あままこのブログ

役に立たないことだけを書く。

「2006年のはてな・キッズ」から、ゼロ年代の差異化ゲームを振り返る

要旨

  • 90年代以降、文化が島宇宙化する中で、「〇〇はカッコいい/ダサい」という評価も、島宇宙ごとに分かれていった
  • しかしそこで「カッコいい/ダサい」を決める差異化ゲームのやり方は、少なくともゼロ年代と2020年代では異なっているのではないか
  • ゼロ年代は「どれだけ他人に説得力あるロジックで、かっこよさ/ダサさを説明できるか」という、 ストックの構造・強度 を競っていたのが、「どれだけかっこいい/ダサいという言及を集められるか」という、 フローの流量 で競われるようになったのではないか

以上の仮説を、2006年ごろはてなダイアリー上で行われた音楽趣味についての議論を参照しながら、展開していく記事になっています。

「ってだけの話」なのか?

2024年12月31日に、NHKで紅白歌合戦が放送されました。そして、同番組内でのB'zのパフォーマンスが、SNSで大きくバズっているようです。

しかし、このようにSNS上でB'zが称賛されるのに対して、一部のネットユーザーは「でもいままでB'zって、音楽的には評価されず、むしろダサいものとして扱われてきたじゃん」という声を上げ、それに対して「いや別に自分の周りではそんなダサく思われてなかったけど?」という風な批判もされ、ネット上で結構議論になっています。

(ちなみに、自分の意見も、割と前者のネットユーザに近いです。

紅白の話題のついでに言うと、昨日からB'zのパフォーマンスが話題になってるけど、そのこともちょっと引っかかってている。 なんつーか、それこそ5chがまだ2ちゃんねるだったころのネットでは、B'zって結構馬鹿にされていた。 例えば「B'Zについて語る」という感じのスレがビジュアル系板にあったりして、伝説のバンドB'Zについて語るという体で、「B'Zはほんとすごいよな。B'z?あんなしょーもないコピーバンドと一緒にすんなよ」みたいな形で、遠回しにB'zを馬鹿にする、ほんと嫌味なスレがずっとあった。 あと「B'zは演歌」という評価が、音楽好きにあって、そこにはやっぱり嘲りの雰囲気があったわけよ。

あままこ(amamako) (@darakeru.com) 2025-01-01T08:12:26.775Z
bsky.app

もちろん、そんな昔のインターネットの、最悪な側面が現在なくなっているのは、それ自体は本当に間違いなくいいことなのだけれど。 でも、そこで暗い情念をぶつけていた人たちが、今のインターネットでも何食わぬ顔をして生き延びていて、ネットの雰囲気に合わせて今度はベタに「B'zサイコー!」とか投稿してると思うと、やっぱちょっと、どうなんだろうと思ったりもするのよね。

あままこ(amamako) (@darakeru.com) 2025-01-01T08:12:26.781Z
bsky.app ※なお、ここで「ビジュアル系板」と書いているのは、「HR/HM板」の記憶違いでした。お詫びして訂正します。)

そんな中、『ポスト・サブカル焼け跡派』

などのサブカルチャー批評の著作もある、ライターのコメカ氏が、上記の論争についてこんなつぶやきをしているのが目に入りました。

XでB'zはダサいとされていたか否か論争みたいなのが起きてるのか。追ってないからよくわからんけど。 90年代には今と異なる文化的な棲み分けやコミュニティ形成があり、ある種のゾーンにおいてはB'zをダサいとみなす力学があった、ってだけの話じゃないの?

コメカ (@comecaml.bsky.social) 2025-01-02T02:35:59.079Z
bsky.app

こんなん、どのゾーンでどういう差異化ゲームが行われていたかってだけの話で。更に小さなあるゾーンにおいてはスパイラル・ライフがダサいとされていた、また更に更に小さなゾーンにおいてはフリッパーズ・ギターがダサいとされていた、とか、無限に続いていくだけの話では?笑

コメカ (@comecaml.bsky.social) 2025-01-02T02:36:15.529Z
bsky.app

社会全体のパースペクティブとしてはこうだったんだ、を力技で話そうとして、混乱を招いている感じ。

コメカ (@comecaml.bsky.social) 2025-01-02T02:36:34.981Z
bsky.app (静岡でのサブカルチャー講座、去年のがとても良かったので、今年も楽しみにしています。)

一応言っておくと、僕は上記の文章は、大筋では間違ってないと思います。

そもそも90年代以降の文化において、「何がかっこいいか/ダサいか」なんてことを社会的に評価する統一的なコードなんてとっくに失われていて、それぞれの島宇宙で勝手に「カッコい/ダサい」を決める差異化ゲームが行われているだけであり、島宇宙を超えた社会全体の評価なんていうのは存在しない、というのは、まさにそのとおりでしょう。

ただ、その一方で、2020年代の感覚で言う「ダサいとみなす力学」が、じゃあ90年代や、ゼロ年代における差異化ゲームで用いられるものと同じものだったのかというと、それも、なんか違う気がするわけです。

感覚的に言うと、90年代~ゼロ年代の「ダサい」って、今の「ダサい」よりもっと重いものだった気がしたわけですね。だからこそ、上記のTogetterの人や僕は、そこで簡単に「B'zダサい」から「B'zカッコいい」に転向したネットユーザーに対して、イラつきを感じるのです。

「2006年のはてな・キッズ」は、どのように差異化ゲームを遊んでいたか

そこでこの記事では、インターネットを検索していて発掘した、2006年の、ある音楽趣味をめぐる論争から、当時における「差異化ゲーム」の様子を見て、それと現在のB'z論争を比較しながら、ゼロ年代と2020年代における、差異化ゲームの差違について、論じてみたいと思うわけです。

参照するのは、以下でまとめられている、はてなダイアリー上で行われた、チャーチル氏という当時中学生だった方と、トニオ氏という当時大学生の方、そして吉田アミ氏という現代音楽家の方の論争です*1。

流れとしては

  1. チャーチル氏がこれから聴く - 伸びろ!脳ミソ!という記事で、2つの洋楽CD*2を借りてきたことを報告する。
  2. トニオ氏がそれに対し「またおじさん好みのCDを借りてきますね」と揶揄する(記事消失)
  3. 吉田アミ氏がそれに対し怒る(記事消失)

というもので、まあ今となってはホントしょうもない揉め事なんですが、なぜか当時はてなダイアリーに居た人は、この揉め事についていろいろな文章を書き、論争のような状態になったわけです。

(ちなみに自分は当時大学生だったと思うのですが、なぜかトニオ氏が書いた記事において「チャーチル氏はおじさん受けするまともな道筋で音楽を学んでいてつまんない。あままこ*3を見てみろ。あいつは左翼思想からいきなり頭脳警察に行くとかいう、理由のわからん音楽趣味をしてるぞ」という風に、流れ弾的に言及されました。その記憶もあってこの論争は割と覚えていたわけです*4)

そして実は、その中では加野瀬未友氏が自身の記事を参照し、その中で当時のB'zの立ち位置について言及していたりします。

この議論の素晴らしいところは、約19年ぐらい前に、インターネットの片隅でひっそり行われた論争なのに、まだ文章が結構残っているところです。先日津田大介氏が朝日新聞で

という風に、過去のインターネットの情報をたどることの難しさを書いていましたが、その点からすると、結構貴重な資料ではあると思うんですよね。それこそ2000年ぐらいに、「1981年ごろ大学近くの喫茶店でどんな音楽談義がなされていたか」とか資料があったら、結構貴重な資料として扱われているわけで。

というわけで、この論争を見ていきたいのですが、ただ、読み解くにはある程度、当時の時代背景を知っている必要もあると思うので、若い人のために簡単に時代背景について説明します。「当時の音楽事情なんて普通に知ってるよ」というおじさん・おばさんは、読み飛ばして大丈夫です。

背景説明

ファイル交換・共有ソフトの登場

ゼロ年代前半の音楽とインターネットを考えるときに、まずどうしたって外せないのは、ファイル交換・共有ソフトの存在でしょう。これによって、いわゆる音楽チャートに載るようなメジャーな音楽ではない、世界中のさまざまな音楽に、地方に住んでようが貧しかろうが、アクセスできるようになりました。

ただ、それだけだと「あ、今のサブスク環境と同じになったんだ」と勘違いするひとがいるかもしれませんが、当時これらのソフトを使って音楽を入手するというのは、結構手間が必要だったんです。

ファイル交換・共有ソフトは、あくまで「誰かが持ってるファイルをもらえるソフト」ですから、いくら自分が欲しい音楽があっても、その音楽ファイルを誰かが共有していなければ、もらうことはできません。

だから、マイナーな音楽が好きな人は、掲示板に「〇〇という音楽をだれか共有してもらえませんか」と書き込み、そして運良くそれを共有してくれる人を見つけたら、感謝の意図を込めてお礼を3行以上書く、そんな手間をして、やっと音楽が入手できるのです。*5

さらに言えば、当時は回線速度もそんなに早くありませんから、今のサブスク環境のように「思い立ったときにパッと聞ける」ということはありません。長ければ1曲のダウンロードに数時間ぐらいかかることもあるわけです。

僕個人も、もう時効だと思うので話しちゃいますが、そういうファイル交換・共有ソフトで音楽をダウンロードしたことがありました。*6ですが、音楽知識もそれほどありませんから、それこそ向こうのオタクが好みそうな、90年代ジャパニメーションのOP・ED曲とかを手に入れるので精一杯だった記憶があります。

そういうわけで、ファイル交換・共有ソフトによって、世界中の音楽にアクセスできるようになったのは事実なんですけど、そこで音楽を実際に見つけるにあたっては、未だ音楽と技術、両方に対する知識がかなりないと難しかったわけです。

CCCD・レコード輸入権問題

というわけで、ファイル交換・共有ソフトのような存在はありましたが、一方で、チャーチル氏が記事で書いたように、CDを購入したりレンタルすることも、当時は多くあったわけです。

しかしそんな中で日本のレコード会社はCCCD:コピーコントロールCDという、音楽をPC等に取り込むことができないCDを発売し、多くのネットユーザーの反発を受けました。

さらに、2004年には、著作権法を変えて国外からのCD輸入を規制するレコード輸入権問題も起き、日本の音楽業界に対してネットユーザーは激しい不信感を持つことになります。

当時のネット上での洋楽上げ・J-POP下げは、もちろん中二病的な側面もあったわけですが、他方で、このような事件により、日本の音楽業界とネットユーザーに対立構造があったというのも、関係しているわけです。

ウェブ日記・ウェブログの流行

このように音楽を聴くこと自体は、今のサブスク環境より大分難しさがあったゼロ年代なわけですが、その一方で、文章で「音楽を語る」ことは、とても容易になったのがゼロ年代だったわけです。

何より重要なのが、それこそはてなダイアリー*7に代表される様な、ウェブ日記・ウェブログの登場です。

90年代後期にもインターネットは存在していましたが、そこで個人が文章を書くには、HTMLの文法やFTPの使い方を習得するなど、かなりPCスキルが必要でした。

それが、ウェブ日記やウェブログの登場により、普通にワープロソフト*8を使うのと同じ感覚で、文章を作成し、ホームページに公開できるようになったわけです。

音楽ファイルをダウンロード・アップロードするには低速だった、当時の回線環境も、テキストを読み込むにあたっては十分すぎるほどの速度が出ていたわけで、ゼロ年代には、インターネット上に個人の音楽語りがあふれるようになったわけです。

ただ一方で、そうやってインターネット上に溢れた音楽語りですが、それが多くのユーザーに読まれるのには、それこそライターや音楽家・学者など、既に注目される有名人に取り上げられる必要があるわけで、「著名/無名」というようなヒエラルキーが完全に崩れたわけではないのにも、注意が必要です。

チャーチル氏とトニオ氏の論争が多くの注目を集めたのも、まさしくそこで吉田氏のような音楽家や、加野瀬氏のようなライターに取り上げられたからといえるわけです。

論争におけるそれぞれの立ち位置

というわけで、やっと本題である論争の内容に入っていくわけですが、今回は残っている文章の中から以下の4氏の文章をとりあげたいと思います。

吉田アミ氏

吉田アミ氏は、論争の当事者でもあるのですが、問題になったトニオ氏への記事自体は削除しています。

ただ、おそらく騒動を受けて書いたであろう記事は残っていますから、それを元に吉田氏の立場を考察することはできます。

吉田氏の立場は一言でいうと、「他人の趣味や、それに基づく行動を否定するべきではない」という立場です。どんな音楽も、それを好きになったなら好きなままでいいし、他の人はそれを否定してはいけないという意見であり、さらにその好きになる切っ掛けも自由でいいとするわけです。

そう考えるとどう考えたって何でも愛しい。その愛しい感情はかけがえもなく価値が下がるわけでもなく正解なわけで、それを知るきっかけがキャバクラのオッサンの説教だろうが自らおこずかい貯めて買ったはじめてのレコードだろうがライブハウスで期待してなかった対バンの演奏だろうがアニメのエンディングテーマだろうが好きな男の子が作ってくれたミックステープの中の一曲だろうがなんだろうがどうだろうが、関係ないのだ。

そしてそういう立場からすると、トニオ氏の「おっさんに好かれそうな音楽ばっか好きになって」という嘲笑は、下記で批判される、終わりのないセンス競争であって、「音楽を好きという感情に序列を付ける行為」であると、批判されるわけです。

 というか、世界は入れ子でできていて、きみが正しいと言ったその世界は実はずっとせまくて、それを見て嘲笑ってるもっとくわしい大人がいて、それをまたなにそんな詳しければいいわけ、センス良いって思い込んでるの自分だけじゃない?時代錯誤だねと思って嘲笑ってる人がいて、じゃあきみはそうやって一番最初に好きになったものだけを後生大事に磨きつづけているのがいいのかい?と嘲笑している人がいて、さらに結局、自ら何かを生み出すわけでもないくせにたかがリスナーがそんなふうにウジャウジャやっててバカみたいって嘲笑ってる人がいて、そういうミュージシャンに限ってつまらない音楽作ってるんだよなーとまた嘲笑する人がいて、結局、嘲笑している人はみんな一緒だよ、やれやれなんて煙草を一服する人まで出てきて、えーと、何がいいたいの?みたいになって、散々、逡巡した結果、やっぱり正解なんてない。そう、好きになるなんてタイミングでしかないんだよ。

このような立場は、現代行われているB'z論争でいうなら、「世間で何を言われていようが自分は昔からB'z好きだったし、過去どんな議論が行われてようがそんなの関係ない」という、おそらくB'z論争を目にしたとき、多くの人が抱いている考えと同じものと言えるでしょう。このような立場は、「過去とか関係なく、今自分の感性で『B'zが好き!』と言えるなら、それでいい」という立場として、 感性主義 と表すことができると思います。

ただここで重要なのが、今だったらそれこそSNSで「〇〇が好き、でいいじゃん」と一言で簡単に言い表せる、この、感性主義という立場を説明するのに、吉田氏は1974文字も費やさなければならなかった、ということです。感性主義という立場が音楽を聴くにあたって特異な立場だったから、それを説明するのは多くの言葉を費やさなければならなかったわけです。

kyanny氏

一方で、論争においてはこのような吉田氏に疑義を呈する論者も居ました。その一人がkyanny氏です。

kyanny氏は、そのような吉田氏の感性主義は、実は「音楽趣味を否定する考え方は間違いである」という主義主張を個人に押し付け、いわば学級委員のように「みんな仲良くしなければならない」という抑圧を与えているのではないかと、批判するわけです。

上記部分はつまりこういうことだ。 『お前の考えは間違いだ、何故なら以前の私が同じことを考えていて現在の私からみるとそれは間違っていたから』 これは正しい意見なんだろう、が、今現在間違っているひとには届かないし、届くと思うなんておこがましい。若き日の自分が同じようなことを言われて考えを改めたのならいざしらず。もっとも、そこで言われるがままになったひとは「声高に訴え」ようとは思わないだろう。 (中略) これも傲慢だ。誰かの世界が狭くてつまらない、なんてことをどうして他人が規定できる?狭くてつまらないのが嫌だと思ったら何も言われなくても自分で世界を広げるものだ。広い世界とやらを知ってるひとの目からみて、狭い世界で満足してるひとは間抜けに見えるのかもしれないが、彼の彼女の世界はその広さしかないし、その広さで十分なんだ。そこへ出て行って「お前の世界は狭い」ドーン!なんてやらなくていい。趣味の世界は個人の世界なんだから。

kyanny氏は、吉田氏の「音楽趣味に貴賤はない」という主張に同意しながら、しかし貴賤がないのだったら、「Aという音楽はBという音楽よりセンス的に上/下である」という風に、音楽に上下関係をすけるトニオ氏の考え方も否定できないはずなのに、吉田氏は否定している。それはおかしいのではないかと、吉田氏の矛盾を突きます。

そのようなkyanny氏の考え方は、「誰かの音楽趣味を否定することも含めて、音楽趣味は自由であるべきだ」という考え方であり、いわば 自由至上主義 ということもできるでしょう。そしてその観点から言えば、トニオ氏のような嘲笑は愚かしい行為ではあるが、しかしそのような愚かしい行為をする権利、つまり愚行権の行使として、自由であるべきとされるわけです。

死に舞氏

このように、吉田氏の主義主張に同意しながら、「しかしその主義主張を突き詰めていけば、吉田氏の行為は矛盾しているのではないか?」と主張する論者が居る一方で、吉田氏が示すものとは全く違う価値こそが重要だと主張する論者も居ます。

死に舞氏は、吉田氏の「音楽趣味に貴賤はない」という考え方に、「いや、音楽趣味の本質とは、ある音楽と別の音楽に貴賤をつけることだ」という、全く正反対の考えを突きつけて反論します。

まあ日本がそこまでの表現の自由があるべきか否かはとりあえずとして、その話から俺は人の趣味を馬鹿にすることはそんなに問題はないと思っている。というか自らの趣味の価値を信じるならば、そこに他の趣味としての上下関係はあるのは当然だ。そりゃ馬鹿にされたら腹立つであろうし、時には怒って反論すればよい。でもどんな価値でも平等だとか言いながら、人の趣味と自分の趣味を相対化して事が済むと思っている人の話はたいていがツマンナイのである。いわゆるアレだ「音楽は何聴くの?」って尋ねると「なんでも聴きますよ」とかいう奴がツマランのと一緒だ。 (中略) しかし近頃ではセンス競争自体を悪だと思ってる輩が多くて困る。ちょっと音楽の背景を説明したり、あたらしい音楽の凄さを言ったりすると「音楽は背景的な知識はいらない」とか「人の趣味を馬鹿にするな」とか言い出す奴がいる。そういう奴は自分をセンス競争から解脱した仏陀だと思ってるのかしらんが、「他人の目線を気にせずどんな音楽でも聴けるリベラルな自分」と思っている節がある。それこそ自らが「狭い趣味のあなたよりリベラルな趣味の自分」がより優秀だというセンス競争に加担していることを隠蔽するようなロジックにしか思えんのである。文化にスノッブがつき物であり、そこから逃れることはできないんである。

そして死に舞氏は「ある音楽のセンスを誇示したり、『他の人とは違う音楽を聞く自分カッコいい』というスノッブ的な態度を持つこそ、そしてそのような態度に基づいて他人と競争したり喧嘩することこそが、現在の音楽文化の豊かさを作ってきたのではないか」と、主張するわけです。

そもそも考えてみてほしい。スノッブな文化的な体験無しに、この豊穣な音楽文化はありえただろうか?最初から気持ちよくてメルツバウとかのノイズやあぶらだこのような変拍子とか吉田アミの金切り声を聴く奴がいただろうか?そんなことはないんである。我々人間の文化は他人からの差異の上に成り立っているからこそ、豊かな文化がありえるのだ。 まあだから馬鹿にされたらムカつくがそれによって自らの文化が広がることもあるし、腹が立ったら反論して、相手の文化的基盤をグラグラと揺るがしてやればいいんだ。俺はそうして今までやってきたし、たかが音楽のことで大激論の喧嘩になることもあった。でもそうやって話した相手とはその後も音楽の趣味を交換する友人となってたりするもんだ。 だから相手を馬鹿にしろ、そして馬鹿にされろ。そしたら自分の耳も相手の耳も変わっていく。

そして、このように吉田氏の立場を批判したあと、返す刀で死に舞氏は、トニオ氏に向けても「頭脳警察について君は取り上げるけど、これは聞いたことあるの?」と、センス競争の戦線を布告するわけです。

ってことでトニオ君!頭脳警察はコレを聞きなさい! 頭脳警察’73 10.20 日比谷野音 そして今度暇だったら、はっぴいえんど化する日本のロックの将来にとっていかに頭脳警察が重要化をとことん説教してやる!

死に舞氏の立場は、吉田氏のように、個人は自らの感性に基づいて、自由に好きな音楽を聞くという立場に対して、教養に基づくセンス競争によって、音楽趣味はつくられるという点で、教養主義 の一つと言うことができるでしょう。そしてその立場から言うと、トニオ氏がチャーチル氏を嘲笑するのは正しい。

しかしそういうトニオ氏もまた、自分のような存在からすると、浅い人間として嘲笑されるけどね、となるわけです。

inumash氏

さらに、今まで述べたような音楽趣味についての議論に対し、「そもそも音楽を聞くときに、その音楽の立ち位置とか気にする必要ある?」と、議論の土台自体をひっくり返そうとする立場もあらわれます。inumash氏は、自らのフィールドであるテクノ・トランスでは、「その音楽を使っていかにノレルか」こそが、音楽の価値を示す基準になっているとして、「よりセンスの良い音楽を聞いている」という差異化ゲームは、音楽趣味においては重要ではないと主張するわけです。

一つ気になったのですが、この「感性による差異化ゲーム」が機能するのって、音楽になんらかの記名性があることが前提ですよね。小西さんや小山田さんがやったことって、それこそ「記名性とそれに付随するイメージ」を利用した差異化作業なわけで。 で、ここで疑問が。 音楽を受容するのに、本当に「記名性」って重要なんでしょうか。 例えばトニオさんが好きだったAsh Raを一切の記名性を感知せずに「ただアシッドでブッ飛ぶ為の道具」として受容している人もいるわけです。そこに「差異化ゲーム」が入り込む余地はあるのでしょうか。

そして。そのような観点からすると、トニオ氏の嘲笑は、「差異化ゲームなんか気にしない音楽の楽しみ方を阻害するもの」として、批判されるわけです。

トニオさんが問題にしているのは、(恣意的な視点による)記名性によって音楽が受容されること、それとどう向き合うかだと思いますが、その前提である「記名性」ってどこまで受け入れられているものなんでしょうか。少なくとも僕にとって「音楽の記名性」なんてひたすらどうでもいいことです。例えばベーシック・チャンネルのドローン音とウラディスラフ・ディレイのそれがどう違うかなんて差異化はどうでも良くて、あるいはそれらを聞くことの意味もどうでもよくて、ただその時、その音が必要だったというだけだったりします*1。

このような立場は、「音楽を聞く際は、その音楽によってノレルかどうかのみが重要だ」という意味で、機能主義 ということができるかもしれません。

今回のB'z論争で言うなら、「でも結局ultra soulで会場やお茶の間はもりあがったんだから、それが全てでしょ」というような立場なわけです。

論争を振り返って

以上のように、2006年のはてなダイアリーでは、音楽趣味のあり方や、その語り方を巡って、さまざまな立場から、論を交えており、そこでは

など、さまざまな主義主張が提示されていたわけです。

ここで注目すべきなのが、この論争の発端はチャーチル氏とトニオ氏、それに吉田氏による他愛もない揉め事であり、そしてこれら議論はどれも、その揉め事に対しての論者の意見になるわけですが、にも関わらずそこでは「トニオ氏を擁護する/批判する」、「吉田氏を擁護する/批判する」という立場の表明だけが示されるのではなく、その立場を導き出す論理の積み重ねが文章で示され、そしてその論理の一貫性・妥当性こそが問題視されていたという点です。

だからこそ、kyanny氏のように、吉田氏の主義主張を肯定しながら「でもその主義主張を突き詰めれば、吉田氏が現在取っている立場も否定されるのではないか?」と、相手の論理の矛盾を突くような反論がなされたり、同じトニオ氏を評価しない立場でも、異なる論理からその結論が導き出される場合は、死に舞氏のように吉田氏に対する反論がなされることもあるわけです。

つまり、「〇〇は良い/悪い」という結果が同じか違うかより、そこに至る道筋の方が重要視されていたのです。

この様な議論の形式は、実はゼロ年代以前の音楽趣味に対する語り方を、そのまま引き継いだものであると言えます。

YMOが1980年に発表した『増殖』*9というアルバムには、スネークマンショーのコントも収録されているのですが、その中に「若い山彦」という、当時の音楽評論を戯画化するものがあります。 music.youtube.com このコントは、あるラジオ番組の中で、さまざまな音楽評論家が喧嘩するものです。各々の主張は実は全員同じで、「日本のロックには、良いものもあれば、悪いものもある」というものなのですが、にも関わらず評論家たちは、その見解に至る自分の経験こそが尊重されるべきだから。喧嘩するわけですね。

日本の音楽を巡る論争の多くは、「日本語ロック論争」に代表されるように、議論の主題であるのは「ロックは日本語で歌うべきか英語で歌うべきか」みたいな些細なことになるわけです、問題となるのは、主題そのものよりも、むしろ、いかにその主題に対して自分が一貫性・妥当性あるロジックから主張をできているか、また、その主張を導き出す自分の経験・教養がいかに独自性もしくは普遍性を持つか、ということになっているわけです。

その点で言えば、ゼロ年代における音楽をめぐる差異化ゲームでは、確かにそのゲームが争われる場は、雑誌やラジオといった公共の場から、それこそインターネットの片隅のブログサービスに存在したコミュニティという、島宇宙の典型のような場所に移行していたわけですが、そこで争われるゲームのルール自体は、ゼロ年代以前の差異化ゲームを多分に引きずったものだったと言えるわけです。

そして、その差異化ゲームに敗れ自らが「ダサい」とされることは、自らが今まで培ってきたロジックや、そのロジックを生み出す経験・教養全体が否定される、とても重いものとなるわけです。

2020年代の差異化ゲームとの比較

一方で、2020年代の差異化ゲームはどうか。ここで再び、現在のB'z論争を見てみましょう。

2006年のはてなダイアリーにおける議論との一番の違いは、議論が戦われる場がはてなダイアリーのようなブログサービスから、XのようなSNSや、はてなブックマークのコメント欄など、極めて短文しかかけない場になったということです。

そして、そうであるが故に、議論の流れも、論理によって支えられた長文で相手の主張・立場の難点を突くものから、各々から感情的な発出をする短文をただ発露し、それらが各々異なったまま流れていくといものになるわけです。

そこでは、「この発言は他の発言と比べて妥当か否か」という判断はできません。なぜなら発言は単なる感情の発露にとどまるものだから、それは「良い/悪い」という評価がそもそもできないものだからです。

そこでどのようにそれぞれの意見の内、どちらが優勢であると見られるかは、単純な「自分の目の届く範囲で、どちらの意見が多く見られるか」でしかなくなるわけです。流れるタイムラインを眺めたり、コメント欄を流し見する中で、ぱっと「こういう意見が多く見えるな」「こういう意見が少数に見えるな」ということが判断され、それによって優勢/劣勢が判断されるわけです。

これを言い換えれば、ゼロ年代の議論は、各々が「ストック」として自らの主張、及びその主張を支える論理・経験・教養を磨き上げ、そしてそのストックの構造・強度を競い合い、各々が「どのストックの方がより優れた構造・強度であるか」によって、評価を決めていたのにたいし、2020年代における議論では、各々は「フロー」として自らの発言をSNSに流し、そしてそのフローの内、より似通った意見が多く流れているフローの方を、「流量が多いフロー」として、優勢と評価するようになった、と言えると思います。

そして、このように「ストックの構造・強度」を競い合うことから、「フローの流量」を競い合うことへ、ゲームのルールが変わったことにより、2006年のはてなダイアリーにおける議論では、 一つの考え方でしかなかった「感性主義」という考え方が、ゲーム全体の前提にまで昇格した とも、言えるのです。

一番最初に僕は、B'zがカッコいいと、現在のSNSで称賛される状況に対し「でもそうやって言う人の中には、昔は『B'zカッコ悪い』とか思ってた人間もいたはずなのに、そういう人間が何も転向や反省を明らかにせず『B'zサイコー』と意見を翻すのは、気持ち悪くないか?」という主張をしました。要するに、相手の主張を認めながら、「しかしあなたのその発言、過去と矛盾していませんか?」と問う態度です。

しかしそのように過去の自分との矛盾を突くという戦法は、ストックとして、それぞれの考え方が培われる、ゼロ年代以前の議論においては有効となりますが、全てがフローとして流れていく2020年代現在では、ほぼ意味がありません。なぜなら、全てがフローとして流れていく以上、過去どのような発言をしたかというのは、現在では無意味なことであり、重要なのは、ただ現在の感性において、音楽を楽しめているかどうかだけなのですから。

このように、「過去は関係ない、ただ現在のみが重要だ」という環境は、「今現在自分の感性とあっているか」のみが重要視される、感性主義と極めて親和性が高いわけです。

そしてその反対に、「過去に積み上げてきた文化・教養の上に今の文化は成り立っている」という教養主義は、フローにおいては、ほぼ通用しない考え方となります。なにしろ過去っていうものは存在しないんですから。

このような変化が、文化や社会全体においてどういう意味を持つか、色々考えは浮かびますが、同じ島宇宙化したゼロ年代と2020年代でも、そこで行われた差異化ゲームのルールには大きな違いがあるのではないか、そこまでを仮説と提示して、この記事を締めたいと思います。

*1:3人とも文章のやり取りしたことあるし、なんならチャーチル氏とか、後述する加野瀬氏とかは直接会ったこともあるし、ああ狭い世界

*2:なのかな?この2つのCDがどんな文化的位置を占めているのかは、未だによくわからない

*3:当時はrir6と名乗っていましたが

*4:しかし今から考えると、共産趣味からスターリンや頭脳警察に行くって、それこそすみぺ(上坂すみれ)とかも通ったルートで、そんなに特異ではないよな

*5:ここらへんの昔話は、それこそ津田氏がだれが「音楽」を殺すのか? 津田大介著 翔泳社刊だれが「音楽」を殺すのか? 津田大介著 翔泳社刊という本で、それこそ後述のCCCDやレコード輸入権問題と合わせて書いている

*6:自分はWinMXとかwinny周りの雰囲気が苦手だったので、Gnutella(2000年)を使っていた

*7:現在僕が書いている、はてなブログというブログサービスの前身

*8:って言い方ももう死語か?WordやGoogleドキュメントって、今なんて呼ばれてるんだろ

*9:増殖