「小早川家の秋」~寂寥感とあたたかさ | ネコ人間のつぶやき

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 「小早川家の秋」(1961年)は、老舗造り酒屋を営む一家の人間模様を名匠小津安二郎が独自の映像美で描きます。

 

"p832787446" Photo by jdxyw

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 舞台は京都・伏見。カーテンショットで酒蔵が映されます。

 

 しかし、地元の名士でもあろう造り酒屋を営む小早川家は、今や大手酒蔵メーカーに押されて寂しい佇まいとなっています。

 

 一方、小早川家の面々が話す関西弁が小気味良い。

 

 「違う違う」と2回繰り返す台詞もそうです。

 

 お話もテンポ良く進行するので、何気ない日常を 淡々と撮しているのに、一気に観られるのは小津作品の不思議な魅力ですね。

 

 小早川家の当主・万兵衛(中村鴈治郎)がプラプラ出かけるのは、偶然19年ぶりに再会したかつての愛人・つね(浪花千恵子)のところに通っているから。

 

 長女の文子(新珠三千代)の指示で、従業員の六さんが万兵衛の後をつけるも、流石は当主。

 

 (遊び人とはいえ)出来る男は尾行を見破っています。

 

 そんな万兵衛ですが、帰宅して文子にキツく問い詰められると、先ほどまでの出来る男ぶりは速攻消えて口調もゆとりが無くなり「なんじゃい」「何言ってけつかんねん」の一点張り。

 

 この関西弁の言い方は個人的に懐かしいものがありました。

 

 若いころから好き勝手やってきた万兵衛に亡き母が苦労していたのを目の当たりにしてきた小早川家の女性陣は苦々しい思いなんです。

 

 そして同時に万兵衛が憎めないんですね。

 

 そんな万兵衛ですが(最期もらしいものでした)、まだまだ悔いが残ったであろうことが推察されるのです。

 

 伝統の老舗の終焉と万兵衛の呆気ない死が重なるんですね。

 

 それは一つの時代の終わりなのです。

 

 数年前に長男が亡くなって未亡人となった秋子(原節子)と次女の紀子(司葉子)の人生の選択も、時代の区切り・新たな時代の始まりにふさわしいものでした。

 

 結局は「自分らしい」とか「あなたらしい」という結論が悔いのない生き方なんじゃないですかね。

 

 本作を観てそういうことを感じました。

 

 「人は老いても悟れないもの」という言葉にも同感です。

 

 (だからこそ余計に)結局は悔いのないようにその瞬間を生きるしかないんだ、ということなんですね。

 

 終わりつつある時代、儚い人生が醸し出す寂寥感が「小早川家の秋」の全編に流れています。

 

 でも小早川家のユーモラスな雰囲気と木造建築の日本家屋のあたたかさがその寂寥感を中和しているかのようなんです。

 

 この表現演出こそが小津安二郎監督の匠の技なんじゃないでしょうか。