学校が教えるのはコミュニケーションではなくその必要性

そんなにコミュニケーション能力が大切なら学校で教えてくれよと言いたい。

学校教師のいうような「いい子」でいたら、いつの間にか評価のルールが変わっていて

社会的ないらない子に転落していた。

http://anond.hatelabo.jp/20080811102025

この記事に対して圧倒的に否定的なコメントが寄せられているが、自分はこの記事に同感した。

学生時代にはしゃべらなくても問題視されない

実際の経験として、小学校中学校では「静かにしろ」と言われることはあっても、「もっとしゃべれ」と言われたことはなかった。高校ではどちらもなかった。

そして、しゃべらずに過ごしていると、小中学生の時(特に小学生の時)は「おとなしくて偉いね」とほめられた。(今考えると教師にとって手間がかからないからだったわけだが・・・)

僕はあるきっかけがあって、話しかけられるまでは自分からはしゃべらないという風に努力していたのだが、そうやってほめられるたびに「やっぱりしゃべらないことはいいことなんだ」と思って過ごしていた。

学校にもコミュニケーション能力を磨く機会はある

確かに、クラスや部活、行事など集団でのコミュニケーションを必要とする場面はあるが、それはただ機会があるに過ぎない。

僕も部活をやったり学級委員をやったりはしたが、コミュニケーションというのは学生生活の特殊要因だと思っていた。少なくとも優先事項ではなかったし、必要がなければコミュニケーションはとらなかった。


ここからはたとえ話になるが、コミュニケーション能力を走る能力に置き換えてみる。

社会に出たら走る能力を求められるとする。

しかし、学校では体育や部活などで走る機会はあるが、直接的に走る方法などを教えてくれることはない(陸上部などを除いて)。

ただ、走る機会が存在するだけである。

これは言い換えれば、数学の授業で解き方を教えずに問題だけを解かせることに似ている。自分なりに試行錯誤して能力を伸ばす者もいれば、適当にやり過ごすことだけを考えて初期状態からほとんど成長のない者もいるだろう。

それなのに、社会に出ようとしたら突然その能力を求められるようになったとしたら、しかも、その能力を身につける機会があったのに今更何言ってんの?なんて言われたとしたら、なぜ教えてくれなかったのかと不満に思う人が出てくるのは当然だと思う。

何を教えるか

不満に思う人は、なぜ教えてくれなかったのかと思う。

しかし、走ることと違ってコミュニケーション能力は数値で測ることができない。

僕自身も以前は不満に思っていたが、じゃあ学校はどういう風に教えるべきかと考えても正直よくわからない。
そして、どのようにすれば教えられるかもわからない(自分では苦手と思って無くても教師から認定されて苦手意識を持ってしまったり、教師の主観によって評価が変わったりしてしまうし)。

ただ、一つ思うのは、コミュニケーションをとらないでいても問題にされずに、そのまま過ごせてしまうことは問題なのだと思う。

話し合いの機会や発表の機会、自分の意見を言う機会などはあるが、それらは一時的なもので、やり過ごせてしまえば何事もなかったかもように元に戻ってしまう。つまり、そういった機会を過ごしてもコミュニケーションの必要性を意識し続けることにはならない。


結論として、学校において必要なのは、社会(学校も含めて)で暮らす上でコミュニケーション能力が必要なのだということを生徒に意識させることなのだろうと思う。

(引用元は、コミュニケーションの仕方を教えてくれというわけではなく、その必要性を教えてくれということをいっているのだと思う)