この前まで続けていた『ぼくらの』論の中で、僕は、現代人の孤独というテーマを少しだけ提出してみたが、この点をもっと掘り下げてみたいと思ったので、今回からは、久住昌之原作、谷口ジロー作画の『孤独のグルメ』をテキストとして取り上げて、現代人の孤独について語っていきたい。
問題としたいことは現代人の孤独であるが、しかし、この孤独という言葉が何を指すかということがまた問題である。むしろ、『孤独のグルメ』というこのマンガ作品について語っていくことで、孤独という言葉の意味内容とその周辺で問題になることとを浮き彫りにできればいいと思っている。
当たり前のことであるが、現代人の(孤独な)生活を問題にするからと言って、現代人の生活一般を問題にすることはできない。このマンガ作品に描かれているのは、現代人の生活の一面である(とりわけ都市に住む人間が問題になっている)。しかし、この一面が非常に多くのことを語っているように僕には思われたので、あえて、この作品から、現代人の生活を問題にしようと思ったのである。
まずは、この作品が、従来のグルメマンガ(やアニメ)とどこが決定的に異なるのか、という点について考えてみよう。この作品が従来のグルメマンガと決定的に異なる点。それは、この作品が、ダイアローグ(対話)から構成されているのではなく、モノローグ(独白)から構成されているという点である。
従来のグルメマンガにおいて重視されていたことはダイアローグであり、ダイアローグこそが物語の原動力であった。つまり、そこにおいては、対立や和解といったものが問題になっていたのである。例えば、『美味しんぼ』のことを考えてみよう。そこにおいて、料理が果たしている役割とは、端的に言って、人と人とを結びつけることではなかっただろうか? 何かの事件の発端となるのも料理ならば、そうした事件を終息に向かわせるのもまた料理である。料理によって話が始まり、料理によって話が終わる。この作品においては、人間関係の結節点に、常に、料理が立ち現われてくるのである。
料理マンガにおいて、料理が人と人とを結びつける役割を果たしているとすれば、まさしく、対立的な関係こそが、そこにおいて、最も典型的な人間関係だと言えるだろう。『ミスター味っ子』にしろ『焼きたて!! ジャぱん』にしろ、そこで料理が果たしている役割とは、美味しさのレベルを競い合うこと、最も美味しいものを目指して、闘い合うことである。こうした点において、少年マンガ誌における料理マンガは、肉体的な力の強さを競い合うバトルものとほとんど大差のない物語構造をしているのである(このことは、究極のメニューと至高のメニューとを闘わせる『美味しんぼ』についても言えることである)。
これに対して、『孤独のグルメ』は、ダイアローグによって物語が始まることはない。物語は、基本的に、モノローグで始まりモノローグで終わる。たとえ、料理が人と人とを結びつける役割を果たすとしても、『孤独のグルメ』においては、そこから物語が発展するわけではない。そもそも、主人公の井之頭五郎は、自ら料理を作るわけではなく、ただ単に、店で食事をするだけである。タイトルに「グルメ」とあるとしても、彼は、料理についての厳しい評論家ではない。彼にとっては、カツサンドで「上等」なわけである。
まさに、このモノローグという特徴こそが、孤独について第一に言えることである。井之頭五郎は、誰かと一緒に食事をして、会話をするわけではない。『美味しんぼ』においては、山岡士郎を始めとした東西新聞社の面々が、料理について、様々なコメントをするわけだが、『孤独のグルメ』においては、料理についてコメントをするのは、基本的に、井之頭五郎ひとりである。言い換えれば、井之頭五郎のコメントを批判したり支持したりするような対話の相手が存在しない、ということである。とするならば、そこにおいて、料理に対する何らかの価値評価が下されたとしても、そうしたことは、この作品の物語にとって、大した重要性を持たないと言えるだろう。極端な話、五郎の感想に誰も答える者がいないという点こそが重要なのである(尾崎放哉の「咳をしても一人」のように)。
しかしながら、料理というものが人と人とを結びつけている点は、『孤独のグルメ』においても重要な点である。つまり、店に行って食事をするということが、五郎にとっては重要な人間関係なのである。食事をして帰るだけで、店の人間と会話をするわけではない。そのような出会いを人間関係とまで呼ぶのは言いすぎかも知れないが、しかし、そのようなわずかな人間的な接触こそが、この作品が描き出そうとしている孤独にとって、非常に重要なのである。つまり、いったい、どのような人間かは分からないが、ある短いちょっとした時間を、食事の間だけ、他人と共有する。こうしたことは電車やバスといった乗り物の中でも、それこそ道を歩いているときでも体験できることかも知れないが、独身で会社勤めをしているわけでもない五郎にとっては、そうした時間こそが、他人と同じ時間を共有する非常に貴重な機会なわけである。
五郎は孤独であり、孤独であるということは、外にいる人間たちを観察せざるをえない、ということである。五郎は、どこかの街に迷い込み、そして、そこで食事をする。そこで、いろいろなものを見たり聞いたりして、独白をする。そこから何か物語が始まるわけではない。むしろ、物語は五郎の外で起こっている。ひとりひとりの人間がそれぞれの物語を抱えている。いったい、それがどのような物語かは分からないが、五郎は、そうした物語の一登場人物として、物語の主人公とすれ違うモブキャラとして、背景のうちに、ひっそりと、ひとりでいるのである。
アンディ・ウォーホルの有名な言葉に「将来、誰でも15分間は、世界的な有名人になれるだろう」というものがあるが、この言葉が意味していることとは、視点人物としての「私」が有名人になるというよりも、「私」が誰かを有名人として見るカメラとなる、ということではないだろうか? 「私」が誰かを物語の主人公として見るとき、その誰かは、「私」の想像の中では、「私」のカメラがその人だけに向けられているという点で、ほんの短い間だけでも、(物語の中心にいるという意味で)世界的な有名人なのである。
第2話の最後で、五郎は、廻転寿司に来ていた主婦たちのことに思いをはせている。「家族はこんなオカアサンを全然知らないのかもしれない」と。物語は、こうしたささやかな問題を抱えた家族の中でも始まっているし、五郎の後ろでこれから店に入ろうとしている外国人と日本人との間で始まっている。こうした物語の中心人物たちのその後がこの作品で描かれることはないし、そんなことは、五郎にとっては、どうでもいいことである。五郎にとって重要なことは、彼が物語の一部に組み込まれているということ、ささやかな人間的接触によって、一時的にでも、他人と時間を共有することなのである。
五郎は、別段、美味しい食べ物を求めているわけではない。しかし、だからといって、単に空腹を満たしたいだけでもない。「俺は腹が減っているだけなんだ」と五郎は言う。しかし、そうではないだろう。第6話で、五郎は、「歯車」のズレについて語っているが、五郎の食欲に関して言えば、彼は常に何かがズレていると言わざるをえない。彼は、お腹が空きすぎているか食いすぎたか、どちらかである。食べたいものを食べたいときに食べられるわけではない。そこには常にズレが存在していて、そうしたズレをもたらすものが、まさに、他人の存在、他人の欲望であると言えるのである。
この点で、五郎は、孤独であるとしても、ひとりで存在しているわけではない。ひとりで食べたいものを食べているわけではない。店に入って何かを食べること、これが口実となる。「俺は腹が減っているだけなんだ」と言うことが口実となっている。何の口実なのか? ここにこそ、孤独な現代人の生の一端が見出せるように思えるわけである。それは、端的に、生きることの口実と言えるかも知れない。どこにも行き着くことのない孤独な生。しかし、だからといって、われわれは、死に向かってまっすぐに進んでいくわけではない。まさに、食べるということが、死に対する一時的な迂回措置になっているのである。
次回からは、『ぼくらの』論のときのように、『孤独のグルメ』を前から読んでいくことにしたいが、しかし、この作品は、200ページにも満たない作品なので、一話一話を丁寧に取り上げていくことはしない。孤独という言葉とその周辺に立ち現われるものに焦点を合わせながら、現代人の生活について考えていくことにしたい。