イスラエル回りの進展
前回投稿執筆時から、また少し進展がありました。
10月末、イスラエルはミサイル攻撃の報復としてイランを空爆。百機ほどの航空機が出撃し、イランの防空システム、ミサイル燃料製造施設、さらには核爆弾の一部分として核物質を起爆させる爆発物を製造する重要施設をも破壊した様子です。
イラン側では兵士が数人死亡したようですが、このイスラエルの攻撃の正確性というのは驚くばかりです。しかもイスラエル側は無傷で全機が帰還。
イスラエルは、やろうと思えば甚大な人的被害をイラン側にもたらすこともできたはずなのにそうはせず、
いくつかの重要施設に厳密に的を絞り破壊したわけです。これを見る限り、やはりイスラエルとイランで全面戦争になった場合到底イランに勝ち目はないということが明らかになったと思われます。
なお、ヒズボラはアメリカの仲介によるイスラエルとの停戦案に合意したようです。ヒズボラ自身は「勝利した」と吹聴しているようですが(ボコボコにされて血まみれなのに「けッ。今日はこれくらいで勘弁してやらあ」みたいな.....)、もはや指導層も全滅に近く、おそらくは武器も大半が破壊されてしまった状態と推測されます。その後、小規模な衝突は続いていますが、本格的な再開には至っていないようです(それか、もうその力がヒズボラに残されていないのかも知れません)。
そうなると、残されたのはガザ地区。ハマス指導者のシンワル氏はIDFと遭遇し殺害されましたが人質解放はまだメドが立たず。
イランが大人しくなればイスラエルにとって戦争の終息は見えてくるでしょうが、全ての人質の消息が明らかになり、ハマス戦闘員があらかた無力化されるまではガザでの戦闘が収まることはないでしょう。
しかしここに新たな変動要因があります。
米国大統領選挙でのトランプ氏の当選です。
筆者自身は個人的にトランプ氏が当選したほうが(全体的に考えて)好ましいと思っていました。
前期政権におけるトランプ氏はイスラエルに友好的、イランに敵対的でした。
そうすると、ことあるごとにネタニヤフ氏に「自制」を求めてきたバイデン・ハリス政権と米国の対応が異なってくる公算が強いと思われます。
ただ、トランプ政権の新閣僚候補の顔ぶれを見ると、イスラエル大使は福音派牧師で鉄板の親イスラエル派(これはこれで良いことなのですが、一抹の不安要素もあります。後で説明します)であるほかは、年齢が若くてしがらみのない人材を使って主に「米国国内の肥大し切った連邦官僚機構を破壊する」ことを企図した人選であるように感じられます。
そうなると、もしかして各国との交渉はトラさんが直接出張って来るのかも知れません。
ともあれ、バイデン・ハリス政権による、イスラエルvsハマス・ヒズボラの紛争を扱う方針というのは、どっちつかずの姿勢が目立ちました。さしあたりイスラエルの自衛権は認めるが、かといってイ国が断固とした行動を取ろうとすると「自制自制」とうるさい。
トランプ氏は予測不可能な行動で知られていますが、選挙前の言動では、例えばイスラエルがイランの核施設を攻撃することを支持していました。従って、イスラエルが短期的に断固とした措置をとること自体には反対しない可能性が強いと思われます。
ともあれトランプ氏が就任するのは来年一月。それまで状況は流動的と考えられ、引き続き注視を要します。
ところで。
旧約聖書の世界で戦い続けるイスラエル
この投稿シリーズでは、去る10/7にハマスが行った、女性・子供・お年寄りを含むイスラエル一般市民および滞在者を狙った残虐なテロ攻撃と拉致事件を切っ掛けに、我々の目の前に「剥き出しになった霊的現実」に少し触れてまいりました。
そして、それと同時に「我々日本人(および日本人クリスチャン)が抱いている『平和観』や、
それがゆえに悪を見過ごしてしまうような、『平和ボケ』を通り越した『平和絶対主義』『平和原理主義』、
それは果たして正しいのか、という疑問を提起させていただきました。
今回の投稿ではしかし、自分で書いていて胸が重くなるような苦しいことを書かないとなりません。
それは、おそらく誰が読んでも苦しくなるような話だと思います。
しかし、書かないといけない、と私は考えています。なぜなら、それが真実だからです。
それは、昨年10月のテロ事件が示したところの、今のイスラエルの「霊的状態」です。
ハマスの蛮行ぶりに、ほとんど旧約聖書の世界が突然出現したかのように感じた人は少なくないのではないでしょうか。
そう、そしてそのような感想は当たらずとも遠からず、と筆者も考えます。
いや、イスラエルはいまだに「旧約聖書の世界」にいるとしか考えられないのです。
その証拠に、申命記の28章には「もし、あなたが、あなたの神、主の御声を聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら」という条件でイスラエルを襲ういくつかの惨禍の記述があります。
その中には「敵の前に敗走させる」「婚約しても他の男があなたの妻と寝る」さらには「息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕らえられて行く」といった悲惨な状況が記されています。
私は、ハマスその他の戦闘員が最初に襲撃した「ノバ音楽祭」の会場の写真を見たとき慄然としたのを覚えています。
その会場には巨大な仏像が飾られていました。また海外の音楽祭で典型的に行われるように、(違法か合法かはわかりませんが)ドラッグを用いたトリップ状態を楽しんでいた来場者もいたようです。出エジプト記の32章に「民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた」とある状況を彷彿とさせます。
イスラエルの周囲は今も敵だらけです。エジプトやヨルダンとは正常化しているとはいえ、北にはヒズボラ、ガザにはハマス。西岸のPAも芯では敵対的です。
それらの敵は、ただ利益や権益を目当てに戦争を仕掛けてくるのではなく、旧約聖書の詩編83編にあるように「彼らの国を消し去って、イスラエルの名がもはや覚えられないようにしよう」と考えています。
とはいえ、主はイスラエルが滅び去ることがないよう守られます。主の目的はあくまで反逆の状態にある彼らを「懲らしめ」て引き戻すことであり、滅ぼすことではないからです。
しかしながらそれは無条件の守りではありません。彼らが主に従えば祝福され、主に逆らえば呪いがやってきます。
正確に言えば、主の民を付け狙う勢力は常に存在しますが、イスラエルの反逆が目に余る場合には、主はその保護をあえて解かれるのではないか、と私は考えています。
私は、無邪気に音楽を楽しんでいた人がなぜこんな酷い目に、という思いが湧いてくるのにも関わらずこれを書いています。なぜなら、これこそが「霊的現実」だとしか思われないからです。
イスラエルはまだ律法のもとにいます。全イスラエルが新しい契約、すなわちイエスキリストによる救いを信じたとき、初めてこの時代が終わるのですが、そのときに至るまではイスラエルに本物の平和が訪れることはないのです。
(しかもブログ執筆中に展開がありましたが、イランが支援していたシリアのアサド政権が崩壊しました。原因として考えられるのは(1)ヒズボラがイスラエルによって徹底的に叩かれ弱体化しイランが困窮しつつあること、(2)ロシアはウクライナ侵略にリソースを使ってしまっているのでシリア支援する余裕がないこと。
この(1)もまた恐ろしいほど旧約聖書のパターンに沿っています。主は、イスラエルの敵を用いて、イスラエルに対し懲らしめを行いますが、その後その敵が祝福されることはなく、かえって裁かれてしまうのです。)
どうしようもない「ズレ」
前の話題に戻ると、イスラエルそのものが「旧約の世界で生きている」(そしてイエス様の再臨まで生き続ける)ことを示すのはそれだけではありません。
黙示録を読めばわかりますが、未来に起こるとされている事柄の数々がまるで旧約時代そのものです。
具体的に言えば、11章の二人の証人の顛末。彼らは預言し力強い業を行いますが最後に反キリストに殺害され殉教します。そして、その死体は「さらされ」、その死について人々が喜び「贈り物を贈りあう」。
極めて時代錯誤に見えますが、一方で昨年10月7日のハマスの蛮行(e.g.,犠牲者の遺骸を車両の上で晒し物にして撮影する)や、それに伴う一部パレスチナ・アラブ人社会の反応、正確に言えば「祝祭的」反応(路上で菓子を配る等)を見ればこれが決して「前時代の遺物」でないことがわかります。
そして、ここにどうしょうもないほど巨大な「ズレ」があるのです。
かの地では、イスラエルもその敵も「旧約的」世界に生きている。少なくともそれが「霊的現実」です。敵はイスラエルを滅ぼすことを目的としており、他方でイスラエルは(彼らを救うメシアにはたどり着けないまま)自力で生存しようともがいている。
ところが、何度も指摘したように、この日本社会は、キリスト教界も含め、戦後教育を経て確立された奇妙な「平和原理主義」に陥っています。
私は「キリスト者の戦争論(地引網出版)」という本を読んだとき、対談形式の記事の中で牧師さんだったか神学者さんだったかの一人が「今のイスラエルの占領政策は間違っている」云々とご高説を唱えているのを読んで、心底ガッカリし、その時点で本を閉じてしまった記憶があります。
はっきり言って、「絶滅か生存か」の問題がかかっている彼らイスラエル人にしてみれば、
遠い遠い極東日本の、民族的つながりもなく異教徒である日本人が「上から目線で」国防論を説教してくるなど、
「お呼びでない」
の一言でしょう。
どうしてそんなシンプルな想像力も働かないのでしょうか?
いや、イスラエル人でない私から見ても、「あのおセンセ、そんなことよりご自分の教会や会衆の心配をなさったほうが..」と進言したくなります。
(だって日基はじめとして日本の教会って高齢化と規模縮小がヤバいんでしょ?イスラエル・ガザ情勢の心配なんてしてるヒマなくない?)
ラオデキアの悲劇とすぐそこに来ている時代
「平和」過ぎるあまり「平和原理主義」に陥って他国の自衛政策にまで文句をつけるほど増長?してしまった一部日本のキリスト教界。しかし、この日本の平和は勿論かりそめの、表面的なものです。
黙示録に出てくる「ラオデキア」の教会は、なまぬるいとイエス様から叱責され、また「火で精錬された金」「白い衣」「目薬」が必要だ、と指摘を受けています。ラオデキアは豊かな都市で比較的宗教の自由もあったと言われています。悲劇的なことなのですが、そのような環境にあると教会が「なまぬるく」なってしまうのは必定なのでしょうか.....
戦後80年なんの迫害も受けず(≒火で精錬されることもなく....)、自由と経済繁栄の恩恵を受けてきた結果、どうしたわけか聖書やイエス様の再臨よりも「戦争をしている外国政府」が気になって仕方がなくなってしまうのですね。しかも、「占領政策」云々より前の話としての、イスラエルと周囲の敵との戦いが霊的に何を意味しているのか、という視点はメインストリームの日本キリスト教界ではほぼ失われているように見えます。
ところが、そんな私たちの状態とは関係なく、時代の時計は進んでいます。イスラエル周りの情勢を考えてもめまぐるしいばかりです。ということは、他の方面でも時計は早回しで進んでいると考えて間違いないでしょう
↑過去記事です。やや大言壮語してしまった感はありますが、「西洋キリスト教界が急激に衰退するのに伴いユダヤ-キリスト教文明が消滅する」という予測は今でもそれほど外れていないと私は考えています。そうなれば元々その文明の下にあった魑魅魍魎が顔を出してくるのは不可避でしょう。
従って、いまこそ「悔改めて熱心になり」、自分たちの原点すなわち子羊の血によって清められた白い衣、罪を覆う救いにとどまり、そしてまた「目薬」によって私たちの霊的な目が見えるように願うのが急務です。
クリスチャンはプロ-イスラエル?
このシリーズもなんだかダラダラと長くなってしまったので、そろそろ締めようと思いますが、最後にひとつだけ。
2023年10月のテロ事件をきっかけとした戦争が報じられるに伴い、クリスチャンの間でも様々な議論が持ち上がっています。
ストレートに「イスラエルが酷い!許せない!」といった左寄りの議論から、「クリスチャンはイスラエルを支持しなきゃいけないの?」といった素朴な疑問まで、さまざまです。
私は正直なところ、あのテロ事件以来SNS上で飛び交った反イスラエル、プロパレスチナの不条理極まりない暴論の数々に嫌気がさしてあまり細かくチェックすることをやめてしまったくらいなのですが、
私は二つのことだけははっきりと主張できます。
一つは、クリスチャンはイスラエルの滅亡やユダヤ人絶滅を願う勢力に加担してはならないということです。
イエス様が救いたいと願っていた最初の人達は「イスラエルの家の失われた羊」です。
この宣教の「順序」は福音書の最後のほうでも、そして使徒の働きに至るまで保たれます。
(「エルサレム」→「ユダヤとサマリヤの全土」→「および地の果て」という順序。)
このシリーズで何度も述べたように、ハマスその他反イスラエル・テロ組織は、(1)テロを仕掛ける(2)反撃を受ける(3)市民を巻き込んでわざと血まみれになり「イスラエル酷い!」と喚く(4)最初から繰り返し、が常套手段。
アルジャジーラによるニュース画像や、「ガザ当局」(←まさかハマスから独立した自由なメディアとか思ってないよね?)の発表を鵜呑みにしている人にはこの構図は見えないのでしょうが、
彼らの目的はイスラエル滅亡です。
イスラエルへの理由なき憎悪は続きます。そしてそれがクライマックスに達するのがイエス様再臨直前に行われるゼカリア書12章・14章のエルサレム侵略であり、黙示録16章の「メギドの丘」に集まる軍隊です。
それを考えれば、どちらを支持するべきか、あるいは少なくとも、どちらを支持してはいけないかは一目瞭然と思います。
第二に、クリスチャンは全イスラエルの「救い」を願うべきだ、ということです。それはもちろん、イエスをメシアとして信じる、という意味の救いです。
ただ国家としてのイスラエルを支持するだけではやや焦点が外れることになります。
イスラエルをたとえ支持しても、その救いがなければ意味がありません。
基本的に、反イスラエル主義のクリスチャンが陥っている神学的誤りに「置換神学(replacement theology)」というのがあります。
それは、「旧約のイスラエルは見捨てられ、教会が霊的なイスラエルとなった」という考えです。(聖書入門.comより。)
この神学によりもはやイスラエルの存在には意味がなく、神様の約束とも何の関係もない、という誤解に行きつくわけです。
ところが、この誤りとは方向性として全く逆の誤りもあります。それは「二契約神学(dual-covenant theology)」です。クリスチャンはイエスを信じて救われるが、ユダヤ人はアブラハムやモーセの契約があるのでイエスを信じずに救われることができるという考えです。
パウロがローマ人への手紙11章で主張したこと(「 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです」)を引くならばこれは誤りです。二契約神学が真実ならばパウロはこんなことを書く必要はなかったはずです。
憂慮されるのは、「イスラエルを熱烈に支持する牧師さん」の間にこの二契約神学を信奉する方がちらほらおられるのです。(有名どころではChristians United for Israelを主宰するジョン・ハギー師。)
この根本がズレてしまっては実にもどかしいものがあります。しかも、それを信じているのがこともあろうにイスラエル支持派の牧師さんなのですから、なんとも悩ましい話です。
もしかすると、イスラエルと関わるにあたって、ことあるごとに「イエスこそがメシアなのです」と説教していては反感を買ってしまうので自然とユダヤ人に対してはそれを引っ込めてしまう方針になってしまったのかも知れませんね。
私は、前述の新任米イスラエル大使のハッカビー氏の神学的立場については調べたことがありませんが、「一抹の不安」というのはそういう意味なのです。
よく、「狂信的な終末論を信じる米国福音派が政府に圧力を掛けることで米国の軍需産業がイスラエルを支援しガザの悲惨な状況がいつまでも終わらないのだぁ~」といったワケのわからない悪口を左の界隈から聞くことがありますが、
米国福音派の問題点はそこではなく、「ユダヤ人にもイエスが必要」と考えていない人達が含まれているところにあると思います。
だから、ただ単に政治的にイスラエルを支持している、というだけでは物事の重大な側面を見落としてしまうことにつながってしまうのです。
私たちは、どちらの誤りにも陥らず、霊的な側面に目を向ける必要があります。
すなわち、イスラエルを単純に捨て去ろうとする置換神学の誤謬に惑わされず、むしろイスラエルを巡る状況に注視し、イエスの再臨に向けどれくらい「タイムテーブル」が進んだのかを知る、ということ。
そして、イスラエルが救われることが使徒パウロの、そしてイエス様ご自身のビジョンであったことを覚え、その「救いのために祈る」ことです。
ところがところが、そういったことを教えておられる牧師さんは日本には数えるほどしかいないように見受けられます。(有名どころではハーベストタイムの中川健一師くらい?)
私自身は、浅学の身であり自教会外の人達から耳を傾けてもらえるような器では到底ありませんが、
それでもできるかぎりこのことを発信していきたいと思います。
(終わり)