TARの足と才能について

 映画『TAR/ター』を観て、まだ映画館でやっていてよかったと思った。

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 エンドロールから始まるところで男性の声がして、「自然な感じで歌ってごらん」的なことを言っていた気がする(何しろ3時間近くあり、最初の方のセリフや声の質感までは覚えられなかった。大概オペラは3時間とか4時間とかあって暗譜しなくてもいいとはいえよく振れるものだと思う)。女の子の歌う声がして、ちょっと緊張に由来しているような喉の苦しさと音程のブレがある。終わるとターが立っている。もう苦しそうであり、人間の苦悶に満ちた表情と仕草のバリエーションの豊富さがあらためて確認され、この人はもうすでに大変な状態にあるんだなと思う。

 

 素晴らしい対談シーンのことを映画が終わった後で思い出してみると、(『トリビアの泉』を観ていた世代には常識であろう)リュリのエピソードがあった。初の独立した指揮者リュリは杖で指揮をしていた。床を打ち鳴らすのだがそれが手へと移っていったのは、あるときリュリの突いていた指揮杖が足を貫いてそのまま死んでしまったからだ。ターは指揮者が時間を支配するという、それは手によって行われるのだが、この映画で印象に残ったのは手の動きよりもむしろ足の部分だった。

 

 トイレの扉の隙間から覗く足元、ブラインドオーディションの衝立の隙間から覗く足元(この連関で落選したチェリストがいた)。ペトラは足を握ってくれという。劇中唯一第四の壁を超えているかにみえる、ペトラとターが急にカメラの方へ振り返るシーンも、ターがペトラの足を握っているときに起こったことだ。マジで無茶苦茶な部屋に住んでいる隣人に呼ばれ、何がなんだかよくわからんがとにかく大変なことになっていて倒れている同居人?の足首を持たされるターは自室に帰った後全部脱いでいるが洗面台の前で執拗に洗うのは足である。本番、マーラーの5番冒頭をBGMに、彼女は舞台へ上がってきて、指揮者をはっ倒す、その手は時間を止める、そして転がった指揮者を足で踏みつける。もうBGMは鳴っていなくて、それはBGMではなかったからで、時間は止まっているということになっている舞台の上で、彼女は転がった指揮者を足で踏みつける。リュリが昔、指揮棒として使っていた杖で自分の足を刺して死んだ。時間が止まっているので、誰も死んでいないとも言えるし、誰も生きていないとも言えるが、殺すことはできない。彼女は指揮者ではないから。

 

 足といえば忘れてはいけないことがあって、ドイツ・グラモフォンのレコードを景気よく床にバラまいて、足でぞんざいにより分けていくシーン。2つの足が指し示したのはクラウディオ・アバド、ベルリン・フィルによるグスタフ・マーラー『交響曲第5番』、1993年5月のライブ録音。どうしてアバドだったんだろう。確かにターがこれから挑もうとしているのは5番のライブ録音であり条件としては一致しているが、それだけで済ませていいことなんだろうか。

 ターの人物造形のネタ元としてはアバドより明らかに近いカラヤンでもなく(出られなくなったチェリストの代役の採否にはじまり、エルガーの協奏曲のソリスト選定にまで至る、オルガを巡るオーディションのいざこざがザビーネ・マイヤー事件を思い起こさせるというのは確かにと思った)、自分の師匠だというバーンスタインでもなく、アバド。アバドはベルリン・フィルの前任カラヤンのようなカリスマ指揮者ではない。バーンスタインみたいに自分自身が音楽だと言わんばかりに燃え上がるカリスマ指揮者でもない。とにかくアバドは少なくとも(音楽面においては)ターに似ていない。いやカリスマはあったといえるのかもしれないが、音はカリスマの音ではない。トップダウンというよりボトムアップ、しかも音楽の底の底、まだ知られていないがたしかにはじめからそこにあったボトムから音を引き出してくる人であり、なにより演奏者たちと一緒に引き出してくる人だ、という印象がある。ルツェルン祝祭管弦楽団という、地球上のうまいやつ全員いれる気なんかというスーパー・オーケストラのマーラーにしたって、それはクラウディオ・アバドという稀有な人間性の持ち主だったからこそ成立し得たのであり、そういったものはターが意識してか知らずかかなぐり捨ててきたものだろう。あとアバドはオペラを振りまくっているが、ターにそのような描写はなかった。そんな彼女が来るべき新盤のジャケットをアバドに似せようとする、というかそもそも、どうして彼女はこんなに真似をしたがるのだろう。カプランには「人真似とかやめろ、自分で考えろ」みたいに言っていたのに(そしてそれすらメモ帳に書き残すカプランのことを、ちょっと物悲しい気持ちで思い出してしまった、今)。

 

 リディア・ターはペトラ以外の他人と向き合う時、相手の話を本当に聞くということができない。プログラムでの指導にしたってそうだし、フランチェスカにせよシャロンにせよ、とにかく間がない。すぐ威嚇するように、上から返答する(キスシーンの前にLi'l Darlin'とは!)。指揮台は高く、ケイト・ブランシェットの身長はすごく高い。クラシック音楽と称される西洋音楽への憎しみは、その音が人間を疎外するところからはじまるように思える。かつて純正律による倍音は、その音を歌っている人間がいないにもかかわらず聴こえるがゆえに、「天使の声」といわれたりしていたのだった。いっぽうで、幻聴にせよ、家電の振動にせよ、一人でいる時のターは恐ろしいほどよく聴く人で、なんならその音を楽譜に書き写すところまでいく。この差は何なんだろうと思ったときに、またオルガのことを思い出す。

 

 リディア・ターを演じるケイト・ブランシェットの指揮は酷い。いや別に酷くない映像作品の方が珍しくてそれは悪くない(ジャストならともかく、先振りができていた俳優を観た記憶がない)。俳優はプロの指揮者ではないから。後ろや周りがプロなので、シャロンの弓使いも指使いも酷いことが際立つのと同じようにありふれたことで、普通の音楽映画を観た感想というのなら意識に上ることすらないと思う。だがこの映画は普通の映画ではなくTARなので、書かなくてはいけない。

 というのも、チェリストのオルガ・メトキーナの身体技術が尋常ではないからで、観ながら俳優にしては上手すぎる、本職じゃないのか? と思って調べてみたらオルガ役のゾフィー・カウアーはプロのチェリストだったので安心したがそれで終わることはできなくて、そのせいで「リディア・ター」の指揮のみじめさがあらわになる。ところどころ演奏に遅れてしまっているシーンまであり、演奏に置いていかれるなど指揮者失格ということになるのだが、翻って思い出すと、ターは暗雲漂うアメリカでの出版イベントにオルガを連れてきているが、オルガには言葉が陳腐、クソなどとめちゃくちゃ馬鹿にされている。彼女がジャケットを誰か似せようとすること(他のジャンルでは先行作品やアーティストへのリスペクトとして似たジャケットを作ることはよくある気がするが、基本的に作曲家・演奏家の肖像がオーソドックスなクラシック音楽のジャケット業界には、そのようなリスペクトの文化はないような気がする)、カプランに人真似を止め、自分で考えるよう言っていたこと、それらが繋がってしまい、どうしてもこう思ってしまう。ターには「才能」なんてあるのか?

 

 YouTubeでデュ・プレのエルガーを聴いてチェロを初めたというオルガはその演奏の指揮者バレンボイムのことには興味がなかった(バレンボイムはデュ・プレの夫でもあった。オルガは結婚に興味がなく、くまのぬいぐるみを持っている。ペトラは家の床にぬいぐるみをならべて、鉛筆を民主主義的に行き渡らせようとしている)。じゃあターはどのように音楽をはじめたのだろう。バーンスタインに師事していたのではないのか。そうではない気がする。流れ着いた「実家(?)」で、彼女は思い出のクローゼットの中からVHSを取り出す。そこには白黒のバーンスタインがいて、ターに語りかけている。ターは泣いている。手が顔を覆い隠しているので、どんな顔をしているのかよくわからない。VHSとYouTube。今から輝いていくだろうオルガと、もう輝くどころの話ではなくなっているだろうターのあいだに、意外と距離はなかったんじゃないだろうか。最初のきらめきの場所の話であって人間関係のことではない。

 

 自分はテレビゲーム・ビデオゲームと無縁の人生を送ってきてしまったため(デジタルゲームにまで広げたとしても『艦砲射撃・甲改』の話くらいしかすることができない、あれは素晴らしいFlashゲームだった)、最後のシーンの流れている曲が調べないと分からなかった。この映画を観る人間としては致命的なことだがそれでも思ったことはあって、彼女は冒頭のシーンのように舞台袖ですごいことになったりしていない。楽屋でまだ楽譜をみている。そして舞台に出てくる。そのリディア・ターはとても小さい、こぢんまりしている。カメラの焦点が彼女にあっていないということではないけれど、カメラの中心はもう彼女ではないように見える。拍手もベルリンより大きくない。さあ振り始めるということになって、誰かが後ろから彼女に近づいて、ヘッドマイクを被せる。演奏が始まる。舞台の上から幕が下りてくる。彼女の演奏は観客に届くことはないし彼女にも届くことはないと一瞬思う。それは緞帳ではなかった。スクリーンに映像が映し出され、ナレーションが始まる。客席には多種多様なコスチュームに身を包んだ人々が、静かにしている。このときの自分はこれがゲーム音楽の演奏会だということを知りようがなかったので、なにか異様な儀式のようなものを観ている気がしている。彼らは今からどこかへいくのだろうかと思っている。今はゲーム音楽だということを知っているので、それがコスプレをしたファンの観客なんだと思う。けれど同じことを思っているところがあって、クラシック音楽のコンサートというのは静かにしていること、動かないことを公然のルールとしている代表的なジャンルで、昔はそうじゃなかったけれど今は同じルールをもっている似たものとして映画館がある。彼らの身体からゲームの世界の記憶に突き動かされた同調現象のようなものは見えなくて、彼らはただ音楽を聴いている。多分ターが指揮をしている。

 

 経験の貧困、それは(正確に言えばWWI後のドイツで)経験から語られる言葉の不可逆的な貧困さのことだけれどそういうことを言い出したベンヤミンという人が死んでからもうだいぶ経っていて、現代の言葉の貧困なんて自分が書くことはとても恥ずかしくてできることではないけれど、VHSの白黒のバーンスタインが言っていたように、感情には言葉で名前をつけることができるものもあるが、音楽はそうしようがない感情にまでしっくりきてくれることがある、ということへ向かっていく人間たちまでもが、言葉を使うこと、使わざるをえないことについて自分はどんな言葉を持っているだろうか。音楽へ向かっていく人間が口にしたり書いたりタイピングしたりフリックしたりする言葉とは、その人が本当に発していい、いや、発したいと思っている音なのかどうか。そして発されてしまった言葉について、どのように聞くことができるのだろうか。音楽は半分くらい人間じゃない気がするけれども、音楽へ向かっていく人間は人間でしかないはずで、逆さまになった裏切り者のTARが(彼女は画面に映らないほどの遠い昔にまずもって自分の涙を裏切ったのだろうと思う)迎えるエンディングはもはや何にがんじがらめになっているか分からなくなるほどのがんじがらめによる舞台袖の痙攣でしかない。しかしそれでもエンドロールはあって、そこでは不器用な女の子の歌声があるのだけど、顔もわからない男性の優しい声色も聴こえる。そう、あの声は優しい声だったと思う。

 

 

音楽の「力」について考える時どうしてかここに戻ってきてしまう。

 

アバドの一番好きなマーラーが5番でもベルリン・フィルでもないことに、申し訳ないという気持ちが、少しだけ、あります。