はてなキーワード: 迷彩とは
あれを見て戦争を連想しない方が無理だろ。糖質拗らせて何でも権力を擁護して回ってるお前らの方が異常。
こいつらトランプを絶賛したり戦争を擁護したり、AI兵器を作ろうとしてるのは戦争がしたいからなんだろうな。
イラストとともに掲載された記事によると、主人公の両津勘吉が笑顔で手を振る背景に、迷彩柄のヘリコプターや航空自衛隊のブルーインパルスが描かれていたことから「戦争を想起させる」「『非核平和都市』を宣言している区がやることではない」といった抗議が区に複数寄せられているという。この報道を受け、SNSでは描き下ろしイラストの是非を巡る議論が勃発しているのだ。
ITジャーナリストは「抗議内容に賛同する意見もあるものの、大半がイラストを擁護する見解。私自身も不適切なイラストだとは感じられませんでした」と語る。
現代に生きる「私」と異なる考え方、ものの見方がどのようなものかを知るのが楽しいのだなあ
極論、他人の考え方は「私」とは当然異なるので
(noteの日記といえばダ・ヴィンチ・恐山の日記は別格に面白いが、今話題にしている日記の面白さとは別軸の面白さだ)
自分の興味が幕末~明治~大正ごろの日本の価値観の変遷だからだろう
『オーストリア皇太子の日本日記: 明治二十六年夏の記録』という本を今読んでいる
とても面白い
海外の反応まとめブログを読んでいるときと同じ感情になるけれど
原民喜という方が書いた『忘れがたみ』の中で飛行機雲について述べられた項がある
大学病院の方へ行く坂を登りながら、秋空に引かれた白い線に似た雲を見ていた。こんな面白い雲があるのかと、はじめて見る奇妙な雲について私は早速帰ったら妻に話すつもりで……しかし、その妻はもう家にも病院にも居なかった。去年のこの頃、よくこの坂を登りながら入院中の妻に逢いに行った。その頃と変って今では病院の壁も黒く迷彩が施されてはいるが、その方へ行くとやはり懐しいものが残っていそうで……しかし、私がもう此処を訪れるのも今日をかぎりにそう滅多にあるまい。玄関ではもう穿き替えの草履を呉れないことになっていた、これも、以前と変ったことがらである。私は川島先生に逢って、妻の死を報告しておいた。それからとぼとぼ坂を降りて行った。
翌日、新聞に飛行機雲の写真が出ていた。さては昨日見た雲は飛行機雲というものなのかとひとり頷いたが、仮りにこれを妻に語るならば「漸くあなたはそんなことを知ったのですか」と、病床にいても新知識の獲得の速かった彼女はあべこべに私を笑ったかもしれないのだ。
日本人が飛行機雲をどのように認知していったかを調べた際に見つけた日記だが、いい文章だなあと気に入っている
しかし、なかなか心の健康に余裕があるときでないと別の価値観を摂取するのは難しい……特に相容れない価値観だと
それに実際バイアスがある 当たり前ではあるが「日記を書くような人」の文章しか得られない
その点Twitterはよしあしだ
よしあし……よしは「日記を書くような人」以外の文章もあること、あしは……読みすぎると精神の健康を害することか
そういう意味では食べやすく調理されて「日記文学」とラベリングされた本が一番助かるわね
この文章自体も日記ではあるか 未調理 塩漬けにして数年後に自分で食べると美味い それもまた日記のよさ
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フォーマットとしては日記だが内容としては随筆が興味の対象なのだろう 言われて気付いたな
私服なのか? っていうのでよく迷彩服を着た外国人二人組を近所で見る。すげーデカいから超目立つ。
米軍基地とかは近くにない。
各種装備は(当たり前かもしれないが)持っていないけど、靴がめちゃくちゃそれっぽくてイカつい。そしてやっぱすげーデカい。
一応街の周囲は森と山だからいろいろ理にかなってるっちゃあかなってる。
まあファッションにミリタリーぽさを入れるのは、ブランドにもよるだろうけどやっぱ強さへの憧れとか、あるいは例えば「頭でっかちな都会人に対するアンチテーゼ」とか、そういう何かしらのメッセージがこもってるんじゃあないだろうかって推察してる。
それを着る消費者は単純にそのブランドを着るのがオシャレって思って着てるだけとかもあるだろうし、デザイナーもそこまで別に考えてない場合もあるかもだけど。
エイプの迷彩はやっぱブランド自体がやんちゃなストリートの男の子をイメージしてるわけで、多分そのモデルになってるアメリカのストリートキッズは兵役終わった後でも新しい服買うお金ないし軍で着てたものをそのまま着てる人も多いだろうしとか、兵役行ってたお父さんとかお兄ちゃんのお下がりとか、軍隊からの横流しの古着とか、当然迷彩は出てくるよなって感じする。
A BATHING APE( IN LUKEWARM WATER)は「ぬるま湯につかった猿」っていう意味だし、現代人へのアンチテーゼって感じかなって思ってた。
そんで迷彩服が流行したら、あとは別にメッセージ性は関係なくその手のデザインが量産される。
プラダを着た悪魔で見た。
長年の自慰行為における乳首への性的刺激によるものかどうかは不明である。
先日、秋冬に備えてユニクロで鼠色のフード付きパーカーを購入しました。
とはいえ、残暑厳しい日々が続いたせいで家での試着すらしない日々が続いていました。
が、ようやく雨降って残暑弱まる。
少し涼しくなり気持ちにも余裕ができたのか、そうだユニクロで買った鼠色のパーカーを一度も袖を通していなかったと気づきました。
私はおもむろに立ち上がり、ユニクロの鼠色のパーカーをどこにしまったのか思い出すところから始めました。
その中にユニクロで10円だか20円だか払って買った茶色い紙袋の中に入った鼠色のフード付きパーカーがあるはずなのです。
ああ、わからない。
私の部屋の中ではあの茶色い紙袋はかなりの迷彩効果を発揮するようでなかなか発見に至りません。
私は何の取り柄もない男(女だと思ってここまで読んでいただいていた方すいません私は男です)ですが、癇癪だけは人の百倍ぐらい強いと自負があります。
隣近所に奇声が聞こえるのは間違いがないほど声を張り上げながらゴミ山からゴミを拾い上げゴミ山に向かって力いっぱい放り投げました。
するとどうでしょう、私の肩は信じられないほどの脆さでもってグニャッと歪んでまるで肩が外れたかのように激痛が走りました。
私は痛みに叫びました。
さきほどの癇癪の奇声にも負けないほどの声の張り上げ方です。
日頃、声を出すことがほとんどない喉はそんな叫び声を連続してあげてしまったことにより、もうそれだけで血が出てるんじゃないかと思うほどの痛みを感じました。
そして肩の激痛。
投球練習もせずにマウンドに上がればさもありなん。
子供の頃大好きだった侍ジャイアンツをふと思い出しながら涙流し、肩の激痛に耐えました。
でも、実際にはそれほど大したものではなく2分ほどしたら痛みはあるものの激痛はおさまりました。
そんなことをしているうちに当初の目標であったユニクロの紙袋を探しだし鼠色のフード付きパーカーを試着するという目的はすっかり忘れ果て、PCの前にどっかりと座るとエロ動画を見ながら明日のトレードについて思索を深めました。
ちょっと流し見してるつもりが自分が大好きな乳首舐め手コキのシーンが始まると集中してしまいます。
ああ、今日はまだオナニーする時間じゃないのにな、と思いながらオチンチンに手が伸びてしまいます。
、っとその前にティッシュペーパーの準備をしなければ、と思い部屋の中を見回しますがどこにティッシュペーパーがあるのかわかりません。
青い袋に包まれたエリエール+Waterがどこかにあるはずなのですがゴミゴミゴミのゴミの山の中のどこにエリエールがあるのか皆目見当がつきません。
また癇癪を起こしそうになりましたがさきほど声を張り上げたあとから続いている喉の痛みと、まだジンジンしてる肩の痛みがかろうじて爆発する私の感情を押し留めました。
私はユニクロのフード付きパーカーの試着をするという目的を思い出しました。
Mサイズを選んでおけば街がありません。
と思っていたのですがユニクロの中でも「U」というイニシャルが付け足されてるやつは油断がなりません。
今年の春に通販で買った黄色のシャツはMサイズを買ったはずなのに間違ってXLサイズが届いている!とまた癇癪を起こしそうになるほどデカイやつが届きました。
いやこれはXLサイズに間違ってMの札を付けたに違いないと思うほど大きかったのですがいろいろと調べてみるとどうやらオーバーサイズというやつでわざとそういう作りにしてるらしいです。
ですが正直これはやり過ぎだろうと当時思いました。
いくら大きめのサイズが流行っているからと言ってこれはやりすぎだ、と。
やっぱり物事というのはすぐにやり過ぎ、インフレになってしまうものでこれはジャンプの漫画と同じです。
子供の頃読んでいたドラゴンボールのようにすぐに戦闘力のインフレが起きるのです。
だからこそ適時適時に緊縮を行わなければ行けないのですが、世の中緊縮は喜ばれません。
綱紀粛正は必要ながら、それを旗振りするとスケープゴートされるのが世の常です。
うすいアンダーシャツのうえに試着するとサイズはぴったりでした。
着てみるとちょっと予想よりも厚手感のあるパーカーでしたがサイズは適度なゆとりがあるちょうどのサイズでした。
え?
驚きました。
夏のTシャツなどで乳首のある場所はここです、と主張するのは最早常識になっていました。
それはいい。
しかし、秋冬の決して薄手というわけでもない鼠色のフード付きパーカーで乳首の場所が明示されているのは納得感が欠けます。
色が悪かったのでしょうか?
黒にしておけば、黒にしておけば、もっと目立たなかったのでしょうか?
まあどうでもいいです。
これは着ません。捨てます。
オシャレというのは難しい。
こればかりはガチャの面もある。
何を着てもそれなりに着こなせてしまう体型を持っている人にはわからんかもしれないけれど。
世の中には、何を着てもどうにも見栄えがしない体型を持って生まれた人というのが少なからずにいる。
痩せてみても太ってみてもハマらない。
これにプラスして、なんとも残念な顔面をしているのだからオシャレなんてはじめから諦めたほうがいいのかもしれん。
そういう人でもなんとか違和感なく着こなせる服というものは存在する。
それは制服のような服だ。
あまりにもたくさんの人が着ているからブサイクが着ていても悪目立ちしない服というものがいくつか存在する。
白いシャツにネクタイで街を歩いていても都市迷彩効果が発揮されて誰にも注目されることなんて無い。
そういう感じの現象を起こさせる服だ。
ブスでも安心して着ることが出来る服。
これなら大丈夫そうだな、と思える服。
そういう服はたくさんある。
ブスな顔、バランスが悪い体型、そういう風に生まれついたんだからオシャレなんて考えずにワードローブを「制服」で満たしていってもいいのかもしれん。
むしろそういう風に生きるのが賢明だしそれが大人と言うもんだ。
つまり正しさが、そこにはある。
でもな。
そんな、「ときめき」がない人生を送るから鬱々とした気持ちになっていくんじゃないのか?
そんな人生を送り続けるから年寄りになって、なんだらかんたらクライシスを迎えた、どうしよう?とか思うんじゃないんか?
そんな服を買っても仕方がないじゃないか。
ネットでポチって、明日届く服に対して、何も楽しみを感じない服。
まるでトイレットペーパーが明日届くという気持ちと同じ思いしか感じない服。
いつもの服が劣化したから、また新しいものが届く、ただそれだけ。
そういう「ときめき」を感じない生活を送るから人生がどうしようもなく追い詰められた気分になるのではないか。
服というのは似合う似合わないがあってTPOもあるし、年甲斐も無いもあるし、若作りもあるし、あんまりにオバサンがお腹を出すのはどうかと思う、とかもある。
毎日、一年中「ときめき」を得るわけにはいかないかもしれないけれど、週に一回とか、月に一回とか、年に一回、とかでもいいと思うけど、やっぱりどこかに「ときめき」は必要だろ。
毎日、同じ服を着たっていいんだよ。
そこに「ときめき」があるんなら。
iPhoneの会社の創業者とか、毎日同じ服を着てたって言うけど、話を読む限りではその人は「ときめき」を持って毎日同じ服を着てたと思うね。
これはさ、服だけの話ではないんだと思う。
どんどんどんどん間違えないことばかりが身についてしまう。
でもさ?それだけでいいのか?と思う。
ましてや、若い人たちが恥ずかしがって「ときめき」がない服を着ていたって仕方がないじゃないか。
だからといって「ときめき」がない人生を送る必要なんてものもないはずなんだ。
人がどう思うか、じゃなくて自分がどう感じるか。
大学2〜3年頃からだったか、ソナチネのたけしに憧れてマジで白シャツスラックスしか着なくなった。菊次郎の夏だったかも。
海沿いで腰掛けてボーッと波を眺めたり、繁華街を練り歩いたりしながら無限に主人公ぶってた。
ヨウジかギャルソンが良かったけど、サイズが合わなかった。ユニクロのスラックスは夏でも快適だ。
同じ格好しかしないからコーディネートの幅は磨かれなかった代わりに、シルエットや丈に異常なこだわりを持つようになった。
オタクが服に興味を持つとそうなるのかもしれない。求める先は異性や他人からのウケではなく。おれの場合はきっかけの時点でもうオタクっぽい。
モサい頭のチビガリだし、たけしのとっぽさにはきっと程遠かった。日中から手ぶらでうろつく姿は変な高校生みたいだったと思う。「主人公」は鞄を持たない。
と思ってた。
最近スタイルというのはもっと必然的なものなんじゃないかって思う。
炭鉱夫はデニムを。軍人は迷彩を。スケーターは動きやすいルーズな服を。オタク少年はママが買ってきたちょっと古いセンスの服を。
そこに演出はなく、その人を取り巻く環境が、生き様が服へと現れる。その自然体こそがスタイルなのではないか。
カートコバーンの真似をしてボロい服を着るのはグランジなのか?なんて語り尽くされた話だ。
スタイルは自分から喧伝せずとも周りが勝手に見出していく。そこには服飾というより精神性としてのかっこよさがある。
ザッカーバーグやジョブズが同じ服ばかり着るのも、彼らの忙しない日々を描くスタイルだ。それをノームコアと囃し立てて、こだわってない風の服をわざわざこだわって選んでもコスプレでしかない。
オタク君の服ってこういうのばっかり、的な揶揄だってベクトルは違えど本質的には賞賛と変わりないのかもしれない。
じゃあおれにとっての環境とは何か。「時代」というのは一つの環境ではないのか。
自我を持って着せ替え人形やコスプレをやるよりもむしろ、服にさほどこだわりのない人が流行に巻き込まれる着る服にこそスタイルがあるのかもしれない。
Twitter(a.k.a 𝕏)で、時代ごとの流行りの比較イラストや写真みたいなのがたまに流れてくる。ファッションは巡るって言説を添えて。
古めの映画を観てても、ジーンズ履いてスタジャンのポットに手を突っ込む若者が妙にかっこよく見える。「その時代の若者」というスタイルが。自分にそういう時期がなかったのがなんか寂しいし、ちょっとコンプレックスですらある。
この際スタイルとかどうでもよくて、能動的なミーハーでもなんでもその時代らしい若者の姿に染まりたいという気持ちがある。
2ch脳拗らせてミーハーを小馬鹿にしてた反動が来たのかも。何なら今だってサンバ履いてゆるいパンツ履いてる連中を若干小馬鹿にしてるけど。いつか自分もそれに倣わなかった悔やむ時が来るのかもしれない。
あの頃もたけしぶってる場合ではなく、若者らしく時代に染まっていれば良かったかな。
と思ったけど、冷静に考えたらそれ以前は「その時代の若者」であった時期もちゃんとあったな。
スラッとしたシルエットにと言われていた筈が、今や掌返して頭でっかちになるとか言われてオワコン扱いを受ける黒スキニーをちゃんと履いていたではないか。1460に捩じ込んで。流行りは3ホールだったけど。チェスターコートも着てた。
げんじファッションの黎明期だ。あれ下半身だけパンクスみたいで面白いな。
服にも強いこだわりは無かったし、自我がないからこその「スタイル」があった。
ミーハー心でyeezyも持ってたしな。QNTM。アレ今でも普通にかっこいいと思う。ブーム末期な上に履きおろさずに売っちゃったけど。
beatsのヘッドホンとかGIATNTSのチャリもかっこいいなと思ってた。まとめサイトの受け売りで情弱向けのゴミ音質とかルック車とか小馬鹿にしつつ、割と欲しかった。