ヘブバン第四章後編はなぜ泣けるのか?

※この記事にはヘブバン第四章後編までのネタバレと、麻枝准(敬称略)が過去手がけた作品への言及があります。

 

Key麻枝准15年ぶりの完全新作ゲーム『ヘブンバーンズレッド(ヘブバン)』。2024年12月7日現在、そのメインストーリーは第五章前編までがリリースされています。

ストーリーが泣けると評判のヘブバンですが、その中でもここまでで"一番"泣けるシーンってどこなんでしょうか?

 

…そうですね。第四章後編Day14side:逢川のこのシーンですね(個人の感想です)。

 

今回は、公式からのネタバレ解禁を記念してなぜこのシーンが"一番"泣けるのか(個人の感想です)を、ヘブバンのメインストーリーや麻枝准の過去の作品を振り返りながら思いのままに綴っていきたいと思います。

 

自他共に認める”力業”

なぜこんなにこのシーンを推すかと言うと、「ここで泣いてください!!」という感動シーンとしては、間違いなくこのシーンが作中で一番力が入っていて、一番切ないからです(個人の以下略)。

ここで言う"力が入っている"というのはどういうことかと言いますと、泣けるシチュエーションに泣ける楽曲を流すという、麻枝准ビジュアルノベルで人を泣かすためのテクニック…否、圧倒的パワー、暴力が遺憾無く発揮されているということ*1AIRで言えば観鈴のゴール、リトバスで言えば恭介との別れなんかが当てはまりますね(リトバスまでは泣けるシーンをいくつも用意しておいてその中のどこかで泣いてもらえれば勝ち、という作り方をしていて、リトバスで初めて久弥氏が書いたKanonのあゆルートのように一つのシーンに全てを託すという作り方をしたそうなので、厳密に言うとこの2つを並べるのは少し違うかもしれません)。つまるところこのシーンは、もはや伝説とも呼べる感動シーンたちを思い起こさせるほど力が入った、『Key麻枝准15年ぶりの完全新作ゲーム』という触れ込みから期待していた通りの、まさに原点回帰なシーンだったわけです。それが何より嬉しい。

 

特別な夏

麻枝准がPV公開時のクリエイターメッセージで「年甲斐もなく子供のようにやりたい放題書かせてもらいました」と寄稿している通り、第四章後編はものすごい文章量で、たくさんのギミックが詰まっていました。逢川不在の基地の日常と新たな戦いの始まりが描かれたプロローグを終え、Day0冒頭でside:茅森からside:逢川に切り替わる演出が入った瞬間はもう鳥肌でしたよね(ファイナルトレーラー公開の時点でもう大興奮でしたが。なんてったって9か月も待てされていましたからね)。めぐみんとはここでお別れじゃないんだ、月歌がそう信じているように、セラフ部隊に帰ってきてくれるまでが描かれるんだと期待が膨らみます。そしてそのside:逢川の物語。季節は夏。大きな挫折を経験し心に傷を負った少女は、失意の先に辿り着いた場所で住民たちに温かく迎え入れられ、家族のように寄り添い合いながら新たな生活を送り始める…なんだかこれだけで1本ビジュアルノベルが作れそう…というか、この『疑似家族』はまさに麻枝准が過去何度も描いてきた十八番の(?)設定です。愛らしい妹分のルミ、厳しくも優しいアキばーさん、癖の強いドーム住民たち、釣りや仕事の斡旋、夏祭りにランタン飛ばし、「いただきます」と「ごちそうさま」…こんな日常がずっと続けばいいのにと思わせるような、質素だけど幸せな日々が描かれていきます。

 

そして物語が終わる

しかし、この手のビジュアルノベルにおける「ずっと続けばいいのにと思わせる日常」は当然ずっとは続きません。元より終わる時のためにまんまと好きにさせられているのですから。めぐみんはふとした瞬間に逃げ出してきたことを思い出し自己嫌悪に陥りますし、毎晩セラフ放送を見ては苛烈さを増す戦いに心を痛めます。ドームは再三キャンサーの襲撃に遭い、アキばーさんを取り巻く状況もなんだかおかしい。比叡山決戦に向け着々と準備が進んでいくside:茅森と並行して、side:逢川にも終わりの時が近づいてきます。そもそも、ナービィであるめぐみんは何年経っても姿形が変わらないため、一か所のドームに留まり続けることはできません。めぐみんはお世話になったルミやアキばーさんがこれからも平和に暮らしていけるよう、ドーム住民たちとの仲を取り持とうと動き出します。そんな中、アキばーさんは本物の逢川めぐみの母親であることと、『あの歳になると五人にひとりはかかる病』であることが判明します。めぐみんは思春期に入り引きこもりがちになって家族としての歯車が狂ってしまっていたこと、別れから29年もの月日が経っていること、その間にキャンサー襲来という未曽有の被害に遭ったこと、『あの歳になると五人にひとりはかかる病』にかかっていること…様々な事情が重なり、アキばーさんは今目の前にいるめぐみんが自分の娘だとは気づいていないようです。色々な感情が渦巻く中、めぐみんが望んだのはやっぱりアキばーさんにはドーム住民と仲良く過ごしてほしいということ。アキばーさんへの誤解を解いて回り、自らの意思と力でキャンサーからドーム住民を守り、セラフ部隊に戻ることを決意する。そうして最後にやり残したこととして母親との別れのシーンが訪れるわけです。逢川めぐみの物語の終着点として。

 

泣けるシチュエーションと泣ける音楽

めぐみんが目にしたのは、組み立たジャングルジムの前で佇むアキばーさんの姿。アキばーさんはこれだけの年月が経ってもかつて引き留めることができなかった娘の帰りを待ち続けていたのです。しかし、めぐみんはその娘は遥か昔に命を落としており、自分がそのコピーであるという真実を知っています。思わず娘はもういないと口走ると、アキばーさんは激昂します。娘は今もどこかで生きている、母親として待っていなければならないと。キャンサーに返り討ちにあい一人きりで泣いているかもしれない… 奇しくも心が折れ習志野ドームにやって来ることになっためぐみんの姿と重なります。アキばーさんが語り、待ち焦がれる娘の姿は幼い頃のまま。いくつになっても親にとって子どもは子どもということなのか、それとも 『あの歳になると五人にひとりはかかる病』で全てを忘れ去っていく中、一番幸せだった頃の姿だけが残っているのか…「酔ってなんかない」なんて言うのは酔っ払いに限るように、もうろくしていないと怒るのがもうろくしている何よりの証拠です。年老いたアキばーさんにとって、娘との再会は人生最後の希望であり、待つこと自体が生き甲斐になっています。めぐみんが自分の正体を明かすということは、本当の娘は死んだという事実を突きつけるということですし、そもそも死んだ後に地球外生命体として復活させられたなんて話が理解されるはずもない。また、世界を守るためセラフ部隊に戻る決意をした今、本物の娘として側にいてあげることもできません。だから、どんなに言いたくても、言えない。

押し黙るめぐみんに、アキばーさんは願いを託します。セラフ部隊員として戦い続ける中、どこかで娘に会ったら伝えてほしいと。

おかんが待っとるでって。
昔のように遊んだるからって。
すぐ泣くやむでって…。
美味しいご飯も作るでって…。
あとはなんや…。
待っとるでって…。いつまでも待っとるでって…。

その想いは、期せずして本人に伝わります。本当のことは決して言えないけれど、せめて大切な母親が何の心配もなく安心して余生を過ごせるように…めぐみんは精一杯涙を堪え、アキばーさんの最後の頼み事を引き受けます。

目の前にいる本人に、そうとは知らずに想いが伝わる。本人はそれを明かさず…明かすことができず、自分がたしかに言付かったからもう心配いらないとだけ伝えて旅立つ。 アキばーさんの優しい声色とめぐみんの震える言葉も相まって、胸が締め付けられます。単純に娘と母親が再会し想いが通じ合ってめでたしめでたし…ではない。めぐみん側だけがすべての真相を知っている。だけど、言えない。だから切ない。だから泣けるんです。

第四章全体を通して挫折と再起がじっくり丁寧に描かれ、プレイヤーはすっかりめぐみんに感情移入させられています。そんなめぐみん追体験する大切な家族との別れ、もとい習志野ドームという温かな世界観そのものとのお別れは、これ以上はない最上の泣けるシチュエーションです。そしてバックに流れ出す『夏気球』。夏影、Life is like a Melody、Sea, You&Me、夏凪ぎ、etc.…麻枝准の書く夏曲は最強ですね。アルバムの楽曲解説にある通り、MANYOさんのアレンジが本当に素晴らしい。美麗なCG(なんとここだけで差分を除き5種も)と共に、もう戻れない特別な夏の、最後の1シーンを彩ります。麻枝准はどれだけこの曲から作品イメージを膨らませてきたか分からないと語るほど大江千里の『夏渡し』から強い影響を受けているそうです*2。この『夏気球』も、ひいては第四章後編自体も大きな影響を受けていると言えるでしょう。

物語終盤Day13のこの1シーン。ルミの口から飛び出した、何とも詩的なこのセリフは、夏渡しの歌詞「そろそろ梅雨も軒をくぐって、僕も仕事をまた始めるよ」の情感を再現しようとしたというAIRの1シーン「 長い休み。僕の休暇も終わりだ。そろそろ戻るよ、僕は」に通ずるものを感じます。

めぐみんの長いようで短かった、短いようで長かった夏休みの終わり。第四章後編のめぐみんの物語はこのセリフから始まりました。

希望を失い真っ暗闇の中、独りドームに流れ着いためぐみん。かけがえのない出会いと体験を経て、たくさんの思い出と共に彼女の物語は幕を閉じるのです。「あの夏は彼方に」と。

 

許されざる

このside:逢川のクライマックスを語るうえで、最後にどうしても触れておかなければならないことが。筆者は公式のストーリー振り返り放送はもちろん、SNSの感想や動画サイトでの実況配信なんかも覗きにいくことがあるのですが、その中に気になるコメントを見かけることがあります。それは「アキばーさんはめぐみんの正体に気付いている」というもの。

ここまでストーリーを振り返ってきた通り、この別れのシーンはアキばーさんがめぐみんの正体に気づいていないからこそ切ないんです。奇跡的な巡り合わせにより、決して伝わるはずのなかった娘への想いが数十年越しに伝わる。めぐみんは自分の正体=本物の娘の死は明かさずに、明かせずに、その想いは必ず娘に伝えるから心配するなとアキばーさんの不安を拭い去り旅立つ…そんな涙を堪えてすべての真相を飲み込むめぐみんの気丈さに胸を打たれるんじゃないですか。それをアキばーさんは何故か知らんが気付いていることにしてしまったら、めぐみんの「言いたいけど言えない」という切なさの源になっている心情が物語上まったく無駄なものになってしまう。いやアキばーさんも気付いてるなら二人でゆっくり話したらええやん、なんでお互い黙ってんねん、と。もしアキばーさんが気づく方向で感動させたいなら、めぐみん側の「アキばーさんが気づいていることに気付く」という描写が必要なんです。ここまでがストーリー構成というメタ視点での否定です。

次に、そもそも「アキばーさんがめぐみんの正体に気付く」という描写はどこにもありません(ほんと何を根拠に気付いているなんて言ってるの…?)。めぐみんの馬鹿力という名のサイキックを見ても何も思い出せていませんし、最終日のこの日もジャングルジムを組み立て娘のことを待っています(=気付いていません)。そして自分の娘を勝手に殺すな、今もまだどこかで生きているかもしれないのだ、だから待っていなくてはならないのだと激昂しています(=気付いていません)。最後にセラフ部隊に帰ると別れを告げに来ためぐみんに対し、じゃあどこかで娘と出会ったら伝えてくれと想いを託す(=やっぱり気付いていません)。ここの「伝えてくれ」というセリフが気になっている方がいるようなのですが、当然の会話の流れで何もおかしいところはありません。めぐみんは暗にもうこのドームには戻らないと言っているんです。そういうお別れのシーンなんです。そんな相手に対して「ここに連れて来てくれ」だとか「また会わせてくれ」だなんて不自然な日本語はアキばーさんもライターの麻枝准も使わないんです。さて、いったいアキばーさんはどの時点でめぐみんの正体に気付いたというのでしょうか?

さらには、どう考えてもめぐみんの正体=ナービィの秘密に民間人が自力で気付くことは不可能だし、理解し、納得することはあり得ないんです。めぐみんは自分の正体についてアキばーさんに何のヒントも与えていません。それなのに「娘は数十年前に既に死んでいたけれどDNAをもとに当時の姿のまま地球外生命体として復活させられ自分の前に現れたのか!」なんて発想できないんです。先ほどアキばーさんの中では娘は幼い頃の姿のままだという話をしましたが、そうだとすれば今のめぐみんの高校生年代の姿と結びつきませんし、仮に別れから数十年が経ち娘も大人になっているということを認識できていたとしても、やはり目の前のめぐみんの姿とは結びつかないのです。

極めつけは、奇跡が起こったとか家族だからとか何の描写も脈絡も根拠もないファンタジーにより気付いていることにしたい人がいたとして、じゃあなぜアキばーさんはそれを本人に伝えないのか、確認しないのかなぜそのままお別れするのか。「今までどこで何をしていた?」「あれから何十年も経つのになぜその姿で?」「どうしてもセラフ部隊に戻らないといけないのか?」「ずっと待っていた。もうどこにも行かないでほしい」…聞きたいこと、言いたいことは山ほどあるはずです。それなのによく話もしないまま、再び娘を手放すような真似をするでしょうか。よく、最初は相手のやろうとしていることに反対していたが決意が固いことを知り背中を押してやることにする…なんて人情話がありますが、これはそういう物語じゃないですよね。この物語はずっとめぐみん視点で進行しており、めぐみんが見聞きしたこと、感じたことが全てです。アキばーさんのそんな葛藤一切描かれていませんし、めぐみんはこの日初めて、突然セラフ部隊に戻ると明かしてきたのですから、その覚悟の度合いを推し測る時間も術もありません。自分の娘だと気づいているならば、やはり色々と尋ねるべきことがあるはずなのです。数十年もの間待ち焦がれてきた再会なのですから。

…と、このように、様々な観点から「アキばーさんはめぐみんの正体に気付いている」という解釈(と呼ぶにはあまりにおざなりで荒唐無稽なわけですが)は完全に誤っていると断言できます。どちらとも取れる、なんて逃げ道も存在しません。落ち着いて、なぜこのシーンが泣けるのか、何が最上に切ないのかを考えてみてほしいのです。

 

結びに

この別れのシーンを最後に、物語は再び月歌視点に戻ります。リリース当初の雑魚敵の固さはせっかくの感動体験を阻害されるほど不快でしたが、スカルフェザー戦での満を持してのめぐみん帰還は分っていても燃えますビジュアルノベルとして最高峰のものをお出しされた後に、こんな王道のRPGシナリオまで堪能できるなんて…というか、奇をてらわずちゃんとユーザーが見たかったものを見せてくれるなんてとびっくりです。そして『起死廻生』で大団円。残酷な真実を乗り越えそれぞれの夏を戦い抜いた31Aが歌い奏でるこの曲…万感の思いで聞き入りました。これからもヘブバンの物語は続いていきますが、果たしてこの第四章を超えるシナリオが出てくるのか。越えられなくても仕方がないし文句もないと思うほど、既に『Key麻枝准15年ぶりの完全新作ゲーム』には満足しているのですが、引き続きヘブバンを応援していきたいと思います。というか濃厚なかれつかが見られるまで死ねない。