落語の中の言葉191「敵討」
「宿屋の仇討」より
落語には時々「敵討」が出てくる。いずれも嘘の敵討である。「花見の仇討」と「高田の馬場」は親の敵討、そして「宿屋の仇討」は妻と弟の仇討である。「敵討」と「仇討」、同様の意味で使われているが、区別もされていたようである。
信濃国飯山藩(本多豊後守家)が天明八年1788に幕府へ出した質問状を、氏家幹人氏が『諸家秘聞集』に基づき紹介している。(『かたき討ち』)
敵討は父母・伯叔父・姑・兄姉など目上の者の場合でしょうか
弟・妹・甥・姪などすべて目下の者の敵討は仇討と呼ぶのでしょうか
縁者・遠類・傍輩などの敵討は意趣討と呼ぶのでしょうか
仇討や意趣討の場合にも、敵討と同様の手続きをして幕府に願い
出れば許可されましょうか
これに対する幕府(幕府勘定組頭の甲斐庄武助)の回答は、次のようなものであった。
「御書面、敵討・仇討・意趣討と申儀は全世俗之唱にでも可有之、奉行所にては右体之唱は無之」。
「目下之もの人に被殺候節は、手懸りを以て吟味相願可申筋に可有之哉と存候」
幕府が認める「敵討」は目上の者を殺された場合に限られていた。したがって妻と弟の仇討は「敵討」にはならない。仇を討った時は、私闘と見なされ、よくて切腹、悪ければ死罪である。
親族を殺された者が仇を討つ、討たれたものの親族がまたその仇を討つと止めどなく続く可能性がある。幕府は「敵討」を認める一方で、討たれたものの親族には「敵討」を認めず、「敵討」を目上の者の敵討に限定した。仇討ちの連鎖が起きないようにしたかったからであろう。子・弟・甥がいなければ「敵討」は出来ない。さらに「敵討」自体が起こらないように「喧嘩両成敗」の制を設けている。どちらに非があるかを問わず生き残った者は切腹である。これについて荻生徂徠は『政談』で次のように述べている。
但しこれは幕府法の上のことである。幕藩体制の封建制下では藩内のことは各藩が刑罰権を持っていたから幕府法とは必ずしも一致しない。しかし敵討の場合には藩内で収まることは少ないであろう。藩外へ逃亡するからである。その場合は幕府法に従わざるを得ない。
「敵討」には決められた手続きがあった。藩士の場合を例にして極大雑把に云うと、
一 敵討のため暇願い
一 藩から幕府への届け出
一 敵討のため暇許可の申渡し
その上で出立する。
武士の主従関係の解消は主人からのみ可能であった。願いを出して許可を受ける必要がある。それをせずに出立すれば脱藩であり、犯罪である。場合によっては討手を向けられる可能性もある。また暇の許可には武家奉公禁止の条件が付けられることもある。帰藩しない限り一生浪人である。平賀源内の場合がそうであった。
敵を討ち取った場合、幕府への届がなされていれば、敵討の当人と討たれた者が間違いないことが確認できればそれ以上の調べは無く罰も受けない。
次に実例で敵討の様子を見る。
山田桂翁『宝暦現来集』巻之九(天保二年1831自序)を主にして他の資料で補足する。
その他の資料も内容はほとんど同じであるが名前等少し違いが見られる。出典名のないものは『宝暦現来集』。
*幕府への届け、文政三年辰1820八月廿一日
*敵討人への申渡し① 文政三年辰1820八月廿四日
*敵討人への申渡し② 辰八月廿五日
家内の者へは三人扶持、当人へは金十両、又敵が病死していた場合にも確かな証拠があれば帰参を認めるようで、大久保家ではかなり手厚い扱いをしている。時代によるものか、大久保家故のことなのか。敵がすでに病死していた場合は敵討ができないのであるから帰参が叶わずそのまま浪人ということもある。
*敵討人の伺い
○大田南畝『半日閑話次 七』(『大田南畝全集』第十八巻)
*敵討成就の幕府への報告(大久保家)
*敵討成就の幕府への報告と伺い(水戸家)
引用者註:水戸殿御城附 諸藩は「江戸留守居役」と呼び、用のある時に江戸城に呼びつけられたり出向いたりするが、御三家は「御城附」と呼び「毎日江戸城御殿に詰める特権を有し、専用の部屋も与えられていた」という(深井雅海「生類憐み令と元禄政治」『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』)。
*幕府からの返事
引用者註:勘定奉行の遠山左衛門尉は景晋で、「遠山の金さん」こと景元の父である。
*帰参と報償
○『我衣』巻十八
*水戸家からの拜領物
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落語には時々「敵討」が出てくる。いずれも嘘の敵討である。「花見の仇討」と「高田の馬場」は親の敵討、そして「宿屋の仇討」は妻と弟の仇討である。「敵討」と「仇討」、同様の意味で使われているが、区別もされていたようである。
信濃国飯山藩(本多豊後守家)が天明八年1788に幕府へ出した質問状を、氏家幹人氏が『諸家秘聞集』に基づき紹介している。(『かたき討ち』)
敵討は父母・伯叔父・姑・兄姉など目上の者の場合でしょうか
弟・妹・甥・姪などすべて目下の者の敵討は仇討と呼ぶのでしょうか
縁者・遠類・傍輩などの敵討は意趣討と呼ぶのでしょうか
仇討や意趣討の場合にも、敵討と同様の手続きをして幕府に願い
出れば許可されましょうか
これに対する幕府(幕府勘定組頭の甲斐庄武助)の回答は、次のようなものであった。
「御書面、敵討・仇討・意趣討と申儀は全世俗之唱にでも可有之、奉行所にては右体之唱は無之」。
「目下之もの人に被殺候節は、手懸りを以て吟味相願可申筋に可有之哉と存候」
幕府が認める「敵討」は目上の者を殺された場合に限られていた。したがって妻と弟の仇討は「敵討」にはならない。仇を討った時は、私闘と見なされ、よくて切腹、悪ければ死罪である。
親族を殺された者が仇を討つ、討たれたものの親族がまたその仇を討つと止めどなく続く可能性がある。幕府は「敵討」を認める一方で、討たれたものの親族には「敵討」を認めず、「敵討」を目上の者の敵討に限定した。仇討ちの連鎖が起きないようにしたかったからであろう。子・弟・甥がいなければ「敵討」は出来ない。さらに「敵討」自体が起こらないように「喧嘩両成敗」の制を設けている。どちらに非があるかを問わず生き残った者は切腹である。これについて荻生徂徠は『政談』で次のように述べている。
喧嘩両成敗の事、当時の定法にて、聖人の道に叶えり。但し聖人の法は両成敗にせず、罪の有無を糺して、討ちたる人に罪なき時は討たれたる者の子を四夷の地に移して、敵討をさせぬようにする也。これは「父の仇には共に天を戴かず」と立てて、四夷の地は天子の御持をはずして天下の外なる故に、四夷の地に移す事なり。されば喧嘩両成敗にはあらざれども、五倫の道を重く立て、敵討をゆるす故、敵討をさせぬためにかくの如く委細なる仕形ある也。当代両成敗というは、片々を活かして置く時は、敵討たえぬによりて、かくの如く御定ある事、五倫を重く立てて、敵討を免す子細なる故に、聖人の道に叶うなり。
異国律の捌き、日本にても律を執行われたる時は、敵討という事を立てず。その子細は、人をころしたる者をば、公儀よりこれを殺す故、敵討におよばず。罪の有無を糺して、免しおかるる人は、公儀よりゆるしおかるる事なれば、これを打つは常の人殺しになりて、その敵討ちたる者は、かえつて死罪になるなり。
かくの如く立つる事、公の法を丈夫に立てて、五倫の道をかまわず、私に人を殺す事を強く禁じたる仕方にて、郡県の代の治め方かくの如し。当時は世おのずから封建になりたる故に、国々は公儀より御かまいなく、諸大名面々の治め也。五倫の道を大切に立てざれば叶わざる事なる故、郡県の法律の捌きは当時に用いがたしと知るべし。
これに付きて、喧嘩に相手を切殺したらば、その殺したる者切腹して、両成敗勿論の事也。双方手負いたるを、脇より取りすくむる事いかがあるべき。殿中ならば取りすくめて、双方切腹たるべし。私宅ならば、やはり働かせて、一方生きたるもの切腹たるべし。その者その場を立去らんとせば、掛けつけたるものからめ取るとなりとも、打ちて棄つるとなりともすべき事也。口論ばかりにて、いまだ抜き放さざる内ならば、取りすくめて、中をばなおす事もっともの事也。
但しこれは幕府法の上のことである。幕藩体制の封建制下では藩内のことは各藩が刑罰権を持っていたから幕府法とは必ずしも一致しない。しかし敵討の場合には藩内で収まることは少ないであろう。藩外へ逃亡するからである。その場合は幕府法に従わざるを得ない。
「敵討」には決められた手続きがあった。藩士の場合を例にして極大雑把に云うと、
一 敵討のため暇願い
一 藩から幕府への届け出
一 敵討のため暇許可の申渡し
その上で出立する。
武士の主従関係の解消は主人からのみ可能であった。願いを出して許可を受ける必要がある。それをせずに出立すれば脱藩であり、犯罪である。場合によっては討手を向けられる可能性もある。また暇の許可には武家奉公禁止の条件が付けられることもある。帰藩しない限り一生浪人である。平賀源内の場合がそうであった。
宝暦十一巳九月廿一日(中村幸彦「風来山人集」解説 岩波書店『日本古典文学大系』55)
一 源内事 平賀 元内
其方義医業心掛執行仕候処、師匠儀老極仕候ニ付此節昼夜手ニ附出精不仕候而者、芸術成就難仕候間、踏込修行仕度存念罷在、左候得者自然御奉公疎ニ相成候而者、甚恐多奉存、当惑仕罷在候段、御内々達御耳、格別之思召を以御扶持切米被召上、永御暇被下置候、尤御屋敷江立入候儀者、只今迄之通可被相心得候
但他江仕官之儀者御搆被遊候
敵を討ち取った場合、幕府への届がなされていれば、敵討の当人と討たれた者が間違いないことが確認できればそれ以上の調べは無く罰も受けない。
次に実例で敵討の様子を見る。
山田桂翁『宝暦現来集』巻之九(天保二年1831自序)を主にして他の資料で補足する。
その他の資料も内容はほとんど同じであるが名前等少し違いが見られる。出典名のないものは『宝暦現来集』。
*幕府への届け、文政三年辰1820八月廿一日
大久保加賀守足軽
浅田唯助
唯助養子
浅田鉄蔵 辰二十一
唯助実子
同 門次郎 辰十二
右の者共、親唯助其外の者共え、去る寅(文政元年1818)七月、傍輩足軽成瀬万助致乱心手疵為負、唯助は深手にて翌日相果候、万助儀は於其場捕押、一件吟味申付候処、全乱心に相違無之、猶吟味中入牢申付置候処、当二月牢抜致し候間、厳敷尋申付候得共、今以行衛不相知候、然処牢抜致候上は、本心に立戻り候と相察、領分は勿論御府内并何国迄も、万助行衛を相尋、見当次第敵討取申候上は、其処の役人等へ相断可申段申渡候、
御帳面え被附置候様致度段、以使者申入候、以上、
辰八月廿一日 大久保加賀守使者
志谷次源次
*敵討人への申渡し① 文政三年辰1820八月廿四日
向井源右衛門組
浅田鉄蔵
養父唯助敵成瀬万助行衛相尋討果度由、依て御暇相願候に付、願之通被仰付、勝手次第出立可致、首尾能討果候上は、其所の役人へ始末相届、掟の通取計候上は、帰参可被仰付旨、江戸屋敷成共最寄へ早速可相届候、
一、江戸御曲輪内両山抔は、可致遠慮候、其外も右准之、御場所憚候て可然事、
一、万助義病死の趣、急度相分り候はゞ、慥成誕拠を以、立戻り可申事、
一、家内の者へは、御養扶持三人扶持被下置候間、致安堵可遂本望、且又御心附金十両被下置候、
一、家内の者へは、是又御長屋御入用有之迄は、御貸置被成候、尤親類共方へ罷越候儀にても、可致勝手次第事、
右之趣於勘定所頭宅申渡之、
但、門次郎へも右同様申渡す、
*敵討人への申渡し② 辰八月廿五日
一、小田原於勘定所、用人千賀八右衛門申渡候趣左之通、
向井源右衛門組
浅田鉄蔵
早田武右衛門組
浅田門次郎
今般敵討相願候に付、昨日於頭宅申付候通、父の仇には倶に天を不戴の理にて、左も可有の儀尤至極の心底、達御聞候処、奇特の御沙汰の有之候、
公儀御奉行所においても、畢竟御旧家の御家中、格別の儀と御沙汰も宜候に付、鉄蔵儀は養子の身分、門次郎若輩にて、右体の大望願立候心底奇特の儀、首尾能本望相達たる上は、添出の者孝道も相立、其上格別の可被及御沙汰に候、万一未練の砌於有之は、一己の恥辱而巳に無之、御上の御名も穢候事、随分勇気を働、身分堅固に相慎み、潔本望を相達、目出度帰参致候様申渡す、
家内の者へは三人扶持、当人へは金十両、又敵が病死していた場合にも確かな証拠があれば帰参を認めるようで、大久保家ではかなり手厚い扱いをしている。時代によるものか、大久保家故のことなのか。敵がすでに病死していた場合は敵討ができないのであるから帰参が叶わずそのまま浪人ということもある。
伴野銀之助家十左衛門某、寛文六年正月十三日の夜浪人にて父の許に罷在候せつ、柳原土手に於て伊丹加兵衛忰八十郎と申ものに討果され候により、其弟与左衛門貞映実兄の敵八十郎見当次第打留申度段、寛文六年二月三日奉行所へ届置候処、其後敵八十郎大坂にて病死のよし聞及び、一生浪人にて父九左衛門貞昌が許に閑居せり。(大田南畝『一話一言』巻之三十五)
*敵討人の伺い
○大田南畝『半日閑話次 七』(『大田南畝全集』第十八巻)
万助義、若(もし)何方えか奉公住入候節は、先方え申入候て名乗合の義哉、但於途中待請にて本望相達し候ても可然哉、且御領、寺社領、御私領分抔に相住候はゞ、本望相達候上、其筋え申達候て可然哉。引用者註:虚無僧は風呂司とも風呂屋(吹呂屋)とも呼ばれることがある。
万助他家へ住入、供先等に候はゞ、打果候義遠慮可致候。其外共不戴の道理にて、見逢次第の事に付了簡次第の事。
万助若虚無僧抔に相成居候節は、如何取計可然哉。
吹呂屋の義は御定等も有之候由承居候へ共、不容易義、且法衣を着致し居候節、存念の処相達し候はゞ、宗法取計も可有之、若隠し候はゞ、江戸御屋敷え其旨を以相願候事可有之筋合、右の通に候へ共、前下ゲ札の通り見合次第身命投候て、取計心次第の事。
辰八月両人出立 頭より餞別
大小
()巻 鉄 蔵
大小
金弐両 紋八郎
右は御分家小日向新坂大久保家へ参り候書付の由、金剛寺坂より参候間、写差上申候。
*敵討成就の幕府への報告(大久保家)
一、文政七申年五月四日、御用番え大久保加賀守殿御届の趣左之通、
鉄 蔵二十五
門次郎十六
拙者元足軽浅田鉄蔵、同門次郎と申者、親浅田唯助其外の者え、去寅七月、傍輩元足軽成瀬万助乱心致し為負手疵、唯助は深手にて翌日相果、万助儀は於其場押捕、一旦吟味申付候処、全乱心に相違無之、吟味中入牢申付置候処、去辰二月牢抜致候に付、厳敷尋申付候得共、行衛不相知、然処牢抜致候上は、本心に立戻候と相察、領分は勿論御府内并何国迄も、万助行衛相尋、見当次第親の敵討取申度段願候に付承届、見逢次第討取候上は、其所の役人等に相断可申段、同年八月三日、奉行所へ届置候処、当四月廿七日、水戸殿領分常陸国鹿島郡磯濱村にて、敵討留め候段、水戸殿家来より申越候、前書両人の者共よりも申越候に付、拙者家来差遣可申と存候、此段御届申達候、以上
申五月四日 大久保加賀守
*敵討成就の幕府への報告と伺い(水戸家)
水戸領分常陸国鹿島郡磯濱村内祝町
大黒屋喜兵衛店
万屋九兵衛
右九兵衛と申者、前書之通致借宅居候処、大久保加賀守殿家来、元足軽相勤候者之由、浅田鉄蔵同門次郎と申者両人、当四月廿七日夜六ッ時過、右九兵衛宅へ罷越、親の敵の由相名乗、九兵衛を討留、同村庄屋方へ両人罷越、右九兵衛義は実名成瀬万助と申者、親浅田唯助と申者を、七ヶ年以前殺害立去候に付、右兄弟の者共、父の敵万助行衛相尋討留申度旨、五ヶ年以前主人加賀守へ願申立罷出、所々相尋、此度見当候に付、討留候旨申述候段、村方より訴出候に付、役人共差出遂吟味候処、前段申候通に有之候、殊に加賀守殿より相渡候免状等所持致居候、聊も相違無之様に相見得候に付、兄弟両人は同所宿へ申付、警固人差添置候、国許より申来候に付、加賀守殿へ引渡候様可被致哉、宜御差図有之候様被致度、此段令申達候、以上、
五月 水戸殿御城附
久貝太郎兵衛
引用者註:水戸殿御城附 諸藩は「江戸留守居役」と呼び、用のある時に江戸城に呼びつけられたり出向いたりするが、御三家は「御城附」と呼び「毎日江戸城御殿に詰める特権を有し、専用の部屋も与えられていた」という(深井雅海「生類憐み令と元禄政治」『江戸時代の古文書を読む 元禄時代』)。
*幕府からの返事
御附札引用者註:附札は老中水野出羽守
加賀守家来之内、見知候もの相越、浅田鉄蔵兄弟、并成瀬万助共相違無之由に候ば、鉄蔵兄弟加賀守方へ引取、其餘は同人家来へ掛合の上取計、且右の通にて候上は、後々身元等不相糺、右被討候者を磯濱村内祝町の人別に差加候者、并店借候者は、水戸殿手限に吟味之詰、相当の咎被申付候様可申上候、以上、
一、大久保加賀守殿へ、三奉行より問合存念勘弁書付
先達て御聞済の上、三奉行所へ御届有之、敵討に御差出被成候、元御足軽浅田鉄蔵外一人にて、水戸殿領分常陸国鹿島郡磯濱村にて、敵是又元足軽成瀬万助を討留、其砌同人女房疵を受候由、依之此上の御取計方勘辨仕候様、水戸殿より浅田鉄蔵等、其御方へ御引取有之候哉旨被仰立、書面御差越、御差図振申上候様にと、出羽守殿御渡も有之、右書面の内々には、女房疵受候儀共有之候間、見知候御家来罷越、鉄蔵兄弟并討留候者、彼万助に相違無之哉、子細も無之候ば御引渡有之、同人を彼地人別に差加置候者共は、水戸殿手限に吟味詰、相当の咎被申付候様に、被仰立可然哉之段申上候に付、御家来被差遣、鉄蔵兄弟は勿論、万助も同人に有之上は、御引取可被成、一通御吟味の上、外に子細も無之候ば、無御構段被仰渡可然哉旨、且万助女房儀は、親里又は身寄之者等有之、身分引請度旨申候はゞ格別、左も無く無宿者に候ば、何様万助女房の儀一旦は御引取の上、御門前払等に被仰付、若又右女房親元身寄の者共、鉄蔵外一人疵受候儀に付、申立候筋合も有之上は、其節の模様御沙汰次第、尚又勘辨の上可申上候様可仕候、尤万助死骸は水戸殿役人へ掛合の上にて、鉄蔵外一人御吟味相済候迄は、仮埋の儘其所え被差置、御吟味済候上は、外に子細も無之候ば、御引取可被成候歟、又は仮埋の儘にて取計被成候様、水戸殿役人へ御家来より掛合候様可然哉に奉存候、以上、
五月
但し此時之御用番 水野出羽守
寺社奉行
本多豊前守
町奉行
榊原主計頭
御勘定奉行
石川主水正
遠山左衛門尉
引用者註:勘定奉行の遠山左衛門尉は景晋で、「遠山の金さん」こと景元の父である。
*帰参と報償
一、五月十八日、加賀守殿にて両人共御抱替に成、
元向井源右衛門組
当時酒井織部組
浅 田 鉄 蔵
元早田茂右衛門組
浅 田 門次郎
其方養父実父の敵成瀬万助、於常陸国討留候次第、具に達御聴に候処、神妙の至被思召、先年申渡候趣貞実に相守、其身相慎み、鉄蔵は其頃若年にも有之候に、幼年の門次郎を伴ひ、門次郎も(脱アルカ)有之折柄、五ヶ年の間辛苦に不堪候処、始終心底不怠、畢竟孝心の原、武門の本意不失、軽身分には奇特の儀、且討留候始末も不見苦敷相聞候付、御感不浅、依之両人共侍に御取立、新規五十石宛被下置、広間席被仰付候、
五月十八日
右は家老列座にて申渡、
○『我衣』巻十八
*水戸家からの拜領物
前文、水戸の敵討の追加
向井彈右衛門組 浅田鐵蔵
伊田茂右衛門組 浅田門次郎
水戸殿より拜領物左の通
金弐千疋 岸嶋太織袷二つ 川越平単袴 二
絹小紋単羽織 二
其外煙草入、手拭等
岩船より 但岩船山願入寺一向宗。
敵萬助、此地面に住居したりし由。
棧留青嶋単物二つ 木綿紺嶋単物一つ
木綿白萬筋単物一つ
以上
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