山口淑子を美化しようとしているわけではありません。けれど、当時厳密な戸籍制度のなかった中国にとって、憎き日本人でありながら中国人のフリをずっと続けて来た“李香蘭”の戸籍謄本など、握り潰そうとすればいくらでも出来た。実際、担当係官は戸籍の意味が解らず、中華電影の社長であった川喜多長政が日本に留学経験のある中国人に必死に頼んで説明してもらい、やっとなんとか証拠物件として受理してくれた程度です。その程度の証拠能力だったし、裁判所の外は裏切り者“李香蘭”の死刑を待ち望んでいる人々で溢れかえっていました。
けれど法廷で裁判官は、中国人の誇りを傷つけるようなプロバガンダ映画に出演することに疑問や罪悪感を感じながら、祖国日本も裏切ることの出来なかった、両国に引き裂かれるような李香蘭=山口淑子の長きに渡る苦悩や煩悶を厳正にきっちりと認め、無罪と判断しました。
「戸籍謄本さえあれば、川島芳子の命は助かった」とする見解もあります。
漢奸の基準は至極単純です。祖国(中国)を裏切り中国人でありながら敵に利益となる行為を働いたもの。
“清国粛親王の娘で、満州事変以来北京、日本と中国の間を頻繁に行き来し諜報活動を行った事実。日本の作った満州国運営に加担し国境侵入をはたそうとした。日中戦争勃発の発端となる煽動的行為や戦渦の拡大をはかった。日本の活字や放送媒体で祖国の情報を披露した。満州族の復興と中国統一をたくらみ、溥儀に北京に遷都するよう教唆した”………以上が川島芳子の列挙された罪状です。
自分の意思ではなくとも、中国人のフリを続けた自身の立場や行動に後悔をし続け、辛い牢獄生活に耐えながら国民党政府の甘い誘いを断った山口淑子と、自身の行動によって多くの命が失われた罪の責任を中国政府と日本政府にのみ言及し、我が身の責任については何も語らず反省の弁もなかった川島芳子。二人を並べた時に、裁判官から見てはたしてこの二人の姿は同じに映るものでしょうか…。
反省や謝罪などは王女の“誇り”が許さなかったのかもしれない。
しかし松本高女時代、覚えの無いことで叱責を受けたという川島芳子は、高貴な身の上の自身が率先して校則を破ることによって、その影響を受けて素行の悪くなる生徒が出るということを充分に学んだはずです。新任校長土屋文明が実父を失ったばかりの悲嘆にくれる彼女に退学という残酷な処分をあえてしなくてはならなかったのは何故なのか、じっくりと己を省みればその理由は解ったはずです。
法律の下では身分の上下に関わらず本来人間は平等です。
“清国再建”のための犠牲を平気で強いる王女に誰が進んで国民になろうとするだろう。その自身の切望と民衆の感情への無関心さが混在する大きな矛盾にどこかで芳子は気付くべきだった。
14歳で「城壁に立ち、日中どちらの銃弾にでもうたれる」と言った山口淑子と、法廷を欺くため戸籍謄本の偽造の指示までした40歳の川島芳子とでは、人間としての“信頼性”が格段に違う…“不正”や“裏切り”に対するそういった認識の甘さ、人間としての未熟さが、あえて言うなら川島芳子の最大の罪だったし、裁判官がそれを見抜いたのだとしたら…やはりどうあっても彼女の刑死は免れなかったでしょう。
“清国再建”と“王女の身分に戻る”という熱望はあっても、“こうした国にしたい”というその先の確乎とした“理想”など考えてはいなかった川島芳子は、国という入れ物があっても、その中に国民がいて実際に国民として動いてくれなければ国ではないのだということに、どうしても思い至らなかった。そうして彼女をもてはやしていた人々も、次第にその彼女の“思考”と“行動”の“浅さ”を見抜き始めた。彼女の切望する国は、民衆不在のただの“箱”なのだと。そこには王女の座る玉座しかないのだと。
芳子はたぶん二人の父親が本当に好きで心から尊敬もしていたのでしょう。だから粛親王と川島浪速の悲願“清国再建”にこだわり続けた。浪速が男の子が欲しかったと知れば丸刈りにもした。事実中国にいた頃は可愛らしい女児の姿でした。
おそらく芳子は“清国再建”の望みが絶たれ、中国から浪速のもとへ養女に出された時、自身の努力が足りなかったせいで「捨てられた」と思ったのかもしれない。だから二度と同じ思いはしたくなかった。同じ心の傷を背負いたくなかった。だから父親二人の“願い”を叶えることにこだわり続けた。2度と「捨てられない」ために…、それが彼女の心の“呪縛”となるほどまで…
“女は弱い”だから女を捨てて“男として生きる”。“金も名声もない人間は自分にとって無価値”。そして“兵隊は手駒、民衆は道具。犠牲は可哀想だが責任は軍や国にある”そうして掲げ続ける“清国再建”…
この芳子の短絡的な人生観の正体は、ひとえに父親二人が彼女へ与えた“呪縛”が大元にあるのでしょう。なんと罪深い真似を娘にしたのかと思います。父親達の望みを叶えるために、芳子は彼女の人生を本気で心配し苦言を呈するものを悉く退け、結局最後に手元に残したのは芳子が自身のために利用しようとして、逆に自分が利用されていた、そして最後には邪魔だとして命さえ狙おうとした人々と、そんな彼女の悲しいほどの愚かさにひたすらに沈黙して、つき従った人々でした。
1948年3月25日。
川島芳子の死の報せを聞き、多くの人々が新聞に追悼を寄せました。
「彼女の武器は、絶世の美貌と愛新覚羅王朝の貴種の血と金力と溢るるばかりの才気と頭脳であった。しかし彼女の悲劇の原因もそこから発した。彼女の生活には理想もなければイデオロギーもなければ、近代的性格は殆ど存在しなかった」
川島浪速の夫人福子の縁者であった日本史学者、原田伴彦の言葉です。
「私が御一緒に生活させて頂いて感じた芳子さんは、皆さんが噂するように人を利用してかかる策士ではありません。むしろ私には清朝粛親王の遺児を、日本の軍人や民間人のお偉い方が色と欲とで利用されたという印象が強く残っております。
芳子さんはとびぬけて頭の回転が速く、縫い物、茶、花、お料理、乗馬、射撃など見事にこなされる半面、すぐばれる嘘をつくのが得意な方でした。そのため誤解を招いたと思うのですが、本当は淋しくてたまらなかった方のようにお見受けしました」
川島浪速の秘書であった庄司久子の言葉です。
「切れば赤い血の出る人間が、カラ元気でもつけなければ押しつぶされそうな権謀術数や冷酷な人間関係の中にあって、寂寥感をことさら押かくしながら陽気に人目をひいていたという点だけは理解してほしいと思います。たしかに標準からはズレたお人柄といわれましょうが、底に流れる人恋しさ、ぎりぎりの人間性に注目してあげてほしいという気がするのです」
芳子の秘書だった小方八郎の言葉…
芳子をよく知るこれらの人々の追悼の言葉から浮かんで来るのは、男装と“力”のある男を自身の“鎧”に使い、孤独や寂しさを埋めるためにアヘンやセックスといった快楽を使い、隠し切れない寂寥を覆い隠すために虚勢を張って上機嫌を装い、自身の高貴な身分や不可解な魅力を使って人を選別し利用する計算高さを見せているつもりで、その実は体よく男たちから利用されていた哀れな虚像です。
彼女には「男として生きよう」としていながらも、実はどの女性よりも強い《男性》への憧れと依頼心とがあった。それは“二人の父親の夢”を“自分自身の夢”と思い込むことから始まったもの。だからこそ軍服を着て、「私も男だ」として、“軍隊”という究極の男性社会に身を置きながら彼女のとった行動は、その《力》におもねってすり寄り、大金をせびって王女の誇りを守って貰うことだった。それしか出来なかった。
あやふやで空っぽな自分に二人の父親から与えられた清国再興という“生きるための夢”。けれどそれはただ“引き継いだ夢”であって中身はない。そして“時代”はもう清国再興を望んではいないのだという現実。芳子は本当は気付いていた筈です。その現実に…彼女ほどの“頭の良さ”を持っていたなら、そのすべてが“逃げ”だということに気付かぬはずはなかったと小世々は思っています。
もし芳子が“民衆”が自立し“民衆”として自分たちが主体となる社会を模索し始めたように、彼女自身もまた“父親達の夢”の妄執から脱却し、自立し、自分の足でしっかりと歩き出していたなら、自分が生きる上で本当に必要なものとは何なのかを、どんなに辛くとも自分自身と向き合って探し出せていたなら、ここまでの惨く悲しい結末にはならなかった…そんな気がします。
ベルトルッチの映画とは違い、甘粕正彦は芳子を徹底的に嫌ったといいます。
「私利私欲を思わず、ふっきれたように男気に溢れていながら、人への細やかな配慮も忘れなかった。けれどヒステリックで神経質、度が過ぎる冗談で周りを困惑させもした」という甘粕の人となりは、どこか芳子に似ている気がします。
ただ決定的に違ったのは、
「満州という国を一つの国として立派に育て上げようとし、そこに住む人々を日本人満州人分け隔てなく大切にした」という事実。
甘粕にとって、何のヴィジョンも持たずにただ清国再興の題目だけを唱える芳子という存在は、表裏一体のまかり間違えばそうなったグロテスクな自分を映す鏡のようなものだったのかもしれません。
彼女が理想とし、利用して来たのは、“権力”と“財力”を併せ持つ“男”で、その《理想の男》だからこそ、自分を抱く権利があるとして身体を与え、代わりに“空想の王女”として生きるための“膨大な金”と“優遇”とを求めた。生きる手段とした《理想の男達》は《王女の身分》を裏付ける《証明書》のようなもの。彼女は結局それに縋りきってしまった…虚ろな自分の中身を《理想の男》と《王女の身分》への執着心で埋めた…そしてどうしてもそこから抜け出せなかった。
“人間”という生き物が生まれ持つ、“愚かさ”と“悲しさ”。
川島芳子の生き方と姿を見つめる時に、一瞬目を背けたくなるほどに苛々としたものを感じる人々がいるのは、彼女のその“あさはかさ”を自分にも見るからだと思います。
金や権力を持つ相手に強く求められれば、まるで自身の“人間としての価値”が上がったように感じ有頂天となる。それは“美女”や“美男”、“男装の麗人”として世間からもてはやされる時に感じるものと同じで、もはや必要とされてはいない“王女の身分”も然りです。
人は成長していくに従って、その“選民意識”がどれほど無意味で愚かな傲慢と依存心と勘違いの合作なのかに気付く。人の価値はそんなものにはないのだと…
芳子の心はそれに気付き、その事実を認めるにはあまりにも弱過ぎた。人間としての醜さを認めた上で、その苦しみをしっかりと受け入れて、顔を上げて立ち上がるにはあまりにも脆かった…軍服を着て銃を持ち、時には不必要に居丈高な態度で、時には周囲が困惑するほどに不自然な上機嫌さで生きるのは、その“脆さ” を隠すための分厚いヴェール。そうして《理想の男》たちと肩を並べて歩いているようで、実は抱き上げて歩いて貰っているだけにすぎない無限の矛盾…
“父親達”に捨てられたくないから清国再興と王女の身分に執着する。弱さを見せつけ込まれたくないから虚勢を張り、周囲にも自分にも嘘をつく。裏切られるから先に切り捨て、次の“力”を持った男に乗り換える。
さらに残酷な言葉を繋げれば、頭が良いとされながら、事実上の清国滅亡をどうしても認められず現実世界から目をそらし続けた結果、時局も大局も民衆の心も何一つ見据えることのできなかったとても愚かで哀れな美しい王女。
川島芳子のその姿は、人間すべてが持っている“醜さ”と“愛らしさ”の極限ような気がします。だからこそ、それをまざまざと見せつけられるのは、直視出来ないほどに痛々しく哀れで…そして例えようも無く切ない。
人や時代や物事、そして自分自身と真剣に向き合う恐怖から逃げず、その罪からもまったく目をそらさなかった山口淑子。身分や人を失う恐怖に耐え切れず、姿を変え、自らの犯した罪と、現実や時流からも絶えず逃げまわり続けた川島芳子。
同じ漢奸裁判という状況下におかれ、いったい何がこの二人の運命の明暗を分けたのかといえば、それは男である女であるということを越えたところにある、一個の人間としての普遍の強さのようなものが、淑子と芳子ではまったく違った…
結局死ぬまで、自身の存在理由を清国王女である身分にしか見いだせなかった川島芳子。その弱さゆえ人を巻き込み狂わせ、自身も狂った罪の代償がその命だったのか…彼女の中に一握りでも山口淑子のような“強さ”があったなら…
自身も戦後裁判中の身ながら芳子の身をとても案じたという最後の恋人笹川良一が、「怖い感じの女」だったと評したこの芳子の「怖さ」とは、彼女の虚勢と狂気、そ
してそれらを生み出す究極の“脆さ”だったのかと小世々は思い至ります。
危険なほどに人々を心酔させ、熱狂させた不可思議な魅力の根源はそこにあったのかも知れないと…
第3話〝ドレスを纏った外交官〟
“シュヴァリエ・デオンの性器は摩訶不思議
イギリスでは女だという評判
バルナバ親爺の撞木杖もないという”
バスティーユ監獄の襲撃と市民革命前のフランス。
終焉前の貴族全盛社会が最後の宴を繰り広げていた頃、遊惰なパリの街にこんな歌が流行りました。三説まであるこの歌を最後まで歌うと…( ̄□ ̄;)!!←こうなって通報されてしまうかも知れないので(古い言い回しの歌だけどそのぐらい充分に卑猥)、ここらで止めておきましょう。我が心の師、澁澤龍彦も本の中に描いたのはここまでだったことですしね(笑)
シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモン (Charles-Geneviève-Louis-Auguste-André-Thimothée d’Éon de Beaumont)
18世紀フランスのルイ15世の治世で華やかに、かつもうもうたる伝説の雲が立ち籠めた人物。人生のほぼ半分の歳月を女性の姿で過ごさねばならなかった、マリー・アントワネットより賜ったローズ・ベルタンのドレスと扇子を身に纏い、その腕が自慢であったフェンシングの剣を腰に差していた騎士であり外交官。そしてスパイ…
1728年、フランスはブルゴーニュ地方のトネールで下級貴族の家柄に生まれ、一説によればデオンは正真正銘の女児として生まれたが、死んだ叔父の遺産を相続させたいばかりに両親が無理矢理に赤ん坊を男児として育ててしまったというぐらいに、大変に愛らしく美しい少年であったようです。
コレージュ・マザラン(パリ大学の一部)を首席で卒業するほどの優秀さだったデオンは、幼い頃の愛らしさから成長してたいへんに美しい青年となります。そしてこの当時下級貴族出身の若者が社交界デビューする通例として、“友人”という名のパトロンを得ます。
ロシュフォール伯爵夫人という女性がその“友人”となり、彼をパリ社交界へと伴い後押しするのですが、その際この二人は他の青年貴族のほとんどが思いもつかないある“遊び”を企てます。
それは伯爵夫人の衣装部屋から彼女の豪華なドレスを見繕い、化粧を施し、その姿で宮廷の舞踏会へと一緒に繰り出すというもので、二人が舞踏会場へと到着するとその場の紳士淑女はみなデオンの完璧な女装ぶりに驚き感嘆したということです。
幼い頃から容姿を褒められ続けてきたデオンは、女になりきり、パリ社交界で人々の注目を浴びることに相当な快感を味わっていたようで、ロシュフォール伯爵夫人もその様子をたいそう面白がっていたようです。
そんなデオンを見初めたと噂されたのが当時のフランス王ルイ15世。“最愛王”の異名を持つ、結婚後ほぼ毎年妊娠していた王妃マリー・レグザンスカの産んだ11人の子供の他に、途方も無い数の愛人と庶子がいた“最愛王”というよりもむしろ“絶倫王”という名の方が相応しい奔放で精力的な国王でした。
舞踏会場で目にした『フィガロの結婚』のケルビーノのようなこの女装した美少年の艶姿に、ルイ15世はすっかり惚れ込んでしまい、彼の王宮の寝室へ誘い込んだというまことしやかなものでしたが、これはかなりの眉唾。一説によると今でいう“セックス依存症(かの有名ゴルファー様の一件からすっかりおなじみ)”だったのではないかといわれるルイ15世だからこその艶聞でしょう。
当時フランスはルイ15世の愛人で「私の時代が来た」という言葉を残したことで有名な、政治には無関心(のフリという説もある)だった国王の代わりに“ベッドの上でフランスの政治を牛耳った”と言われる野心的な才媛ポンパドール夫人の天下でした。(ポンパドール夫人は小世々が歴史上で一番好きな女性です。病で夭逝してしまいますが、髪型“ポンパドール”にその名を今も残しています)
そしてこの頃、ポンパドール夫人は強国プロイセンに対抗するために、オーストリアの女帝マリア・テレジア(実際には女帝ではなく皇后。でも政治的権限の強さとその手腕でこう呼ばれています)とロシア女帝(こっちは本物)エリザヴェータ・ペトロヴナとの間に密約を結び、後に「3枚のペチコート作戦(あまりこの呼び方好きじゃない)」と称される強固なプロイセン包囲網を築きます。(ルイ16世の嫁でマリア・テレジアの娘マリー・アントワネットが祖国オーストリアからフランスへ嫁いだのはこれが経緯です。でなきゃこの2国、ホント仲悪いんだから)
この“3枚のペチコート作戦”で結ばれた三国同盟を世界史的には“外交革命”と呼ぶ訳なんですが、これは発端はオーストリアの宰相カウニッツの発案です。が、実質的に締結させたのはまさしくポンパドール夫人の外交采配です。
で、この正式な同盟締結が1756年5月1日、いわゆるヴェルサイユ条約です。
そしてここで再びシュヴァリエ・デオンが再登場するのですが、彼はこの約1年前、ロシアへ向かい、スコットランド人亡命貴族ダグラス・マッケンジー伯爵の“姪”、リア・ド・ボーモン嬢としてモスクワのロシア宮廷に潜入しています。27歳でした。
完璧な女装で宮廷内を歩き廻り、油断したロシア貴族から次々と情報を引き出しながらも、着々と人々の信任を得て最終的にはエリザヴェータ女帝づきの読書係にまで登り詰めました。
この当時ヨーロッパ情勢は非常に複雑で混沌とし、どの国でも内偵を各国に送り込んでいました。もちろんフランスにもそういった内偵機関はしっかりと存在していて、名称を“スクレ・ドゥ・ロワ(王の秘密機関)”と言いました。
“スクレ・ドゥ・ロワ”設立はポーランドの支配権を巡ってずっと対立していたロシアとの接近と和睦が狙いでした。この頃のロシアはフランスよりの女帝派と、イギリスよりの大法官派に分かれていて、フランスとしては何としてもイギリスとロシアが手を組むことによってプロイセンの国力が増強されることを避けねばならなかった。
ルイ15世の命で“スクレ・ドゥ・ロワ”は何度も密使をロシアへ送り込みますが、フランス排斥を主張する大法官アレクセイ・ベストゥージェフ=リューミンによって摘発、逮捕、追放がなされ、最終的な決定権を持つ女帝には一向に近づけませんでした。
ルイ15世がこの難問の打開策に頭を悩ませていた折りに見つけたのが、デオンでした。エリザヴェータ女帝のもとに近付こうとするなら、あるいは女帝と同じ“女”であるなら成功するのではないかと考えた。
実際デオンは、社交界デビューした当時すでに詩などの文学作品をいくつか輩出していたそこそこ名の通った文筆家でもあった。フランス好きで学芸愛好家の女帝の読書係には、彼の完璧な女装に文学的素質要素はまさに適材適所だったことでしょう。デオンは即、王直属の諜報機関“スクレ・ドゥ・ロワ”のエージェントとして採用されます。
…こんな緊迫した国際情勢下でデオンは国王の寝所に侍って夜伽なんてしている場合じゃないです。もっと有効な女装の使い方をしないと(笑)
そうしてロシアの財力や意図、軍備を探り出しヴェルサイユ宮殿にその情報を送ることが使命だったダグラス・マッケンジーを叔父役の相棒として、三国同盟締結のための重大任務を帯び、ロシアへとデオンは送り込まれます。デオンの使命はもちろん悉く失敗してきた密使の最後の切り札としてエリザヴェータ女帝になんとかして近付き、フランスとオーストリアとの三国同盟を提案し、同道する決心を促す密書を確実に渡すことでした。たぶんダグラスが調査した情報とデオンがロシア貴族に近付きうっかり彼らが漏らしてしまった情報とを合わせたものをフランスへ日夜送っていたものと思われます。彼らの存在と活動は王を含めた本当にフランス政府の中枢の幾人しか知らないもので、それだけ慎重さと綿密さを要する、失敗の許されないものだった。
無事にデオンは女帝へと近付き密書は渡され、女帝が賛同の意思を示した親書もまた託されました。計略を完遂し、ダグラスと特にデオンは惜しまれつつフランスへとエリザヴェータ女帝からルイ15世へと宛てた親書を手に立ち返ります。彼らの2度目のロシア訪問は私的な旅を装ったものではなく、ダグラスは公使、デオンは公使秘書というフランス政府から公然と勅使としての資格を得た立場でした。おそらく正式な同盟締結のための訪問であったと思われます。
今度はデオンも女装の必要はまったくないので、きっちりと男性の出で立ちでモスクワを訪問したのですが、ボーモン嬢にあまりに瓜二つの彼の姿に人々は驚き、揃って目を丸くしたと言います。先にモスクワに来たリア・ド・ボーモンは自身の妹であるということで一応の納得は得られたようですが、このそっくり過ぎる“兄”の挙動をモスクワの人々はいちいち注目していたようです。まあ同一人物ですからねぇ、それは気になって当たり前です。似ているにもほどがあったでしょうw
さて、この一件で大成功を納めた功により、デオンは国王からサン・ルイ十字勲章と同時に騎士(シュヴァリエ)の称号を与えられることとなります。そう、ここではじめてシュヴァリエ・デオンが誕生したわけです。
ロシアを「寒さによって健康を損なった」として短い滞在期間で後にし(たぶん正体がバレることを恐れたのでしょう)、フランスへ戻って晴れて騎士(シュヴァリエ)の身分になり、自慢の剣の腕をいかして軍隊に入り、結果として敗戦はしたものの七年戦争に参加し武勲を立ててあっという間に竜騎兵大尉となった(損なったはずの健康はどうした)。
デオンが再び外交官として活躍したのは1762年のイギリスで、今度はフランス国王の全権大使としてロンドンのジョージ三世の宮廷へと向かいました。七年戦争、フレンチ・インディアン戦争、カナーティック戦争とイギリスへ連敗を重ねたフランスの戦後処理で、少しでもフランス側の損失を少なくするためのスパイとしての諜報活動と、それをいかしたイギリスへの根回し外交のためでした。
生まれ故郷トネールで作られる上質なブルゴーニュワインを、国務次官のウッドなど有力なイギリス貴族へと贈り、宮廷のそれも匹敵するといわれた盛大な大園遊会をロンドンで催してジョージ王やシャルロット王妃を始めたくさんの貴族をもてなしたりとデオンは外交官としての職務に勤しみます。時には得意の女装も披露して集まった貴族たちを驚かしていたようです。そうして結ばれたのが1763年のパリ条約で、これがシュヴァリエ・デオンの絶頂でした…
彼はここから坂道を転げ落ちるように没落してゆくのです。
幼い頃から持って生まれた美貌をもてはやされ、優秀な頭脳も持ち、剣の腕も立つ。何をやらせてもソツなくこなしてしまうデオンには、ある意味スパイとしては諸刃ともいえる性質がありました。それは虚言癖、傲慢、短気、病的だったとすらいわれる虚栄心。そして抑え切れない強い自己顕示欲…これらはスパイとしての大胆な行動力や素早い判断力、どんな危険や困難をも切り抜ける要領の良さとして還元されれば、諜報活動にこれほど力強いものはない。
けれどそこを離れて、通常の仕事や生活をしていく上でこれほど邪魔になるものもないはずです。…まず、人間として信用されなくなる。
故郷の美味しいワインを贈るくらいならまだいい。けれどいくら戦後処理をできるだけ有利に運ぶためとはいえ、数々の戦争で疲弊しきった国庫をさらに圧迫すらするような途轍も無い規模の大園遊会の開催がはたして必要だったかというと、…それはむしろ逆効果だったのではないかと思います。
小世々がもしイギリスやスペインなら「こんな大宴会が開けるほどフランスにはまだまだ余裕があるんだな」と思ったら絶対に手心なんか加えません。だって戦後処理ですよ?勝ったとはいえ、こちらだってフランスとの戦いで犠牲はたくさん払ってるんです。それを王宮にも匹敵するような特大パーティーを、たとえフランス王の全権を委任されているとはいえ、一外交官があっさり開けるほどの国庫状態なら当然裕福だと相手側は見ます。
事実、パリ条約でフランスが失わなかったのはニューファンドランド島沖での漁業権とその漁獲を乾燥させるためのサンピエール島・ミクロン島の2島領有の維持だけで、北米の領土もインドの植民地の大半もすべて失いました…戦争を起こした責任はデオンには無いとしても、この外交上の失策はあきらかにデオンの責任です。
その場その場でうまく立ち回ることは得意でも、物事の大局を見据えることは彼のその後の行動を見てもたいへんに不得手だったのだろうと思われます。そして適度なところで抑えれば良かったものを、“病的”といわれてしまうほどの欠点である“虚栄心”が招いてしまった最悪の結果だったのでしょう…
この失態はフランスとしてはもちろん看過出来るものではなく、国王も政府も次第にデオンを疎んじ始めます。デオンと旧知の仲だったシャルロット王妃との根も葉もない不倫の噂も巷でこう然と囁かれるようにもなり、ジョージ三世の心証とこれから先のイギリスとの外交を考えれば、フランス王と政府にとってもはやシュヴァリエ・デオンはかつての栄光などとうに消え失せた完全なる“お荷物”でしかなかった。
しかしフランス国内外の数多の重要機密事項に関与し、大きな同盟や条約の締結にも携わって来たデオンはそれらの明白な証人で、その証拠となる表に出るとフランスにとってたいへん不利な王の署名のある過去の機密文書を多くその手に持っていた、非常に処分に困る“お荷物”でもあった。実際デオンは自分が失寵し、厄介者扱いされていることを知ると、フランスからの送金もなくなり金に窮して、その機密文書を抵当に金貸しから多額の借金をしています。すぐにそれらは政府によって金貸しから買い取られることとなりますが、まだまだデオンの手元には重要な機密文書が多く残っていました。
業を煮やしたフランス政府が強硬手段でデオンの特命全権大使の地位を剥奪しようとした時、デオンは決然と不服申し立てをし、フランスへの帰国命令を拒否します。その際、新任大使としてデオンの代わりにロンドンへやってきた天敵ゲルシイ伯爵から「毒を盛られた」として根拠の無い噂も流しています。真実そう思い込んだのか、ゲルシイ伯を追い落とそうと目論んだのかは解りませんが、実際その頃フランス政府からデオンの暗殺命令が出ていたとしても全くおかしくはないので(むしろいつまでも野放しにしている方が当時のフランスとしては不思議)、暗にその事実に気付いていることをほのめかしていたのかも知れません。もしかすると命を落としそうな目に遭ったのは一度や二度じゃなかったのかもしれません。そうするとその後の展開も納得はいきます。
こじれにこじれたデオンとフランス王(当時はもうルイ16世に代替わりしていた)、政府の交渉の場に最後に乗り出して来たのが劇作家のカロン・ド・ボーマルシェでした。有名な戯曲『フィガロの結婚』と『セビリアの理髪師』の作者ですが、彼もまたデオン同様に諜報機関“スクレ・ドゥ・ロワ”のエージェントでした。
ボーマルシェはルイ16世とフランス政府からのある“奇怪な命令”をデオンに伝えます。「その“命令”を呑み、自身が持っている機密文書の数々をすべてフランス政府へ渡すというのなら、以後フランスへ帰国し、自由に生活して良い」というものです。たぶん「命の保証もする」という言葉もあったでしょう。いくらデオンがフェンシングの名手だったとしても、彼が国内一強いわけではないことは諜報員であり竜騎士であった過去もあるのだから彼自身がいちばんよく解っているはずです。それに油断を狙って殺害する手段など無数にある。
けれどあまりに“奇怪”なその命令にデオンは激しく迷い、すぐには頷きませんでしたが、ボーマルシェの根気づよい説得にとうとう「その提案に従う」と約束をします。
世間を説得する理由として「どうしても世継ぎの男児が生まれないことに悩み、父は仕方なく娘である私を男子として育てました」という言葉を用意して…
デオン、ボーマルシェ、そして文豪ヴォルテールの三人は“スクレ・ドゥ・ロワ”のエージェントでしかも互いに文学畑ということもあり、ヴォルテールは普段はデオンのことを皮肉まじりに「化け物」や「女でも男でもない両性動物」と言いながら、死の直前にデオンを自宅へ呼び、何がしかの会話がなされたという事実からしても、何か特別な三人だけの強い繋がりがあったように思います。
かくして1777年8月27日、フランスへ帰国する49歳のデオンにルイ十六世の厳命が届けられます。
「朕はシャルル=ジュヌヴィエーヴ=ルイズ=オギュスト=アンドレ・ティモテ・デオンに、常日頃着用している龍騎兵の軍服を脱ぎさり、己が性の衣服を身につけることを命じる。同時に、女性にふさわしい身なり以外の服装で、王国内に姿を見せることを禁じる」
取り巻きのド・ポリニャック伯爵夫人から「哀れな女騎士」の話を聞かされ、デオンを女に違いないと信じきって同情し、下賜金二万四千リーヴル、そしてローズ・ベルタンに新調させたドレスと扇子を用意し、王妃マリー・アントワネットがフランスで待っていました。
「どうかあの女性に申し伝えて下さい。剣と同じように扇子も手にするようにと、そうすれば、一層女騎士として凛々しく、美しくなりましょう」
同年10月21日、殉教した聖女ウルスラの祝祭日にデオンを正式に女性として“認める”儀式が執り行われ、以後、彼は死ぬまで女性の姿で過ごすこととなります。
この奇怪な命令の理由として考えられるのは、デオンを2度と表舞台に立たせないことと、そして例のイギリス王妃シャルロットとの不倫の噂を雲散霧消させることが目的であったとされています。実は“仲の良い女友達”であったとすることで、繊細なジョージ三世の品位を“寝取られ男”として傷付けることなく、建前上でも解決をみるために…けれど真実のほどは解りません。
男として生きることは許されなくても、女として社交の場に出ることは自由だったデオンは、帰国後始めは騒動の加熱ぶりから逃れるため引きこもっていたものの、そのうちに宮廷の集まりにだんだんと顔を出すようになったといいます。そして話題がフェンシングのことになると、スカートを素早くぱっと捲り上げ、嬉々として構えの姿勢をとってみせたのだそうです。スカートの下にはちゃんとズボンを穿いていたのですが、貴婦人たちはみな扇子で顔を覆ってその場を逃げ出し、ルイ15世は玉座でげらげらと腹を抱えて笑ったそうです。
ロンドンの証券取引所やパリの街でデオンの性別をめぐって賭けの寄り合いが行われ、あまりの熱狂ぶりに“風俗壊乱罪”という名目で禁止しなくては収まらなかった…
街を歩けば物見高い連中がわっと集まり、かの小唄やどこから湧いて出たのか尾ひれのついた一代記が一人歩きし、膨れ上がった。物笑いの種であったが、彼の周りには自然と人々が集まった…誰もが彼と友達になりたがった…
“スカートを履いたドン・ファン”と言われ、「デオンの女装癖は女性の警戒心を解く為の手段だ」と言われながら、常に女性が周りにいてちやほやしたロシア宮廷でも浮いた噂一つなかったデオン。一説にはそのロシアへ一緒に出向いたダグラス卿が“夫”だったのではないかとも言われているが定かではない…
アメリカ独立戦争にフランス軍が援助を始めると、「軍に入って加勢したい」と申し出てディジョンの城に19日間投獄され、その後6年あまり故郷のトネールで母親と二人で過ごした。
フランス革命の際には共和派の軍隊に参加することを希望した。もちろん許されなかった。それに可哀想だが70歳も間近の、それもドレス姿の老人を採用しようとする軍隊は、足手まといを考えてもどこにもなかっただろう…
生きるために『回想録』を友人の代筆で出版し、その数奇な人生を切り売りした。その“友人”は、売るために相当に話を誇張したという。貴族として生き抜けなくなったフランスを離れ再びイギリスへ舞い戻り、大切にしていた蔵書を1冊1冊と売りながら歳を重ねていった。
それでも老いてもなお血の気が多く、フェンシングの腕に自信があったデオンはよく決闘をしたという。ロンドンのカールトン・ハウスで有名な剣士サン・ジョルジュを、長いスカートに足下をとられながらも見事に打ち負かし、やんやの喝采を浴びた…
けれど1796年、無名の剣士に重傷を負わされ、その傷がもとで、1810年の5月21日にロンドンの裏町で死んだ。83歳だった。看取ったのはコール夫人という未亡人唯一人だったという。そしてデオンの死装束もやはりドレスだった…
死後遺体は数人の医師によって解剖と検死をされ、デオンの身体は“まぎれもない正常な男子”のものであったことが証明されます。ただその体つきは正真正銘の男性とするにはあまりにも全体的に丸みを帯び、髭や体毛も異常に薄く、胸の辺りの肉付も女性のそれに近いものであったという記録がなされています。
今でもその証明書は残っているということです。
スパイは、それ自身が“実体”を持ってはならない存在です。
本来の自分以外の“何か”に身を窶すことによって、その役目を全う出来る。
それは時代を経てもたぶん変らない…
時佩璞。
川島芳子。
そしてシュヴァリエ・デオン。
その持って生まれた“性”ですらも変えてしまうことで、役目を全うした究極のスパイ達。彼らの本心は誰にも解らない。これまでもこれからも。
ただほんの一瞬吐露した言葉がそこにあるだけです…
「私は男性も女性も魅了し、常にその愛の受け皿として使われてきた。私にとって性別やその行為などなんの問題でもない」………《時佩璞》
「僕としても、女らしい女として、口に紅の一つでも塗って、愛すべき男性があったなら、自分の特殊の念願、国への動きが完成して、万事が完成したならば、何時でも本然の女に帰って、やさしい一女性になりたい・・・」………《川島芳子》
「隠れ家としたアパルトマンのなかで、私は悲しい運命を何とか身につけようとしています。軍服とサーベルを棄て去ってからの私は、尻尾を失ってしまった狐さながらの愚か者です。先のとがった靴やハイヒールで歩こうと努力していますが、一度ならず、もう少しで首の骨を折るところでした……」………《シュヴァリエ・デオン》
“最初はみずから好んで、自分のまわりに伝説を築き上げてきた彼も、こうなると、犠牲者だった。彼は、自分でつくった罠に落ち込み、自分でつくった伝説に捕らえられてしまった。「嘘から出た真」とは、このことであろう。”
澁澤龍彦がシュヴァリエ・デオンを評したこの一文は、何故だかこの三人すべてに宛てられたように、小世々には思えます…