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若い人は知らないけど、僕がアニメからVTuberに流れていった理由

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大学卒業した頃から、若者とは殆ど付き合わなくなってしまったので、今の若い人が実際にアニメからVTuberに流れていってしまっているかは、分からない。


ただ、1987年生まれの34歳の自分は、割と最近アニメを見ることが減って、その分VTuberの配信とかを見るのが多くなっている気がする。


なぜそうなったか。そこには主に2つの理由がある。

  • もともと自分がアニメに求めていたのが、「物語」そのものというより、「物語」をメタ視点から眺めるという楽しみだったわけだけど、Vtuberはより直接的にメタ的な楽しみができる
  • アニメよりVTuberの方が、よりダイレクトに現実を反映しているように見える

それぞれの理由について、解説していく。

アニメという「重い物語」と、VTuberという「軽やかな物語」

「アニメ実況」という文化がある。古くは2ちゃんねるの実況板、今はTwitterのハッシュタグなどで、リアルタイムにアニメの実況を書き込んでいく文化だ。


もちろん、もともとオタクには、仲間内で集まってアニメを一緒に見るという文化はあった。だが、それはあくまで十数人とかの少人数で行われていたことだ。また、インターネット以前のパソコン通信の頃から、放映されているアニメについて意見を交わすという文化はあった*1が、当時は回線が貧弱なため、多くの人が一斉にアニメ放映時に掲示板に書き込むと、サーバーがダウンしてしまうため、多くの掲示板では「実況禁止」というローカルルールがあった。


しかしそんな中で、2ちゃんねるで、実況をする専用の板が存在し、そこでは日夜(といっても大体は深夜と日曜日朝、それとTBS・MBS夕方だったが)アニメ番組の実況が行われていた。


さて、ではそこで行われていた実況とはどんな行為だったのか?


もちろん主となるのは、笑う場面で笑ったことを書き込み、感動する場面で感動したことを書き込むといった「感情の共有」である。しかし、一人でいるときはただそれを「感じる」だけである感情も、実況という場でそれが書き込まれることによって、「観察されるもの」となる。実況に参加する人は、アニメそのものを見て感情を発露する観客であると同時に、感情を発露する観客を観察する観察者として、否応もなくメタ的な立ち位置に立つ。


そしてそんな中で、「このアニメではこういう場面でなく人が多いな」とか、「この展開、担当する脚本家よく使うな」というように、ただアニメを見て感情を発露するのではなく、アニメを分類し、さらにそこでクリエイターと関連付けたりする。「京アニが作るkey原作アニメはやっぱ泣きアニメだなー」というように。


さらに言えば、そのようなインターネット上の実況文化と共犯的に人気を獲得していったアニメも多々あった。『ぱにぽにだっしゅ!』『らき☆すた』『さよなら絶望先生』といったアニメは、メタ的なオタクネタやネットネタを数多く取り入れ、そしてそれに対してネットが盛り上がり、その盛り上がりを作りて側が取り込んでいくという、ネットの実況文化と作り手のスパイラルによって、ネット上で人気を誇る、いわゆる「覇権アニメ」となっていった。*2


だが一方で、そうやってメタ的な盛り上がりがどんどん盛り上がってくると、やがてアニメという物語そのものを脱構築していくことになる。ブロードバンド環境が人々に行き渡り、YouTubeやニコニコ動画といった動画サイトが出てくると、やがてそういったサイトにアニメ番組が無断転載されたり、アニメ番組を勝手に編集した、いわゆるMADムービーというものが作られるようになる。そして、そのような無断転載動画やMADムービーでは、クリエイターの意図とは異なった意味が付与される。『チャージマン研』というアニメが、そのあまりの低クオリティさを逆に面白がられたり、『School Days』の凄惨な殺人シーンに、サッカーゲームの実況音声を付与してシュールな笑いを生み出したり。


だが、このような動きをアニメ側が全肯定することは難しい。無断転載動画は、何より直接DVD・Blu-rayといったソフトの売上を横取りしていくし、MADムービーは、作品が本来視聴者に持ってもらいたい感情をもたせることを邪魔する。何より、このようなネットのノリというのは移ろいやすく、その匙加減を間違えるとひんしゅくを買いやすい*3。よって、流れを見誤ったときは即座に修正が必要だが、制作にある程度時間を要するアニメでは、「先週の評判悪かったから今週の展開変えて」みたいな変更は難しいのだ。


そんなふうに、アニメがネットのメタ的盛り上がりに迎合するのに限界を迎えていた中で、より、そのようなメタ的盛り上がりとうまく付き合えるコンテンツとして現れたのが、VTuberだった。少なくとも、僕はそう理解している。


なにしろネット上で直接視聴者と接し、リアルタイムでコンテンツを生み出すのだから、ネットのノリを理解し、またノリを読み間違えたときにそれを修正するのは極めて容易い。自分が発したコンテンツが、意図した受け止められ方と違う受け止められ方をしても、それが利用できるなら利用してしまうフットワークの軽さがVTuberにはある。最初に与えられたキャラ設定が、視聴者とのふれあいの中でどんどん変質していくことは、一般的なアニメキャラクターではあまりよくないとされるが、VTuberにおいてはむしろ「売り」となるのだ。


僕がVTuberに惹かれるのは、まさしくそのような「物語をどんどん脱構築していく軽やかさ」なのだと思うのだ。もともと実況するものとしてアニメを見始めたものとしては、今のアニメは壊してはいけない、「重い物語」になってしまっているように見えていて、それだったら自由に変形組み換えをして遊べる、VTuberという「軽やかな物語」に惹かれるのだと思う。

VTuberだからこそ語れる「現実」がある

更にいうと、もともと僕はアニメを見るときに、そのアニメの物語そのものを見るというより、「そのアニメが、アニメという装置を使っていかに現実を理解しているか」を見ていた。


それこそ新世紀エヴァンゲリオン・機動戦艦ナデシコ・少女革命ウテナという、大月P三部作に代表されるように、僕が若い頃にちょうどホットだったアニメは、当時の時代と切っても切り離せないものだった。ロボットや宇宙戦争、変身ヒロインといったガジェットを使いながら、描いていたのは、当時の若者の不安や悩みだった。


もちろん現代のアニメにそういった側面がないとは言えない。だが、やはりアニメには放送コードといったものがあるし、何よりアニメは集団作業によって生み出されるし、決定権のある作り手もなんだかんだ言っておっさん・おばさんだから、どうしても「濾過された、安心安全な範疇の悩み・不安」となってしまう。


それに対してVTuberは、個人が声を発するがゆえに、それぞれの個人が抱えている悩みや不安がダイレクトに聞くことができる。さらに言えば、「アニメアバター」という匿名性を持つが故に、実際に顔見せで配信しているYouTuberより赤裸々に色々なことを語ってくれるわけだ。


そして、そういった様々なVTuberの配信を見ると、今の社会で若者がどんなことを思い、どんな現実を生きているのかということがわかる気がするのだ。そこも、惹かれる理由なのだと思う。

サブカル的にアニメを楽しんでいたのか、オタク的にアニメを楽しんでいたのかで、VTuberを楽しめるかは変わるのでは

結局、今までアニメに「何を求めていたか」によって、VTuberを楽しめるかどうかは変わってくるのだと思う。
僕は割と、「アニメをメタ的に見る」とか「アニメから社会を考える」みたいな、いわゆるサブカル的なアニメの楽しみ方をしてきた。だから、スムーズにVTuberに移行できたわけだ。
だけど裏を返せば、「アニメをみてベタに感情を揺さぶられたい」「現実を忘れるためにアニメを見たい」という、オタク的なアニメの楽しみ方をしている人たちは、VTuberを見てもいまいち楽しめないのでは、ないのだろうか。

*1:旧劇エヴァでの「庵野○ね」の書き込みとかはまさにその典型例

*2:さらに言うと、そのような文化がより一般的になったのは、まとめブログの存在もあるのだが、その功罪について語ると長くなるのでここでは省く

*3:ex.らき☆すたにおける白石稔押し