はじめに
少なくとも憲法改正との関係で言えば、今回の解散総選挙が(改憲勢力にとって)一歩後退であることは間違いないだろう。一時はほとんど憲法改正不可避と言ってよいような情勢であったことを思えば、安倍政権下での憲法改正阻止をかかげる野党はまずまずの成果をあげたものと評したい。
しかしそれとは別の問題として、今回の解散には「大義なき解散」であるとして強い批判が寄せられている。この「大義なき解散」について考えるために、本記事ではまず衆議院の解散について基礎的な知識をまとめる。そのうえで、今回の解散をめぐる主張について、思うところを簡単にだけ述べておきたい。
衆議院の解散について
衆議院の解散とは
衆議院の解散とは、任期満了前に衆議院議員の資格を失わせる行為である*1。
衆議院解散権の所在とその根拠
日本国憲法には衆議院解散権の所在を明示した規定がない。そのため、衆議院解散権の所在とその根拠については早くから問題となってきた。
この問題を考えるにあたっては、解釈の手がかりとされる条文が主に2つある。憲法7条3号と憲法69条である。
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一~二 (略)
三 衆議院を解散すること。
四~十 (略)
第六十九条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。
ここで、天皇の「国事に関する行為」とは本来すべて形式的・儀礼的行為であり、「助言と承認」 はそのような形式的行為に対して行うことが要求されているのであるから、「助言と承認」は行為の実質的決定権を含まないとする立場をとる場合、憲法7条を衆議院解散権の根拠とすることはできず、別に根拠を求めることになる。こうした立場をとるものとして有名なのがいわゆる69条限定説で、これは憲法69条を衆議院解散権の根拠として、内閣は衆議院の不信任決議が可決された場合にのみ衆議院を解散できるとする考え方である*2。
もっとも、現在の通説・実務*3は、内閣が「助言と承認」を行う前提として行為の実質的決定を行っても、その結果として天皇の国事行為が形式的・儀礼的なものになるならば憲法の精神に反しないとして、内閣に憲法7条を根拠とする衆議院解散権を認めている*4。
なお、憲法7条柱書で「助言と承認」の主体が「内閣」とされていることからも分かるとおり、衆議院解散権は内閣に存する。したがって、「解散は首相の専権事項」、すなわち衆議院解散権が(内閣でなく)内閣総理大臣に専属するとの表現は不正確である。こうした表現が用いられるのは、内閣総理大臣が他の国務大臣の任免権を有しており*5、閣議において反対する閣僚があればこれを罷免することが可能である以上、実質的に内閣総理大臣が解散権を有しているとも考えられるとの理由によるようだ*6。しかし、たとえば三木武夫内閣では、首相の三木が解散を図ったものの、多数の閣僚が反対したためにこれを断念するに至っている。このような例に照らしても、「解散は首相の専権事項」との表現は、やはり不適当であると考える。
衆議院解散権行使の限界
衆議院解散権の根拠を憲法7条に求める立場をとれば、解散権の行使は必ずしも憲法69条、すなわち衆議院で不信任決議案が可決された場合に限られないことになる。そこで、かかる立場をとる政府は、たとえば以下のように述べて、解散権の行使についてなんら制約はないものと解している*7。
○政府委員(味村治君) まず、解散権に制約があるかどうかということでありますが、これは憲法七条の規定によりまして、内閣の助言と承認によりまして天皇が「衆議院を解散すること。」というふうになっておりまして、その際に実質的に解散を決定するのは内閣であるということは、もう従来から御答弁申し上げているところであります。
そして、じゃどういう場合に解散権を行使するのかと申しますと、これは国政の重大な局面において内閣の判断においてするということでございまして、その解散権の行使について制約はないものというふうに承知をいたしているところでございます。
しかし、衆議院解散権の行使が憲法69条の想定する場合に限られないとしても、なんらの制約も存しないとまで言えるかどうかは、別途検討を要する問題である。
この点について論じたものとして一般にも有名なのが、いわゆる保利見解である。これは昭和53年、当時衆議院議長を務めていた保利茂が、ときの首相福田赳夫の周辺からとなえられる早期解散論を批判するべく、衆議院法制局の意見なども参考にして作成したものだ*8。そこでは、以下のようなことが主張されている*9。
主権者たる国民の直接選挙によって選ばれた衆議院議員の地位を任期途中で失わせる解散という行為はきわめて重大なものである。したがって解散は、立法府と行政府の対立によって国政が麻痺するといった重大な事態に立ち至ったときに、行政の機能を回復するためのいわば非常手段として認められたものであり、憲法69条はそうした場合の典型的なケースを規定したものに他ならない。
そうであれば、内閣がその恣意的な判断によって一方的に解散を行いうると考えるのは憲法の精神を解しないものであって、いわゆる69条解散以外の場合でも、内閣が解散権を行使しうるのは、憲法69条の想定するところと同一視できるような(立法府と行政府の対立によって国政が麻痺するような)場合、たとえば予算案や内閣の公約である重要法案が否決されたなどの場合か、さもなければ、直前の総選挙でまったく想定されていなかった重大案件が生じ、これについて国民に信を問うような場合に限られると解するべきである。
要するに、(憲法69条の想定する場合を除けば)立法府との対立による国政停滞を打開するためか、あるいは新たに発生したまったく想定外の重大案件について国民の判断を仰ぐためにのみ衆議院解散権の行使は許されるということであり、穏当な見解であると言ってよいだろう。憲法学者の芦部信喜も以下のような類似の見解をとる*10。
解散は、憲法69条の場合を除けば、①衆議院で内閣の 重要案件(法律案、予算等)が否決され、または審議未了になった場合、②政界再編等により内閣の性格が基本的に変わった場合、③総選挙の争点でなかった新しい重大な政治的課題(立法、条約締結等)に対処する場合、④内閣が基本政策を根本的に変更する場合、⑤議員の任期満了時期が接近している場合、などに限られると解すべきであり、内閣の一方的な都合や党利党略で行われる解散は、不当である。
今回の解散をめぐる主張について
今回の解散について、安倍は「国難突破解散」と銘打ったようだが、これを真剣に受け取る者は少数だろう。安倍政権を支持していると目される方でも、さすがに今回の解散に大義があると強弁することはためらわれるようで、「大義など必要ない」「これまでの解散でも大義などなかった」「問題だと思うなら憲法を改正しろ」といった類の主張が主流のようだ。順に簡単にだけコメントを加えていきたい。
まず「大義など必要ない」について。そもそも「大義なき解散」とは何を言わんとするものか。もちろん真意は各人に尋ねてみなければ分からないが、「大義なき解散」との批判は、解散をするに足りる相当の理由がないというほどの意味であるように思われる。しかるところ、上記のとおり、解散を行うに足りる理由として、単なる党利党略をはるかに超え「立法府との対立による国政停滞」や「想定していなかった重大案件の発生」といった重大な局面に立ち至ることさえ要求する見解は存在する、というよりむしろそうした見解が多数であるように思われる。私自身、解散を行うに足る相当の理由として単なる党利党略にとどまらずそれ相応の事情を要求することは、保利見解も述べる解散権の趣旨や国権の最高機関にして唯一の立法機関たる国会*11の議員たる地位を任期満了前に失わせるという重大性等に照らして妥当であると考える。「大義など必要ない」との主張には賛同しかねる。
次に「これまでの解散でも大義などなかった」について。まず大前提として、「他の人もやっているから自分もやってよい」という主張はとおらない。それは子どもの理屈である。本件に限らず、昨今は(政治家も含め)この種の子どもの理屈を振りまわす者が多くなったように思われ、非常に残念である。そのうえでいくつかの例を挙げると、たとえば有名ないわゆる郵政解散は、郵政民営化法案が参議院で否決されたことを受けて解散が行われたものである。両院協議会等を経ることなく解散が行われた点に強い批判はあるものの、小泉純一郎内閣の重要法案であった郵政民営化法案について「立法府との対立」状況を打破するために行われたものであることは間違いなく、支持者でさえ党利党略以外の理由を挙げるのに苦しむ今回の選挙とは異なり、いちおうの「大義」はあると言えよう。記憶に新しいところでは、野田佳彦内閣のいわゆる近いうち解散も、いわゆる国会のねじれ状況下において、野党自民党から法案成立と引き換えに解散を求められ、これに応じて行ったものである。やはりその実質において「立法府との対立による国政停滞」を打開するために行われたことは明らかであり、「大義」はあると言えよう。「これまでの解散でも大義などなかった」などとは言えないように思う。
最後に「問題だと思うなら憲法を改正しろ」について。衆議院解散権について明確な規定を設けた方が明快であることは確かだ。上記のとおり、通説では現在衆議院解散権の根拠を天皇の国事行為について規定した憲法7条に求めているところ、私は将来的には天皇制度を廃止するべきだと考えているので、この点にかかる憲法改正が行われる暁には、衆議院解散権についても整備されることが望ましいだろう。もっとも、現行憲法下においても、恣意的な衆議院解散権の行使が許されるものでないと考えることはすでに述べてきたとおりである。また、衆議院解散権の行使に手続的な限定をかけることは、憲法によらずとも立法によって可能である。この点については、平成29年3月23日衆議院憲法審査会における憲法学者木村草太の発言が参考になるので引用しておく。
現行憲法下で解散の前例が慣行や習律を形成できなかった一因は、内閣が解散の理由を議会で丁寧に説明したり、公式の解散理由を文書化し、明確にする手続がなかったところに大きな原因があるというふうに思われます。法律で、解散権を行使する場合には、解散の宣言から解散まで一定の時間を置き、衆議院で解散理由についての審議を行うなどの手続を設ければ、少なくとも解散理由が不明確なまま総選挙に突入するという事態は防ぐことができるように思われます。
こうした法律をつくる場合、解散権の行使を法律で制限することは合憲かということが問われることになりますが、この点、もともと憲法七条は内閣に完全に自由な解散権を認めているわけではなく、合理的な制約を法律で設けることは許されるという憲法解釈に立つのであれば、こうした法律に違憲の疑いは全く生じません。
また、仮に憲法が内閣に自由な解散権を与えているという解釈をとったとしても、今述べた法律は、内閣の解散権それ自体を制限するものではなく、慎重な手続を要求するだけのもので、憲法違反とは評価されないものと思われます。
おわりに
以上、衆議院の解散について基礎的な知識をまとめたうえで、今回の解散をめぐる主張について思うところを簡単にだけ述べた。なにかの参考になれば幸いである。
*1:芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』(岩波書店、第5版、2011年)324頁。
*2:芦部前掲書49頁。
*3:なおこの問題について、最高裁はいわゆる統治行為論を展開して判断を放棄している(最大判昭和35年6月8日(http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/530/053530_hanrei.pdf))。
*4:芦部前掲書49頁、50頁。
*6:http://www.huffingtonpost.jp/abematimes/dissolution-election_a_23218731/
*7:昭和62年12月11日参議院予算委員会における味村治内閣法制局長官の発言。
*8:公表は没後の昭和54年。
*9:『朝日新聞』昭和54年3月21日参照。私の要約である。
*10:芦部前掲書325頁。