ハシモト知事はファシストではない


諸君、余だ。
なんでも世の中にはハシモト知事のことをファシストと呼ぶ者がいるそうではないか。中にはハシモトとファシズムを引っ掛けてハシズムなる言葉を使う者もいると聞く。
バカげたことだ。実にバカバカしい。
余に言わせれば、ハシモト知事は、断じて、まったく、絶対に、ファシストでありえない。
ハシモト知事がファシストだというのであれば、彼は手厚い社会保障と福祉で国民が安心して暮らせるようにし、安心して消費活動を行えるようにしてみせるべきだ。
教育や育児に対する手当てを充実させることで「国民の再生産」を支援してみせるべきだ。
「低賃金労働者の輸入」としての外国人労働者の流入を規制してみせるべきだ。
有用で国民生活を向上させるような事業の推進により雇用を作り出し経済を不況から回復させてみせるべきだ。
国民を、飢え・失業・その他、国民の目前にある不安から救ってみせるべきなのだ。
そのようにして国民の絶大なる支持を得て、且つ、国民の生活不安に伴う共産主義の跋扈を防いでみせてこそ正しくファシストというもの。
そういう功績に基づいた絶大なる支持があってこそ、煩い連中をおおっぴらに弾圧でき、大多数の国民から弾圧自体に対する熱狂的な共感と支持を得ることができるのだ。
ところが、ハシモト知事はどうだ?
府の予算からまっさきに福祉と教育を削ったではないか。
救いを求める国民の嘆願の声に対し、まともに向き合いもせず、それどころか「あなたが政治家になってそういう活動をしてください」と突き放す始末ではないか。
余に言わせれば、明らかにハシモト知事はファシストではない。
では何か?
余は「日本的なるもの」とでも言うべきと思う。
「日本的」、そう、実に「日本的」だ。
かつては分からなかったが、今は「日本的」であるということがどういうことであるかを余は知っている。
そして、ハシモト知事は実に「日本的」だ。
余は常々疑問に思っていた。
為政者が国民を痛めつけているのに、何故その為政者の行為が諸君の共感と支持を得られるのだろうかと。
何故に国民を救うどころか国民を痛めつけることが支持されるのかと。
だが、その疑問は諸君の姿を見ることで氷解した。
諸君が苦痛に耐えかねて声をあげる同胞に対して「自己責任」と言う姿を見て。
諸君が「自己責任」という言葉の後に奴隷の鎖自慢のような自分語りを続ける姿を見て。
そういう、更なる苦痛に耐えた自分に、更なる苦痛に耐えている自分に、更なる苦痛に耐えられるであろう自分に自己陶酔しているかのような姿を見て。
余は諸君のそういう姿を見ることで、諸君が「日本的カリスマ政治家」に苦痛に耐えさせられるのが大好きなことを知った。「日本的」なるものがどういうものかを知った。
この国ではファシストすら登場できない。何故ならば国民に利益がある国民の人気を取れるはずの政策が国民に支持されないからだ。
ファシストとて為政者となるには国民の支持が必要。
だが、社会保障による国民の救済を国民自体が悪として拒否するような国では、国民の利益となる政策を権力獲得手段として人気取りに用いようとも支持される筈も無い。
民主主義においては政治の質には国民の質が反映される。
国民に見合った政治家。国民に見合った政府。国民に見合った政策。
ハシモト知事が知事であるのはハシモト知事が知事になることを選んだからではない。今の時代にハシモト知事を選ぶことが「日本的」なるがゆえに諸君に選ばれたのだ。
そこにあるのは「日本的なるもの」を「日本的なる人々」が支持しているという当然の構造だ。
「日本的」なる諸君に「日本的」なる政治家。実に当然のことではないか。



ハシモト知事が歳出抑制により府財政黒字化への道筋をつけたことに対して文句を言っている者がいるそうだが、これもバカげたことだ。まったくもってどうしようもない。今更なにを言っているのだ。
需要不足による不況であろうと、不況で節約が叫ばれれば皆節約で、そういう過少消費によって需要不足による不況をさらに悪化させながら節約自慢をし、好況で浪費が祭り上げられれば、皆、空気に流されて浪費して過剰消費が限界を越えるまで浪費し続けながら浪費自慢をするのが諸君ではないか。
個人の消費活動だけでなく政府の財政政策までそれに倣うのが「日本」ではないか。
そういう国の政府が好況時にも公債を刷ってまで「ばら撒き」を続け、不況時に財政赤字解消のために歳出を抑えることに何の不思議があろう。不況時に公債発行を財源とした積極財政により景気上昇を図り、好況時に税収増と歳出減で返済するということを期待するほうが無理というものだ。
バブルの時代、官僚の薄給ぶりをバカにしていた諸君。不況の時代、官僚の給与が安定しているがゆえに給与の官民格差が逆転すれば官僚の給与の引き下げを叫ぶ諸君。
バブルの時代、大蔵省役人に対する大銀行の接待ぶりから官々接待のようなものまで官僚のバカげた放蕩ぶりが報道されても経済のための必要悪として容認していた諸君。不況の時代、深夜に帰宅する官僚に対する深夜タクシー運転手のささやかな「接待」まで吊るし上げる諸君。
バブルの時代、誰も使わないような施設や実際の交通需要を無視した無駄に大規模で維持管理費が嵩む道路を公債を発行してまで建設することを容認していた諸君。不況の時代、日常生活に必須な生活道路の補修費用すら削ることを当然のこととする諸君。
景気が良くて税収が増えているときにも「ばら撒き」を続け、そのために公債を刷り続けた政党が与党であり続けた政府。そのような政治運営を行ったことの責任に対する審判を下さなかった国民。
諸君ら「日本的なる人々」が「日本的なる」政府を構築し続けている限り、政府に総需要政策に基づいた景気調整機能など期待できる筈も無い。


諸君、余は需要創出政策とその財源としての政府紙幣発行を悪いこととは思わない。インフレ懸念はもっともだが、少なくとも需要不足が更なる需要不足を招き続ける現状を維持するよりはマシな政策と思う。
だが、諸君がそういう政策に反対することは当然のことと思う。
諸君は「神話」となるような「苦難の歴史」を欲しているのだから。
「日本的カリスマ政治家」に苦痛に耐えさせられるのが大好きなところの諸君においては、需要不況時に財政再建路線による官需減少で更なる需要減少を招くことによる苦痛は待望するところであろう。
企業と労働者が極限まで死に絶えるまでデフレスパイラルを継続し、国を「焼け野原」としてこそ新たな「苦難の歴史」の「神話」が誕生する。実に「日本的」ではないか。


なに、こういう物言いは実に偏見に満ちた日本人観でエスニックジョークにもなっていないだと?
そういうエスニックジョークにもならないものをエスニックジョークだと言うのが諸君ら「日本的なる人々」ではないのかね?