現在『マクロスF』の劇場版が公開されているわけだが、僕も今度この作品を見に行く予定なので、その予習を兼ねる形で、この作品についてちょっと書いてみたい。いったいこの作品でどのようなことが問題になっていたのかということを自分なりの視点で少しまとめてみたいと思ったのだ。
『マクロスF』を物語的な観点から見ていったときに注目されるべきなのは、メインとなる三人の登場人物、つまり、アルト、シェリル、ランカという三人の登場人物の関係性である。これら三人の登場人物の関係を恋愛における三角関係として提示するのがオーソドックスな見方であるだろうが、そのようなありきたりの見方を踏襲しても面白くないので、ここでは、あえて別の観点を提出してみたいと思っている。それは、すなわち、これら三人の登場人物を男性と女性とで分けて、男性と女性を対立させるという観点、つまり、アルトをシェリルやランカと対立させるという観点である。
まず注目したいのがこの作品の主人公だと言えるアルトである。アルトは、この作品の主人公であるにも関わらず、いまひとつぱっとしない。彼よりはむしろ、二人の女性のほうが目立つように思われるのだが、その理由は、簡単に言ってしまえば、彼女たちが歌姫あるいはアイドルだからであるだろう。しかし、このような設定自体が、この作品においては大きな意味を持っているのではないかというのが僕の見方である。このことについては後で問題にすることにして、まずは、アルトがこの作品においてどのような位置を占めているのかということについて考えてみたい。
そもそも、アルトは、作品の中で、女性的なポジションに据え置かれている。アルトの家は歌舞伎の名門であり、彼は、小さいときに、女形として活躍していた。しかし、彼は、そんなふうに周囲から期待されていた道を逸脱することになる。ここには父との関係、父との確執の問題があるわけだが、この確執において焦点となっているのが彼の女性的な立場であるだろう。ここでの「女性的」という言葉の意味は二重である。ひとつは、彼の容貌が美しいということ、つまり、女形に相応しいということであるが、もうひとつは、父親との関係において、従属的な立場に据え置かれているということである。
こうした状態にあるがゆえに、アルトは、いかにしてこのような女性的な立場を克服し、男性的な承認を獲得するのかという問題を抱えた人物として登場してくることになる。そして、そのときに、彼にとってひとつの脱出口に見えたものが空を飛ぶことなのである。ここにおいて、空を飛ぶことにも二重の意味があることが理解されるだろう。すなわち、空を飛ぶというのは、歌舞伎の女形という女性的な活動から、スリルと危険に満ちた飛行機乗りという男性的な活動へと移行すること、さらには、父親の勢力圏から大きく羽ばたいて自由になることを意味しているのである(同種の悩みは、『機動戦士Zガンダム』の主人公カミーユにも見出すことができる。彼の場合においては、女性的な名前を持つことが大きな問題になっていた。そして、父親の圏内から脱出するために、彼は、ガンダムで宇宙空間に旅立つことになった)。
だが、しかし、空を飛んだとしても、アルトの悩みはなかなか解消しなかったことだろう。友人たちがつけたアルトの綽名は「アルト姫」であるし、ランカとの最初の出会いにおいても、ランカはアルトを女性と間違える。さらに言えば、アルトにとって、宇宙船の中に作り出された人工的な空は、自由に飛ぶことを許さない「低い空」である。こんなふうに自由に飛ぶことができない状態にあったアルトにひとつの解決を与えることになったのが、戦争という事態である。平和な日常生活が突如として打ち破られて、アルトは戦闘機乗りになる。大切な女性を守る男性というポジションを獲得することで、アルトは、男性的な承認を獲得する機会を得ることができたのである。
だが、『マクロスF』の物語を以上のようにまとめることは決してできない。というのは、この作品においては、戦闘機に乗って敵と闘うアルトの存在と同等かそれ以上に、シェリルやランカの存在が大きな意味を持っているからである。物語の進展上は、アルト、シェリル、ランカというそれぞれのキャラクターは、お互いを助け合うような相補的な関係を構築していくわけだが、物語全体から見るのならば、女性を守るために戦闘機に乗って敵と闘うという男性的な物語が上手く機能しているとは言いがたい。むしろ、この作品は、歌う女性たちの存在が闘う男性よりも前面に押し出されている作品というふうに捉えたくなる。まさに、この地点において、男性的な立場と女性的な立場とが対立しているように思うのだ。
そもそも、まず、アルトは大空を飛びたい、あらゆる束縛から自由になりたいという望みを持っていたが、彼よりも先に、もっと高く空を飛んでいた人物がシェリルだったと言える。ここにひとつの対立関係を描き出すことができる。アルトが、「低い空」の下、父との確執などという小さな世界の中でもがき続けて、思うように空を飛ぶことができないでいるのに対して、シェリルのほうは、非常にやすやすと、銀河という名の大空を飛んでいるように見えるところがある。だとするならば、女性的なポジションに据え置かれているアルトにとっては、大空を駆け巡るシェリルの存在は、まさしく、十全な承認を獲得した理想的な男性に見えたのではないだろうか。
ここに立ち現われるのは、アイドル歌手と一介のパイロットという、初代『マクロス』に見出された不釣合いな関係である。初代『マクロス』において、一条輝とミンメイは、ミンメイが普通の女の子だったときにはそれなりに似合いのカップルだったかも知れないが、彼女がアイドル歌手として大きく羽ばたくことになると、その関係が不釣合いなものとなる。そして、輝は自分が単なるひとりのパイロットにすぎないことを自覚することになる(三角関係が前面に立ち上がるのは劇場版においてであり、テレビ版においては輝の片想いだけが強調されている)。
アルトとシェリルの間にも同種の不釣合いな関係が見出せるのであり、この二人の関係を対立関係と呼ぶこともできるだろう。こうした対立関係が解消されて、ある種の安定がもたらされることになるのは、シェリルが病気とスランプを抱え込み、自由に飛び回ることができなくなる時点においてである。ここにおいて、アルトは、弱い女性を守るという男性的な役割を獲得することができるが、しかし、再びシェリルが歌姫としてカムバックしたときには、アルトの立場は動揺してしまうことだろう(作品内においてこの動揺がはっきりと描かれているとは言いがたいが)。
ここでちょっと視点をずらして、歌うことそれ自体を問題としてみることにしたい。『マクロス』においては、ある種、歌うことと戦闘することとが並置されているところがある。例えば、アルトが戦闘機に乗って敵と闘っているシーンで、シェリルやランカの歌が流れるという場面がいくつかある。こうしたシーンに関して、歌は戦闘を補助するものとして機能している、というふうに言うことはできるだろう。スポーツにおける応援のように、闘っている人たちを激励するために歌がある、ということは言えるだろう。
だが、このような歌と戦闘との相補的な関係、さらには、戦闘がメインで歌がサブという関係性にではなく、歌と戦闘との対立的な側面にもっと注意を向ける必要があるだろう。そもそも、『マクロス』において、歌の存在が人々の戦闘意欲を萎えさせることにあったとするならば、戦闘民族のゼントラーディたちが忘れていた「文化」というものが歌に体現されていたとするならば、歌の存在は、端的に戦闘の停止を意味しているのではないだろうか。このことは、歌が戦争の反対、平和を象徴するものであるということではなく、歌それ自体のうちに何か過剰なものが潜んでいるということである。戦闘という過剰が一方にあるとするならば、他方に存在するのも歌という別の過剰なのである。
それゆえに、歌はそれだけで自律している運動体と捉えるべきである。歌はそれだけでひとつの強度を保持している。ある意味、『マクロス』というのは、こうした歌の強度を巡る物語だと言えるかも知れないが、まさに、ここに、アルトの進路を阻む大きな壁がある。つまり、アルトが何か強度のあるものを求めて戦闘機乗りになったとしても、そんなふうに戦闘行為のうちで獲得される享楽を台無しにしてしまうような、さらなる過剰がすぐ隣に存在するのだ。
戦闘行為に見出される享楽の問題。この問題は、『スカイクロラ』において、退屈な日常生活に刺激を求めるために永遠に闘い続けるという設定の下、皮肉な形で描かれたが、こうした『スカイクロラ』の問題がそっくりそのまま『マクロスF』にも見出すことができると言える。戦闘においては生と死の境界線が問題となる。それは、つまり、不安定なロープの上を綱渡りしていくことである。そのようなロープの上をいったいどこまで渡っていくことができるのか、あるいは、どこまででも渡っていきたいというのがアルトの望む方向性だとすれば、ランカやシェリルが体現している歌の方向性は、それとは別の仕方で、ある種の過剰さを醸成していくことだと言える。
こんなふうに考えると、『マクロス』という枠組みの中では、『マクロス』というゲームのうちにあっては、戦闘機乗りはどうしても歌姫に負けざるをえない。つまり、アルトは、彼が最初に直面したシェリルの壁をどうしても突き抜けることができないのである。戦争はいつかは終わる。戦争が終われば、戦闘機乗りは日常に回帰せざるをえない。そうした意味で言えば、戦闘と歌との対比は、非日常と日常との対比だと言えるだろう。日常生活においても歌は残り続けるのであり、劇場版『マクロス』の「愛・おぼえていますか」の歌のように、時間や空間を飛び越えて、限りなく伝播し続けるのである。
それでは、アルトには、いったいどのような出口があるというのか。おそらく、もっとも有効な解決方法は、アルトもまた、ランカやシェリルと一緒になって、歌うことだろう。場合によっては女装をして(その女性的な立場を引き受けて)歌うことだろう。この点は、僕がこのブログで何度も強調したことであるが、男性的な尊厳を回復させるために非日常的な設定を持ち出してくることには限界がある。大きな物語を捏造することには限界がある。それゆえに、今日問われるべきなのは、日常生活のうちに、いったいどのようにして有効な出口を築き上げるのか、ということである。
『マクロス』という作品の偉大さがあったとすれば、それは、全面戦争という究極的な出来事の解決として、歌という非常にささやかなものを持ち出してきたことにあるだろう。そして、重要なのは、歌というのがそれほどささやかなものではなく、戦闘以上の過剰さを抱え込んだ厄介な代物だった、ということである。
以上は、非常に単純な枠組みのうちで『マクロスF』を見た視点なので、物語の細部に関していろいろと見落としがあるだろうが、ひとまず、このような観点から今度の劇場版も見てみたいと思っている次第である。その他にも『マクロスF』に関しては興味深い論点がいくつもありそうなので、余裕があれば、今度それを書いてみたい。おそらく劇場版の感想という形になるだろうが。