先日「福田美蘭-美術って、なに?」を観に名古屋市美術館に行ってきました。11/19で会期は終わりましたが、おもしろかったのでそのお話を。
上の作品は「ポーズの途中に休憩するモデル」(2000年)。
ダ・ビンチの「モナ・リザ」のモデルは誰か?という未だ解明されていない謎がありますね。
はっきりしていることは、モデルの女性は途中ポーズを崩して休憩していたであろう、ということです。
「志村ふくみ『聖堂』を着る」(2004年)
単なる和装ではなく、志村ふくみの「聖堂」はアートであり、本来着てはいけない物なんだそう。
それを着ている自画像。
タブーを破るギルティ?
それよりも福田さんの作風、アートの姿勢を自信をもって表明している作品では、と。
「ブレちゃった写真『マウリッツハウス美術館』」(2003年)
海外の美術館で写真O.K.の作品を前にカメラ撮影、でも帰国して現像したら手ブレ…という福田さんの経験談が紹介されていました。
福田さんはその写真を忠実に描いています。
今ならスマホですぐ画像確認出来るけど、デジカメ登場前の「あるある」な体験でした。
「緑の巨人」(1989年)
「緑の巨人」は初期の代表作。インド・ビエンナーレで金賞 受賞。
レディ・メイドをコラージュ的に配した作品かな、と。
キャラクターが懐かしい!
「涅槃図」(2012年)
お祖父さんが童画漫画家の林義雄さんだそう。
福田さんは林義雄さんが描いた動物を涅槃図に再構成しています。
このタッチに見覚えがあります。子ども時代に絵本で見た気がします。
「ミレー〈種をまく人〉」(2002年)
ミレーの名作「 種をまく人」は今から種をまこうとする農夫の瞬間です。
その先、種をまくまでの動きは?というのが本作。
「腕のフォロースルーをリアルに追求したらこうなる」という視点がユニーク!
種をまく人に動きが発生しています。
福田さんによる名画のパロディ的想像の賜物は他にもありました。
「帽子を被った男性から見た草上の二人」(1992年)
印象派の巨匠マネの「草上の昼食」(オリジナルは下図)に描かれた帽子を被った男から見た他の二人。
エドゥアール・マネ「草上の昼食」(1863年)
画家ではなく、モデルの一人の視点で絵を構成し直すとこうなる。と。
視点の転換、それだけでなんだかライブ感というか、プライベート感が出てくるからすごく不思議な面白さがあります。
「テュイルリー公園の音楽会」(2022年)
同じくマネの「テュイルリー公園の音楽会」(オリジナルは下図)が現代の東京なら…同じような風景だった、という。
19世紀中ごろにマネが描いた雑踏。でも時を超えた現代もその雑踏は変わらない、と。
エデゥアール・マネ「テュイルリー公園の音楽会」(1862年)
ユーモア、皮肉、風刺。
福田美蘭さんの作風から遊び心を感じました。
「もし~が~なら」というイマジネーション、着眼点がおもしろい。
浮世絵のシンプルな描線、デフォルメに対し、本作は省略された役者の皺や江戸時代の室内の明かりをリアルに再現しています。
「 二代目市川團十郎の虎退治」(2020年)
ウクライナのゼレンスキー大統領をマネのタッチで描いた作品。
ゼレンスキー大統領と言えば執務室の机越しにこちらをぐっと眼差す、というこのイメージです。
確かにウクライナ戦争前にゼレンスキー大統領を はっきり認識していた日本人はどれくらいいたでしょう。
でも今や誰もが知る存在。
福田さんが指摘されているのは、それは主に毎日メディアを通じて報じられるニュース映像を観たイメージの積み重ねであり、それを我々は認識している、と。
イメージというのが肝なんです。
過去と現在、イメージとリアル、虚構と真実を一つの空間に作られたアート作品。
美術とは何?アーティストに出来ることは何か?
ネットに溢れているスマホ画像。それらは簡単に加工修正出来ます。
戦争では情報戦が繰り広げられています。
メディアが連日映し出す虚実ない交ぜの情報の波。
生成AIが登場した現代は格段にその事情が複雑化しました。
福田さんが問いかける「美術って何?」という問。
アートに出来ることは何か。福田さんはそれをご自身に問い続けているのでしょう。
それは観る者にも提示され続ける問いなんですね。
福田さんは「真実は昔から続くメディア ~絵画の中にあるんじゃないか」、と問うていました。
確かに古来からある美術は真偽ごちゃ混ぜの情報過多の現代社会における真実を提示する今や希有な手法なのかも知れません。
技術の発達を考えると、逆説的であり、一種の皮肉めいたものも感じますね。