akira_shuji’s diary

周司あきらのブログ

周司あきらの活動一覧

周司あきらの活動をまとめています。

主に男性学、トランスジェンダー、フェミニズムに関する文章を書いています。
お仕事募集中です。顔出しはしておりません。よろしくお願いします。
連絡先:ichbleibemitdir@gmail.com

 

2024年

4月

【Web記事】集英社新書プラス『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.6〜時を超えた バックラッシュ〜

【出版】高井ゆと里さんとの共著『トランスジェンダーQ&A 素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社)

 

9月

【オーディオブック化】声優:徳留 慎乃佑さん『トランスジェンダー入門』

 

10月

【論考】『季刊セクシュアリティ No.118 2024年10月号』「トランスジェンダーと男性が解放される日」

 

12月

【トークイベント】済東鉄腸さんとの対談「どうすれば男性を「豊か」にできるのか?──自罰的な男性学を超えて」@UNITÉ

【書評】すばる1月号 私(たち)は愛されている:李琴峰『シドニーの虹に誘われて』

www.seikyusha.co.jp

 

 

2023年

4月

【出版】五月あかりさんとの共著『埋没した世界 トランスジェンダーふたりの往復書簡』(明石書店)

 

7月

【随想】『すばる8月号 特集 トランスジェンダーの物語 』「家父長の城」

【出版】高井ゆと里さんとの共著『トランスジェンダー入門』(集英社新書)

【トークイベント】代官山蔦屋書店 李琴峰さん、高井ゆと里さんとの鼎談『トランスジェンダー入門』(集英社新書)刊行記念イベント

 

8月

【取材】東京新聞「トランスジェンダーの「入門書」が売れている デマが広がる中、著者2人が込めた思いとは」

 【エッセイ、書評】『われらはすでに共にある:反トランス差別ブックレット』(現代書館)

【トークイベント】松尾亜紀子さん、高井ゆと里さんとの鼎談『トランスジェンダー入門』刊行記念イベント「フェミニズムがフェミニズムであるために」

 

9月

【Web記事】集英社新書プラス『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.1

【Web記事】集英社新書プラス『トランスジェンダー入門』刊行記念レポートvol.2~まずは現実を知ることから~

 

10月

【Web記事】集英社新書プラス『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.3~いつまで“洗濯機”の話をしているんだ!?~

【Web記事】Wezzy(→Webあかし) 【アーカイブ】高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」出演

【Web記事】集英社新書プラス『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.4~フェミニズムとアイデンティティの政治~

【Web記事】Wezzy(→Webあかし) 【アーカイブ】高井ゆと里×能川元一×堀あきこ×松岡宗嗣「トランスヘイト言説を振り返る」クロストーク

 

11月

【出版】『現代用語の基礎知識2024』(自由国民社)担当ページ:LGBT理解増進法から読み解く、いま必要なこと

【Web記事】Webあかし 書籍でふり返るトランスジェンダー史

【取材】朝日新聞 (らしさって ThinkGender 国際男性デー)あらがうように、「男」追い求めた

【特集編集】エトセトラVOL.10 特集:男性学

 

12月

【Web記事】集英社新書プラス 『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.5〜『トランスジェンダー入門』の向こうに〜

【取材】図書新聞第3619号 差別を「真に受けない」ために

【トークイベント】エトセトラ(オンライン開催)小埜功貴さんとの対談 「男」を語ることから「自分」を再出発しよう~第三次メンズリブを発起する~

 

www.akashi.co.jp

www.shueisha.co.jp

etcbooks.co.jp

2022年

1月

【トークイベント】梅田ラテラル 吉野靫さんとの対談「トランス男性とは何者か――Ft系の葛藤、表象を語る」

 

2月

【トークイベント】Readin' Writin' Bookstore 川口遼さんとの対談「見えない「男性特権」ーートランス男性の視点から」

【トークイベント】本屋B&B 高井ゆと里さんとの対談「ジェンダーアイデンティティが分かりません!!」

 

3月

【執筆】現代性教育研究ジャーナルNo.132「なぜ「トランスジェンダー男性学」なのか」

 

7月

【執筆】第30回レインボー・リール東京 応援メッセージ

 

10月

【トークイベント】wezzy 高井ゆと里さんとの対談「抹消された『トランスジェンダー問題』~邦訳出版記念イベント~」

 【Web記事】じんぶん堂 「トランスジェンダー問題」は、シスジェンダー問題である」 ​ 

11月

【執筆】エトセトラVOL.8 特集:アイドル、労働、リップ わたしの“アイドル”

 

12月

【書評】週刊読書人12月2日号「フェミニスト・シティ」

 

2021年

12月

【出版】『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店)

 

www.otsukishoten.co.jp

男性学・男性性研究の論文の感想1

過去にSNSで呟いた論文の感想をまとめておきます。大体2024年6月〜12月に読んだものです。

 

山下慶「韓国の徴兵制が徴兵経験者に与える影響 : 「男になる」という言葉を中心に」

韓国の徴兵制が徴兵経験者に与える影響 : 「男になる」という言葉を中心に | CiNii Research

韓国社会では「軍隊に行くと男になる」という言説が当たり前に使われてきたが、実際に兵役を経験した(軍畢)20代男性はどう捉えているのかという調査。「男になる」、関連する「大人になる」「責任感がつく」という言説の捉え方は、人によってけっこうバラバラだった。

私はそれを救いに感じた。やはり、軍隊に所属する2年間だけでなくその前後でどう生きるかが肝心である。これが戦時中だと、銃後、子ども時代から軍人の場合は墓場に至るまで国に支配されるのが大きい。

インタビュー対象者には、身体的な困難があるため兵科が(陸軍や海軍ではなく)「老人施設への勤務」である人も出てくるが、本人的には徴兵義務を経て「男になった」と実感しているのに、周囲は軍隊内での生活を経ていないその人を差別的に見る、とあった。

戸籍を男に変えたらいつか徴兵されるのか?と想像したことのあるトランス男性は(日本でも)いるだろうけれど、私も少し想像してしまった。

 

熊田 一雄「プロミス・キーパーズにおける保守的セクシュアリティ観について」

cir.nii.ac.jp

1990年代のアメリカを代表する男性運動であり、男性会員のみのキリスト教原理主義プロミス・キーパーズにおけるホモソーシャリティ(≒少数の他の男性との生き生きとした師弟関係=”mentership”)を、ペニスをめぐる言説に着目し、クィア理論の立場から読みとく論考。

ペニス・フェティシズムを強固にもつ限り、ペニスが絡みさえしなければエロスではないことになる。そのためプロミス・キーパーズは男性同士で感情を表現し共有し、お互いの体に触れ合いながらも、自身は「7つの約束」の一つである性的純潔と、同性愛嫌悪を矛盾なく成立させている。

最後の、アメリカ文化は日本文化以上にペニス・フェティシズムが強く、それと関連してホモソーシャリティも強いのではないか、との仮説は面白い。

 

 

 

海妻怪子「フランスにおける男性運動および男性性研究の動向」

フランスにおける男性運動および男性性研究の動向

男性復権運動やホモフォビアに対する批判的研究が邦訳されたら、日本の露骨に家父長的な政策に対抗するのに役立ちそう。

 

 

海妻怪子「「男性稼ぎ主」幻想とホモソーシャルの形成」(現代思想2012.11「女性と貧困」)

www.seidosha.co.jp

日本社会は安定雇用者の中にさえ「男性稼ぎ主」たり得ない男性を抱えていたのに、なぜか「男性稼ぎ主」の体面が固守されてきた。
その理由は、ホモソーシャルな労働社会が望ましいものとして「同意」や「妥協」込みでまかり通ってきたからであって、単なる性別役割では説明がつかない。不公正なジェンダーレジームを捉えるには自民党の政策や資本主義の把握まで必要であると、濃縮された論考だった。

海妻さんの視点は、少なくとも2000年代初頭から「右派の動きを男性運動として読む」ことに注がれているみたいで、さすがです。

 

 

小埜功貴「オーディション番組に表象されるアイドルのスター性——ジャニーズ文化のメディア論的分析——」

小埜 功貴 (KOKI ONO) - 「オーディション番組に表象されるアイドルのスター性——ジャニーズ文化のメディア論的分析——」 - 論文 - researchmap

旧ジャニーズ事務所のSexy Zone、改めスタート社のtimeleszのオーディションが開催されているので読んだ。看板を変えただけの事務所が新メンバーを募集するのはあるまじき行為だが、グループ自体は故社長がつけた名前のせいで活動しにくかった側面があるので、心機一転してやり直すのは(元々ファンなので)応援している。

元社長の「天皇的な聖性」が介在しなくなったオーディションで、何がアイドルの基準になるのか。

 

 

服部恵典「異性愛男性向けアダルトビデオにおける『半主観的映像』と女性/男性への同一化」

異性愛男性向けアダルトビデオにおける「半主観的映像」と女性/男性への同一化 | CiNii Research

登場人物への同一化を求めようとする作りの映画と異なり、男性向けAVは、あらかじめ没個性の男優に視聴者が重なろうとする、独特の映像文化である。

女優の相手をしている男優(主観的映像)とカメラ(半主観的映像)を「キュビズムのように」力ずくで両立させることで、「あたかも女優と見つめ合っているようだ」というリアリティが作り出されている。ポルノの受け手に解釈の自由が十分にあるわけでは、ない(そのため製作者の意図が先にあるAVを、それに抗ってクィア的に観るのは相当な蛇道である)。

これを読みながら、私は自分の視点がパンセクシュアル的であり(性別問わず、複数の登場人物の視点や身体を行き来しているような?)、論文で想定されている異性愛男性とは異なるのだと実感した。

 

 

勝又栄政「トランスジェンダー男性の子を持つ父親の「受け容れ」をめぐる経験」

www.jstage.jst.go.jp

先行研究では親が「性的多様性」を知ることで規範解体型の「受け容れ」をする様が報告されてきたが、今回はトランス男性の子をもつ父親が、稼得役割や異性愛規範に則り、規範機能型の「受け容れ」をみせるケースの報告。

加えて、父にとってのトランス男性は「かわいい娘」のままであり、まるで娘の要望を叶えるかのように「息子」扱いが現れてくるという。それは考えたことなかった(どちらかというと、「娘でも息子でもある」扱いになるより、「娘でも息子でもない」ジェンダー中立的な子の扱いになるか、そもそも性別の話題が出なくなると想像していた。それほど簡単に、親から男女カテゴリーは消滅しないということか…)。

 

 

Mike Donaldson, S. Poynting “The Time of Their Lives: Time, Work and Leisure in the Daily Lives of Ruling-Class Men(彼らの人生の時間:支配階級の男性の日常生活における時間、仕事、余暇 )„2004年

ro.uow.edu.au

3世代以上にわたってトップクラスの富裕層に属する家系の男性たちがどのような日常生活を送っているかという調査。こうした支配階級の男性にとって、仕事と余暇の境界は曖昧で、仕事の多くはやるべきことが決まっているのではなく選択的であり、ゲームによく似ているという。

↓ 他の論文「「覇権的な男性性」概念を再考する(Hegemonic Masculinity: Rethinking the Concept)」で、「エリート男性が富によって身体を拡張している」例として参照されていたので読んだが、そうした見方が上記論文で提示されているわけではなかった。

akira-shuji.hatenablog.com

なお、コンネル&メサーシュミット論文では、「コンピューターシステム、世界的な航空旅行、安全な通信などの高価なテクノロジー」の領域でもエリート男性の身体の拡張が見られると示唆されていた。

「「覇権的な男性性」概念を再考する」の論点

覇権的な男性性(ヘゲモニックな男性性:Hegemonic Masculinity)という概念は、ジェンダー研究に多大な研究を与えた。と同時に、批判もされてきた。オーストラリアの社会学者レイウィン・コンネルは、『ジェンダーと権力』『マスキュリニティーズ』などで、男性性には複数あること、それらに階層性があることを論じた。そのうち、覇権的な男性性は家父長制を理解するキー概念であった。

 

日本の男性学・男性性研究においても、覇権的な男性性の説明が度々用いられてきた。たいていは「その時代、その社会で最も称揚されている男性性」や、「支配的な」「理想的な」男性性、と理解されることが多かったと思う。

しかし、その説明は、のち2005年にコンネルとメサーシュミットによって公開された論文を踏まえないまま、誤った説明で流布してきたものだ(これは元のコンネルの説明が不十分だったためでもあるが、参照する人々が脱文脈化して利用してきたからでもある。その後再考論文を書いているので、日本語圏でもそちらを参照すべきである。再考論文からもすでに20年経過している)。

これまで平山亮は、2020年の論文「「男性性による抑圧」と「男性性からの解放」で終わらない男性性研究へ」や、『男性学基本論文集』でそのことを批判している。平山によれば、覇権的な男性性は「「不平等なジェンダー関係を致し方ないものとするために「使える」男性性」」である。
また、川口遼も、「R. W. コンネルの男性性理論の批判的検討 : ジェンダー構造の多元性に配慮した男性性のヘゲモニー闘争の分析へ」(2014)で男性性のプロセスに注目するように述べてきた。

 

このブログでは、ごく簡単に、「Hegemonic Masculinity: Rethinking the Concept」の要点を列挙した。なお日本語訳にする際、翻訳サイトを用いたので、誤訳や日本語のおかしな点も目立つかもしれない。

Hegemonic Masculinity: Rethinking the Concept

Author(s):R. W. Connell and James W. Messerschmidt
Source: Gender and Society, Vol. 19, No. 6 (Dec., 2005), pp. 829-859 Published by: Sage Publications, Inc. Stable

 

―――最初に、論文では以下の経緯が書かれている。

・「覇権的な男性性」という概念は、数百もの論文、幾度かの学会テーマになってきた。批判もあった。覇権的な男性性という概念を包括的に再検討することは価値があるように思われ、もしこの概念がまだ有用であると証明されるなら、現代的な用語で再定義されなければならない。

・もともと覇権的な男性性は、複数の男性性と力関係のモデルを提案した論文「男性性の新しい社会学に向けて」(Carrigan, Connell, and Lee 1985)の中で体系化されたものである。

・グラムシ由来の「ヘゲモニー」概念は階級関係を理解するために当時(70年代後半?)流行していた。しかし、歴史的変化に目を向けないままジェンダー関係に転用するのは、誤解を招くことだった。

 

―――続いて、5つの批判とそれへの応答がある。

・1990年代初頭にこの概念に関する議論が始まって以来、5つの主要な批判が提唱されてきた。

 

1 The Underlying Concept of Masculinity 男性性の根底にある概念

2 Ambiguity and Overlap 曖昧さと重複

3 The Problem of Reification 具象化の問題

4 The Masculine Subject 男性主体

5 The Pattern of Gender Relations ジェンダー関係のパターン

 「Hegemonic Masculinity: Rethinking the Concept」では、それぞれの批判を順番に評価し、覇権的な男性性という当初の概念からそのまま残す価値のあるもの、そして今では再定義が必要なものを発見することを目指す。

 

 

批判1:男性性の根底にある概念

リアリストとポスト構造主義という2つの異なる視点から言えば、男性性という概念の根底に欠陥がある。CollinsonとHearn(1994)、Hearn(1996、2004)にとって、男性性の概念はあいまいで、その意味が不確かであり、権力と支配の問題を軽視する傾向がある。

あるいは、Petersen(1998、2003)、Collier(1998)、Maclnnes(1998)にとって、男性性の概念は、男性の性格を本質化したり、流動的で矛盾した現実に誤った統一性を押し付けたりするものであり、欠陥がある。

 

1への回答:

男性性に関する膨大な文献の中には、概念的な混乱や本質化することが多くあることを否定することはできない。しかし、男性性という概念が混同され、本質主義的なものであるに違いない、あるいは研究者がこの概念を使うのは一般的にそうである、と主張するのはまた別の問題である。
とりわけ女性の身体を持つ(AFABのトランスジェンダーを含む)人々によって演じられる男性性を研究者が探求してきたという事実は、本質主義から離れている(Halberstam 1998; Messerschmidt 2004)

 

 

批判2:曖昧さと重複

この概念に対する初期の批判では、覇権的な男性性を実際に体現しているのは誰かという疑問が提起された。社会的に大きな権力を持つ男性の多くが、理想的な男性性を体現していないことはよく知られているからだ。

マーティン (1998) は、この概念は一貫性のない適用につながると批判している。また、ウェザレルとエドリー (1999) は、この概念は覇権的な男性性への適合が実際にどのように見えるかを特定していないと主張している。

 

2への回答:

たしかに批判者は、使用上の曖昧さを正しく指摘している。しかし覇権的な男性性を固定的で歴史的なモデルとして用いるべきではない。そうした場合、ジェンダーが歴史に根ざしたものであり、男性性の社会的定義が変化してきたという膨大な証拠を無視してしまうからだ。

他方で、ジェンダープロセスの曖昧さは、覇権のメカニズムとして認識することが重要かもしれない。覇権的な男性性は、実際の男性の生活と密接には一致しないこともある。

また、覇権的な男性性は、他の男性性と区別され際立っているのではなく、共犯的な男性性とある程度の重なり合いや曖昧さを生じさせている可能性も高いだろう。
※共犯的な男性性とは、自らは覇権的な男性性ではないが、家父長制から恩恵を受けている男性性のこと。数のうえでは大多数の男性に見られるであろう。

 

批判3:具象化の問題

覇権的な男性性の概念は、実際には権力や有毒さの具象化に還元されるのではないかという批判がある。ホリアー (1997、2003) は、覇権的な男性性が、女性の従属という構造的基礎からではなく、女性の直接的な経験から男性的な権力を構築すると主張している。

 

3への応答:

ジェンダー関係内で構築された男性性の階層を、女性の家父長制的従属と論理的に連続しているものとして扱うのは誤りである。数々の研究が、覇権的な男性性の概念が物象化に囚われていないことを示している。

また、覇権にはさまざまな形態があるため、暴力やその他の有害な慣行が、常に覇権的な男性性の定義に当てはまる特徴とはならない。実際、ウェザレルとエドリー (1999) が皮肉にも指摘しているように、特定のローカルな状況で「男らしくある」最も効果的な方法の 1 つは、地域の覇権的な男性性から距離を置いていることを実証することかもしれない。

覇権的な男性性の概念は、包括的なものでも主要な原因でもなく、社会プロセス内の特定の力学を把握する手段である。概念的に普遍的なものは何もない。

 

 

批判4:男性主体

覇権的な男性性の概念は、不十分な主体理論に基づいていると主張する批判者もいる。例えばホワイトヘッド (2002, 93) は、覇権的な男性性の概念は構造のみを「見る」ことができ、主体を見えなくすると主張している。

 

4への応答:

男性性は、特定のタイプの男性を指すのではない。むしろ、男性が言説的実践を通じて自らを位置づける方法を表すものだ。ある男性が、望ましい場合には覇権的な男性性を身につけることもありうるが、同一の男性が、他の場合には覇権的な男性性から戦略的に距離を置くこともある。

覇権的な男性性の概念が構造決定論に還元されるという ホワイトヘッド(2002) の主張には、断固として反対する。

 

 

批判5:ジェンダー関係のパターン

ジェンダーの社会理論では、機能主義の傾向がしばしば見られてきた。つまり、ジェンダー関係を自己完結的で自己再生的なシステムと見なし、すべての要素を全体の再生における機能の観点から説明する傾向がある。

さらに踏み込んで、デメトリウ (2001) はジェンダーの歴史性を認めつつも、別の種類の単純化が起こったと批判している。デメトリウは内部と外部の 2 つの形態の覇権を特定している。「外部覇権」(=一般的に「家父長制」が指すもの)は、男性による女性に対する優位性の制度化を指し、「内部覇権」(=男性集団内の力関係)は、あるグループの男性が他のすべての男性に対して社会的に優位に立つことを指す。デメトリウは、この 2 つの形態の関係は、この概念の元々の定式化では不明瞭であり、現在の用法では明確にされていないと主張している。デメトリウが「ハイブリッド化」「弁証法的実用主義」と呼ぶような、覇権的な男性性が他者から役立つものを盗用することで男性支配を継続する方法を、元の覇権的な男性性概念では見逃すことになる。

 

5への応答:

男性の優位性と女性の従属性は、自己再生的なシステムではなく、歴史的なプロセスである。覇権的な男性性に関しても、習慣を通じてであれ、その他のメカニズムを通じてであれ、自己再生する形態ではないというかなりの証拠がある。

デメトリウ (2001) の「内部覇権」における弁証法的実用主義の概念化は有用であるが、今のところハイブリッド化が地域レベルまたは世界レベルで覇権的になったと考える理由はほとんどない。

 

 

―――そして、覇権的な男性性の見直しと再定式化がなされる(日本語圏では、この見直しが十分に引き継がれていない)。

 

保持すべきことは、この概念の基本的な特徴である、男性性の多様性と男性性の階層化の組み合わせについてである。この基本的な考え方は、20 年間の研究経験で十分に立証されている。

また、覇権的な男性性は、少年や男性の日常生活において最も一般的なパターンである必要はない(多数派だから覇権的な男性性である、というわけではない)という当初の考えもよく支持されている。むしろ、覇権は、男らしさの模範(プロスポーツ選手など)を生み出すことによって部分的に機能する。男性や少年のほとんどが十分にそのとおりに行動していないにもかかわらず、その象徴は権威を持つ。

 

そして棄却すべきことは、以下2つの特徴である。この2つは、批判に耐えらえれるものではなかった。

1つ目は、覇権的な男性性を取りまく社会関係のモデルが単純すぎたことである。1987年の『ジェンダーと権力』の定式化では、すべての男性性 (およびすべての女性性) を、男性による女性に対する「世界的な優位性」という単一の権力パターンで位置づけようとした。しかし現在では、この説明は明らかに不十分である。

たとえば、ジェンダー関係における優位性にはコストと利益の相互作用が伴い、覇権的な男性性への挑戦は疎外された民族集団の「抗議的男性性」から生じ、ブルジョワ階級の女性は企業や専門職のキャリアを築く際に覇権的な男性性の側面を盗用する可能性がある。明らかに、ジェンダー階層を理解するためのよりよい方法が必要である。

 

2つ目は、男性性のさまざまな構成の実際の内容を特徴づけようとしたときに、特性用語に頼ることが多く(覇権的な男性性を、「白人」「異性愛者」「経済的に豊かである」といった固定的な特徴と結びつけてしまったことを指しているのだろう)、それに代わるものも提示できなかったことである。

これは、覇権的な男性性を固定された性格タイプとして扱う道を開き、非常に多くの問題を引き起こした。

 

上記の研究と批評を踏まえて、覇権的な男性性の概念は、以下4 つの主要領域で再定式化する必要がある。

①ジェンダー階層の性質:
例えば、抗議的男性性や、男性優位の正当化に利用される女性性(強調された女性性:Emphasized Femininity)の観点からも見る必要がある。

②男性的構成の地理:
ローカル(地方)、リージョナル(地域)、グローバルという3つのレベルで分析し、国境を越えた舞台について考えるべき。

③社会的具現化のプロセス:
覇権的な男性性が男性の身体の表現や使用とどう関連しているのか、具体的な理論化をするべき。これについては、社会構築の実践モデルでは理解しにくいトランスジェンダーの実践が参考になる。また、支配階級の男性の日常生活に関する Donaldson と Poynting (2004) による研究では、エリート男性が富によって身体を拡張していること(スポーツ、余暇、食習慣)が報告されている。

④男性性のダイナミクス:
男性性を構成するすべての実践における重層性、潜在的な内部矛盾を認識すべき。ライフヒストリー研究では、男性性が時間の経過とともに構築され、変化することが示されている。覇権的男性性が必ずしも満足のいく人生経験につながるわけではないことは認識すべきだ。

 

―――以上のことが、2005年の論文「Hegemonic Masculinity: Rethinking the Concept」で示されている。繰り返しになるが、この論文は覇権的な男性性概念に対する批判と混乱、誤解に応答するために、コンネルとメサーシュミットによって書かれたものだ。このブログの文章は、私(周司)が論文を組み換えてまとめた。さらにこの論文以降も、Hegemonic Masculinity概念の論文はいくつか出ている。

個人的には、日本が英語ユーザーではないのが悔やまれるほどである。批判と応答部分では、たくさんの論文が参照されていたので、気になるところから読むのが面白そう。

ただし、この論文では覇権的な男性性の輪郭と、「こういう理解は適切ではない」ということがわかるにとどまり、では実際どのように覇権的な男性性を現場に適用可能かという話はされていない。

最後に示された4 つの主要領域について、日本の男性性研究では、見たところ④男性性のダイナミクス は導入されているが、①ジェンダー階層の性質、②男性的構成の地理、③社会的具現化のプロセス の領域についてはボロボロだと思った。
今だに「家父長制っていうのは、男性が女性を支配する構造のことで〜」という前提で止まり、世間的にはそれさえ共有されていないような。

 

 

2024年男性学関連イベント・講座まとめ

2024年に行われた男性学やメンズリブ、男らしさ関連の(単発)イベントをまとめました。私が見つけられた範囲です。なお、メンズリブの例会は含めていません。

 

2024年12月23日 小埜功貴
大学院生による連続講演 第1回「リベラルアーツとしての男性学」(主催:東京科学大学リベラルアーツ研究教育院)

2024年12月18日 伊藤公雄 
Wom-tech主催オンラインイベント「近代=男性主導社会の黄昏を前に―メンズ・クライシス(男性危機)からジェンダード・イノベーションへ―

2024年12月14日 前川直哉、虎岩朋加、現場の教師たち 
雑誌『教育』11月号 学校の「男性性」を まなざし、語る会

2024年12月13日 小林美香×木津毅 
『「男らしさ」の広告観察』パネル展開催記念 世の中の男性性を見つめる@MoMoBooks

2024年12月13日 小埜功貴 
らぷらす男性学講座:男性たちによるジェンダー規範からの解放――日本のメンズリブ運動史と男性学の展開@世田谷区立男女共同参画センターらぷらす

2024年12月8日 済東鉄腸×周司あきら 
どうすれば男性を「豊か」にできるのか?──自罰的な男性学を超えて

2024年12月7日 多賀太、伊藤公雄、濱田智崇、大崎麻子 
ジェンダー平等を男性の自分事に!〜ホワイトリボンからチェンジングメンへ 

changingmen.jp

2024年11月〜12月 宮﨑浩一 
【フェミニズムのためのベーシック講座2024第6弾】「男性の性暴力被害 ─現代日本社会における回復の可能性─」@ふぇみゼミ

2024年11月17日 
国際男性デー記念イベント「男らしさってなんだ?!~男性のSRHRについて考える~」を開催(主催:公益財団法人ジョイセフ)

2024年11月10日 
2024年「国際男性デー」特別企画 ぼくたちはどう生きるか?
-仕事と趣味と健康と、家庭と職場と人生に、役立つライフハックFES-@東京国際フォーラム(共催:産経新聞社、日本メンズヘルス医学会、日本抗加齢医学会、日本抗加齢協会)

2024年11月19日 西井開 
性差別に男性はどうすべきか〜これからの男性の在り方を探る@千葉市男女共同参画センター

femizemi.org

2024年10月20日 平良竜次×ヒラギノ遊ゴ×モバイルプリンス 
#男性学から考える!男たち、こんな時どうしてる?@浮島ブルーイング

2024年10月19日 久真八志 
らぷらすメンズリブラボ:仕事との付き合い方について話そう@世田谷区立男女共同参画センターらぷらす

2024年10月5日 武田砂鉄×斉藤章佳 
「男らしさ」と男尊女卑依存症社会@ With You さいたま(埼玉県男女共同参画推進センター)

2024年10月5日〜27日 キュレーター:小林 美香、アーティスト:甲斐啓二郎、高田冬彦 
その「男らしさ」はどこからきたの?展

t3photo.tokyo

2024年8月2日 フレデリック・デイラー、男性アクティビストを増やす会 
男らしさの呪縛は国をまたぐ? ージェンダー平等に取り組む男性アクティビストを増やすためにー

 

2024年6月29日 澁谷知美 
男らしさとジェンダー規範―男性と性の歴史から@小平市

2024年6月25日 太田啓子×小島慶子
『いばらの道の男の子たちへ』刊行記念「ジャンダーレス時代の教育を考える」@丸善ジュンク堂

 

2024年2月25日 清田隆之×島田雅彦×田中俊之 
日本ペンクラブ「日本のハラスメントを考える」第5回「男らしさの彼岸」

japanpen.or.jp

逆を向くフェミニズムと男性学の行方

今後フェミニズムと男性学はそれぞれ逆方向へ行くだろうと予想している。

フェミニズムは「個人的なことは政治的なこと」だと性差別構造を明らかにしてきたが、もう第四波の限界も見えてきて、オンラインの政治ではマイノリティ女性への差別に加担しかねないし、プラットフォーム自体も破綻した。だから一旦「個人的なことは個人的なこと」に立ち戻り、「今、ここ」での単発的な運動に代わっていくだろう。


一方で男性学は、それまで人間の代表ヅラをしてきた男性が、一人の男性・自分に戻り、「政治的なことを個人的なことへ」する過程だった。どこかで政治的なことへ向かっていく必要もあったが、その試みはサボってきた(育休や男女共同参画など行政への関与は「政治的」ではあるが、ある程度恵まれた男性が念頭に置かれていたと思う)。

ところが近年では、「男らしさの鎧を脱ごう」では重い腰を上げなかった人までも「男も被害者だ」というアプローチには共感可能になっている気がする。「剥奪感の男性化」が男性集団を政治主体にするキーになるのは、大変に好ましくない。

 


代わりに男性学の方向性として、

①男性の制度的特権を掘り下げ、フェミニズムの分析では足りなかったところまで踏み込み、男性側から(女)性差別解消に働きかけること。

②男性の豊かさを発見し、(女性との比較や女性差別からの恩恵を受けるのではない)ポジティブな方向で男性と向き合うこと、の2点が大事になるだろう。

後者について、済東鉄腸さんは周縁化されてきた男性に着目するよう提案している。例えば私が「トランス男性は状況的には“弱者男性”だが、それでも男性であること自体に一定の喜びを感じている」と述べたことや、ライターの木津毅さんがおじさんの身体を愛でている様から、男性を豊かにする方向へ話を広げている。


また、私はそこまで関心を持てずにいるが、③「男性のつらさ」を具体的に解消する、という方向もある程度は支持されるかもしれない。トーマス・ジョイナー『男はなぜ孤独死するのか』のような。

済東鉄腸×周司あきらトークイベント「どうすれば男性を「豊か」にできるのか?──自罰的な男性学を超えて」開催します。

こんにちは、周司あきらです。
済東鉄腸(さいとう てっちょう)さんの新刊『クソッタレな俺をマシにするための生活革命』の刊行を記念したトークイベントに、私もお声かけいただきました。三鷹のユニテで開催します。

unite-books.shop

【日時】 2024年12月8日(日)18:30-20:00

【主催・会場】 本と珈琲の店 UNITÉ(東京都三鷹市下連雀4-17-10 SMZビル1F)

オンライン参加は1,320円です。イベント終了後2ヶ月間のアーカイブ視聴できます。

 

済東鉄腸さんといえば、1作目『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』を出しており、そのタイトルで何となく印象に残っている人もいるのではないかと思います。タイトル通りの人生が主題ですが、語学の本としても心躍る内容でした。

『千葉ルー』では、一人称についての悩みも語られています。そこでトランス男性が「俺」と呼べるようになった体験談を読み、少し有害な男っぽさすら感じさせる「俺」という一人称を素直に愛してもいいんだ、と捉え直すようになったという話が出てきます。

私自身は「俺」を使ったことがないのですが、鉄腸さんの俺俺俺な書きっぷりは不思議と読ませる力があるんですよね。

 

 

2作目となる『クソ俺』(こんな略しかたアリなんですね…)では、私の書いた『トランス男性による トランスジェンダー男性学』と『埋没した世界』などにも触れられていて、というより過大評価していただいている感じです。

【試し読み】済東鉄腸『クソッタレな俺をマシにするための生活革命』より、「俺が脱引きこもりへと歩み出したというこの異常事態をお伝えするための長い長い前置き」

note.com

 

で、これがかなり面白かったです。
「男性として生を受けたことが申し訳ない」と「男性として生きるのは楽しい!」の中庸を目指す、理論と実践。

私は少なくともこの2、3年間くらい「男性を豊かにしたい」と考えてきましたが、まさにそれをシス男性側から踏み込んでくれたのがこの本です。
ここがとても重要で、例えば私が書いたトランスジェンダー関連の本を読んで、「多様性の一つとして、トランス男性も認めてあげなきゃ」みたいな反応はあまり望んでいなかったので、こうして自分自身を変えてやろうとする(性的マジョリティな)男性の行動が出てきたのは素直に嬉しいです。

 

俺が既存の男性学にハマれなかったのは、俺自身が男性であることに関して、別に良いとは思っていないが、それでも別にそこまで良くないものでもないんじゃないか?と思っていたからだ。P.48

男性学のアプローチは、これまでたいてい二方向からなされてきました。

一つ目は、「特権に自覚的になって、フェミニズム的な試みを広げていこう」というもの。これはやって当たり前のことですし、男性主体の運動には繋がりにくいと思っていました。
二つ目は、「男性もつらいよね」というアプローチ。しかし、これでは現に困りごとを抱えていない男性にとって、全く響きません。他人事になってしまいます。

 

だから三つ目として、こんな性差別まみれな世の中であぐらをかいてきたことに自覚的になりながらも(引き続き一つ目の姿勢でありながらも)、男性は男性の生をもっと楽しんでもいい、というくらいのアプローチが必要になるでしょう。これはトランス男性だったり、これから大人の男性になる少年たちにとって、「嫌味ではない男性のロールモデル」を増やしていくことでもあると思います。

もちろん、鉄腸さんと私はこれまでの人生も考え方もかなり違うのですが、それでも『クソ俺』を読んだとき「広大な荒地をこっちとあっちで一緒に耕している」感じがしました。何も考えないわけでも、立ち止まって反省するだけでもなく、こじれずに、前向きに進んでいく気概がある。たぎるんですよね。

 

俺を含め多数派男性が今やっていくべきなのは「男性=人間」、もっと言えば「シスヘテロ男性=人間」と見なされる社会において、人間の座から降りて自ら「男性」に、もっと言うなら「シスヘテロ男性」になっていくことなんじゃあないか?ってことなんだ。p.53

男性学とは、私の言葉で説明すれば、「男性の当たり前を問う学問」です。

日本では70年代のウーマンリブ、80年代の女性学の誕生を受けて、これまで性別に無頓着にやってきた「学問」が全て「(漠然とした)男性学」になってしまっていたという男性中心主義的な歴史にようやく目を向けるようになります。そして、これからは性別に着目した上で男性の抱える諸問題を扱っていこうとしてできたのが、今でいう「男性学」です。

だから始まりからして、男性学は「人間の座から降りて自ら「男性」に」なっていくべきものだったのです。それなのに、既存の男性学はそこまで踏み込めていなかったと思います。

あるいは、どうにか「男性」であることに自覚的にはなれたけれど、自分が「シスヘテロ男性」というタイプの男性であることには気づけなかった。だから他の男性を置き去りにしたまま、何となく「男性」の位置を死守していた。でもそこには見落としがいっぱいです。イベントでは色々話が膨らみそうで、楽しみです。

 

翻訳の方面からは、Toxic masculinityを「有害な男性性」と訳すと男性性それ自体が本質的に有害であるようなイメージを喚起してしまうので、他のネットユーザーが訳していたように「男性性中毒」とすべきではないか、

カタカナ語の「ケア」を「看る」と訳すべきではないか、などの指摘が出てきます。

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それでは、当日よろしくお願いいたします。

性別適合後に「普遍論争」を拓き、引き裂かれる経験

初出:「周司あきらの自省録」2022年2月2日

読了時間: 7分

 

トランスジェンダーとしての体験と、中世スコラ哲学における「普遍論争」の話をしよう。


※頼さんの邦訳「社会的に構築された概念としての性別(Jeffrey Lockhartさんのブログ記事"sex as a social construct"の日本語訳)」からひらめきを得たものです。直接的な脈絡はないかもしれませんが、ありがとうございます。※

 

 

●普遍論争とは何か?


「普遍」はあるのか、それとも普遍は存在せず「個物」があるだけなのか、という議論は古代からありました。とりわけ11世紀以降、西方教会のキリスト教神学者・哲学者らによって巻き起こった論争を「普遍論争」といいます。

 

「普遍はある!例えば、“人間”や“動物”や“犬”という普遍は実在する」と主張するのが実在論(realism)、


一方で「普遍などない!個別に、“私”や“あなた”や“ポチ”がいるだけだ」と主張するのが唯名論(nominalism)です。ここでは、その他細かい分類は省かせてもらいます。

 

 

普遍論争は、なぜ大問題となったのでしょう?


それがキリスト教の信頼に大きく関わる問題だったからです。


「人間」という「普遍」があるならば、初めの人間だけでなくすべての人間が、同じ「人間」として原罪を背負うことが正当化され、キリスト教の存在意義が見出されます。

あるいは、もし戦争で「日本人」が罪を犯したなら、その時代に生まれていなかった後世の「日本人」も、同じ「日本人」として償う必要が出てくることでしょう。「日本人」という普遍が存在するなら、当然のように。このとき「日本人」とは、いつからできた、どこからどこまでの範囲を指す概念なのか、疑問は残りますが。

 

では、もう一方の主張を見てみましょう。

「人間」という「普遍」が存在しないとしたら......?


たとえば「あきら」という個人は存在し、「あなた」という個人は存在します。しかし、「あきら」と「あなた」は別の存在ですから、何も同じ「人間」という括りをつくって同じように罪を負う必要など無いのです。つまり、教会は不要です。「普遍などありませんよ」という唯名論の主張に従うと、キリスト教会など必要がないと帰結され、教会の権威は一気に落ちることとなります。


私は何の専門家でもありませんから、雑すぎる説明はここで筆を置きます。これをトランスジェンダーの経験に当てはめてみたらどうなるのでしょうね。

 


●性別移行前、私は唯名論者に近かった


あまり深掘りできるわけではありませんが、私は大学一年生の頃から、うっすら「普遍論争」に関心がありました。


今ではすっかり忘れていたのですが、おおむね「唯名論」に賛同していたと記憶しております。私にとって、「普遍」など実在しないと思われたためです。なぜか。


当時の私にとって、他者はすべて「異性」でした。同じ感覚で接せられる者≒「同性」は、どこにもいないと実感していました。私は出生時に割り当てられた性別「女性」に帰属意識などありませんでしたし、またそれに対比させられる存在の「男性」としても、決して存在し得なかったのです。「男性」と名指される存在と、当時の「私」は外見も文化も丸きり別モノに思われました。あまりにも違うので、純粋に比較するような機会など無かったほどです。


私の居場所はどこにもなく、私はただどうしようもなくひとりでいる「私」を認めるだけでした。常に死を身近に考えていたため、生きながらえる存在としてみなされる「人間」(human being であれ、human doing であれ)に親近感などありませんでした。「人間」という普遍などあってたまるか、というわけです。せいぜい一つの存在に認められ得るのは、その一つの存在に過ぎないだろうーーーつまり「私」にとっては「私」しかいないーーーと思われたのです。


そういうわけで類するものなど認めず、「唯名論」に賛同していました。私の存在が何かの属性に規定され得ないのと同様に、他のものごとにも「普遍」を見出すことは原理上不可能に思えましたし、そうである以上せめて「具体的な個物だけ」ならあるといえそうに考えました。

 

 

●気づけば「男性」という「普遍」を背負っていた私

しかし身体的な性別移行を実行してからは変化がありました。


というより、変化が身に起きていることなど忘れるくらい鮮やかに、私は「人間」に、「大衆」に、「男性」に、紛れ込みました。驚くべきことです。私と男性ジェンダー(男性的とされる趣味、所作、身体など)は案外相性がよかったようです。


すると、個別具体的な「私」であるより先に、「男性」という普遍の一人として、私は世界に浮上しました。否、トランスジェンダーとして過剰に可視化されないで生活していくためには、「非規範的とみなされる一人のトランスジェンダーの私」という「個物」を必死に隠さねばならず、積極的に「普遍的」な「男性」に擬態していました。


「男性、集合!」といわれたら、「はい、私は男性ですよ」と素知らぬ顔して紛れ込むようになったのです。そしてその状態がーーートランスジェンダー用語では「埋没」「ステルス」とでもいいましょうかーーー持続しました。デフォルトになっていきました。「私」は「私」であるより前に、「男性」です。


ただし、このとき何が起こっていたのでしょう?


もし私が性別違和をもたない、シスジェンダーの人間だったなら、「男性」あるいは「女性」という「普遍」を疑うことなく、つまりは考える手間さえかけずに賛同していたのでしょうか。


私は男性ジェンダーに寄ることによって、生きやすくなりました。単なる「人間」として、世間の描写に合わせられるようになっていきました。ということは、私が初めからシスジェンダーであったら、「普遍はあります」と答えていたかもしれません。だって、「男性」と言われれば大体これくらいの身長で、ペニスがあって、声が低くて、Y染色体で、筋肉があって、周囲から男性とされる扱いを受けて、などと容易に「男性」のイデアを組み立てていたのかもしれません。「私」も、それらの「男性」の条件に合致するので、それは私が男性であるということでしょ?と呆気なく解釈していたのでしょう。男性は性暴力の加害者になりやすいから、同じ男性として、傍観者にならずに止めよう!とホワイトリボンキャンペーンの非暴力宣言に即賛同したかもしれません。それはとてもシスジェンダー的な振る舞いに思えます。

ところが、ここで些細だけれど決して見逃せないバグが起きてきます。


現実のこの私は、社会的に構築された(ように見える)「男性」という「普遍」と、完全合致はできないのです。

 

 

●しかしながら同時に「個別のトランスジェンダー」として


ここからは、「男性」という普遍に包括されながらも、「個別のトランスジェンダー」として唯名であると思い知らされる経験を同時にします。


緩やかだが確固たる「男性」という概念は、「生物学的に」とか、「社会的経験」がどうであるかとか、様々な方面からの要請がありますが、それでもどうにか「男性」という「普遍」を一見成り立たせています。


そこで「私」の存在は「男性」では在れず、「私という個人」として浮上します。トランスジェンダーの経験が、私をただの「男性」にフリーライドさせてはくれません。「男性」という「普遍」の中には、例えば「生理のある」「ペニスのない」「親に“息子”ではなく“娘”として育てられる」「女湯に入ったことがある」といった事象は組み込まれていません。


一方、「男性」という「普遍」に適合していると思えたはずの私には、私にだけは、それらの個別具体的な条件が付きまとってきます。私は「男性」という「普遍」に収まったのではなかったのでしょうか?

 


今の私は、ほとんど性別適合したと実感できる状態です。(性別適合手術をしたとか、戸籍変更したとか、マジョリティ男性同然に女性と結婚してみたとか、そういう基準ではなく、単に私にとって、性別のズレが少なく快適な状態である、ということを指します)


そして「男性」という「普遍」に私個人の存在は埋没しながら、ただし、決して「男性」であるだけではいられず、「私」という個別具体的なトランスジェンダーとして、ときおり浮上します。


とりわけトランスジェンダーの身体は、自身でどういった治療を施すか「カスタムする」感覚が少なからずあります。シス男性集団のように、同じ時期に、同じ部活で、同じ運動量で鍛えたから同じように発達する、という経験も基本的にはありません。すべてが自分一人の実践として立ち現れるように思います。


性別違和のある時期には「唯名論」を信じ、

埋没環境の整った時期には「実在論」に呑み込まれ、

そうはいってもどちらも並存するのが現状であるようです。

トランスジェンダーの経験には、「普遍」はないのでしょうか?

翻って、なぜシスジェンダーの経験には「普遍」があるかのように語られるのでしょう。

『異性愛という悲劇』読書メモ

レズビアンでありフェミニストの著者ジェーン・ウォードの本"The Tragedy of Heterosexuality”が、『異性愛という悲劇』というタイトルで邦訳されました。

www.ohtabooks.com

表紙がチカチカするほどのビビッドピンクなのですが、カバーを外すと原著に近いシックな黒色に銀タイトルなので、そちらの方が落ち着いて読めました。

以前小山エミさんが紹介していて、邦訳を待ち望んでいた一冊。

books.macska.org

過去には、一緒に往復書簡(『埋没した世界』)を刊行した五月あかりさんと、これをもじって「シスジェンダーの悲劇」という対談をしたこともあります。

akira-shuji.hatenablog.com

話を戻すと、『異性愛者という悲劇』はクィアの立場から「異性愛者、大丈夫そう?」と心配する話です。通常マイノリティをマジョリティが心配してあげる、支えてあげる、という姿勢が当たり前になっていますが、それの逆ということ。

本書は5章立てですが、私には3部構成に感じられました。というのも、

1、異性愛の歴史
2、異性愛男性向けのモテ講座に潜入
3、クィアからみた異性愛のヤバさ

の3本立てです。

 

1、異性愛の歴史

歴史を少し振り返れば、もともと男性が女性を従えるのが「当たり前」でした。
異性同士で近い距離にいても、実質「主人(男)と奴隷(女)」関係に過ぎなかったわけで、到底「異性愛」と名指せる状態ではありませんでした。男女が対等に愛し合うなんて、男性視点でいえば「女の尻に敷かれた」「男らしくない」ことだったのです。

その価値観から一転して、「正しい(白人)異性愛」が形作られていきます。そこには優生思想や人種差別も動員されていました。

 

2、異性愛男性向けのモテ講座に潜入

これが書かれている第3章は、男性学、正確には「弱者男性」論や非モテに絡む話でした。男性が「最先端の恋愛工学」をとことん理解するための講座に、著者が潜入したというエピソードです。

従来型の「男なら強気でアプローチしろ!」という仕方では、男性が女性へのナンパを成功させることはもう難しい時代。代わりに、男性が自分の弱さを提示して女性の警戒心を解いたり、フェミニズムに理解のあるかのようなアプローチを取ったりして、女性との恋愛関係を築こう、といった戦略がモテ講座で支持されるようになっていました。

このように、男性が実際には女性へ関心を向けるのではなく、男性同士で傷を癒やしあうコミュニティは、1980年代・90年代に盛んになった、スピリチュアルなミソポエティック運動にそっくりだと著者は指摘します。

おまけに、最近の男性性分析でいえば「ハイブリッドな男性性」というやつです。簡単にいえば、ハイブリッドな男性性とは、男性が戦略的に女性性や弱さを取り入れて、いかにも「男が変わった!」ように見せるけれど、実際には既存の体制は維持されており、その隠蔽に加担してしまうような男性の在り方のこと。

(※『男性学基本論文集』に論文「ハイブリッドな男性性――男たちと複数の男性性に関する社会学の新しい方向性」の邦訳が収録されています。)

これでは、著者もいうように、男性が女性を心から愛したり、女性差別的な現実を変えたりすることには一向に繋がりません。だから、この一見フェミニスト的なアプローチをとるモテ講座が「良い」とは言えないです。

トキヤマユキコさんの「解説」ではこのあたりスルーされていましたが、異性愛女性にとって、ポーズだけ女性にフレンドリーな男性が増えても、根本的な解決策になったとはいえないでしょうね。

 

3、クィアからみた異性愛のヤバさ

終盤は、クィアの知人から集めた「異性愛って退屈そう」というコメントが並びます。そして、「異性愛者が最近「発見」したようなお楽しみは、ゲイやレズビアンの人たちがとっくにやってるよ」とも。

著者は異性愛者の男性に、クィアになろうとしなくていいから、まずは女性を好きになろうと考えるべき、とアドバイスします。

本来、異性愛者は異性を愛しているはずなのに、とりわけ男性は全然そうは見えません。だから、まずは相手の女性が関心を抱いていることに自分も関心を持つように勧めます。

ちなみに、私は下記の箇所を読んでいて面白かったです。

むしろ、異性愛者の男性が皆、女性の生き方全般に関心を抱いたら(...)「ゲイ」っぽいと思われるリスクを負うことになる。(p.265)

異性愛者の男性が本当に「異性愛者」であろうとすれば、女性の好むものにも関心を寄せることになるので、はたから見れば「ゲイ」っぽく見える、ということでした。なるほど。
でもその「ゲイ」っぽさや、フェミニストであることが、異性愛者の男性に今求められていることなのだと言えます。

 

少しだけ気になったこと

「異性愛者の男性は、レズビアンの女性がやっているように女性を愛してみなよ!」という主張は基本的には賛成です。

ただし、
トランス男性の体験談や、レズビアン女性が一年半男性になって生活してみた体験談(ノラ・ヴィンセント”Self-Made Man: One Woman's Journey Into Manhood and Back Again”)を考慮すると、本当にそれだけでいいのか?という疑問も浮かんできました。なぜなら、女性の立場から男性の立場にトランジションした人の話では、男性の見かけをした人間がそれまで通りレズビアン女性のような振る舞いをするのでは、社会に適合できないからです。これはなんとなく私もわかります。もちろん、相手の女性からも恋愛の相手にされることはありません。

醜い女性蔑視的な異性愛男性のようにはならずに、でもレズビアン風の振る舞いは変えて、そのうえできちんと(恋愛・性愛的に)女性と向き合うにはどうしたらいいのか?という問いは、まだ残る疑問かと思います。

 

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