楽しみのひとつに週刊誌がある。
会社員時代、帰りの駅で買い、仕事からの解放感のなか、ページをめくるひとときが好きだった。
いまは iPad の、dマガジンで読んでいる。
読み放題はありがたい。
お気に入りは週刊文春や新潮など、やはり昔から読んでいたもの。
それらに飽きるとたまに、新着雑誌の欄を眺めることがある。
たいていは興味のないものばかり。
でも三年ほど前のこと。
あれ?と思った。
女性誌の表紙に、見覚えのある顔があった。
小林麻美?
名前が書かれていた。
齢を重ねた、やはり小林麻美だった。
恥ずかしながら、昔ファンだった。
アンニュイというのだろうか、陰のある雰囲気が好きだった。
資生堂の、コマーシャルでのショートカットもよくおぼえている。
このときから彼女が気になりだしたと思う。
CMに流れていた、尾崎亜美の『マイピュアレディ』。
これもよかった。
ハスキーボイスがいい。
いちばん好きな歌かもしれない。
結婚してからも、くりかえし部屋に流して、妻に呆れられたこともある。
デートのときは、助手席で何も言わずに聴いていてくれたのに・・・
時は流れ、その歌詞の、「ポケットにラッキーコイン」「ノートの書いたテレフォンナンバー」などは、若い人からすればもはや意味不明かもしれない。
でも、バックをつとめるティン・パン・アレイの音はいまも色褪せていない。
鈴木茂だろう、アコースティック・ギターがいい。
ボサノバ調の、やわらかなストリングスもたまらない。
いまは、ウォーキングでのランダム再生で聴くぐらいだが、このイントロがはじまると、季節がいつであっても早春の息吹を感じてしまう。
CMがその時季、ちょうどいまごろだった。
おっと、閑話休題。
この話は小林麻美のだった。
その『雨音はショパンの調べ』が入ったLPもよかった。
松任谷由実のプロデュースだが、彼女のデビュー作『ひこうき雲』を想いおこさせる、いいアルバムだ。
派手な音に変質してしまったユーミンの、原点を彷彿とさせた。
あるいは彼女は小林麻美に、もう過去には戻れない自分を託したのかもしれない。
でもその後の小林麻美については記憶がない。
自分としては、雑誌の表紙に突然現れたことになる。
調べると、結婚して引退していた。
25年後、女性誌のモデルとしてカムバックしたということらしい。
そして去年、週刊アエラをめくっていたら、彼女の記事が載っていた。
『小林麻美とその時代』という特集だった。
引退の経緯や生い立ちやらが書かれていた。
なかなか興味深い。
よってまた勝手ながら、この記事を主に、彼女の著書、過去の週刊誌の記事なども織りまぜ、「小林麻美ヒストリー」を綴ってみた。
週刊誌に関しては、国会図書館の「遠隔複写」サービスを利用した。
過去の記事をリクエストすることで、そのコピーを郵送してくれる。
おかげで、当時の情報をたくさんあつめることができた。
自賛ながら結果として、けっこう詳しく、ほかに類をみない内容になったと思います。
自分と同じように昔若かった!、そして彼女に魅かれていた方々にお読みいただければうれしいです。
引用・参考資料
『ブルーグレイの夜明け』 小林麻美著
『あの頃、ショパン』 小林麻美著
『クウネル』2016年7月 2017年11月
『週刊アエラ』2018年8月27日 9月3日
『週刊宝石』1991年5月
『週刊明星』1991年4月
『週刊現代』1984年8月
『週刊平凡』1973年8月 1974年5月 9月
『サンデー毎日』1979年2月 1981年9月
『明星』1973年2月 5月
マイピュアレディ CMポスター
父
小林麻美は1953年11月29日、東京都大田区大森に生まれた。4500グラムの、大きな赤ん坊だった。しかし仮死状態だった。このため、カンフル剤を9本も胸に注射され、25分後にやっと泣き声をあげた。小林は本名で、稔子と名付けられる。その後はすくすくと育ち、生後半年ほどで歩き、まるまると太りはじめた。
父は国鉄(現JR)に勤める技術者だったが退職し、埼玉県の大宮で、信号機をつくる町工場を営んでいた。麻美はパパと呼び、大人になっても変わらなかった。人からは、ファザーコンプレックスといわれた。
仕事ができた父だが、ギャンブル、酒、クルマ、そして女の、遊び人でもあった。長身でがっしりしていてハンサムで、よくもてた。亡くなるまでにつきあった女の数は、娘の麻美が知っているだけでも、十人以上はいた。愛人宅を泊まり歩き、家には月に数えるほどしか帰らなかった。おさない麻美は「パパ、いつ来たの?」「もう帰るの?」が口癖となる。そのため父の思い出はほとんどない。母も美容院を営んでいたため、麻美の世話はお手伝いさん任せ。一家そろっての旅行は一度もなかった。動物園などに行く、友だち家族がうらやましかった。
小学校
麻美は幼稚園まで肥満児だった。大田区立入新井第一小学校に入ったころから、魚や肉を食べなくなるなど、偏食がひどくなる。朝起きると頭やお腹が痛いと、よく学校を休んだ。お手伝いさんに甘やかされ、わがままに育っていた。性格は淋しがりやで、そのくせ内向的でひとりで遊ぶのが好きだった。三つから習った日舞はあくびばかりで、六歳から通ったピアノはサボってばかり。でも日舞は唯一長く続けて、二十歳のときには「花柳流」の名取になっている。
成績は、国語はよかった。算数は、大人になってもトランプの計算も苦手なほどいやだった。詩を読むことと書くことが大好きで、いちばん好きなのは北原白秋。誕生日のプレゼントに分厚い詩集を買ってもらい、毎日読んでは暗唱した。『落葉松』『この道』『からたちの花』など、麻美が自慢できることは、たくさん詩を知ってることだった。
姉
麻美には6歳違いの姉がいる。小さいころの写真は、姉はいつも笑っているが、麻美のはどれも愛想がない。姉はかわいく、そのうえ頭がよかった。性格もおっとりやさしく、本とピアノと絵が好きなロマンティストだった。麻美はコンプレックスから、姉の言うことはなんでも信じ、マネをした。姉の部屋には世界文学全集から、歴史、ミステリーまでなんでもあった。わかりもしないのに片っ端から本を読みあさった。太宰治に傾倒していた姉を見て、自分もとりこになった。難解な本を読む自分に酔っていた。
姉はクラシックのレコードも聴かせてくれた。一番のお気に入りは、バン・クライバーンの、チャイコフスキーのピアノコンチェルトと、ルドルフ・ゼルキンのベートーベン。だけど姉の弾くショパンのノクターンが、麻美のこころに一番しみた。姉は長じて結婚してからも、実家の近くでピアノ教室を開いている。
普連土学園中学
65年、普連土学園中学校に入学する。クエーカー教の私立女子校である。還暦過ぎの教頭と、七十過ぎの用務員以外、すべて女性という、大奥のような学校だった。麻美はまじめな生徒ではなかった。スカートの丈を短くしたり、学校指定ではない靴を履いたりした。教師から、「職員会議であなたの名前が出ない日はありません」と言われていた。朝が弱い麻美は、7時50分から30分の礼拝が苦痛でしかたがない。どうして他校より早い始業なのか嘆いた。クリスマス礼拝の練習では、悪友たちと「ハゲルヤ、ハゲルヤ」と大声でやって、怒られた。
勝手に学校を休んで、武道館にローリング・ストーンズを観に行ったこともある。グループサウンズの出待ちもやった。親友がスパイダースの大ファンで、一緒に追っかけをやった。麻美はそれほどではなかったけれど、大人の匂いを彼らに感じた。麻美はのちに、リーダーである田辺昭知と結婚することになる。親友はスパイダースを追いまわし、不良少女の烙印を押され、とうとう転校していった。麻美も補導の先生にみつかったが、学校には残ることができた。
中学時代は映画に凝るようになる。本や詩や映画の趣味は、友だちとは話が合わず、ひとりで銀座の映画館に通いつめた。『ロミオとジュリエット』では、おいおい泣いた。三年の秋、日比谷の映画館で『ローズマリーの赤ちゃん』の切符売り場で並んでいるところを、少女雑誌のモデルにとスカウトされる。大学に行って、外資系の会社の秘書になろうと決めていた麻美は、この話を断る。そして断り続けたが、連日の熱心な勧誘に根負けした。
文化学院
内部進学による普連土学園の高校に入ると、すぐコマーシャルの話がまとまった。久光製薬やジュジュ化粧品、日立、そして70年7月からは、歯磨エチケット・ライオンのコマーシャルが流れだした。これで人気が一気に沸騰。単発の予定がシリーズ化され、3年間ものロングランCMとなった。まだ歌も役者もやっていないのに、麻美は何の下積みもなしに、またたくまにスターダムにのし上がった。
しかし中三のころから高校にかけて、麻美は心臓病、神経性胃潰瘍、骨髄炎から急性肝炎を併発して、6回もの入退院を繰り返していた。このため高校では、1年生を休学した。父が不在の家で、家族の問題もいろいろあった。悩みを背負いきれない麻美は、本が友だちだった。サガンが麻美を救ってくれた。
翌年の春麻美は、お茶の水にある文化学院に転校する。そして1年生からやりなおした。この学校は与謝野晶子、鉄幹らが創設し、菊池寛、北原白秋、芥川龍之介と、そうそうたる面々が教壇に立っている。自由、知性、芸術を旗印に、作家では金原ひとみ、作詞家では安井かずみ、俳優では高峰秀子、中嶋朋子、ファッションでは菊池武夫、稲葉賀恵と、多くのクリエーターを輩出している。
前の学校とは異なり、文化学院は男女共学で制服もなかった。若い男の教師もいて、大学のように自分で好きな科目をとって勉強した。一学年は三十人ほどで、学校というより仲間のような雰囲気だった。暁星や慶応、青学など、他校で問題をおこした生徒もいた。奇抜な恰好の、ヒッピーもいる学校だった。
厳格な女子高から何の規則もない、まるで別世界の学校に入り、麻美は解放された。授業を抜け出し喫茶店に行き、お茶の水の古本屋を片っぱしから見て歩いた。夕方まで油絵を描いたり、大学生に交じって難しい講義を聞いたりした。一方、筋金入りのロック少女となり、赤坂や六本木のディスコでは、16歳を19歳と偽って遊んだ。しかし、自由の代わりに成績が悪ければ落第させられる。自律しないと振り落とさせる学校だった。偶然、対照的なふたつの学校で学べたことは、麻美にとって素晴らしいことだった。
女優・歌手 デビュー
テレビCMでデビューした麻美だったが、本名で仕事をしていた。そこにテレビドラマの話がまとまる。マネージャーから、小林稔子なんて名は身もふたもない、これを機に芸名を考えるよう指示される。文化学院の美術科に、藤朝美という先輩がいた。学生なのにサンローランを着て登校してくる彼女に、麻美はあこがれていた。朝美の名を勝手に頂き、朝を麻に変えた。
71年10月から、TBS系ドラマ『美人はいかが?』に端役ながら初出演する。翌年18歳のときには『初恋のメロディー』で、歌手としてもデビューした。45万枚のヒットとなり、オリコン18位を記録した。
そんな麻美を、あるテレビディレクターはこう評した。「深窓の令嬢が突然、ブラウン管に登場した印象だった。テレビに出てはいけない人が出てきたっていうか、生活感が皆無で、透明感が際立ち、そこに惹かれながらも違和感がたまらなかった。まるでサガンや倉橋由美子の小説に出てきても不思議じゃない聖少女のようだった」
しかしじつは『初恋のメロディ』は、東洋紡とのタイアップ曲だった。毛糸購入者へのプレゼント品として、東洋紡が30万枚も買い取っていた。これはヒット45万枚の内数であり、実売は15万枚ということになる。つぎの『落葉のメロディ』は10万枚、3枚目の『恋のレッスン』は8万枚と、徐々に売上を落としていった。
麻美はもともと歌が好きではない。『初恋のメロディ』のキャンペーンのため、3か月で38か所、日本全国をまわった。ハード・スケジュールは、体が弱い麻美にはこたえた。このため所属していた赤坂プロから、宝島ミュージックランドに移籍した。代表者は橋本淳で、『初恋のメロディ』の作詞家でもある。
一方テレビドラマでは、72年10月から半年のフジテレビ『光る海』で、茶目っ気たっぷりの女学生役をみごとに演じた。この好演に、NHKや民放各局、松竹映画などからの出演交渉が、相次ぐようになる。
「引退」
しかし麻美は、73年春ころから、持病の神経性胃潰瘍が悪化してしまう。ハードな芸能界にはついていけない。もう限界だと、初夏のころ、ブラウン管から姿を消した。天下のNHKからの話を袖に振るなど、普通ならありえない。わがままに育てられ、苦労知らずでスターになってしまったからだと批判された。大森の自宅で静養していると、死亡説までが週刊誌をにぎわすようになる。
マスコミから逃れるため、6月から7月にかけての2週間、麻美はアメリカに渡った。このときロサンゼルスとラスベガスで、橋本淳と一緒にいるところを目撃されている。前年の72年の8月にも、橋本の運転するカマロが目黒で追突事故をおこし、助手席には麻美がいた。時間が午前3時だったこともあり、週刊誌に報じられた。橋本は14歳上で、妻子がいた。
このときから4年ほどたったのち、麻美は『週刊明星』の取材に答えている。「たとえ相手に奥さんや子どもがいても、好きになれば私はあきらめない。結婚できなくてもいいの。淡々といつまでも愛しつづけるだけで。私が恋をしたのは10代の1年間だけだった」。
時間を巻きもどす。アメリカから帰国した麻美は、中学時代にあこがれた秘書の仕事に就こうと、タイプや英文通訳、英会話などを習いはじめた。しかし熱が入らない。華やかな芸能界を経験したため、何をしても気の抜けた感があった。
11月、悩む麻美は目的もないまま、ふたたび渡米する。そしてロサンゼルスで、友だち夫婦の家に居候させてもらった。この地では思いもかけず、同世代の仲間がたくさんできた。麻美は自由を謳歌するようになり、日本での暗い気持ちもすっかり晴れた。アメリカの生活が気に入った麻美は、このままロスの学校で勉強したいと、両親に電話する。しかし猛反対され、12月も末の帰国となった。
復帰
年が明けて、また無為に時が流れだした。2月、思いあまってデビュー曲の作曲家、筒美京平のもとを訪ねる。そしてカムバックしたいと願い出た。だが筒美は、「いったんやめると言っておきながら何だ。お嫁にでもいってしまえ」と怒り、突き帰されてしまう。麻美は泣いた。1週間後、筒美から電話があった。新しいプロダクションを紹介するから、やりなおせと言う。麻美はまた泣いた。
こうして74年5月、田辺昭知率いる、田辺エージェンシーに入る。そして10月、シングルレコード『ある事情』で復帰した。しかし思うようなセールスにはならない。以降76年までシングル2枚、アルバム2枚を出したが、アイドル歌手としての麻美は、自然消滅となった。この間、新しい道を探るためモデル事務所に入り、1年間勉強している。75年からは、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』で、パーソナリティーをつとめた。友だちが少ない麻美にとって、深夜放送は、何でも話せる友だちのようだった。
ブレイク
麻美の名が世間に浸透しだしたのは、70年代後半のこと。資生堂、パルコなどのCMに起用されてからだ。資生堂の『マイピュアレディ』には、数十億円というキャンペーン費用が投下され、音楽は尾崎亜美が担当した。この曲の大ヒットで、資生堂VS.カネボウのCMソング戦争勃発と、大きな話題になる。麻美と時代が重なるようになった。
アイドル歌手のイメージを払拭し、大人の女性に変じた麻美は80年、映画『野獣死すべし』に出演。81年には『真夜中の招待状』で、映画初主演となった。公称167cmと長身で華奢と言えるほどの細い身体、ゆるくウェーブのかかったワンレングスの長い髪、溌剌と話さず物静かで寡黙、陰のある表情が印象的で、そのアンニュイな雰囲気が都会的だとの人気を得た。
性格も明るくなった。くよくよしていても仕方がない。明日は明日の風が吹くと、楽観的に生きることをモットーに変えた。幼いころの偏食もなくなり、多い日は、一日五食も食べるようになっていた。じつは麻美のこの大食漢は、思春期のころから始まっている。朝からご飯二杯を平らげ、弁当をふたつ持って学校へ行き、10時までにはひとつを片付けていた。昼ももうひとつの弁当だけでは足らず、パンと牛乳を買っていた。アイドルから本格的女優に転じた麻美だったが、その猛烈な食欲は、体型やイメージからはとても想像できないものだった。
父の死
80年、麻美が26歳のとき、父を食道がんで亡くしている。家にはほとんどいなかった父が、三年前に発病し、最後の愛人と別れて帰ってきていた。かっこよかった父が、別人のようになっていた。幼いころから父親というより、ひとりの男性として見ていた麻美にとって、やせ衰えた姿はショックだった。それからも父は手術や入退院を繰りかえし、60歳で帰らぬ人となった。身勝手さに怒り、憎んだこともあった麻美だったが、すべてが消えて、父のすべてを許すことができた。葬儀のとき母は、父の関係した女性すべてに声をかけた。何人かが来てくれたという。
麻美が生まれた大森には、第一京浜国道が走っている。父はここを大型バイクで飛ばす、カミナリ族(いまでいう暴走族)だった。黒と銀色にペイントされたカワサキが愛車で、元気だったころの父は、麻美をうしろによく乗せてくれた。その背中にしがみつくと、革ジャンや煙草、エンジンオイルの匂いがした。のちに結婚する田辺昭知の指からも、同じ匂いがした。
雨音はショパンの調べ
84年、8年ぶりに歌手活動を再開、『雨音はショパンの調べ』をリリースした。ガゼボの『アイ・ライク・ショパン』に、松任谷由実が日本語詞を付けたカバー曲である。麻美と由実は同じ学年で、十代のころからの友だちだった。いつどこで知り合ったかは、ふたりとも覚えがない。
『雨音はショパンの調べ』は、由実がロンドン滞在中、ヒットしていた原曲をたまたま耳にし、麻美に歌わせたいとひらめいた。当初は『ショパンを弾かないで』というタイトルだったが、麻美のイメージに合わせて変えた。麻美は幼いころから、雨の日が好きだった。さらに直感で歌詞も変えていく。「気休めは麻薬」というフレーズが引っかかり、NHKラジオではオンエアされなかった。
一方、ミステリアスな女をイメージするため、戦略的に歌番組には出なかった。その成果か、徐々にヒットチャートをかけ上がり、オリコン週間チャート3週連続1位を獲得することになる。本人いわく「人生で最初の一等賞」となった。由実のプロデュースによる、同曲収録のアルバム『CRYPTOGRAPH〜愛の暗号』は、日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞した。麻美は、日本女性のイメージをくつがえす新しい女性像を披露し、大ヒットで鮮烈な印象を残した。
歌番組には出なかった麻美だが、『雨音はショパンの調べ』を人前で3度歌っている。最初は苗場スキー場での、由実のライブステージに立ち、次は、日本武道館でのコンサートで歌った。最後は息子が学校を卒業した時の謝恩会で、先生とママ友にせがまれ、カラオケで歌った。
由実のプロデュース二作目となる、『ANTHURIUM〜媚薬』を85年に出した。そして87年、今度は由実がすべて作詞作曲したアルバム、『GREY』を発表した。由実が当時を振りかえる。「親友のアルバムですから、それはもう一生懸命つくりました。旅先からもせっせと楽譜を送ったりね」。(この言葉を含む、以下の小林麻美と松任谷由実の「語り部分」は、2018年の『アエラ』からの引用です)
そして88年、日本武道館コンサート『HUMIDITY』(湿度)を開催する。アンコールの声がかかって再登場したが、「アンコールは用意してません」と言い切って、麻美は舞台を去っていった。
出産 そして結婚 引退
91年3月、37歳となった麻美は、所属事務所の社長である、田辺昭知52歳との結婚を発表、引退した。突然のことであった。ふたりの仲を周囲は知っていた。しかしマスコミはほとんど報じていなかった。
世間がさらに驚いたのは、2カ月前の1月、麻美が出産していたことだった。セーブはしていたものの、直前の12月まで仕事をこなしていて、事務所にもよく出入りしていた。それでも彼女の妊娠に、仕事仲間も友人も、誰も気づいていなかった。付き人さえ知らなかった。未婚のまま産んだ麻美は語る。「彼も私も、もちろん独身でしたが、結婚という形はその時はとりませんでした。好きな人の子どもを産みたい。その思いだけで、一人で育てる覚悟でした」
田辺昭知
はじめて田辺に会ったのは、麻美が20歳の時だった。サンローランのピンクのトレンチコートを着て、田辺エージェンシーの事務所に行った。麻美はのちに、持っていた180点あまりのサンローランを、日本服飾文化振興財団に寄贈している。だがたった一着だけ、ピンクのトレンチコートは手元に残した。
田辺と会って、すぐ付き合いが始まっていた。それから17年が過ぎた。麻美「彼に父の影を追っていたのかもしれません。父は私たち家族と一緒に暮らしてはいなかった。姉もどこかで父を追っていた。彼女はずいぶん年上と結婚しました。25歳違いで、父と二つ違い、母より三つ上。父が機嫌悪くなってね。でも、パパ、あなたに怒る資格ないじゃない?って思っていた」
麻美の回想は続く。「20歳で彼と知り合い、紆余曲折、いろいろあった。最近思うのは、この45年間、私が自分の想いを貫き通せる男に出逢えたことは幸せだということ」。所属事務所の社長とタレントの関係から恋人になり、出産して結婚、仕事をやめ、おたがい父と母になり……。その間、自分の想いをずっと田辺に貫いた。「その思いは今も変わりません。あきらめたことや失くしたものもあったかもしれないけれど、悔いはありません。主人には感謝しかありません。ずっと、大切なひとです。こうして、私が、夫である田辺昭知のことを話すのは、45年にして初めてのことです」
親友 松任谷由実との別れ
由実も麻美の恋人が、田辺だとわかっていた。「麻美ちゃんは『待てる女』です。『待つ』のではなくて、『待てる』。当時は家電(いえでん)しかなかったから麻美ちゃんは絶対、家にいた。いつでも電話に出られるようにね。だから『待てる女』。ちなみに私は『待てない女』(笑)。男の子たちと一緒に飲みに行くでしょ。お開きになって、麻美ちゃんは家が同じ方向だからって男の子のクルマには決して乗らなかった。身綺麗っていうのかな。そこまで人を好きになれるんだって思った。惚れて惚れて、田辺さんと一緒になったんじゃないかな」
そんな由実の言葉を受けて、麻美は語る。「確かにそうだった(笑)。彼が好きだったから選択肢はそれしかありませんでした。彼から褒められたことは、公私ともに一度もありません。いつも叱られてばかり。でも叱ってもらってどこか嬉しかったのかもしれません。そういう強さに惹かれたんだと思います」
由実「男がいて、モテるという評判が立つとする。そうすると、女はそういう男に挑むものです。女はその男に近づいていって、誰かが勝つ。勝利した以上、何があっても女はその男を愛し続ける。そうでないと男は観念しない。で、麻美ちゃんは姿を消した。ただの結婚ではなく、相当の覚悟でけじめをつけた」
松任谷由実という親友にして最高のアーティストとの、ある種共犯関係が作り上げた「女が憧れる」というロールモデル。その象徴だった麻美は突然表舞台から姿を消し、謎の存在となった。
四半世紀ぶりの復帰
それから25年、91年に生んだ息子もすでに就職した。麻美は、引退し仕事もすべてやめてからは、新しい日々に必死だった。家と西友とヨーカドー、そして公園の、このくりかえし。息子の幼かったころの日々は、なつかしき思い出として過ぎ去った。
さあ、これからは自分の時間だと麻美は思った。そんなとき、岩崎アキ子に外苑前でばったり出会う。30年ぶりの再会だった。岩崎はモデル事務所の代表である。麻美が一時引退から復帰したあと、1年間モデルの勉強をしたのは、この岩崎のもとであった。再会を喜びあったふたりは、それから食事をしたり、芝居を観に行くようになる。岩崎の頭に、淀川美代子の顔が浮かんだ。
淀川美代子とは、雑誌全盛期を支えてきた伝説の編集長である。『Olive』ではフランスの女子学生「リセエンヌ」のライフスタイルを紹介し、10代女子の間に「オリーブ少女」なる言葉を生みだしていた。
ある日、淀川に岩崎から連絡が入る。小林麻美を復活させたいと。岩崎「麻美さんを加えて、女3人ね。何だか面白そうだからやったんです。マーケティングや計算があったわけじゃない」。スタッフも、カメラマンやスタイリストは30代である。25年前の小林麻美を知るわけがない。彼らは『雨音はショパンの調べ』をYouTubeで聴き、そこから準備が始まった。
麻美は、また仕事ができるとは思ってもいなかった。メイクされるのも、何十年ぶりだった。自転車を前に、久しぶりに漕ぐ気分だった。でも、乗れた。違和感なくすっと乗れた。カメラマンの指示にも自然に動けて、麻美は驚いた。
岩崎アキ子、淀川美代子という、ファッションと出版界の女性の合作によって、サンローランのタキシードを装い、麻美は「再登場」した。麻美が表紙を飾った16年7月20日『クウネル』は、発売するなり多くのメディアか注目する復活劇となった。
小林麻美ヒストリー
了
ブログ後記
上の拙稿は、『週刊アエラ』のおかげといっていいほど、とくに後半は、その記事に多くを依拠しています。あらためて感謝します。ですが、あえて引用しなかった部分があります。それは小林麻美と松任谷由実の友人関係が、終わりを告げた箇所です。
ある意味、記事のハイライトともいえる場面です。なのになぜ引用しなかったのか。まずはその部分をご紹介します。
麻美がふりかえる。「出産・結婚で仕事や周囲に迷惑をかけました。だから二度と戻らないと決めた。結婚を選んだからには何かを捨てなければならない。それが私なりの禊でした」。麻美は姿を消し、25年間見向きもせず育児に没頭してきた。これは「自分の決断に対するけじめ」だった。
そのとき、麻美と由実の友人関係も消えた。由実「麻美ちゃんの中で何かが解けたのかなって思いました。きっぱり親交がなくなりました。でもそれでよかった。友達でい続けるのは、それはそれで大変だったと思う。神隠しみたいに姿を消してしまったけれど、気持ちは繋がっていると思う25年間でした」
ふたりは最後の電話を覚えている。
由実「私、これからも闘う」
麻美「私にはもうファイトがないの」
由実は麻美の答えに、この人はショービジネス世界に未練がないのだと受話器を握り締め、麻美は親友を失くすのかもしれないと覚悟した。「尼寺に入るじゃないけれど、昔はそういうお別れがあったんです」。由実が言う通り、鮮やかな女の決別だった。
小林麻美は引退に際し、関係者に大きな迷惑をかけたため、仕事でも密接なつながりのあった、松任谷由実との友人としての関係も、同時に断ち切ったのです。
そしてアエラには、こんな記述もあります。
そんな麻美にも25年間で、ひとつだけ果たしていないことかある。麻美「双子のようにいつも一緒だった」松任谷由実、ユーミンとの再会である。
自分はこの一文に、違和感をおぼえました。
というのも、小林麻美のファッション誌での復帰は2016年です。この記述のあるアエラの発刊は2018年です。ふたたび世に出て2年もたっているのに、小林と松任谷は、まだ再会していないことになります。小林の復帰を機に、久々に連絡を取り合うのが一番自然であったろうに、そうしていないのです。
さらに不思議なのは、アエラにこの記述があるということは、同誌の取材を受けた時点でも、まだ会っていないことになります。ふたりが会話しているかのように書かれた箇所があるのですが、それらは筆者が「構成」したのでしょう。つまり別々の場所で、個々に取材を受けたことになります。
復帰後の2年間に会わなかったとしても、この記事をきっかけにして再会したらと思うのは、関係ない者の大きなお世話でしょう。でもどうにも不自然に思えるのです。勘ぐれば、「まだ再会していない状態」のほうが、記事の効果が高まるとの計算が、記事筆者やアエラ編集部に働いた。そしてふたりにも「まだ会わないでください」と、ストップをかけたのでしょうか。いや、これはあまりにも邪推が過ぎますね。
しかしそれにも増して、会わない理由が気になります。別れを告げた方の小林からは、言いにくいのかもしれませんが、さっぱりした性格と思われるユーミンなら、復帰の時点で、「麻美ちゃ~ん、ひさしぶり~」と、あっけらかんと電話していそうに思います。でも連絡しなかったのです。まだ気持ちのうえで距離があるのでしょうか。でももしそうなら、アエラの取材自体を受けないでしょう。だから不思議なのです。
自分としてはこれらの「謎」が、あれやこれやと湧き出てくるのです。ささいなことですが、疑問を抱いたままで本文に引用するのは、ちょっと気が引けたということです。
おそらくですが、ふたりはもう再会しているかもしれませんね。記事が出たあとなら、誰にも文句は言われないでしょうから。
ブログ後記 追記
小林麻美ヒストリー後日談 ~ユーミンとの再会~
申し訳ないのですが、
またブログ後記を書かせてもらいます。
小林麻美について、新たな「情報」が入ったからです。
上の拙文をアップしたのは、今年、平成31年の3月のことだったのですが、
それから2カ月経った令和元年の5月、週刊朝日に小林麻美についてのコラムが載りました。
執筆者は延江浩という、昨年週刊アエラに『小林麻美とその時代』を書いた同じ方です。
アエラの続編といった趣きのコラムでした。
この内容がよかった。
自分が心配?していた、小林麻美と松任谷由実の再会が、ようやく実現したとの話だったからです。
題して「ユーミンと小林麻美さん 楽屋での熱い抱擁」。
以下に当コラムから、一部を抜粋引用させてもらいます。
小林麻美さんと、ユーミンのコンサートに行った。ソールドアウトが続出の夕イムマシーンツアーは、追加公演が次々に打たれ、全国40万人動員となった。「ああ、ドキドキする」と麻美さん。結婚を機に表舞台から姿を消し、25年ぶりにサンローランを着て雑誌「クウネル」に衝撃的に再登場し、今回のコンサートで再会するまで連絡が途絶えていた。双子のように親しかった彼女たち。ユーミンはいなくなった麻美さんを、「神隠しみたいに姿を消してしまったけれど、気持ちは繋がっていると思い続けた25年間でした」と語る。
当日、黒地に水玉のブラウスを着ていた麻美さんだが、『Happy Birthday to You~ヴィーナスの誕生』でその白い水玉が細かく揺れた。この曲は麻美さんのためにユーミンが作ったものだった。それをリメイクし、たった一人で子供を産んだ麻美さんヘプレゼントしたのだ。この曲の収録アルバム『DAWN PURPLE』はミリオンセラーとなり、100万人が麻美さんの出産を祝福することになった。(中略)
武道館のコンサートも終盤近くになり、麻美さんがしくしく泣き始めた。正隆さんをユーミンがステージに呼び、彼の伴奏で『卒業写真』を披露したラストのサプライズで、とうとう両手で顔を覆ってしまった。(中略)
終演後、多くの関係者紛れるように、麻美さんは楽屋の片隅でユーミンを待っていた。TVカメラも入っていたが、撮影が終わるとユーミンは彼女を見つけ、その場で強く抱きしめた。