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長谷川等伯展を東京国立博物館で見ていた。キャッチコピーが「絵師の正体を見た」というものだったのだけれども、私の感想は真逆で、等伯という画家が、一人の個人という意味ではわからなくなった。端的にいえば出品作があまりにもばらばらで、核のようなものが見出せなかった。コピーに反応して言うなら「絵師の正体が見えない」展覧会だったということになる。これはまったく、展覧会をけなしたり文句をつけたいということではない(いくらなんでもそのコピーはなかった、とは思うけど)。狩野派の外部に、それと拮抗するようにあったある「絵」の潮流が複数あって、その全体が「等伯」という名のもとに亡霊のように、あるいは雲のように名指されている、そんな感じだろうか。しかし、それでもやはり等伯は等伯なのだと思う。その上で、展覧会としてはとても面白かった、といっておきたい。
ばらばら、というのは、作品の形式、たとえば肖像画から障壁画から仏画から寺院の天井画からなんでもある、というようなことだけでなく、なによりもその質についてのことだったりする。ここでの「質」とは、たとえば完成度の高低や構成の水準のようなこと、まぁおおまかに作品の良し悪しのことももちろん含む。だけど、それよりも作品が持っている方向性(ベクトル)こそがめちゃくちゃなのだ。もちろん、近代以降の「画家」という概念と中世期の「絵師」には差異がある。近代自我がインストールされていない「絵師」は注文によって様々なスタイルを描き分けるし、注文内容によってその品質すら操作する。弟子の介入もあるし後世の加筆や劣化もある。しかし、私が言っているのはそういう意味ではない。どのような近代以前の画家もそれぞれに様々な傾向の作品を作るし、その中には同定の不可能なまでにぶれ幅の大きな画家もいるけれど、それでもそこにはどうしても一定の流れのようなものが見てとれてしまう。北斎などは、いわば様々な絵を次々描いていくことこそが「流れ」を形成しているが、これなんかは近代以前の画家こそ、いわば商売上の条件としてあるスタイルを固定する必要があった当時の「絵師」に対する批判的な所作だろう。だが、今回の等伯展に感じられた「ばらばら」な感覚はこれとも異なる。
金沢時代の「信春」と京都に上洛して以後の「等伯」の連続性はもともと疑念なしとされなかったわけではない歴史的事実があるが、そういうことでもない。等伯の時代以降でも十分「ばらばら」なのだ。たとえば水墨画を見ても、「山水図襖」と「竹林七賢図屏風」と「竹林猿猴図屏風」が持つ“ベクトル”はあまりにも異質すぎる。クリアでエッジの立った筆跡で近景の岩や樹木を書く「山水図襖」、単純化された竹の図案化と七賢の奇妙に個性的な表情の目立つ「竹林七賢図屏風」、牧谿的な「竹林猿猴図屏風」が、おそらく数年の幅の中で描かれたとするのは、ちょっと驚きだと思う。だいたい、等伯はむしろ人生の後半にこの「ばらばら」感を増している。「信春」時代のものは優れた肖像画・仏画の作者としてほとんどブレがない。もちろん、ここに田舎から出てきて大きな後ろ盾がない無名画家の条件を見ることは相応に可能だろう。どんな注文でも受けねばならず(圓徳院のように無理やり描かせてもらった絵があるくらいだし)、また少年・青年時代に十分な勉強ができたわけではないからか、40代以降になっても様々な先行する作品を貪欲に学び影響を受けなければいけなかった事実もあるだろう。名前を売るために、いわばトレンドをサーフィンしなければいけなかった事もあるだろう。
私は2003年に京都で圓徳院「山水図襖」と智積院の金碧画を見ているし、東京にある「松林図屏風」はそれこそ折に触れてみているが、そもそもその三つが私の中で焦点を結ばなかった。今回の展示でそこが解消されるのかと思ったが、むしろ更に等伯像が散乱した。そして、このこと自体が「等伯」という固有名詞の恐ろしさを示していると思う。いかな近代以前とはいえ、ここまで書く絵ごとに半ば人間が変わっている、という事態が凄い。これは認識の(つまり時代によって制約される)問題よりも、むしろフィジカルな話なのだ。どんなに注文や状況が変わっても、絵筆を持って引く一本の線の「質」を変えることは容易ではない。人は取替え不可能な身体を持ち、その条件で描かねばならない。もちろん年齢や新陳代謝で身体も変化するが、そのような「自然過程」の変化こそ、画家に時代にかかわらず「作風の流れ」を形成させるし、それに抗していこうと思えば超人的な(非人間的な)意思が必要となる。京都に出てきてからの等伯は作品ごとに死んでいるかのようだ。もちろんこれは大げさな言い方で、細部やいくつかの作品をトリミングすればある流れも感じられなくはないが、この流れ自体も複数ある。
「松林図屏風」は、けして等伯の「集大成」というようなものには見えない。むしろ、めちゃくちゃに書きまくった中から突然発生的に生まれている。空前絶後、というならそれは等伯の人生においてもそうだったわけで、これが永徳であれば、もちろん様々な注文に応じてその技量を無限に振るっているけれども、そこには明らかにある一定の「質」、永徳という人が、作品に対してOKを出すときの基準のようなものが感じられる。等伯のは、そのような基準がない(まったく駄目な絵が結構あったりもする)。ここで単に等伯が不安定な画家なのだということができたらどんなに安心かわからないが、「基準がない」のと「不安定」なのは全然違う。「不安定」なのは一応基準がありつつそこになんらかの事情でたどり着けない、ということだが「基準がない」というのは、認識の枠組みをそのつど入れ替えているようなもので、こんなことは果たして可能なのだろうか?長谷川派が等伯一人で終わったのは不運のせいでも狩野派のせいでもない。派を作るだけの、作品判断上の枠が作られなかったのだ(だから誰も等伯を「継承」できない)。
智積院金碧画で、私の目には父親と同格以上に見えた息子の久蔵が夭折しているのは不運のせいなのだろうか。あれは、どこか等伯の「枠組みの無さ」が招いた画家としての認識的悲劇ではないのか。久蔵の作品はその華麗さにおいて十分父を受け継いでいる。しかし父のようにめちゃくちゃには描けなかっただろう。等伯の絵は、描かれるたびごとにまったく異なる次元を見ている。トータルで見た画家のクオリティ、という意味では永徳が明らかに優越するだろうが、おそらくそのような見方(永徳vs等伯、みたいな)はなんら生産的ではない。流れ、あるいは積み重ね、といった線的有り様とは無関係な、異形の仕事がありえた。このことに驚愕すべきかもしれない。東京での展覧会はすでに終了している(京都に巡回)。