争の中、シマでは一九五五年の収用予告以来、ユースカー (民政府) 土地係官による水面下での地主との直接交渉が続けられていた。民政府は交渉の中で、当初軍用地反対を続けている字に対して、もしこれ以上反対を続行するならば、部落地域も接収地に線引きして強制立退き行使も辞さず、しかも一切の補償も拒否する等と強硬に勧告してきた事から、住民も一様に驚き有志会では急変した事態に対象 (対処) するに、再考せねばならなかったという。
有志会では断続的に軍用地問題を協議して対策を練ったが、宜野湾伊佐浜部落の強制立退きされた事例も鑑み、その中で土地委員 (金城廉英区長以下五名) を設置して調査を始めた。
委員会では、地主や有識者、関係機関の意見を聞き慎重に検討した結果、地主の利権を守り、地元に有益になるような条件を付して折衝に臨むのが得策との結論に達し民政府側との交渉が続けられた。
交渉の中で、民政府も地元の意見を尊重する旨の快諾を得た事から、土地委員では次の条件を付けた。
1 農耕地はできる限り使用しない。
2 演習による山林利用。
3 基地建設の際は労務者の優先雇用する。
4 米軍の余剰電力及水道の利用。
5 損害の適正補償。
6 不用地の黙認耕作を許可する
等の要望事項を申入れた。
米軍側もこれを了承した事から、シマの軍用地問題は一気に進展し、接収予定地内の土地についても、地主に有利になるよう民政府との間で地目変更の作業や事務手続きが進められた。
一方一九五六年十一月土地委員の一人が、民政府の依頼をうけて四原則慣撤闘争で揺れる最中、軍用地接収反対の一角を崩したかの如く、極東放送に於いて全軍に向け、賛成意見を発表し、ゆれ動く島民に大きな波紋を投げた。
同年十二月二十日、米軍DEは使用面積六二八エーカー(約七六八、○八五坪内訳」田一八、八三八坪畑三五八、○○三坪山林三二、七八三坪その他一九八、O六〇坪 ※新聞資料による同訳面積だが合計坪数とは異る)の新規接収を発表し、地主側も賃貸料の一括払いを受諾し、その頃既に土地所有権者一二三戸の内一○○戸は保存登記も完了していた。
ところが、こうした民政府の裏工作に対して琉球政府や土地連合会では、契約条項の中でシンプルフィ(単純封土権)によって米軍の使用権及び処分権が行使できるとの解釈から、一括払い反対の立場にもあり、契約には強い懸念を表していた。
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また民政府が一九五二年十一月布令第九一号「契約権」を公布して、土地の使用権は村長と琉球政府主席が交し、これを米軍に転貸するとの条項が定められているにもかかわらず、直接久志村長と使用契約の締結を図ろうとした為、島民感情を逆なでするものと猛反対し、島ぐるみ闘争にも一段と拍車がかかった。
一方、米軍の切崩し策による辺野古の動向に憂慮した、当時の立法院議員団も四原則貫撤運動に水を差するのと、字事務所を訪れて有志会等と会談し契約阻止を図ろうとしたが、前述の通り集落の強制立退きや軍用地問題を機に山依存からの経済脱却を図り住民の生活権を尊重するとの常会決議等も踏え時の有志会の意志が固く、何等解決策を見い出せないまま説得工作は不発に終り、区の従来通りの方針で土地契約を進める事になった。
しかしシマでも全地主が賛成したわけでもなく、中には先祖代々の土地を守るに四原則を支持して軍用地反対に契約を保留する地主もいた。こうした島ぐるみ闘争の展開される中、シマの地権者による土地使用契約の前提方針は全島民に大きな衝撃を与えるばかりか、民政府との使用締結によって反対闘争の一角が崩れ、今後各地に於いても直接交渉に方向転換するのではないかと不安を募らせると共に、辺野古における歴史的転換期も島民の非難を浴びせられた事はいうまでもない。
三、土地契約
一九五六年十二月二十八日、ライカム(軍司令部)事務所に於いて久志村長との土地使用契約が締結されると、翌二十九日辺野古区事務所で地主や村当局、法務局、民政府からは土地使用部隊のタフト中佐、DEのヘンリー大佐とアップル少佐等が出席して、軍用地賃貸契約に至るまでの経過を報告した。
使用契約にあたっては、十四条項から成りその中で次の主な事項が発せられた。
1 契約締結と同時に一ヶ年分の賃貸料を前払いし、翌年から毎年六月に支払う
2 適正補償とすべての損害賠償の責任を負う
3 契約期間は五ヶ年とする
4 契約期間中といえども現行法規若しくは新しく制定される法規によって、単純封土権の権利を獲得する(この場合等しい総括受領する義務がある)
5 若し軍用地の全部もしくは一部を必要としなくなった時は地主又はその相続人若しくは代理人に返還する。
6 赤線内でも農耕のできる箇所は農耕させ又薪炭収入れもできるだけ許す。
等が挙げられている。(新聞資料タイムス) その他にも、地元の要望もくみ入れられ米軍側は席上、
1 代替地として豊原ダムを優先的に施工する(村振興事業に伴う計画予定ダム)
2 代替地主に対しては生活安定の為に営農貸付金制度を設ける
3 就業転換を図るに軍作業に優先雇用する
4 軍施設向けのそ菜は久志村と指定する
5 一三号線道路辺野古久志地内の一部変更する
6 余剰電力水道は利用させる7接収地地主(契約済み)に対しては地上物件補償する
等、ほぼ地主側の条件も認められた。一方民政府は、辺野古は米軍駐留によって有益を得る事ができ、軍との問題発生に対処するに早急に琉米親善委員会を設置する。と地主の協力に感謝した。他方地主側代表の一人も、軍用地接収
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にあたって当初、地料や条件が悪く反対したが、地元に於いては強制的なものではなく協力的立場で契約した。これまではけして基地供給の目的を阻止したものではないと言明、更に教育環境を守るに学校周辺の収用予定地の除外を申入れ、受け入れられた事や軍工事における雇用促進を図る等、交渉の段階で相方が歩み寄った事もうかがい知ることができ、契約にあたっても地元が優利に展開したといわれ、シマの経済転換の進展になると喜んだ。資料によると当時発表された、地料及び物件補償費は一九五六年十一月十六日~五七年六月三十日までの六ヶ月分で賃貸料(B円)六三万三、000円、物件補償費が一八一万六、000円余合計二四五万円余が同年十二月三十日までに支払われたという。一方物件補償の概略について記述すると、地主の所有地に自生する幸、川竹・松木・ハイネズや果樹・そ菜類に至るまで補償対象となり個人申告された。
また建造物についても補償され、美謝川集落に於いては墓一基あたり三、000円~五000円、木造茅葺き住家七・五坪で六万円、畜舎三坪三、五○○円が支払われた。松木等は幼木と成木別に査定され一本十五円~二十円でハイネズが三十円程であった。ところが、この物件補償については契約地主のみが対象となり、無契約地主に対しては一銭の補償も認められなかったという。
その後民政府は一九五七年一月十八日、辺野古―二見間の二八万七、六○○坪余を追加接収し、更に同年七月には上福地原一二二号線から南区域の美謝川、辺野古岳、前垣原の一部を除き、わずかに住居地の辺野古原と思原の一部、前の上原、親里原を残し広大な地区面積が軍事演習場及キャンプ基地として新規接収された。
このように軍用地問題史上初めて行われたシマの土地使用契約は、沖縄中をゆるがし、世論を二分する大きな問題に発展した。米軍もこれを機に次々と主要地を接収する強行策を打ち出し一括払い等も行使しようとしたが、住民運動も益々激化の様相を見せ初めた事から民政府側も事態を重視、一括払いを停止し軍用地問題については米国政府内で再検討する旨を沖縄側に伝え問題解決を図ろうとした。「その後、米政府は軍用地接収については現地民政府と沖縄側との直接交渉によって解決にあたるとの声明が出されると沖縄代表との断続的な協議が行われた。その結果相方の意見が一致した事から、四原則を含め賃貸料の適正支払などを骨子にした「新土地政策」が発表され、沖縄の軍用地問題は一気に前進を見るに至り、それ以降はこの土地政策に基づいて適用された。
第二節、基地建設
軍用地使用締結後、民政府は基地建設工事発注作定を急ぐ旨、住民に報告すると一九五七年二月四日、DE事務所と東京に於いて、第一期工事の国際入札に布し、地元からも国場組や大城組が入札参加した。
総工費二00万ドル(二億四、000万円)といわれる事業予算は、沖縄の経済復興に大きな潤いをもたらすと、時の琉球政府 < 以下略 >
- 辺野古区には現在確認されているだけでも思原遺跡、 大又遺跡、思原長佐久遺物散布地、思原石器出土地、ヤニバマ遺物散布地、美謝川集落関連遺跡群、大浦崎収容所跡、長崎兼久遺物散布地の8遺跡があります、基地内や埋め立て予定地のため発掘作業もままならず、また基本的に基地内で発掘された遺物も基地から持ちだす事はできません。
- 辺野古にはメーヌウタキとニーヌタキとクシヌウタキがあります。
- 辺野古には一里塚があります。
- 辺野古は国頭方東海道の重要拠点でした。
- 辺野古には米軍の大浦崎収容所がありました。しかし米軍の基地があるため、そこで亡くなった多くの人の遺骨すら探し出すことはできません。
- いま、ふたたび普天間基地の移転先として本土の基地おしつけのしわ寄せの対象となっている辺野古ですが、それは、いま、はじまった、ということではないのです。
辺野古キャンプ・シュワブ基地は「地元が誘致」のデマ
沖縄戦当時、米軍は辺野古に住民の強制収容所「大浦崎収容所」を設置した。米軍はこの日7月29日に辺野古で "town hall meeting" を開いたと記録してるが、 住民のこの厳しい表情に注目してほしい。
【AIでカラー化】Town hall meeting in progress at Hinoko [Henoko], Okinawa.
対話集会が行われている様子。沖縄本島の辺野古にて。
撮影地: 辺野古
撮影日: 1945年 7月 29日
Motion pictures in open air theatre.
野外劇場で活動写真の上映
撮影地: 辺野古
撮影日: 1945年 (占領初期沖縄関係写真資料 陸軍04)
圏外から嘘を拡散するものたちに翻弄されてはいけない。タチのわるい極右団体がへばりついて、語ろうとすれば罵詈雑言や誹謗中傷を拡散する。ある辺野古在住の沖縄戦の生存者であるお年寄りが、座り込みをしていると言うだけで、この女は売春婦だ、などと醜悪な嘘と嘲り三昧のツイートをネットに連打されるのだ。たまったものではない。
ニュースサイト「ビューポイント」とは?
またキャンプ・シュワブをネットで検索すれば、このような記事がまず上位に上がってくるだろう。
米海兵隊基地キャンプシュワブは地元が誘致 仲介役を担った元米陸軍中佐の手記で明らかに
米海兵隊基地キャンプ・シュワブは1956年、名護市辺野古に完成し、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の代替施設の移設先として日米両政府が合意している。沖縄県は地元の誘致があったことを否定しているが、本紙はこのほど、地元と米軍の仲介役を当時、担った元米陸軍中佐の手記の全文を入手。それにより、シュワブの建設は地元の要請によるものであることが明らかになった。
この「ナゾニュース」のアウトレット「ビューポイント」というサイトは、グーグル検索すればニュース記事として表示されるが、サイトには、何一つその「身元」についての記述を表看板に明記してはいない、そんな姑息なやり方でいまもデマとミスリードの極右記事を連発する。では、そのニュースサイトの正体とは !?
ビューポイントは、「世界日報」、つまり極右プロパガンダの一端をはなばなしく担っている統一教会 (世界平和統一家庭連合・世界基督教統一神霊協会) という宗教カルト団体のウエブ版サイトである。しかし、検索してこのサイトの記事を目にする多くの人はそんな情報ソースの確認までできるわけもない。
つまり、ビューポイントに書かれていることは、ニュースの形態をとりつつ、統一教会というカルトプロパガンダのビューポイント (見解) なのである。
ウィキペディアが劣悪
またウィキペディアの「久志村」の項目には出典もなくこうした驚くような奇論が記載されている。各記載に関し、ウィキペディアで誰がこのようなウソを大量に書き込んでいるのだろうか、記載者の名前を記録し、悪質な場合は制限を設けることも当然考えるべきであろう。
1956年(昭和31年)久志村村長(当時)の比嘉敬浩が『村興しのために米軍基地を誘致したい』と発言したが、当時沖縄県内では、米軍接収軍用地の地代支払い方法をめぐって反基地運動が高揚していたため、米国民政府は基地誘致の陳情に即答を避けた。しかし村の再三にわたる陳情と、そのたびに久志村議会議員の署名を携えてきたため、レムニッツァー民政官は応諾、在沖米四軍全員に照会したところ、陸海軍はこれ以上の基地増設は不要と答え、残った海兵隊が訓練場増設の必要性からこの誘致に応じた[要出典]
すさまじいウソの羅列である。それぞれの一行にいくつものウソが並ぶ。このウィキペディアによると、米国民政府は基地を作るなど一つも言及していもしないし、朝鮮戦争下での米軍の容赦ない苛烈な銃剣とブルトーザー三昧もなく、久志村長の比嘉敬浩がたっての願いで再三にわたる誘致の陳情の末、ご厚意で海兵隊側が基地を辺野古に誘致したというフェイクニュースになっている。
「新しい憲法をつくる国民会議」のウソ拡散
このウソを主張しているのは、またも當山正範 (世日フォーラム沖縄代表幹事) で、そのウソを拡散しているのが、例の「新しい憲法をつくる国民会議」であるという香ばしさ。
そもそも辺野古は地元が誘致
昭和32年、久志村(現在の名護市東部)の比嘉敬浩村長が、再三米軍を誘致した証拠が残っています。久志村の隣の金武村でも、基地の誘致決議を行い、村議会議長や村長らが琉球列島アメリカ民政府を訪れています。これに、海兵隊が応じて基地(キャンプ・シュワブ)をつくったのです。当時、その地区は、畑にすることもできない土地だったため、少しでも地元にお金が落ちるようにと考えた措置でした。これらは昭和32年10月の「沖縄タイムス」や「琉球新報」にも掲載されています。
さて、當山正範がいうように、米軍が土地の接収を地域に通達してはいないというのは真実なのか、久志村の村長は、基地建設に乗り気ではない米4軍に向けて再三三度の誘致活動をおこない、その結果として海兵隊が基地を作ることになったのか。そ歴史をひもとけばそれは一目瞭然である。
※ また、米軍のサンキ文書なる回想録をあげてくる者たちもいる。回想に書かれている日付を確認してもらいたい。アメリカ軍の通訳兵サンキ氏の回想は1956年以降からスタートするが、米軍が久志村に辺野古岳と久志岳の山林で実弾演習を行うことを通達してきたのは1955年1月のことである。時系列に注意してもらいたい。
上記の辺野古誌を読めば真実は明らかである。
歴史をちゃんと知ることの大切さ
時は朝鮮戦争、1955年1月28日、随所で銃剣とブルトーザーとよばれる常軌を逸した土地の強制接収を続けていた米軍は、久志地区にも辺野古岳と久志岳の山林で実弾演習を行うことを通達する。林業が生活基盤の村はそれに強く反対。3月4日にいったんは中止となるが、7月22日には今度は山林を基地として強制接収し補償もしない等、容赦のない通告をしてくる。どれだけ住民がおののいたことか、住民側はそれに対し何項目の条件を米軍にのませるために苦心する。そのことを知らずして現代の者たちがうそをたれ流すとは、まことに恥知らずなことである。
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参考文献
熊本博之「軍事化が地域社会にもたらす被害ー辺野古を事例に」(明星大学社会学研究紀要36)
熊本博之「普天間基地移設問題に対する辺野古住民の応答-現在進行形の事例を記録する」
熊本博之「軍事化が地域社会にもたらす被害一辺野古を事例に一」(明星大学社会学研究紀要March 2016)
沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第104集「キャンプ・シュワブ海域文化財分布調査」