皆さんはスパイと言われて、真っ先に頭に浮かぶのはどういったイメージですか?
身のこなしが鮮やかで腕が立ち、なんにでも卓越した知識を持ち、女性を落とすことにも余念がない。そう、シドニー・ライリーがモデルとなったジェームズ・ボンドのような、どんなイレギュラーな事態にも即座に対応が出来る、そんな勇敢で知的な男性像ですか?
それとも…出逢う男出逢う男すべてを片っ端から虜にし、手のひらで転がすように操る、類い稀な美貌と豊満な肉体を武器に立ち回る妖艶なファム・ファタル。そう、マタ・ハリを代表とする美女スパイ。そんな感じ?それともそんなのはもう古い?
そう、どっちの存在も普通に暮らす一般人にとっては少し古めかしい、けれどドラマ性のある人種で、いわゆるステレオタイプなスパイです。
実際にはほとんどのスパイというものは目立つことを極力避けます。容姿、言動、すべにおいて。まるで空気のように潜伏先にとけ込まなければ、その課せられた“任務”を確実には果たせない、ロマン・マリノフスキーがそうしたように。
(まあアゼフやマリノフスキーはとけ込んだといってももの凄い特殊な例ですけどね)
そして現代ではそれがさらに様変わりし、スパイが姿さえ見せることの無い、高度な盗聴やクラッキングなどの高い技術力を駆使しなされる、情報網への徹底した侵入がスパイの主流らしいです(怒ってましたねえ、アメリカに。メリケル首相)。
で、そんなスパイの世界に異色の、ある意味特出した存在がありました。
それは“男性スパイ”、“女性スパイ”と一言で言い切ることの出来ない“性別の壁”を越えたスパイ”達…文化大革命期、徹底的な共産主義への邁進を始めた中国。第二次世界大戦前後の軍国主義から敗戦国となるまでの日本。貴族社会が根底から覆される“フランス革命”の発端となったバスチーユ監獄襲撃頃のフランス。
奇しくもそれぞれの国の時代と歴史の大きな転換期に関わり、人々に鮮烈な記憶を残した彼ら(彼女ら)。
その、美しくも劇的な生涯をお見せ致します。
【1】〝monsieur.バタフライ〟
2009年、初夏の終わりの6月30日。
パリで一人の年老いた中国人男性がその生涯を閉じました。
1966年から始まった中国の“文化大革命”で暗躍した中国側のスパイの一人です。
かつての国家主席・劉少奇が、後に資本主義を支持する修正主義者となったことで、人間としての尊厳さえ無視されたような凄絶な死を迎えさせられてしまった、陰惨な時代の中国で生きた“女”スパイです。
時佩璞。もう一つの名は時佩孚、京劇の“女優”でした。
彼はフランス人高位外交官であったベルナール・ブルシコのために中国によって精巧に仕立て上げられた“理想の美女”でした。
後にこの事件の経緯は、中国系アメリカ人の劇作家David Henry Hwangによって戯曲化され、今でも世界各国で上演されています。そのどれもが作品としての出来映えよりも、そのショッキングな内容の方が印象に残ってしまう、そんな作品です。鬼才クローネンバーグによって1993年に映画化もされていて、ジョン・ローンが時佩璞をモデルとしたソン・リリン役を演じ、当時かなりの話題となりました。
時折、ジョン・ローンの着る衣装から覗く、隠し切れない壮年男性特有の骨格や肉付などが目にはつきましたがさほど高身長ではないことや、仕草や会話の場面などの声のトーン、口調など、もともと男性として彼がそれほど低い声質ではないことも幸いして、むしろしっとりとした大人の女性の優美さや艶かしさに変換されて、私は素直に映画の中のジョン・ローンを“美しい”と思いました。
物語は『M. Butterfly~エム・バタフライ』のタイトル通りに、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』が諸処で印象的に使われています。実際にブルシコからフランスの国家情報を引き出すためだけに作られた時佩孚という“女性”は、西洋の男性が理想とする東洋の美女像そのままでした。
時が経ち、やがて祖国フランスへ戻ることとなったブルシコを、国家の命によって時佩孚は追って来ることとなります。二人の間に生まれたという偽の子供までひき連れて…。そして不幸な身の内から逃れられない苦しみを切々とブルシコに嘆き話し、「助けてほしいと」縋り付きます。身も世も無く泣き崩れる時佩孚に、ブルシコは再び中国に滞在していた頃と同じように国家の機密を漏らしてしまいます。
しかし1982年、とうとう二人は同棲していたパリでフランス当局に摘発され、逮捕されることとなります。1986年には有罪判決が降り、ともに6年間別々の刑務所に送られ、服役させられることとなりますが、ブルシコはこの逮捕の際に初めて、美しい愛人が実は男性であったという残酷な事実を知ります。
実に18年もの間、時佩璞を女性だと思い込まされていたブルシコは、収監された刑務所の中でカミソリで咽を切り自殺を図ります。世間でも刑務所内でも絶えず笑い者にされ続けることに彼は耐えられなかった。
…ブルシコは実は男性との性体験が皆無だった訳ではなく、“自身の学友との性的関係を持ちながら女性とも普通に恋をした”と学生時代の日記には書いていたようです。
この事実に「ならば何故、彼は時佩璞が男であることに気付かなかったのか?」と誰もが疑問に思い、運が良かったのか悪かったのか、一命を取り留めて刑期を終えて出所したベルナール・ブルシコにも、同じように出所した時佩璞にも、あの手この手で人々は真実を聞き出そうと近付きます。けれどブルシコは「彼女はセックスの時には服を脱がず、灯りもめったには点けさせなかった」というのみでそれ以上のことはなにも話しませんでした。時佩璞にいたっては服役を終えた後、俳優や歌手としてパリで生計を立てながらも、インタビューでその話題になると貝のように不機嫌に口をつぐみ、沈黙を貫きました。
しかしただ一度だけ、時佩璞は1988年のインタビューで「私は男性も女性も魅了し、常にその愛の受け皿として使われてきた。私にとって性別やその恋愛上の行為などなんの問題でもない」と答えたそうです。
時佩璞の死の際、電話でインタビューを受けたブルシコは「私は特に驚いてはいない。40年以上も前から彼は“病気”だったのだから」と答えたそうです。
「少しも悲しくはないのですか?」とですかと尋ねられ、「私は彼の死に同情出来ないほどのたくさんの酷い仕打ちを受けて来た。今さら当時のことを蒸し返すなど愚かな行為です。私はこれでやっと自由になれたのです…」と、何もかもに疲れ切った様子でそう締めくくったそうです。
ウイグル族出身の母親によってたった4歳で“売られた”という時佩璞。
その日その日の食べ物にすら事欠き、生きることも侭ならないほど困窮していた昔を思い出して時佩璞そう語ったと言います。
「私が彼女を信じていたその時間だけが、その日々を美しい物語とした」
死後数年して語ったブルシコのこの言葉には、“飢え”を恐れ、国家への忠誠などよりもむしろ、自分自身の富と安全の代償として我が身を自国に売り続け、そして祖国フランスを裏切るほどの深い愛を与えた彼を、無慈悲にも騙し続けた時佩璞への、強い憎しみと同じ分だけの捨て切れなかった愛情が見え隠れします。
ブルシコは時佩孚への愛もその日々も「すべては嘘だったのだ」と自身に言い聞かせることでのみ、そしてその過去を嫌悪し捨て去ることでのみ、心の平穏を得られると信じたのかもしれません…
ふと、ロシア皇帝ニコライ2世が世界旅行の際に日本へ立ち寄った折り、“日本人妻”をいたく欲しがったと言う話を思いだしました。もちろん正妻にではありません、彼はこの頃すでにヴィクトリア・アリックスを皇后として迎える決意をしていた。彼はピエール・ロティの『お菊さん』を読んで感銘を受け、当時駐在していたロシア人将校たちが日本人妻(もちろんみな所謂現地妻です)を所有していることもひどく羨んだそうです。
その夢を打ち砕かれ、刑務所で世間の嘲りにも耐え切れず喉を切ったブルシコ。裁判中に性別確認のため、ベルナールも同席する場で裸体になることを要求され、ブルシコとの愛の行為の最中、どんなに要求をされても必死に拒み続けた真実の姿を晒した瞬間の時佩璞。
オペラ『蝶々夫人』のラストシーンで、自身の死に逝く姿を見せないように子供に目隠しをし、屏風の影で胸に短刀を突き立てる彼女の姿が唐突に脳裏に浮かんできました。我が身を捨てながら、子供だけは引き取るとする夫。愛を失う自身の絶望と子供の未来の幸せの両方を考えた時、蝶々夫人がとれたただ一つの抗議と受容の行為。
裏切られたベルナール・ブルシコとその愛を利用した時佩璞。
いったいどちらの胸に短刀は鋭く突き立てられたのだろうか…
あるいは両方の胸に刃は等しく深く突き刺さっていたのだろうか…
【2】〝軍服の王女〟
今年、9月7日。かの“李香蘭”が世を去りました…
戦前、戦中、戦後の日本と中国、そして遠くアメリカにまで渡り、歌手・女優として華やかに活躍した美しき東洋の宝石“李香蘭”、山口淑子。
戦後、純粋な日本人であるにも関わらず、そのエキゾチックな顔立ちや本人の意思とは裏腹に日本人であることを隠されてしまった背景によって漢奸(中国側からみた売国奴)としてみなされ、逮捕され、死刑判決が降りるまさに寸前でそれを免れた、奇跡のような数奇な運命を歩んだ人。
この“李香蘭”と奇しくも同じ時代を生き、同じように戦後、漢奸として逮捕され、彼女とは逆に命を失うこととなったのが本名、愛新覺羅顯玗(あいしんかくらけんし)。川島芳子です。
俗称“東洋のマタ・ハリ”。
断髪し、軍服姿などの印象で“男装の麗人”と呼ばれていた、日本側のスパイとして最も有名な人物です。
山口淑子“李香蘭”が日本人である確乎とした証明の戸籍謄本の提示によって無罪判決を勝ち得た後、上海港から日本への引き揚げ船に命からがら乗船した1946年3月から丸2年後の1948年3月25日。北平第一監獄の刑場で川島芳子は無惨にも銃殺刑に処されました。40年の短い生涯でした。
遺体は無数に打ち込まれた銃弾で顔の判別すら用意につかないほど酷い状態であったといいます。
川島芳子の生涯は、誰もが羨むほどに途方も無く自由なようでいて、その実は自分自身をはじめ多くのものに縛りつけられた“自縄自縛”の人生でした。それは最後には彼女自身の命をも奪ってしまうほどの強い“呪縛”となった…
清朝皇族で第10代粛親王善耆の第十四王女、それが川島芳子がこの世に生まれ落ちた時の身分でした。かつてベルトルッチが映画化した『ラストエンペラー』満州国皇帝、愛新覚羅溥儀とは遠縁にあたります。
実父粛親王が清朝復辟運動の交渉人として、彼と義兄弟の契りを結んだ川島浪速を指定し、その身分や権限を保証をし保全するための“生きた証明”として川島家へ養女に出された芳子は、いずれは“清国王女の身分へ戻る”という強い使命と意思がありました。それは実父粛親王の悲願であり、養父川島浪速自身の思想でもあり、指針でもあった。それゆえ川島浪速は芳子の実質的な戸籍上の変更を最後まですることはありませんでした。彼女をいつか清国王女へと戻すために…
世間的には日本人。しかし国籍は中国、身分は清朝王女であることを芳子は“父達”の思いもあり、頑に守っていた。けれどそれが後に彼女の短くも激しい生涯を決定づけることとなりました…
義和団事件の際、紫禁城の無血開城に成功するほどの手腕を持ち、満蒙の再興独立にほぼ一生を捧げた川島浪速の養女となった芳子は、とかく話題の絶えない娘でした。
満蒙独立国構想が頓挫し、失意の川島浪速に手を引かれて日本へ渡ってきた芳子は、子供のいなかった川島家の長女として迎え入れられます。けれど養父浪速は本当は跡継ぎの男の子が欲しかったためなのか、始めのうちは芳子のことを良雄と呼んだそうです。
幼い芳子に冗談のつもりでか「あなたのお国はどちら?」と聞いた日本の大人もいたそうで、しばし考えて「お母さんのお腹の中」と答えたという芳子。清国王女でありながら、止むに止まれぬ背景があって日本人の養女とならねばならなかった彼女に、いったいどんな答えをこの大人が期待していたのかは解りません。しかし彼女の中の国や性のアイディンティティーの揺らぎの問題は、すでにこの頃から顔を見せていたようです。
松本高等女学校時代、馬で通学するという女学生にあるまじき行動をとっていた芳子。授業放棄をして無断で学校を休む、校則を平気で無視するなど完全な問題児だったという彼女の行動に教師達はみな頭を痛めていたようです。
そんな芳子の実父粛親王が亡くなったのは1922年のことで、芳子が15歳のまだ少女の頃でした。
直ちに休学し養父浪速と中国へ渡ったものの死に際には間に合わず、別れを惜しみながら半年後日本へ帰国するのですが、松本高女への復学は拒否され、芳子はそのまま退学となります。もともと正規の生徒ではなく聴講生という立場ではありましたが、いくら問題児とは言えど、実父の喪に服しながら帰って来たばかりの生徒を“校内の秩序を乱す”として放校するというのは相当に厳格でいささか薄情ともいえる仕打ちです。
退学後、17歳までの2年の歳月のうちに芳子は生まれて初めての恋心を、当時信州松本連隊所属の日本軍少尉であった山家亨に抱きます。
川島浪速が陸軍通訳官や軍政事務官を歴任していた縁で、川島家に度々出入りしていたという当時の山家亨は、後に軍の特務につき、多くの女優たちとの艶笑譚が絶えない男となるとは想像もつかないほどの、初心な非常に好感の持てる好青年だったようです。しかし淡い恋を育んでいた二人は、山家の上司の命令によってその仲を引き裂かれます。皮肉にも芳子の生まれ故郷中国へと山家が転属されて…
17歳だった芳子はこの傷心をきっかけに自殺を図ってしまいます…侭ならぬ清朝復辟、実父の死、松本高女からの退学、そして失った初恋…芳子から生きる希望を取上げるには充分過ぎる理由でした。慣れぬ日本の地で好奇の目に晒され、がくがくと震える両足で必死に立ち続け、ずっと張りつめていた心の糸がぷつんと切れる音が、芳子の耳には聞こえたのでしょうか…
けれど生きる意味を完全に見失ったはずの芳子の命は、彼女の意に反して救われてしまいます。そうして再び残酷な世間で生き続けねばならなくなった彼女の出した結論が、“女を捨てる”ことでした。
黒髪を切り落とし、男性の衣服を身に着け、自身のことを“ボク”と呼び、新聞に“女を清算し、男として生きる”という決意文をしたため掲載した。王女にも戻れず、学び舎を追われ、恋にも破れ、高貴な血統の誇りや自尊心を傷付けられ続けた彼女には、立ち上がり生き続けるための“強い力”が必要だった。そのためには自分自身の中の“弱さの根源”と彼女が結論づけた“女性の部分”を嫌悪し、切り捨てるより他無かった…
男装ゆえ、同性が恋の相手として見られがちな川島芳子ですが、実は女性との噂は皆無と言っていい。
「僕としても、女らしい女として、口に紅の一つでも塗って、愛すべき男性があったなら、自分の特殊の念願、国への動きが完成して、万事が完成したならば、何時でも本然の女に帰って、やさしい一女性になりたい・・・」
芳子が後年漏らしたこの言葉は、“男装”という選択が、彼女にとってどれほど悲痛な決心の上のものなのか、とてもよく理解ができます。
一時は再び女性の姿に戻り、蒙古族の巴布扎布(パプチャップ)将軍の二男カンジュルジャップのもとへ嫁ぎ、「お嫁さんになって2年半、其間に大連中知らぬ人無い位、おとなしい、諦めた、辛いお嫁さんになって台所してゐました」と当時を思い出して語った芳子。
決して夫婦仲が悪かった訳ではなく、むしろ芳子はカンジュルジャップという男性をとても気に入り、夫としてよくたてていたと言います。またカンジュルジャップの方も妻の芳子を気遣う、優しい夫でした。
ただ姑や親戚(特に女性)と芳子はまったくうまくいかず、言い争いなどもどんどん激しいものとなり、ついには芳子は嫁ぎ先から出奔してしまいます。そのまま2度と嫁としては戻らず、その後一度だけ戻ったのは、芳子が出奔し二人の間に離婚が成立して、カンジュルジャップが新しい妻を迎える結婚式の時のみでした。
この時の芳子の行動は実に彼女らしいのですが、芳子はこの結婚式にカンジュルジャップの“正妻”として出席し、贈答品などもあくまで“正妻”という立場をとって渡したそうです。芳子の中では新妻はあくまで“側室”であるという位置づけだった。
自分自身の“弱点”の塊である“女”でしかない姑や親戚の女たちに仕え続けることは、一度“女”を捨てた身の芳子にとっては、たとえ夫の愛があったとしても堪え難いものだった。しかしだからと言って、自分より“身分の低い女”に妻の座を奪われることもまた許し難かった。どちらも“女”を捨て、“男”として生きることを選んだ彼女のプライドが傷つくことだったから。
“正妻”として“側室”と“夫”との結婚をとても喜んだという芳子の祝辞を、とても積極的に招いたとは思えないカンジュルジャップ夫婦や親戚達は、いったいどういう心持ちで聞いたのだろうと、なんだか少し無責任な野次馬根性で気にはなります。芳子は二人の間に子供が産まれた時も祝いの品を贈ったそうです。
この離婚劇を機に芳子は上海へと渡り、そこで後に諜報活動へと彼女を引き込んでいくきっかけとなった関東軍中佐の田中隆吉と出逢います。上海の公使館付武官補佐官であり、諜報活動の実動部隊であった田中は、瞬く間に愛人関係となった芳子の清国王女としての身分やそれゆえに身に付いたであろう高い語学力。高貴な血統だからこその時に傲慢ともいえる大胆な行動力や度胸の良さ。そして当然スパイには不可欠な“普通の女”以上の頭の良さを見抜き、上司で参謀長の板垣征四郎へと紹介します。
板垣の指揮下で諜報謀略の実技などを仕込まれた芳子は、満州事変の際に愛新覚羅溥儀の正妻である婉容を天津から脱出させ、悪名高い日本人僧侶襲撃と上海事変の煽動を実行し成功させる傍ら、呉淞の砲台数の調査、孫文の長男孫科を籠絡し国民党内部や蒋介石の情報を入手するなど、着々とスパイとしての実績を積み上げてゆきます。
この頃の芳子はすでに、諜報の対象を籠絡する手段にも、関東軍上層部の人間に取り入る手段にも、自身の自慢の肉体をとても奔放に効果的に利用していました。
けれど一方で“権力”や“財力”を持たぬ男はまったく歯牙にもかけなかったといい、自身の愛を傾け、肌を許す相手には明確な“資格”や“基準”を設けていた芳子。そうして気がつくと、彼女の別称となっていたのが“東洋のマタ・ハリ”。
“女”を捨てたはずの川島芳子の最大の武器が、皮肉にもその男装を解いた先の“女の身体”だった…
“東洋のジャンヌ・ダルク”という見出しで、安国軍総司令官という大仰な肩書きを与えられ従軍した川島芳子の熱河作戦での凛々しい軍服騎馬姿の写真が新聞の一面を飾れば、ラジオへの出演、レコードの発売。講演会や雑誌での手記の掲載なども次々と舞い込んで来る。芳子をモデルとした小説が村松梢風の手によって書かれ、それをもとにした舞台で新派の屋台骨水谷八重子が主演の芳子を演じる。市井の“川島芳子熱”の上昇は天上知らずで、あらゆる場所にファンの婦女子や、彼女を真似て断髪し男装に近い姿をする女たちも現れ始めました。
実際には2年程度のスパイ活動しかしていなかった芳子は、もうこの時期にはほとんど諜報活動に加担することが無くなっていました。けれど芳子のこの社会現象のような人気の過熱ぶりは、軍部としては甚だ遺憾なものでした。
そもそも軍部にとっての芳子の利用価値の大半は諜報というよりも、清国王女としての身分であり、彼女を関東軍に“頂く”ことによって、名ばかりの“清国後継満州国”建国が正当化されるからでした。けれどもう既に“満州国”は建国され、溥儀を皇帝として即位させた今となっては芳子は完全に“用済み”で、下手に諜報活動に関わらせたばかりに過去の軍部の機密事項も知っている非常に煩わしい存在となっていた。
決定的な事由となったのは、その頃ではもう恒例となっていた田中が芳子の派手な行動を禁め、それに対して芳子が言い返すという何度目かの激しい口論の際のことでした。もはや自分が軍の厄介者となっている事実に逆上した芳子が自暴自棄となり、自身と男女の関係にある者もそうでない者も実名を挙げ、事実も虚実も引っ括めて誹謗中傷をし、最終的に「軍の機密を漏洩する」と言い始めたことでした。
田中隆吉の他に、満州国軍政部最高顧問から最終的に陸軍大将にまでもなる多田駿。相場師伊東阪ニに笹川良一。これらは彼女のはあくまで公になっている愛人たちですが、実際には軍上層部の人間達の大半が彼女の肉体の魅力を知っていたといいます。当然みな妻子がいるし、そんな醜聞は披露されるわけにはいかない。
そして何より過去のこととはいえ、関東軍の機密事項など絶対に口外されては困る。
事態はまるでことを予期していたかのように素早く展開し、直接的に命令を下したのは芳子が「パパ」と呼んだほどに信頼し熱烈に甘えた多田駿でした。多田はこともあろうに芳子の初恋の相手である軍の特務も担っていた山家亨に彼女の暗殺を指示したというから驚きです。芳子をかつて血の繋がった姪かなにかのようにたいそう可愛がっていたという多田駿のサディスティックともいえる不気味な一面が垣間見えます。山家は「どうにかして芳子を説得する」として、すべての責任を自分がとる確約をし、渋面の多田の了解を得て熱りが冷めるまで芳子を日本へ逃します。
この当時すでに“李香蘭”は日中両国の映画スターとなっていました。
彼女をそもそも満映に紹介した人物が、関東軍報道部所属少尉という肩書きを持ち、中国語にも日本語にも長けた“中国人女優”がプロバガンダのためにどうしても欲しかった山家です。そしてこの頃の山家はもう、かつて前途有望な好青年であった印象などどこにも残っていない、常にアヘンの煙と女の白粉の匂いがする男でした。中国人女優達との艶聞も絶えず、中国名の二つ名“王嘉亨”を巧みに使いこなす妖しい人物となっていた。
特務と言えば聞こえはいいが、時には要人の暗殺やもう用の無くなった人間の始末なども請け負う軍隊の“暗部”の汚れ仕事です。ともすればその身に立ち上る血の匂いを消すためには、山家にとってアヘンと女しか手は無かったのかもしれません。
非情な仕事の傍ら、女に情が深かった山家は、中国で再会した川島芳子との間にも当然関係がありました。もともと嫌いあって別れた仲ではないのですから当然の成り行きかとも思います。ただこの後すぐに山家は“白光”という女優との恋愛に没頭し、彼女と同棲を始めます。
そのことを知った芳子は、山家の熱愛の相手が女優であるという情報だけを耳にし、当時最高の人気を誇った“李香蘭”がその相手なのだと思い込んでしまい、嫉妬から「李香蘭はボクの初恋の人を奪った!」と周囲にふれ回ります。(…この人本当に激情型の性格です。さすが王女様だしやっぱり中身は女性です)
後に芳子の耳に真実が伝わったことによって李香蘭への誤解は解け、暗殺令も緩和され、再び中国へと戻り、天津で女主人となって東興楼という高級料理店を切り盛りしていたある日のこと。東興楼に花のように美しい女性客が来店します。実父山口文雄と偶然来店した17歳の“李香蘭”、山口淑子でした。
“李香蘭”の名は芸名などではなく、いわば川島芳子の逆で、日本人の中国語教師であった実父ととても親しい付き合いのあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍の間で芳子の養女の縁組みが執り行われたからです。“李香蘭”の名はこの李際春将軍がつけたものです。
芳子は名前の音が同じ“ヨシコ”で、同じように日本と中国という異国の親の間で養子縁組をされた山口淑子を、自分の幼い頃のあだ名をつけて「ヨコちゃん」と呼び妹のように可愛がったと言います。また山口淑子のほうでも「お兄ちゃん」と呼び芳子を慕ったと言います。
しかし時勢は急激に移り変わり、二人の“ヨシコ”を囲む空気も急速に変化してゆきます。山口淑子はマネージャーや2番目の養父であった潘淑華に、素行も評判も同様に悪い川島芳子の店へ行くことを固く禁じられ、川島芳子の方も関東軍からの暗殺令も完全には解除されず、今度は漢奸として中国側からつけ狙われるようにもなり、危うくなると日本へ逃げ、熱りが冷めると中国へ戻ることを繰り替えすようになっていました。
この頃に、山家亨が山口淑子へ宛てた手紙があります。
「芳子は、日本軍の中国大陸における行動を批判した文書を東条英機、松岡洋右、頭山満ら日本の政界、軍部の大物たちに配り、蒋介石との和平工作を呼びかけているが、その中で多田中将のことを口をきわめて非難している。
中将が芳子を相手にしなくなり、いまやうとんじていることへの私怨もあるが、あの文書には彼女なりの日本軍に対する失望の気持ちもこもっている。いずれにしても中将は、このまま芳子を放置するとますます厄介なことになるので、”処分”することを決断した。そしてその命令がボクのところにきた。
…彼女は軍をかきまわしすぎたよ。だが、消せと言われても、処刑するにはしのびない。昔から知っている女だし、かりそめにも清朝粛親王の王女、満州皇帝の親族だ。そこでボクが責任を負うかたちで、一時国外退去処分にして日本に送り込んだのだ。いま九州の雲仙で静養しているはずだ」
このすぐ後、李香蘭=山口淑子が九州の博多で撮影をしていて、その最終日となった日の夜。ふいに川島芳子が淑子の宿泊しているホテルに訪ねてきました。淑子は再会を喜びながらも、複雑な胸中だったと言います。
「川島の母が少し頭がおかしいので雲仙で静養している。ボクはその看病にきているんだ。…キミもすっかり人気スターになったなあ。映画川島芳子伝を撮る計画があってね。キミに主人公のボクを演じてもらいたいんだが…ボクはいま後世に残る国家的な大事業を計画しているんだ。川島芳子が蒋介石と手を握る。笹川良一と新しい政治団体を作った。松岡洋右や頭山満も協力してくれる。キミも入会したまえ」
本当は相当に命の危うい芳子の身の上は知っているし、押しもおされぬスター女優となり、そんな映画を撮る話があったなら知らぬ筈が無い淑子に対して見え透いた嘘を繰り広げ、展望の見えない政治活動の話をする芳子の様子に、普段からキザで、人前ではやたら恰好をつけたがるところや、わざとらしいウソでその場を取りつくろう癖があったことを、山口淑子はじっと話を聞きながら思い出していたと言います。
その明け方、まだ暗いうちのこと。
「ヨコちゃん、久しぶりにあえて嬉しかったよ。キミと会うのもこれが最後かもしれん。
振り返ってみるとボクの人生は何だったのだろう。人間は世間でもてはやされているうちがハナだぞ。利用しようとする奴がやたらとむらがってくる。そんな連中に引きずられてはいかん。キミ自身が本当にやりたいことをやりなさい。
人に利用されてカスのように捨てられた人間の良い例がここにある。ボクをよく見ろよ。現在のボクは茫漠とした広野に日が沈むのを見詰めている心境だ。ボクは孤独だよ。ひとりでどこへ歩いていけばいいんだい」
女を捨てたと言いながら“女”を武器にし、もはや王女としての身分など過去の栄光でしかなく、“絵に描いた餅”でしかなかった清国再興…自身の“希望”と“欲”とを逆手にとられ、“身分”と“色”とで日本軍を手玉に取っているつもりが、実は体よく利用されていただけだった真実。…はたして彼女はその真実に、本当に気付いてはいなかったのだろうかと、小世々は考えてしまいます。どこかで気付いていながら、もはやどうにも引き返せななくなっていただけではなかろうかと…
とても素直に自身の心情を吐露する芳子の手紙を読んで、「こんなに人間くさい川島さんを見たのははじめてだった」と、山口淑子は後の自伝の中で語っていました。
虚勢と虚実で塗り固め、かつての栄光に縋るしかなかった川島芳子の人生への悲しい嗚咽が聞こえて来る気がします。
そうして1945年の10月、終戦から2ヶ月後のこと。川島芳子は北京で国民党政府軍に捕らえられます。罪状は漢奸。
芳子は実はこの時点では自分が本当に死刑になるとは思っていなかった感があります。
獄中からは川島浪速に「戸籍謄本を送ってくれ」と手紙を書き、浪速からの返事を余裕綽々と待っている様子だったようで、同時期に山口淑子が捕らえられ、戸籍謄本を提示したことによって無罪となった事実があったからでしょう。
しかし浪速から「芳子が日本国籍を有するのは間違いないが、戸籍は関東大震災で焼滅してしまったので今は取得できない」とする松本市長の「川島浪速の話に相違ない」という一筆も添えられた返事が届いたことで事態は一変します。焦った芳子は、「ならば妹(芳子の後に川島浪速の養女となった粛親王の長男の子。実質的には芳子の姪)廉子の廉の字を芳に変えて送ってほしい」と偽造を願い出てまで食い下がっている(たとえ名前を偽造したとしても裁判官の説得はまず不可能だったでしょう。芳子と廉子とでは生年月日も年齢も違う。追求されたら終わりです)。
…もちろんこの手紙の「芳子が日本国籍を有するのは間違いない」という言葉は浪速の嘘です。彼は一度も芳子を入籍させてはいない。浪速が散々考えた最大限の苦肉の策がこの松本市長の一筆だったのだと思います。そしてたぶん2通目の芳子の手紙はうまく日本には届かなかったのではないでしょうか。正真正銘の日本人である山口淑子が戸籍謄本を手に入れるのですらも、ソ連人の幼馴染みリューバが命の危険を顧みず淑子の両親の元へ出向いてくれたから出来たことです。
“李香蘭”はあくまで映画の世界の人間で、日中両国の大スターとはいっても、清国王女として華々しい身分に生まれ、軍や政界、財界、芸能界と、あらゆる分野で注目された川島芳子に比べればたとえ人気があるとは言ってもその人脈は追いつかなかったでしょう。
けれど山口淑子の場合にはリューバをはじめ、我が身を省みず芳子の助命のために働いてくれる人々がいた。川島芳子の場合には色と欲とで繋がる相手や、スターのように扱いもてはやす人々は無数にいたとしても、本当の意味で彼女を助けるような強く暖かい人間関係は築けていなかったのかも知れない。たった一人だけ、それもたった一度だけ助けてくれたのが、初恋の人、山家だった…しかしその山家も彼女のもとには留まらなかった…
無罪判決の際、裁判官葉徳貴から、
「漢奸の容疑は晴れた。無罪。ただし全然、問題がなかったわけではない。この裁判の目的は、中国人でありながら中国を裏切った漢奸を裁くことにあるのだから、日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。それは、中国人の芸名で 『支那の夜』 など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」
そう訓告された淑子は深々と頭を下げ、
「映画の企画、製作、脚本についてまで責任を持つことはできませんが、出演したのは事実であり、若かったからとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」
こう謝罪しました。無罪の判決を下したものの、おそらく当時の大半の中国人の思いを代弁したであろう葉徳貴の言葉に、周囲の大人に騙されるようにたった14歳で歌手、17歳で女優としてデビューし、あれよあれよと言う間に押しもおされぬ大スターとなり、周囲の大人の言葉をただ素直に信じ、言われるがままに行動をとった、常に中国と日本の狭間で苦しみ続けた淑子の心からの謝罪の言葉でした…
刑執行後、川島芳子の銃弾でボロボロになった衣服のポケットから、一枚の紙が出て来ました。
家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
これは川島芳子の遺書として一部で伝わっていますが、正確にはそうではなく、松本高女時代に彼女が好んで口ずさんでいた自作の歌です。
問題行動が多く、度々校長室で叱責された芳子は自身の覚えの無い罪でも何度か呼びだされたといいます。田中隆吉は自身の戦後の裁判で上海事変の内容を語るとき、芳子もそれを企てた共犯のように証言をし、その供述により芳子の漢奸としての罪は確定しました。
「実際は全てが田中の筋書きで芳子はそれに従って動いただけなのだから罪は無い」とする見解もあります。確かに企てるのとただ実行するのとでは罪の重さが違います。
けれど関東軍の特務として、中国人労働者を煽動し日本人を多数殺させ、今度はその報復と見せかけて日本人に中国人を殺害させた“上海事変”から“日中戦争”までの顛末を、自身の“成功”として数え、同じ“同族”を道具に使ったことになんの“蟠り”も感じなかったとしたら、そこに中国人の怒りが向けられるのは厳しいようですが当然と言わざるを得ない。なぜなら彼女はことあるごとに清国の再興を掲げ、その王女の身分を強調してきた、中国人にとっては紛れもない“同族”なのだから…
山口淑子は漢奸の罪で捕らえられていた間に幾度も「スパイとして共産党へ潜り込むなら即刻無罪になって釈放されるし、住む家など豊かな生活も自由も保証する」と国民党政府から持ちかけられますが、その度に「私は漢奸ではありませんし、スパイをするつもりも一切ありません」と断り続けました。
彼女がまだ歌手としてデビューする前の14歳の頃。ある会合の場で「もし日本軍が万里の長城を越えて北京へ侵入した時、我々はどう闘うか」という議題が上り、それぞれが「城壁の中には一人の日本兵も入れさせない」、「死ぬまで戦う」と声を上げる中、一人「私は北京の城壁に立ちます」と答えました。