落語と江戸 https://9rakugo-fan.seesaa.net/ 主に落語に出てくる言葉をいろいろ採り上げています。 ja http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss 主に落語に出てくる言葉をいろいろ採り上げています。 たて長屋の隠居 no https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R276.html 落語の中の言葉276「落語に出てくる狂歌」 Thu, 20 Mar 2025 19:59:09 +0900  落語には時々狂歌が出てきます。僅かですが詠んだ人の名前の出てくるものもあります。  庭に水新し畳伊予すだれ 数寄屋縮に色白のたぼ                蜀山人(五代目柳家小さん「青菜」)  西日さす九尺二間に太っちょの 背なで児が泣くままが焦げつく                蜀山人(同「青菜」)  まだ青い素人浄瑠璃玄人がり 赤い顔して黄な声を出す                蜀山人(三代目三遊亭金馬「寝床」)  春浮気夏は陽気で秋ふさぎ 冬は陰気で暮にまごつ.. <![CDATA[  落語には時々狂歌が出てきます。僅かですが詠んだ人の名前の出てくるものもあります。   庭に水新し畳伊予すだれ 数寄屋縮に色白のたぼ                蜀山人(五代目柳家小さん「青菜」)   西日さす九尺二間に太っちょの 背なで児が泣くままが焦げつく                蜀山人(同「青菜」)   まだ青い素人浄瑠璃玄人がり 赤い顔して黄な声を出す                蜀山人(三代目三遊亭金馬「寝床」)   春浮気夏は陽気で秋ふさぎ 冬は陰気で暮にまごつき                式亭三馬(同「節分」)   のせたからさきはあわずかただの駕籠 ひらいしやまやはせらしてみい                蜀山人(三代目桂 米朝「近江八景」)   近江八景は、瀬田の夕照、唐橋の夜雨、粟津の晴嵐、堅田の落雁、比良  の暮雪、石山の秋月、矢橋の帰帆、三井の晩鐘です。 しかしこれらは南畝や三馬の作であることの確認はとれていません。 ただ、近江八景については、秋廼屋望成編集『蜀山狂歌叢談』(明治廿七年序)に   近江八景いつの年にかありけん、蜀山人京都へ登らむとて東海道をゆくゆく勢田の長橋にかゝれり、時に橋のあたりに二三人の雲助居りて頻りに駕籠に乗れよとすゝめけるに蜀山ハ笑ひて、懐中に銭なけれバ歩行にてゆかむとて通りすぐる、後より雲助どもハ呼びとめ、旅人よいま即詠に茲の近江八景の狂歌をよみて給ハらむにハ銭をまうし受けずして我等が駕籠に乗せまゐらすべし、と戯れにいひけれバ蜀山ハ取りあへず八つの名所を三十一文字の中にいれて一首よみけり   乗せたからさきハあはずかたゝの駕籠 ひら石山やはせらしてみゐ  とあります。 『蜀山狂歌叢談』の編者の緒言には、 一大田南畝の奇行逸事を編纂したるものなれば『大田南畝言行録』とも名 づくべかりしを書肆の希望に因りて、いま『蜀山狂歌叢談』と呼べり、 されば書中の逸話珍説に狂歌叢談の名に背くものあり、看者よそを深く な咎め給ひそ一此書ハ古今の群籍を渉猟し或ひハ口碑を採録したるものなれども、虚誕 ならむと憶はるゝものハ悉く棄却したり、一此書に引用したる書目ハ頗る多けれど一々これを歴挙せず、これ煩雑を 厭へばなり とありますが、この話も眉唾物です。米朝師匠は蜀山人の講談本にあったので子供の頃に近江八景を覚えたと話しています。おそらく『蜀山狂歌叢談』も講談本からの引用でしょう。講釈師見てきたような嘘をつき。 幕臣(当主)が私用で江戸を離れて泊りがけで旅をするには幕府の許可が必要でした。  大名・旗本の当主は、江戸自邸以外の外泊はできません。  自分の下屋敷に行き郊外の空気を楽しむとか、中屋敷の先代隠居の訪問は、日帰りですからできますが、帰り時刻に大風雨などの異変以外は、そこに外泊することはできません。上屋敷にいるべき当主に、急使があって不在となると、ことが公になって問題になります。これは江戸住まいの話です。  江戸御府内外への外出はどうでしょうか。 たとえば先祖の墓地が御府外四里くらい離れていても、日帰りの距離であればさしつかえありません。川崎大師は日帰りですが、鎌倉の鶴岡八幡宮は一泊で、遠馬で日帰りできても必ず届けをして許可を取ります。横浜あたりの墓所での墓参は、外泊一、二日の許可をとります。             (小川恭一『江戸の旗本事典』) 家康の地元は三河でから、三河以来の家来も多くありました。また先祖の法事などは今日以上に重要視されていましたが、それでも当主の場合には宿泊を伴う場合は、その墓参りでさえ一代に一度しか許可されませんでした。 宝暦十一巳年1761六月 先祖之年回等ニ付、江戸之外菩提所え参詣之儀、近例は無之候得共、向後右之通之儀相願候者有之候は、其身一代ニ一度は可相済候右之趣、頭支配之面々え寄々可被達候、  六月 明和二酉年1765二月 先祖之年回等ニて、江戸之外菩提所え参詣之儀、相願候者も有之候ハヽ、其身一代ニ一度は可相済旨、先達て相達候、江戸之外ニても立帰之場所は、其身一代ニ一度ニ不限、年季等之節々、致参詣度旨相願候ハヽ、是又可相済候、  但、江戸之外立帰ニて無之場所は、先達て相達候通ニ候、右之趣、頭支配之面々え、寄々可被達置候、  二月                  (『御触書天明集成』)  天保十一年1840刊の大野廣城『青標紙』前編にも「江戸外菩提所参詣之事 明和二酉年二月七日に出、信濃守殿御渡」としてこの御触れだけしか載っていませんから、少なくとも天保十一年まではこの規定がいきていました。  南畝が私的に関西まで旅をした話は聞いたことがありません。勘定所の支配勘定として御用で大坂以西へ旅をしたことはあります。 大坂銅座詰 享和元年1801二月二十七日江戸発、三月十一日大坂着  『改元紀行』 享和二年1802三月二十一日大坂発、四月七日江戸帰着  『壬戌紀行』長崎御用 文化元年1804七月二十五日江戸発、九月十日長崎着   『革命紀行』 文化二年1805十月十日長崎発、十一月十九日江戸帰着  『小春紀行』 筆まめな人ですから、それぞれの旅に紀行文を書いています。但し『革命紀行』は大坂以西のみ。しかしそれらにはこの話は当然ながら載っていません。「当然ながら」と書いたのは、御用旅の場合は無料で使える人馬の数を記載した証文が出ますから、個人で雲助を雇って駕籠に乗ることはないからです。 宿駅の人馬を使役するのに、朱印または証文によってその使用を許されている公用旅行者が最優先することはよく知られている。朱印状は将軍名で発行するもので、その受給者は、公家・門跡・上使などで、その人馬数は朱印状面に明示されていた。また証文は老中・京都所司代・大坂城代・駿府城代・勘定奉行・道中奉行・長崎奉行等が発行者で、その受給者も決められていた。  江戸を出発するものであれば、あらかじめ朱印や証文の写しと旅行の日程表を、江戸の伝馬町(大伝馬町と南伝馬町が交互に扱う)の伝馬役所に示しておくと、伝馬役所から先々へその写しを逓送しておく。すなわちそれが先触となり、宿々ではそれを写して当日の人馬の用意をしたのである。(中略)  朱印状の例を示すと、元禄十四年(一七〇一)に越後国の見分を命ぜられた旗本の朝倉半九郎の朱印状写しは次のとおりである。    御朱印    人足弐人馬三疋従江戸越後迄上下可出之、是者右之国為見分    朝倉半九郎参ニ付被下候者也      元禄拾四年三月廿三日             右宿中  御朱印とあるところには、伝馬にだけ用いる特別の印が押してあった。朝倉半九郎は、朱印人足二人はそのままとし、馬三疋のうち一疋は人足二人に替え、その他に賃人足二人を必要として、江戸南伝馬所に伝えた。南伝馬所では、朱印状の写しを添えて、江戸出発の日時を板橋から越後の高田領までの宿々の問屋に通達したのである。朱印状の人馬は無賃であるが、賃人足の二人分は御定賃銭を払うのである。         (児玉幸多『宿場と街道』)  南畝の大坂銅座御用の為の大坂への旅の場合が『おしてるの記』に載っています。よくわからない部分もありますがそのまま紹介します。 供人数・証文 供人数   金五両弐分       取替金壱両壱分弐朱渡ス  一用人       壱人  田山浅兵衛    五月ヨリ三ケ月メに金壱両壱分弐朱づゝ   金四両弐分       取替金壱両弐朱渡ス  一侍        壱人  松本栄蔵    五月ヨリ月々壱分弐朱づゝ   金三両  一中間       三人    五月ヨリ      五月ヨリ二 長 助 取替金三分     月々金壱分づゝ 六月ヨリ一 平 助 取替金壱両             五月ヨリ三 喜 助 取替金三分   御証文    弐通  御用書物長持 壱棹  一馬     二疋  是は壱疋にて、壱疋者人足弐人にかへ候事  一人足    弐人    都合人足四人  右駕籠之者にいたし候事  外に三人賃人足、内壱人具足櫃為持、  壱人両掛挟箱、壱人合羽駕籠、  家来壱人、鎗持壱人、草履取壱人、為休挟箱は御用長持へ入候事 これに続けて  一箱根御関所前は駕籠より下り、惣体御用長持具足櫃等一所にまとめ、  侍壱人御番所前へ遣し、大坂銅座御用にて、支配勘定大田直次郎、  上下六人通り候旨断候。 と書いています。  また、落語に詠み人の名前なしで出てくる狂歌で、出処が分かるものを幾つか次に揚げます。 *貧乏の棒も次第に長くなり 振り回されぬ年の暮れ哉                    (十代目 桂文治「掛取り」) 『万載狂歌集』天明三年1783 巻第六 冬歌にあります。  ひんぼうのぼうが次第に長くなりふりまハされぬ年のくれ哉                       よミ人しらす *早蕨の握りこぶしを振り上げて 山の横つら春風ぞ吹く                    八代目 桂文楽「愛宕山」 大田南畝『巴人集』(天明四年1784序)に   蕨  早蕨のにぎりこぶしをふりあげて 山の横つら春風ぞ吹 *世の中に酒と女が敵なり どうか敵にめぐり逢いたい                  五代目 古今亭志ん生「駒長」 大田南畝『巴人集拾遺』に   色と酒  世の中は色と酒とが敵なり どうぞ敵にめぐりあいたい *味噌こしの底に溜まりし大晦日 こすにこされずこされずにこす                     十代目 桂文治「掛取り」 秋廼屋望成編集『蜀山狂歌叢談』(明治廿七年序)附録に   除夜  味噌こしのそこにたまれる大晦日 こすに越されずこされずにこす *酒飲めばいつか心も春めきて 借金取りも鶯の声                    三代目 三遊亭金馬「節分」 篠原文雄『日本酒仙伝』(昭和四十六年)  酒のめばおのづ心も春めきて 借金取もうぐいすの声  唐衣橘洲 『蜀山狂歌叢談』『日本酒仙伝』は出処が省略されていますので確認できません。 *楽しみは春の桜に秋の月 夫婦仲良く三度喰うめし                   五代目 三遊亭円楽「垂乳根」 『万載狂歌集』(天明三年1783 巻第十五 雑歌)に   田舎興  たのしミハ春の桜に秋の月 夫婦中よく三度くふめし  花道つらね ところがこの歌は大田南畝『巴人集拾遺』にも   一家和合  楽しみは春の桜に秋の月 夫婦中よく三度喰ふめし と載っていてます。ただ『巴人集拾遺』は南畝没後に後人が遺文と思われるものを集めたもの。一方『万載狂歌集』は「朱楽菅江を共編者とし、菅江の序をのせている。しかし版下は赤良の字だし、文も赤良と思われ、実際の編集は赤良が独力で済ましたに相違ない。」 (『大田南畝全集第一巻』濱田義一郎氏の「南畝の狂歌・狂文」解説) というものですから、花道つらねの方が正しいように思われます。  因みに、花道つらね(五代目市川團十郎白猿)の狂歌を少々あげておきます。 寛政十午年1798の顔みせに、三芝居とも元のごとく、中村勘三郎、市村卯左衛門、森田勘弥座本なり。木挽町にも操芝居、吹屋町河岸に子供など出来て、いづれも繁昌時を得たり。此顔みせより六代目市川団十郎年若なれども、数代の名家にて贔屓多かりしかば、中村座の座頭らと成。仍て隠居白猿は座着口上に出る。大当りに付狂歌白猿一首といふ本出たり。是は座付の口上之内、毎日白猿狂歌一首づゝいだせしをしるせし本なり。其狂歌は取に足らずといへども、一二を爰にしるしぬ。伜団十郎廿一歳にて座がしらに成し有難さに、   そろばんの親玉子だま目ぱちぱちしめて三七二十市川   牛島をもう出まじとこもりしにひき出されたるはなのかほ見せ   鼻たかき人とや我をうはさせんあきはの山のちかくに遊べば  (以下略)(著者未詳『梅翁随筆』巻之五 享和頃1801-03?)     布袋 経山寺(きんざんじ)ミそかしらすのたのしみハ本来くうてねたりおきたり                          『万載狂歌集』     十三夜月 人もたゞこのやうにこそありたけれすこしたいらでまめの名月                          『狂歌才蔵集』      天明六のとし葺屋町桐座の顔見世狂言に白ます婆と北条時政との     はやがはりの二役つとめし時芝居の三階にてよみ侍りける 三がいをくるしといふもことはりや生死流転の早がはりして                          『狂歌才蔵集』 橘洲・花道・赤良.png      「吾妻曲狂歌文庫」より        落語の中の言葉一覧へ ]]> 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 落語には時々狂歌が出てきます。僅かですが詠んだ人の名前の出てくるものもあります。

  庭に水新し畳伊予すだれ 数寄屋縮に色白のたぼ
                蜀山人(五代目柳家小さん「青菜」)

  西日さす九尺二間に太っちょの 背なで児が泣くままが焦げつく
                蜀山人(同「青菜」)

  まだ青い素人浄瑠璃玄人がり 赤い顔して黄な声を出す
                蜀山人(三代目三遊亭金馬「寝床」)

  春浮気夏は陽気で秋ふさぎ 冬は陰気で暮にまごつき
                式亭三馬(同「節分」)

  のせたからさきはあわずかただの駕籠 ひらいしやまやはせらしてみい
                蜀山人(三代目桂 米朝「近江八景」)

  近江八景は、瀬田の夕照、唐橋の夜雨、粟津の晴嵐、堅田の落雁、比良
  の暮雪、石山の秋月、矢橋の帰帆、三井の晩鐘です。

しかしこれらは南畝や三馬の作であることの確認はとれていません。
 ただ、近江八景については、秋廼屋望成編集『蜀山狂歌叢談』(明治廿七年序)に

  近江八景
いつの年にかありけん、蜀山人京都へ登らむとて東海道をゆくゆく勢田の長橋にかゝれり、時に橋のあたりに二三人の雲助居りて頻りに駕籠に乗れよとすゝめけるに蜀山笑ひて、懐中に銭なけれ歩行にてゆかむとて通りすぐる、後より雲助ども呼びとめ、旅人よいま即詠に茲の近江八景の狂歌をよみて給らむに銭をまうし受けずして我等が駕籠に乗せまゐらすべし、と戯れにいひけれ蜀山取りあへず八つの名所を三十一文字の中にいれて一首よみけり

  乗せたからさきあはずかたゝの駕籠 ひら石山やはせらしてみゐ
  とあります。

『蜀山狂歌叢談』の編者の緒言には、

一大田南畝の奇行逸事を編纂したるものなれば『大田南畝言行録』とも名
 づくべかりしを書肆の希望に因りて、いま『蜀山狂歌叢談』と呼べり、
 されば書中の逸話珍説に狂歌叢談の名に背くものあり、看者よそを深く
 な咎め給ひそ
一此書古今の群籍を渉猟し或ひ口碑を採録したるものなれども、虚誕
 ならむと憶はるゝもの悉く棄却したり、
一此書に引用したる書目頗る多けれど一々これを歴挙せず、これ煩雑を
 厭へばなり

とありますが、この話も眉唾物です。米朝師匠は蜀山人の講談本にあったので子供の頃に近江八景を覚えたと話しています。おそらく『蜀山狂歌叢談』も講談本からの引用でしょう。講釈師見てきたような嘘をつき。

幕臣(当主)が私用で江戸を離れて泊りがけで旅をするには幕府の許可が必要でした。

 大名・旗本の当主は、江戸自邸以外の外泊はできません。
 自分の下屋敷に行き郊外の空気を楽しむとか、中屋敷の先代隠居の訪問は、日帰りですからできますが、帰り時刻に大風雨などの異変以外は、そこに外泊することはできません。上屋敷にいるべき当主に、急使があって不在となると、ことが公になって問題になります。これは江戸住まいの話です。
 江戸御府内外への外出はどうでしょうか。
 たとえば先祖の墓地が御府外四里くらい離れていても、日帰りの距離であればさしつかえありません。川崎大師は日帰りですが、鎌倉の鶴岡八幡宮は一泊で、遠馬で日帰りできても必ず届けをして許可を取ります。横浜あたりの墓所での墓参は、外泊一、二日の許可をとります。             (小川恭一『江戸の旗本事典』)

家康の地元は三河でから、三河以来の家来も多くありました。また先祖の法事などは今日以上に重要視されていましたが、それでも当主の場合には宿泊を伴う場合は、その墓参りでさえ一代に一度しか許可されませんでした。

宝暦十一巳年1761六月
 先祖之年回等付、江戸之外菩提所え参詣之儀、近例は無之候得共、向後右之通之儀相願候者有之候は、其身一代一度は可相済候
右之趣、頭支配之面々え寄々可被達候、
  六月

明和二酉年1765二月
 先祖之年回等て、江戸之外菩提所え参詣之儀、相願候者も有之候ハヽ、其身一代一度は可相済旨、先達て相達候、江戸之外ても立帰之場所は、其身一代一度不限、年季等之節々、致参詣度旨相願候ハヽ、是又可相済候、
  但、江戸之外立帰て無之場所は、先達て相達候通候、
右之趣、頭支配之面々え、寄々可被達置候、
  二月                  (『御触書天明集成』)

 天保十一年1840刊の大野廣城『青標紙』前編にも「江戸外菩提所参詣之事 明和二酉年二月七日に出、信濃守殿御渡」としてこの御触れだけしか載っていませんから、少なくとも天保十一年まではこの規定がいきていました。

 南畝が私的に関西まで旅をした話は聞いたことがありません。勘定所の支配勘定として御用で大坂以西へ旅をしたことはあります。

大坂銅座詰
 享和元年1801二月二十七日江戸発、三月十一日大坂着  『改元紀行』
 享和二年1802三月二十一日大坂発、四月七日江戸帰着  『壬戌紀行』
長崎御用
 文化元年1804七月二十五日江戸発、九月十日長崎着   『革命紀行』
 文化二年1805十月十日長崎発、十一月十九日江戸帰着  『小春紀行』

筆まめな人ですから、それぞれの旅に紀行文を書いています。但し『革命紀行』は大坂以西のみ。しかしそれらにはこの話は当然ながら載っていません。「当然ながら」と書いたのは、御用旅の場合は無料で使える人馬の数を記載した証文が出ますから、個人で雲助を雇って駕籠に乗ることはないからです。

宿駅の人馬を使役するのに、朱印または証文によってその使用を許されている公用旅行者が最優先することはよく知られている。朱印状は将軍名で発行するもので、その受給者は、公家・門跡・上使などで、その人馬数は朱印状面に明示されていた。また証文は老中・京都所司代・大坂城代・駿府城代・勘定奉行・道中奉行・長崎奉行等が発行者で、その受給者も決められていた。
 江戸を出発するものであれば、あらかじめ朱印や証文の写しと旅行の日程表を、江戸の伝馬町(大伝馬町と南伝馬町が交互に扱う)の伝馬役所に示しておくと、伝馬役所から先々へその写しを逓送しておく。すなわちそれが先触となり、宿々ではそれを写して当日の人馬の用意をしたのである。(中略)
 朱印状の例を示すと、元禄十四年(一七〇一)に越後国の見分を命ぜられた旗本の朝倉半九郎の朱印状写しは次のとおりである。
   御朱印
    人足弐人馬三疋従江戸越後迄上下可出之、是者右之国為見分
    朝倉半九郎参ニ付被下候者也
      元禄拾四年三月廿三日
             右宿中

 御朱印とあるところには、伝馬にだけ用いる特別の印が押してあった。朝倉半九郎は、朱印人足二人はそのままとし、馬三疋のうち一疋は人足二人に替え、その他に賃人足二人を必要として、江戸南伝馬所に伝えた。南伝馬所では、朱印状の写しを添えて、江戸出発の日時を板橋から越後の高田領までの宿々の問屋に通達したのである。朱印状の人馬は無賃であるが、賃人足の二人分は御定賃銭を払うのである。         (児玉幸多『宿場と街道』)

 南畝の大坂銅座御用の為の大坂への旅の場合が『おしてるの記』に載っています。よくわからない部分もありますがそのまま紹介します。

供人数・証文
 供人数
   金五両弐分       取替金壱両壱分弐朱渡ス
  一用人       壱人  田山浅兵衛
    五月ヨリ三ケ月メに金壱両壱分弐朱づゝ
   金四両弐分       取替金壱両弐朱渡ス
  一侍        壱人  松本栄蔵
    五月ヨリ月々壱分弐朱づゝ
   金三両
  一中間       三人
    五月ヨリ      五月ヨリ二 長 助 取替金三分
     月々金壱分づゝ 六月ヨリ一 平 助 取替金壱両
             五月ヨリ三 喜 助 取替金三分

  御証文    弐通
  御用書物長持 壱棹
  一馬     二疋
  是は壱疋にて、壱疋者人足弐人にかへ候事
  一人足    弐人
    都合人足四人
  右駕籠之者にいたし候事
  外に三人賃人足、内壱人具足櫃為持、
  壱人両掛挟箱、壱人合羽駕籠、
  家来壱人、鎗持壱人、草履取壱人、為休挟箱は御用長持へ入候事

これに続けて

 一箱根御関所前は駕籠より下り、惣体御用長持具足櫃等一所にまとめ、
  侍壱人御番所前へ遣し、大坂銅座御用にて、支配勘定大田直次郎、
  上下六人通り候旨断候。

と書いています。

 また、落語に詠み人の名前なしで出てくる狂歌で、出処が分かるものを幾つか次に揚げます。

*貧乏の棒も次第に長くなり 振り回されぬ年の暮れ哉
                    (十代目 桂文治「掛取り」)
 『万載狂歌集』天明三年1783 巻第六 冬歌にあります。
  ひんぼうのぼうが次第に長くなりふりまされぬ年のくれ哉
                       よミ人しらす

*早蕨の握りこぶしを振り上げて 山の横つら春風ぞ吹く
                    八代目 桂文楽「愛宕山」
 大田南畝『巴人集』(天明四年1784序)に
   蕨
  早蕨のにぎりこぶしをふりあげて 山の横つら春風ぞ吹

*世の中に酒と女が敵なり どうか敵にめぐり逢いたい
                  五代目 古今亭志ん生「駒長」
 大田南畝『巴人集拾遺』に
   色と酒
  世の中は色と酒とが敵なり どうぞ敵にめぐりあいたい

*味噌こしの底に溜まりし大晦日 こすにこされずこされずにこす
                     十代目 桂文治「掛取り」
 秋廼屋望成編集『蜀山狂歌叢談』(明治廿七年序)附録に
   除夜
  味噌こしのそこにたまれる大晦日 こすに越されずこされずにこす

*酒飲めばいつか心も春めきて 借金取りも鶯の声
                    三代目 三遊亭金馬「節分」
 篠原文雄『日本酒仙伝』(昭和四十六年)
  酒のめばおのづ心も春めきて 借金取もうぐいすの声  唐衣橘洲

『蜀山狂歌叢談』『日本酒仙伝』は出処が省略されていますので確認できません。

*楽しみは春の桜に秋の月 夫婦仲良く三度喰うめし
                   五代目 三遊亭円楽「垂乳根」
 『万載狂歌集』(天明三年1783 巻第十五 雑歌)に
   田舎興
  たのしミ春の桜に秋の月 夫婦中よく三度くふめし  花道つらね

ところがこの歌は大田南畝『巴人集拾遺』にも
   一家和合
  楽しみは春の桜に秋の月 夫婦中よく三度喰ふめし

と載っていてます。ただ『巴人集拾遺』は南畝没後に後人が遺文と思われるものを集めたもの。一方『万載狂歌集』は
「朱楽菅江を共編者とし、菅江の序をのせている。しかし版下は赤良の字だし、文も赤良と思われ、実際の編集は赤良が独力で済ましたに相違ない。」 (『大田南畝全集第一巻』濱田義一郎氏の「南畝の狂歌・狂文」解説)

というものですから、花道つらねの方が正しいように思われます。

 因みに、花道つらね(五代目市川團十郎白猿)の狂歌を少々あげておきます。

寛政十午年1798の顔みせに、三芝居とも元のごとく、中村勘三郎、市村卯左衛門、森田勘弥座本なり。木挽町にも操芝居、吹屋町河岸に子供など出来て、いづれも繁昌時を得たり。此顔みせより六代目市川団十郎年若なれども、数代の名家にて贔屓多かりしかば、中村座の座頭らと成。仍て隠居白猿は座着口上に出る。大当りに付狂歌白猿一首といふ本出たり。是は座付の口上之内、毎日白猿狂歌一首づゝいだせしをしるせし本なり。其狂歌は取に足らずといへども、一二を爰にしるしぬ。
伜団十郎廿一歳にて座がしらに成し有難さに、
   そろばんの親玉子だま目ぱちぱちしめて三七二十市川
   牛島をもう出まじとこもりしにひき出されたるはなのかほ見せ
   鼻たかき人とや我をうはさせんあきはの山のちかくに遊べば
  (以下略)(著者未詳『梅翁随筆』巻之五 享和頃1801-03?)
     布袋
 経山寺(きんざんじ)ミそかしらすのたのしみ本来くうてねたりおきたり
                          『万載狂歌集』
     十三夜月
 人もたゞこのやうにこそありたけれすこしたいらでまめの名月
                          『狂歌才蔵集』

     天明六のとし葺屋町桐座の顔見世狂言に白ます婆と北条時政との
     はやがはりの二役つとめし時芝居の三階にてよみ侍りける
 三がいをくるしといふもことはりや生死流転の早がはりして
                          『狂歌才蔵集』



橘洲・花道・赤良.png
      「吾妻曲狂歌文庫」より



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https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R275.html 落語の中の言葉275「お歯黒どぶ」 Fri, 28 Feb 2025 19:56:24 +0900      古今亭志ん生「首ったけ」より かつて、落語の中の言葉80「お歯黒」続で、「首ったけ」(五代目古今亭志ん生)でお歯黒どぶのことを「あのお歯黒どぶてエものは、汚ねエのなんのって、真っ黒だから、お歯黒に似ているからお歯黒どぶという」といっているが、二千人以上の遊女がお歯黒をするのであるからどぶが真っ黒になって当然である。と書きました。今回はこの「お歯黒どぶ」をとりあげます。おはぐろどぶというのは、新吉原の周辺にある幅五間(のちに三間)ほどの下水をいう。廓の遊女が鉄漿を用い.. <![CDATA[      古今亭志ん生「首ったけ」より  かつて、落語の中の言葉80「お歯黒」続で、 「首ったけ」(五代目古今亭志ん生)でお歯黒どぶのことを「あのお歯黒どぶてエものは、汚ねエのなんのって、真っ黒だから、お歯黒に似ているからお歯黒どぶという」といっているが、二千人以上の遊女がお歯黒をするのであるからどぶが真っ黒になって当然である。 と書きました。今回はこの「お歯黒どぶ」をとりあげます。 おはぐろどぶというのは、新吉原の周辺にある幅五間(のちに三間)ほどの下水をいう。廓の遊女が鉄漿を用いた残りを、窓からこの溝に捨てたので、水の色が鉄漿色になったのに由来するとされている。鉄漿も流れこんだであろうが、そのほかの汚物も流れたまったのであろう。汚くてとうてい泳いで渡ることなどできなかったという。遊女の逃亡を防ぐ手段である。新吉原への出入は大門だけに限られたのである。もっとも、非常用には九ヵ所に刎ね橋が備えてあったが、ふだんはあげてあって、大門だけが唯一の通路であった。(石井良助『吉原』)  お歯黒どぶに面して建物があるのは京町と伏見町くらいで、それ以外の町は、お歯黒どぶへは面していません。東西の河岸通りは道幅が四・五間もあり、河岸見世でも窓から道の向こうにあるどぶへ投げ捨てることはできません。また江戸の下水には屎尿は流しません。(落語の中の言葉246「どぶ(下水)」)  新吉原ではゴミと屎尿は毎朝搬出していたそうです。 吉原では不浄なものは、長く置かなかった。その日に出た不浄物は翌朝早く廓外に運び出してしまう。 人間社会の廃棄物、悪臭を放つゴミ、不用な物品をためておくゴミ溜がない。   わいだめもはきだめもない五丁町(柳多留八十五) わいだめとは思慮分別をいう。わいだめとははきだめの語呂を合わせた句案であって、吉原に遊ぶ人々は思慮分別がなく、その吉原には、江戸の町屋敷には必ず設備してあった掃溜がない。  人間の生理上の老廃物である不潔な糞尿も、その日のものは翌朝早く遊客が来る前に廓外へ搬出してしまう。   大門をおつぴらかせて掃除馬(俳諧觹・嘉永本)   糞(こ)ひ取に込朝の大門(俳諧觹十九)   大門を馬も出這る朝朗(あさぼらけ)(みつめぎり)                (花咲一男『川柳江戸歳時記』) 此吉田屋のお職にて、印(二つ山形一つ星)のおいらん夕霧ときこへしは、神崎一の全盛にて、木地から磨た面屋の木偶、夜光珠の昼見ても、光りのうせぬすがたなり。朝がへりの客を茶屋まで送てかへりしとみへ、〔夕ぎり〕ヲヽつめた。卜はしごを上る。跡より振袖新造〔そらね〕さむそうななりにて、あたまのしらがもとゆひのさき、両ほりを紙にていはえ、おいらんの中をりの駒げたと、じぶんのげたと、さげて来る。 ヲヤもふ、そふじがきたさふだ。いつそ匂ふよ。(山東京伝『青楼昼之世界 錦之裏』寛政三年1791 ) 辰時 ものこふ法師ばらうちつれて、はち々々とよひつゝいりもてく、むづかしげなるをけさしになひて、きたなげなる男どもいりくるもみゆ。(以下略) (石川雅望『吉原十二時』刊年未詳)  『吉原十二時』は吉原の一日を卯から寅の十二時に分けて擬古文で記したもの。十二支で時刻を表していますが、おそらく定時法ではなく時の鐘の時刻と思われます。辰時も午前八時ではなく朝五つの意味でしょう。  「お歯黒どぶ」は新吉原の惣下水の俗称です。 一 吉原町囲外惣下水之儀、右替地ニ相成候節出来仕候儀ニ御座候、里俗おはぐろどぶと唱申候  (「新吉原町書上」巳九月 安政四年1857)  日本橋からの所替えの際に惣下水を掘り、その土で田圃に土盛りをして造成しました。そのへんの事情を『洞房古鑑』(宝暦四年1754)から紹介します。 『洞房古鑑』は「江戸町一丁目の轡天満屋竹嶋仁左衛門が、寛延元年1748閏十月名主役に就任したについて、役目執行上参考になるべき古例を集めたものである。」(『随筆百花苑』第十二巻の野間光辰氏の解題) 一 同年(明暦二年)十一月廿七日被召出、金一萬五百両被下置候。内金三百両ハ奈良屋ニテ請取候。  本柳町一丁目、間数百廿間一尺六寸分   金千六百八十三両壹分 銀九匁六分  同二丁目以下略  〆金九千八百六拾貳両銀八匁   残金百廿四両貳分銀五匁一分   右者茶屋三人分、此金曾所ニ有   残金五百両   右者惣下水普請料ニ被下ニ付、退置申候。  都合金一萬五百両   小間一間ニ付、金十四両ヅヽ割取。 尤當年餘日無之間、来春三月迄ニ引拂可申旨被仰渡候。     新 地 一 日本堤ヨリ五十間餘入りニ、町割有。 一 大門ハ東向ニ定。 一 大門ヨリ水道尻迄百三十五間。 一 江戸町一丁目、二丁目、川岸ヨリ川岸迄百八十間。 一 中之町道幅十間。 一 町々道幅五間。 一 惣堀幅五間、深サ九尺、堀向犬走三尺餘。 明暦三年酉二月下旬ヨリ惣堀ヲホラセ、其土ヲ以二町ニ三町ノ深田ヲ埋、地形ヲ築立候。(以下略)  「本柳町」とは江戸町のことです。「惣堀幅五間」などとある「間」は京間です。吉原は京間で町割りが行われています。江戸の初期は京間と田舎間の両方が使われていますが、日本橋の本町通り、日本橋通り辺の町割りも京間です。 『洞房古鑑』には江戸町壱丁目西側の家屋敷の伝来に関する記述があり、すべて京間になっています。例えば 江戸町壱丁目西側 明暦三年 一 京間十六間四尺八寸、裏行町並貳拾間。 明暦三年元吉原ヨリ引移候節、喜多川甚右衛門替地請取、其後忰三良右衛門江相譲、甚右衛門は致薙髪宗知卜名ヲ改候。  現在、一間(けん)というと、曲尺(かねじゃく)(三〇・三㎝)で六尺(一八一・八㎝)のことで、これは田舎間とも呼ばれている。だが、この一間=六尺が支配的になるのは、近世の後半ないし近代になってからのことで、近世の初めの段階ではむしろ六尺五寸(一九七㎝)を一間とする京間と呼ばれる間(けん)のほうが、一般に使われていたとみられる。(玉井哲雄『江戸 失われた都市空間を読む』1986)  惣堀の幅五間は32尺5寸=約9.85m、深さ九尺は約2.7mです。ネット上では五間を9mとするものが多いですが、これは一間=六尺という思い込みからきたもので、誤りです。水は大門口のある北東の一辺から日本堤(吉原土手)の手前にある幅九尺の大下水に繋がっていて、道哲庵(西方寺)の近くで山谷堀に流れ込んでいたようです。江戸の下水へ流すのは雨水と生活雑排水です。「遊女三千人御免の場所」などと云われるように女性が集中している場所で、禿や振袖新造は白歯ですが遊女はお歯黒をしていますから、他の下水とは違っていたと思われます。  このお歯黒どぶは、時に排水が十分でなく廻りの田圃に溢れることもありました。 一 享保十六年亥1731、龍泉寺門前田畑へ惣下水ノ悪水アフレ候由度々申来ニ付、九月廿八日五丁相談ノ上、江戸町一丁目通り五十間跡裏下水ヨリ向江長サ十六間ニ、此度新規ニ樋ヲ付樋ノ蓋車通ル。右十三本鋪申候。 一 延享五年辰1748三月、惣下水田畑ヘアフレ候旨龍泉寺門前ヨリ申来ニ付、五十間道樋此度石ニテ仕直申候。     (『洞房古鑑』) 「どぶ」や下水は浚いが必要です。雨水とともに泥やゴミが流れ込むからです。享保期には大規模な浚いが行われています。   享保元年1716ヨリ取懸リ、同三年八月浚終申候。金四百両相懸リ候。(同書)  安永八年1779以降は芸者見番の正六が浚を行っていました。これは芸者見番をたて、そこからでる収益で各種の負担をすることを正六が願出て認められたためです。 一、吉原町男女芸者之儀、前々名主より札相渡、稼為致候処、十七年以前、安永八亥年中、角町家持正六儀、新吉原町附日本堤土手聖天町角四角寺前より、御榜示杭壱丈二尺、馬踏五間、築立、衣紋坂下より御高札塚前通五拾間道、幷大川口際迄地形一式、但石橋より大門口迄之間、道造り、幷吉原町四方惣下水浚、柵堰板修復、水道尻に有之火之見番人給分仕払、右入用手当、吉原町之内男女芸者、遊女屋抱、素人抱、幷自分稼之儀は、其当人より証文取置、雇口引受、男女芸者札数、永々百枚に相極、名題札相渡、以前名主より渡置候名題札は不残引上、稼為致候旨、吉原町名主町人共一同対談相極、為取替、致証文置候通、以後、人数名題札之儀は、定之通百枚に相究、右之高に限、不相増様に致可甲事、(『新吉原町定書』寛政七年1795)  最初京間五間(=32尺5寸)もあったお歯黒どぶも後には半分以上埋められて狭くなっています。  新吉原之図.jpg    「新吉原之図」 一番広いのは江戸町一丁目の前ですが、それでも一丈五尺(15尺)で当初の半分以下、西河岸で一丈二尺、京町で一丈、羅生門河岸(新町河岸)が七尺、東河岸(江戸町弐丁目河岸)が一番狭く六尺二寸(当初の五間の五分の一以下)、伏見町で七尺です。  この「新吉原之図」は変なところがあります。総下水の幅です。文字では「壱丈五尺」「六尺弐寸」とか書かれていますが図は同じ幅です。東側の河岸通り「五間三尺五寸」と東河岸の下水幅「六尺二寸」が同じ幅になっています。一方、伏見町の「道巾弐間」、「境町道巾壱丈」はそれなりの幅になっています。おそらく総下水の幅が五間あった頃の図に、その後出来た伏見町と境町道を相当する縮尺で書き加えただけで、それに数字を書き込んだように思われます。  この「新吉原之図」は、いつのものか判りませんが、伏見町が有って、境町が無くて江戸町弐丁目になっていること、又境町通りが残っていることから、明和六年1767から文化十一年1814の間、又は享和三年1803から文化十一年の間のどちらかでしょう。いづれにしても文化十二年より前にはこれほど狭くなっていました。  またこれもいつからかは判りませんが、お歯黒どぶには跳ね橋が設置されています。  お歯黒どぶはね橋A.jpg    広重「東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図」より おはぐろどぶ 寛文の吉原地図によりますと、溝の幅が五間と記してあり、どぶといっても田んぼの余り水を集めたものらしく絵でみますと流れがあったようで、たまり水ではないと考えられます。  遊女の逃亡を防ぐ目的で作られたものでありますが、後期になってから廓の者の生活の便宜か、或は火災の場合の逃げ道か、はね橋をつけ、次の句によると、ある程度は、その娼家の自由な差配で実用されていたもののようであります。  ○はねて置鉄漿どぶのわたしがね   (ケイ二六47オ)  ○おはぐろへ或夜恋路の渡しがね   (樽九六31ウ)    おはぐろをつける時、はんぞう(耳盥)の上に金属製の板を渡す。この板を、はね橋になぞらえた。           (花咲一男『川柳 江戸吉原図絵』) お歯黒どぶに関する川柳にはこの他、次のものがあります。   おはぐろを越したが跡の六つかしさ   柳多留三二   おはぐろへ有夜ひそかに恋のはし    柳多留七三   おはぐろは外泥水は内にあり      柳多留七八  跳ね橋の数も時代によって違っていたようで、寛政七年1795十二月の『新吉原町遊女屋規定證文』には火災時の避難についての規定のなかに「拾ヶ所の用心口」とあります。 一 出火之節遊女とも為立退方之儀は、兼而最寄之場所其外寺院等方角教置、家内男共幷平生立入候諸商人諸職人等江兼而申談置、欠付次第附添、風筋見斗、大門口其外拾ヶ所之用心口ゟ為立退、怪我過チ無之様、常々心懸ケ可申事  蛇足ながらこの『新吉原町遊女屋規定證文』は新吉原の遊女屋が相談の上まとめた多項目にわたるもので、その最後には「一統厚相守可申候、為後證、連判致置申処、仍如件」として新吉原江戸町壱町目から揚屋町、五拾間道の者まで、さらに年寄役七人が連印し、名主四人が奥印しています。  ところで気になることがあります。それはお歯黒どぶは「遊女の逃亡を防ぐ目的」で作られたと一般に云われていることです。落語の中の言葉246「どぶ(下水)」でとりあげた通り、江戸の町屋敷の廻りには雨水等を流すため必ず下水があります。町と町の境にも下水があります。道は中央を高くして両側に下水をつくります。新吉原の廓の周りにも下水があって当然です。下水がないことはありえません。お歯黒どぶが流れ込む大下水は幅が9尺しかありませんから、お歯黒どぶもそれ以下の幅で十分なはずです。それなのに幅5間、深さ9尺という巨大なものであることが不自然なので、「遊女の逃亡を防ぐ目的」だろうと思われているのでしょう。しかし、新吉原は田圃に作られた町です。田圃を埋立てるには大量の土が必要です。その土の量をを計算した結果が幅5間、深さ9尺の下水になったのではないかと想像しています。お歯黒どぶを造るために掘り出した土で埋立てるとどのくらいの厚さになるか極大雑把に計算してみました。約1尺2寸でした。田のあぜ道と同じか少し高いくらいでしょうか。土地の造成が済んでしまえばこんな巨大な「どぶ」は必要なくなります。それでどんどん埋められて狭くなったのではないかと思っています。「どぶ」は雨が降れば周りから土やごみが流れ込みますから浚うことが必要で、浚った土を置いておく場所も五十間道の後ろに用意されていました。 一 享保二年酉1717三月十四日、奈良や懸リニテ、五十間道空地坪數并入用之譯書上候樣ニ被申渡候ニ付、書上候。 南側空地、表京間十間、裏幅同断、西ノ方裏行四間、東之方同二間。 右ハ惣下水サライ候節、土揚場ニ支配仕来候。 (『洞房古鑑』)  浚いによる揚げ土が大量に溜まると、今度はそれを処分する必要があります。溜まった揚げ土を処分する為に不必要に巨大なお歯黒どぶを埋めたのではないかとも思っています。  幕府によって許可された遊郭は江戸の吉原に限りません。京都にも大坂にも長崎にもありました。江戸以外のことは知りませんのでわかりませんが、下水はすべての遊郭に必要です。特に、埋立てる必要のない土地に成立した遊郭にも、吉原同様必要以上に大きな下水が作られているのであれば、江戸の新吉原を含めて「遊女の逃亡を防ぐ目的」であったといえましょう。その場合私の想像は単なる妄想にすぎなかったことになります。さてどうなのでしょうか。      落語の中の言葉一覧へ ]]> <![CDATA[      古今亭志ん生「首ったけ」より

 かつて、落語の中の言葉80「お歯黒」続で、
「首ったけ」(五代目古今亭志ん生)でお歯黒どぶのことを「あのお歯黒どぶてものは、汚ねのなんのって、真っ黒だから、お歯黒に似ているからお歯黒どぶという」といっているが、二千人以上の遊女がお歯黒をするのであるからどぶが真っ黒になって当然である。
と書きました。今回はこの「お歯黒どぶ」をとりあげます。

おはぐろどぶというのは、新吉原の周辺にある幅五間(のちに三間)ほどの下水をいう。廓の遊女が鉄漿を用いた残りを、窓からこの溝に捨てたので、水の色が鉄漿色になったのに由来するとされている。鉄漿も流れこんだであろうが、そのほかの汚物も流れたまったのであろう。汚くてとうてい泳いで渡ることなどできなかったという。遊女の逃亡を防ぐ手段である。新吉原への出入は大門だけに限られたのである。もっとも、非常用には九ヵ所に刎ね橋が備えてあったが、ふだんはあげてあって、大門だけが唯一の通路であった。(石井良助『吉原』)

 お歯黒どぶに面して建物があるのは京町と伏見町くらいで、それ以外の町は、お歯黒どぶへは面していません。東西の河岸通りは道幅が四・五間もあり、河岸見世でも窓から道の向こうにあるどぶへ投げ捨てることはできません。また江戸の下水には屎尿は流しません。(落語の中の言葉246「どぶ(下水)」
 新吉原ではゴミと屎尿は毎朝搬出していたそうです。

吉原では不浄なものは、長く置かなかった。その日に出た不浄物は翌朝早く廓外に運び出してしまう。
人間社会の廃棄物、悪臭を放つゴミ、不用な物品をためておくゴミ溜がない。
  わいだめもはきだめもない五丁町(柳多留八十五)
わいだめとは思慮分別をいう。わいだめとははきだめの語呂を合わせた句案であって、吉原に遊ぶ人々は思慮分別がなく、その吉原には、江戸の町屋敷には必ず設備してあった掃溜がない。
 人間の生理上の老廃物である不潔な糞尿も、その日のものは翌朝早く遊客が来る前に廓外へ搬出してしまう。
  大門をおつぴらかせて掃除馬(俳諧觹・嘉永本)
  糞(こ)ひ取に込朝の大門(俳諧觹十九)
  大門を馬も出這る朝朗(あさぼらけ)(みつめぎり)
               (花咲一男『川柳江戸歳時記』)


此吉田屋のお職にて、印(二つ山形一つ星)のおいらん夕霧ときこへしは、神崎一の全盛にて、木地から磨た面屋の木偶、夜光珠の昼見ても、光りのうせぬすがたなり。朝がへりの客を茶屋まで送てかへりしとみへ、〔夕ぎり〕ヲヽつめた。卜はしごを上る。跡より振袖新造〔そらね〕さむそうななりにて、あたまのしらがもとゆひのさき、両ほりを紙にていはえ、おいらんの中をりの駒げたと、じぶんのげたと、さげて来る。 ヲヤもふ、そふじがきたさふだ。いつそ匂ふよ。(山東京伝『青楼昼之世界 錦之裏』寛政三年1791 )


辰時 ものこふ法師ばらうちつれて、はち々々とよひつゝいりもてく、むづかしげなるをけさしになひて、きたなげなる男どもいりくるもみゆ。(以下略) (石川雅望『吉原十二時』刊年未詳)

 『吉原十二時』は吉原の一日を卯から寅の十二時に分けて擬古文で記したもの。十二支で時刻を表していますが、おそらく定時法ではなく時の鐘の時刻と思われます。辰時も午前八時ではなく朝五つの意味でしょう。

 「お歯黒どぶ」は新吉原の惣下水の俗称です。
一 吉原町囲外惣下水之儀、右替地相成候節出来仕候儀御座候、里俗おはぐろどぶと唱申候  (「新吉原町書上」巳九月 安政四年1857)

 日本橋からの所替えの際に惣下水を掘り、その土で田圃に土盛りをして造成しました。そのへんの事情を『洞房古鑑』(宝暦四年1754)から紹介します。
『洞房古鑑』は「江戸町一丁目の轡天満屋竹嶋仁左衛門が、寛延元年1748閏十月名主役に就任したについて、役目執行上参考になるべき古例を集めたものである。」(『随筆百花苑』第十二巻の野間光辰氏の解題)

一 同年(明暦二年)十一月廿七日被召出、金一萬五百両被下置候。内金三百両奈良屋テ請取候。
 本柳町一丁目、間数百廿間一尺六寸分
  金千六百八十三両壹分 銀九匁六分
 同二丁目以下略

 〆金九千八百六拾貳両銀八匁
  残金百廿四両貳分銀五匁一分
  右者茶屋三人分、此金曾所
  残金五百両
  右者惣下水普請料被下付、退置申候。
 都合金一萬五百両
  小間一間付、金十四両ヅヽ割取。
尤當年餘日無之間、来春三月迄引拂可申旨被仰渡候。 

   新 地
一 日本堤ヨリ五十間餘入り、町割有。
一 大門ハ東向定。
一 大門ヨリ水道尻迄百三十五間。
一 江戸町一丁目、二丁目、川岸ヨリ川岸迄百八十間。
一 中之町道幅十間。
一 町々道幅五間。
一 惣堀幅五間、深サ九尺、堀向犬走三尺餘。
明暦三年酉二月下旬ヨリ惣堀ヲホラセ、其土ヲ以二町三町ノ深田ヲ埋、地形ヲ築立候。(以下略)

 「本柳町」とは江戸町のことです。「惣堀幅五間」などとある「間」は京間です。吉原は京間で町割りが行われています。江戸の初期は京間と田舎間の両方が使われていますが、日本橋の本町通り、日本橋通り辺の町割りも京間です。
『洞房古鑑』には江戸町壱丁目西側の家屋敷の伝来に関する記述があり、すべて京間になっています。例えば
江戸町壱丁目西側
明暦三年
一 京間十六間四尺八寸、裏行町並貳拾間。
明暦三年元吉原ヨリ引移候節、喜多川甚右衛門替地請取、其後忰三良右衛門相譲、甚右衛門は致薙髪宗知卜名ヲ改候。


 現在、一間(けん)というと、曲尺(かねじゃく)(三〇・三㎝)で六尺(一八一・八㎝)のことで、これは田舎間とも呼ばれている。だが、この一間=六尺が支配的になるのは、近世の後半ないし近代になってからのことで、近世の初めの段階ではむしろ六尺五寸(一九七㎝)を一間とする京間と呼ばれる間(けん)のほうが、一般に使われていたとみられる。(玉井哲雄『江戸 失われた都市空間を読む』1986)

 惣堀の幅五間は32尺5寸=約9.85m、深さ九尺は約2.7mです。ネット上では五間を9mとするものが多いですが、これは一間=六尺という思い込みからきたもので、誤りです。水は大門口のある北東の一辺から日本堤(吉原土手)の手前にある幅九尺の大下水に繋がっていて、道哲庵(西方寺)の近くで山谷堀に流れ込んでいたようです。江戸の下水へ流すのは雨水と生活雑排水です。「遊女三千人御免の場所」などと云われるように女性が集中している場所で、禿や振袖新造は白歯ですが遊女はお歯黒をしていますから、他の下水とは違っていたと思われます。
 このお歯黒どぶは、時に排水が十分でなく廻りの田圃に溢れることもありました。

一 享保十六年亥1731、龍泉寺門前田畑へ惣下水ノ悪水アフレ候由度々申来付、九月廿八日五丁相談ノ上、江戸町一丁目通り五十間跡裏下水ヨリ向長サ十六間、此度新規樋ヲ付樋ノ蓋車通ル。右十三本鋪申候。

一 延享五年辰1748三月、惣下水田畑ヘアフレ候旨龍泉寺門前ヨリ申来付、五十間道樋此度石ニテ仕直申候。     (『洞房古鑑』)

「どぶ」や下水は浚いが必要です。雨水とともに泥やゴミが流れ込むからです。享保期には大規模な浚いが行われています。
  享保元年1716ヨリ取懸リ、同三年八月浚終申候。金四百両相懸リ候。(同書)

 安永八年1779以降は芸者見番の正六が浚を行っていました。これは芸者見番をたて、そこからでる収益で各種の負担をすることを正六が願出て認められたためです。

一、吉原町男女芸者之儀、前々名主より札相渡、稼為致候処、十七年以前、安永八亥年中、角町家持正六儀、新吉原町附日本堤土手聖天町角四角寺前より、御榜示杭壱丈二尺、馬踏五間、築立、衣紋坂下より御高札塚前通五拾間道、幷大川口際迄地形一式、但石橋より大門口迄之間、道造り、幷吉原町四方惣下水浚、柵堰板修復、水道尻に有之火之見番人給分仕払、右入用手当、吉原町之内男女芸者、遊女屋抱、素人抱、幷自分稼之儀は、其当人より証文取置、雇口引受、男女芸者札数、永々百枚に相極、名題札相渡、以前名主より渡置候名題札は不残引上、稼為致候旨、吉原町名主町人共一同対談相極、為取替、致証文置候通、以後、人数名題札之儀は、定之通百枚に相究、右之高に限、不相増様に致可甲事、(『新吉原町定書』寛政七年1795)

 最初京間五間(=32尺5寸)もあったお歯黒どぶも後には半分以上埋められて狭くなっています。
 
新吉原之図.jpg
    「新吉原之図」

一番広いのは江戸町一丁目の前ですが、それでも一丈五尺(15尺)で当初の半分以下、西河岸で一丈二尺、京町で一丈、羅生門河岸(新町河岸)が七尺、東河岸(江戸町弐丁目河岸)が一番狭く六尺二寸(当初の五間の五分の一以下)、伏見町で七尺です。
 この「新吉原之図」は変なところがあります。総下水の幅です。文字では「壱丈五尺」「六尺弐寸」とか書かれていますが図は同じ幅です。東側の河岸通り「五間三尺五寸」と東河岸の下水幅「六尺二寸」が同じ幅になっています。一方、伏見町の「道巾弐間」、「境町道巾壱丈」はそれなりの幅になっています。おそらく総下水の幅が五間あった頃の図に、その後出来た伏見町と境町道を相当する縮尺で書き加えただけで、それに数字を書き込んだように思われます。
 この「新吉原之図」は、いつのものか判りませんが、伏見町が有って、境町が無くて江戸町弐丁目になっていること、又境町通りが残っていることから、明和六年1767から文化十一年1814の間、又は享和三年1803から文化十一年の間のどちらかでしょう。いづれにしても文化十二年より前にはこれほど狭くなっていました。

 またこれもいつからかは判りませんが、お歯黒どぶには跳ね橋が設置されています。
 
お歯黒どぶはね橋A.jpg
    広重「東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図」より

おはぐろどぶ 寛文の吉原地図によりますと、溝の幅が五間と記してあり、どぶといっても田んぼの余り水を集めたものらしく絵でみますと流れがあったようで、たまり水ではないと考えられます。
 遊女の逃亡を防ぐ目的で作られたものでありますが、後期になってから廓の者の生活の便宜か、或は火災の場合の逃げ道か、はね橋をつけ、次の句によると、ある程度は、その娼家の自由な差配で実用されていたもののようであります。
 ○はねて置鉄漿どぶのわたしがね   (ケイ二六47オ)
 ○おはぐろへ或夜恋路の渡しがね   (樽九六31ウ)
   おはぐろをつける時、はんぞう(耳盥)の上に金属製の板を渡す。この板を、はね橋になぞらえた。
          (花咲一男『川柳 江戸吉原図絵』)

お歯黒どぶに関する川柳にはこの他、次のものがあります。
  おはぐろを越したが跡の六つかしさ   柳多留三二
  おはぐろへ有夜ひそかに恋のはし    柳多留七三
  おはぐろは外泥水は内にあり      柳多留七八

 跳ね橋の数も時代によって違っていたようで、寛政七年1795十二月の『新吉原町遊女屋規定證文』には火災時の避難についての規定のなかに「拾ヶ所の用心口」とあります。

一 出火之節遊女とも為立退方之儀は、兼而最寄之場所其外寺院等方角教置、家内男共幷平生立入候諸商人諸職人等兼而申談置、欠付次第附添、風筋見斗、大門口其外拾ヶ所之用心口ゟ為立退、怪我過チ無之様、常々心懸ケ可申事

 蛇足ながらこの『新吉原町遊女屋規定證文』は新吉原の遊女屋が相談の上まとめた多項目にわたるもので、その最後には「一統厚相守可申候、為後證、連判致置申処、仍如件」として新吉原江戸町壱町目から揚屋町、五拾間道の者まで、さらに年寄役七人が連印し、名主四人が奥印しています。

 ところで気になることがあります。それはお歯黒どぶは「遊女の逃亡を防ぐ目的」で作られたと一般に云われていることです。落語の中の言葉246「どぶ(下水)」でとりあげた通り、江戸の町屋敷の廻りには雨水等を流すため必ず下水があります。町と町の境にも下水があります。道は中央を高くして両側に下水をつくります。新吉原の廓の周りにも下水があって当然です。下水がないことはありえません。お歯黒どぶが流れ込む大下水は幅が9尺しかありませんから、お歯黒どぶもそれ以下の幅で十分なはずです。それなのに幅5間、深さ9尺という巨大なものであることが不自然なので、「遊女の逃亡を防ぐ目的」だろうと思われているのでしょう。しかし、新吉原は田圃に作られた町です。田圃を埋立てるには大量の土が必要です。その土の量をを計算した結果が幅5間、深さ9尺の下水になったのではないかと想像しています。お歯黒どぶを造るために掘り出した土で埋立てるとどのくらいの厚さになるか極大雑把に計算してみました。約1尺2寸でした。田のあぜ道と同じか少し高いくらいでしょうか。土地の造成が済んでしまえばこんな巨大な「どぶ」は必要なくなります。それでどんどん埋められて狭くなったのではないかと思っています。「どぶ」は雨が降れば周りから土やごみが流れ込みますから浚うことが必要で、浚った土を置いておく場所も五十間道の後ろに用意されていました。

一 享保二年酉1717三月十四日、奈良や懸リテ、五十間道空地坪數并入用之譯書上候樣被申渡候付、書上候。
南側空地、表京間十間、裏幅同断、西ノ方裏行四間、東之方同二間。
惣下水サライ候節、土揚場支配仕来候。 (『洞房古鑑』)

 浚いによる揚げ土が大量に溜まると、今度はそれを処分する必要があります。溜まった揚げ土を処分する為に不必要に巨大なお歯黒どぶを埋めたのではないかとも思っています。
 幕府によって許可された遊郭は江戸の吉原に限りません。京都にも大坂にも長崎にもありました。江戸以外のことは知りませんのでわかりませんが、下水はすべての遊郭に必要です。特に、埋立てる必要のない土地に成立した遊郭にも、吉原同様必要以上に大きな下水が作られているのであれば、江戸の新吉原を含めて「遊女の逃亡を防ぐ目的」であったといえましょう。その場合私の想像は単なる妄想にすぎなかったことになります。さてどうなのでしょうか。


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落語 たて長屋の隠居 blog:https://blog.seesaa.jp,9rakugo-fan/510683594
https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/Z20.html 雑話20「火附盗賊改」 Mon, 10 Feb 2025 20:00:07 +0900  前回触れた火附盗賊改について少し紹介します。平松義郎『江戸の罪と罰』には次のようにあります。火付盗賊改は江戸およびその周辺で火付、盗賊およびこれに準ずる「ゆすり」、「かたり」、「ねだり」、もしくは博奕犯を捕え、かつ裁判する警察官的役職である。先手頭一名が本役に任じ、兼任なので加役という。冬の間だけ他の先手頭一名が本役を助け、狭義ではこれを加役という。いずれにしても本務は先手頭なのであるが、これは将軍の親衛隊たる弓、鉄炮隊の長で、これをいわば首都警察に転用したものである。職制.. <![CDATA[  前回触れた火附盗賊改について少し紹介します。 平松義郎『江戸の罪と罰』には次のようにあります。 火付盗賊改は江戸およびその周辺で火付、盗賊およびこれに準ずる「ゆすり」、「かたり」、「ねだり」、もしくは博奕犯を捕え、かつ裁判する警察官的役職である。先手頭一名が本役に任じ、兼任なので加役という。冬の間だけ他の先手頭一名が本役を助け、狭義ではこれを加役という。いずれにしても本務は先手頭なのであるが、これは将軍の親衛隊たる弓、鉄炮隊の長で、これをいわば首都警察に転用したものである。職制上は若年寄支配に属しつつ、裁判については老中に伺う。捜査・逮捕官たることが本務であるから、裁判権はもともとなかったものであろうが、やがて吟味権すなわち審理権が与えられ、仕置権すなわち科刑については専決権は原則としてなく、すべて老中に伺うべきものであった。  町奉行も多くは老中伺いです。 寺社・町・勘定の三奉行や遠国奉行などには、手限(てぎり)仕置、すなわち専決できる刑罰の限度がきめてあります。たとえば、町奉行ですと、中追放までです。それ以上の刑罰を言渡すためには、老中に伺出て、その下知(差図ともいう)を得ることを要します。一件の者のなかに、一人でも、手限仕置のできない者がいると、その一件の者の処刑には(単独犯なら手限で処刑できる者についても)老中に伺出ることが必要だったのです。(石井良助『第五江戸時代漫筆』)  火付盗賊改の沿革は三田村鳶魚氏の『捕物の話』が詳しいので、少し長いものですが紹介します。  口つきがいいので、盗賊火方改と申しておりますが、それよりももっと便利なのは、御先手が加役に勤めることから、加役と言い慣らされているが、『武鑑』には、盗賊火方改と書いてあります。この役はいつはじまったかわかりませんが、慶応二年1866八月四日に、この役が廃されました。(中略) 火付盗賊改は、最初は、火付改、盗賊改といって、二つに分れており、各々一人ずつの役柄になっておりました。それが、元禄度になりまして、博奕改というのが一つ殖えて、丁度分科が三つになりました。享保三年1718の十二月、山川安左衛門といふ人が御役の時に、三科打込みにして、兼帯で勤めることになった。それから、享保十年1725の十二月、進喜太郎という人の御役の時に、博奕改は町奉行の方の掛りになりまして、また一科目減りました。この享保十年から文久元年1861までの間は、従来二人勤めであったのが、一人勤めということになりました。そうして、文久二年1862十二月に、土方八十郎という人の御役の時に、御目付の大久保雄之助という人が任命されまして、享保以来一人勤めであったものが、また定役二人になった。この時に火付盗賊改という役名になって、役高千五百石、布衣ということになりました。布衣と申すと六位相当で、御先手の上座、若年寄支配ということになった。役名がきまり、役高がきまり、格式がきまったのであります。  それまではどうであったかというと、御先手頭の格式で勤めていたので、火付盗賊改の格式というものは別になかった。それでは、御先手頭の格式はどうかというと、今きめられた火付盗賊改の格式と違っていない。ただ、ここで火付盗賊改としての格式がきまったわけなのであります。それと、御先手からきっと勤めるので、加役ということだったのですが、今度はそうでなく、御目付から任命されるということが、従来と変っているところで、文久三年1863八月に、佐久間鐇五郎が御役になって、これからまた一人勤めということになりました。しかし、組下は、前の土方・大久保両人の組をそのままということで、与力二十騎、同心百人、従来は六十人扶持だったのが、この時から百人扶持ということになって、老中支配ということになった。それから、その年の九月に、大久保雄之助が再勤することになりまして、その時格式を上げて、諸大夫ということになった。諸大夫は五位相当ですから、位が一格上ったわけです。この時はじめて役宅が出来ることになったので、それまでは別に役宅というものなしに、めいめいの屋敷をすぐに役宅に使っておった。(以下略) 本役加役図.jpg  火附盗賊改には年間通して勤める「本役」と、冬春の半年ほど勤める狭義の加役(紛らわしいので、ここでは「当分加役」と呼んでおきます)があります。また、火事・盗賊が頻発した際には臨時に増加役が任命されています。寛政後半の本役等を図にすると右のようになります。 本役と当分加役は徳川実紀の記載上では区別できません。期間の違いだけで同等の扱いだったようです。  『続徳川実紀第一篇』によれば、寛政七年1795の長谷川平蔵から森山源五郎への交代は次の通りです。  五月八日森山源五郎孝盛火賊捕盗の事奉はるべしとなり。これは平蔵宣以      病により假に命ぜらる。  五月十六日先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆれされ。久々勤務      により金三枚。時ふく二賞賜あり。  五月廿一日先手筒頭森山源五郎孝盛捕盗の事命ぜらる。  塩入大三郎から池田雅次郎への交代は、塩入が病のため、当分加役を勤めていた池田が本役となり、当分加役の跡を大久保甚兵衛が任命されています。『続徳川実紀第一篇』の記載は次の通りです。  寛政八年1796十二月廿九日 先手筒頭塩入大三郎利恭病により捕盗の事免さ    れ。池田雅次郎政貞もて命ぜられ。大久保甚兵衛忠良同じく命ぜらる 池田雅次郎は享和元年1801五月朔日禁裏附へ転役するまで火附盗賊改本役を勤めています。  当分加役長谷川半四郎の任免は 寛政六年十月朔日  先手筒頭長谷川半四郎佑正火賊捕盗の事命ぜらる 寛政七年三月晦日  先手筒頭長谷川半四郎佑正捕盗のことゆるさる  一方、増加役三上因幡守の任免の記載は以下の通りです。 寛政九年十二月朔日 先手弓頭三上因幡守季寛に伝へしは。此ころ火災多き  故。所属市中昼夜となく巡視し。あやしげなるもの見及はゞ。武家地など  へ入とも召捕ふべしとなり 寛政十年正月十二日 先手弓頭三上因幡守季寛捕盗の事免さる  『続徳川実紀』には「長谷川平蔵宣以」とありますが、「平蔵」は通称、「宣以」は本名です。他人が人の本名を呼ぶことは甚だ非礼とされていましたから、通常は通称を使います。このことは落語の中の言葉49「寿限無」でも触れました。本人が提出した正式書類でも本名でなく通称を使っています。その例は、公開済みのブログでいえは、落語の中の言葉69「乗物」の遠山金四郎の駕籠願いと、雑話07「大江戸の正体」正誤2の大田南畝(本名覃、通称直次郎)の由緒書があります。ただ同じ通称を代々使う家もありますので歴史書等では特定できるように本名を添えています。何代も同じ通称を使った例は岡本玄冶に見られます(落語の中の言葉258「玄冶店」)。長谷川平蔵宣以の場合も、父親の宣雄が通称に平蔵を使っています。  明和八年十月十七日 先手頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる                   (『徳川実紀』第十篇) 町年寄から名主等への通知は通称のみです。  明和八年十月十八日   当分御加役長谷川平蔵様被仰付、御屋敷本所三ツ目、御役羽織御紋所、   前印長之字、後(印は略)      (『江戸町触集成』第七巻) 遠山の金さんで有名な遠山景元の通称「金四郎」も同様で、父親の景晋も「金四郎」と称しています。  享和二年1802三月十七日 徒頭遠山金四郎景晋目付となる                       (『続徳川実紀』第一篇)  文政二年1819九月二十四日 作事奉行遠山左衛門尉勘定奉行となる                       (『続徳川実紀』第二篇)  一方、金さんは、  文政八年1826十一月七日 けふ小納戸に入るもの四十五人。……勘定奉行   遠山左衛門尉孫金四郎……        (『続徳川実紀』第二篇)  文政十二年四月十九日 遠山左衛門尉孫西城小納戸金四郎。はじめ。父致   仕して子家つぐもの二十二人。左衛門尉は養老料三百苞を賜ふ                       (『続徳川実紀』第二篇)  従五位下に叙位されて官名がつくと通称に換えて官名が使われます。武士の官名は越前守・肥前守など「〇〇守」が多いのですが、その他に右近将監・主殿頭・式部少輔・内匠頭など多数あり、左衛門尉もその一つです。 なお、「遠山左衛門尉孫金四郎」と「孫」となっていますが家督相続の事情からで、景元は景晋の実子です。その事情は火附盗賊改と無関係のため省略します。  また、新たに火附盗賊改になった者を町役人へ知らせる町年寄からの通知に屋敷の場所がありますが、それは火附盗賊改が御先手の加役から独立した役になって、役屋敷が出来たのが廃止になる少し前で、それまでは先手頭の居屋敷を役所にしていたためです。また、役羽織の紋所が通知に加わったのは宝暦十三年1763正月の本多采女からです。  火附盗賊改の与力同心は交代が頻繁です。そのため偽者もあったようで、身分証明となる札がありました。 正徳三年1713巳九月十八日 一火方盗賊御改佐久間小左衛門様之御跡役、阿部四郎兵衛様御附被成、御屋敷牛込御門之内 同日    奈良屋ニ而町々名主江被申渡 一此度阿部四郎兵衛様、火付盗賊御改被仰付候ニ付、町々名主方江、合印札壱枚ツヽ御渡被成候旨ニ而、 則合印札請取、左之文言ニ而、奈良屋之帳面江名主致判形、尤左之書面、同日樽屋ニ而月行持写之      覚 此度阿部四郎兵衛、火附盗賊改被仰付候、依之組之者并家来之内御用向之儀有之、町方江吟味等指出候節、判鑑為持可出之候、依之合印壱枚宛名主共方江渡し置候間、若組之者、又ハ家来等ニ似せ候而怪敷者、町方令徘徊候ハヽ、判鑑令吟味、合印所持不致者ニ候ハヽ召捕、早速四郎兵衛方江召連可申候、隠置脇より相知候ハヽ、其所之者可為越度候  右之趣、町々名主共被召寄、支配々々江申聞せ置候様可申渡候、以上    巳九月 火附盗賊改判鑑.jpg          合印の画 正徳五年未八月十八日  阿部四郎兵衛樣御役御免ニ付、此節右御合印、奈良屋江指出申候 (『江戸町触集成』第三巻) 享保十一年1726午正月五日    樽屋江年番名主被呼、左之御書付之趣、町々江可申通旨被申渡 一今度加役被仰付候ニ付、組之与力同心不限昼夜、不時ニ町中裏々迄可相廻候、就夫、若吟味ニ事寄、権威ケ間敷躰之者歟、少し成共貪ケ間敷事申掛候躰之者候ハヽ、其所ニ止置、早々此方江可申来候、此方ゟ不求候ニ、先々ニ而しいて馳走ケ間敷儀致候歟、少成共賄賂ケ間敷事致者有之候ハヽ、直ニ召捕候様ニ申渡置候、不限何事、訴訟願之儀ハ直ニ役所江可告来候事ニ候得ハ、内々ニ而組之者如何様之少事たり共可相願儀有之間敷事ニ候、尤組之者江も堅申付候間、組之者縱取次自分計ひニ而宜様可取持と申者有之候共、必々許容有之間敷事ニ候間、兼而申触置候家来之もの之儀ハ、曾而御用之筋江不差寄事ニ候間、右之品ニ事寄、偽者有之候ハヽ、早々役所江召連可罷出候、且又役所江致出入候者と号、如何様之事ニ而も、取持可申躰申族有之候共、少も用申間敷候、しいて品を栫候者在之候ハヽ実敷存候共、早々役所江召連可罷出者也   十二月       進 喜太郎   (『江戸町触集成』第四巻)  わざわざこうした書付を出しているということは、こうしたことが行われていたからでしょう。 その後、町奉行所の同心も同様に印を所持することになったようです。 天明八年1788八月 近頃所々ニ似セ役躰之者多有之、其上廻り方名前を申、傘挑灯下駄等借受候義有之由及承候、依之此度廻り方拾人印鑑致し、町々自身番屋江相渡置候間、急雨之節、此方共傘下駄又は夜分挑灯等借請候節は、右印鑑ニ引合セ用立候様、兼而町役人江被相達候様致度、尤此書面自身番屋江張置候ニは不及候間、此段御達し可有之候、以上   八月廿七日       南定廻り 四人       臨時廻り 四人       夜廻り  弐人         南北小囗年番名主中  (『江戸町触集成』第八巻) 寛政元年1789二月 昨廿八日惣年番名主信濃守様御番所江被召出、御年番安藤源助殿被申渡候は、御用先ニ而御組之衆中名主并月行事持之場所江被参、雨具挑灯等被借請候節別紙印鑑ニ引合用立候様致、印鑑無之衆中江は決而用立申間敷旨被仰渡候間、右之通証文御取御渡し被成候、依之右印鑑壱枚ツヽ御渡申候、前書之通御承知可被成候、且又昨日源助殿御口上ニ而被申聞候は、右御組与力衆家来抔雨具挑灯等借請ニ参候共、決而用立申間鋪候、達而彼是申候ハヽ其者留置御番所へ御訴可申上候、勿論右之通取計候義名主共迷惑ニ存候者は御年番江申上御差図可請候、是又被仰渡候ニ付此段御達申候、已上  但、右之趣北御番所江も相伺候様被仰渡候ニ付罷越候所、是は追而御渡可被成旨被仰渡候   二月廿九日  朱書 「信濃守様御番所御廻り衆中ゟ去申年八月中御渡被置候印鑑、来ル廿九日迄年番方江可遣旨、引替之積り通達」 御番所印形.jpg        雑話一覧へ 追補 火附盗賊改のうち一年を通して勤める「本役」は寛政期には任期が一年だったようです。 長谷川平蔵宣以は天明八年1788十月から寛政七年1795五月まで本役を勤めていますが『続徳川実紀』には次のように記載されています。 天明八年十月二日  先手頭長谷川平蔵宣以盗賊捕獲命ぜらる (寛政元年の十月には記載なし) 寛政二年十月十六日 先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗の事その儘勤むべしと           命ぜらる 寛政三年十月廿一日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗期月といへど明の           年十月まで勤よと命ぜらる 寛政四年十月十九日 先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗加役の事。明の年三月           (十月の誤りか)まで勤べしと命ぜらる 寛政五年十月十二日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗の事。明の年十月           まで勤べしと命ぜらる 寛政六年十月十三日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗命ぜらる 寛政七年五月十六日 先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ。           久々勤務により金三枚。時ふく二賞賜あり  同じくこの時期に長期間本役を勤めたもう一人の池田雅次郎も同様に 寛政八年十二月廿九日 先手筒頭塩入大三郎利恭病により捕盗の事免され。            池田雅次郎政貞もて命ぜられ。大久保甚兵衛忠良            同じく命ぜらる 寛政九年十二月十二日 先手筒頭池田雅次郎政貞捕盗の事命ぜらる 寛政十年十二月十二日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事命ぜらる 寛政十一年十二月九日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事。明の年十            二月迄勤べしと命ぜらる 寛政十二年十二月八日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事命ぜらる 享和元年五月朔日   先手筒頭火賊捕盗奉はりし池田雅次郎政貞             禁裏附となり。納戸組頭長崎源之助元良西城の同            じ頭となる  この時期だけのことかどうかは判りませんが、任期一年が更新更新で長期間になっていたことを説明したものを見かけませんのであげておきます。 ]]> <![CDATA[
 前回触れた火附盗賊改について少し紹介します。

平松義郎『江戸の罪と罰』には次のようにあります。

火付盗賊改は江戸およびその周辺で火付、盗賊およびこれに準ずる「ゆすり」、「かたり」、「ねだり」、もしくは博奕犯を捕え、かつ裁判する警察官的役職である。先手頭一名が本役に任じ、兼任なので加役という。冬の間だけ他の先手頭一名が本役を助け、狭義ではこれを加役という。いずれにしても本務は先手頭なのであるが、これは将軍の親衛隊たる弓、鉄炮隊の長で、これをいわば首都警察に転用したものである。職制上は若年寄支配に属しつつ、裁判については老中に伺う。捜査・逮捕官たることが本務であるから、裁判権はもともとなかったものであろうが、やがて吟味権すなわち審理権が与えられ、仕置権すなわち科刑については専決権は原則としてなく、すべて老中に伺うべきものであった。

 町奉行も多くは老中伺いです。


寺社・町・勘定の三奉行や遠国奉行などには、手限(てぎり)仕置、すなわち専決できる刑罰の限度がきめてあります。たとえば、町奉行ですと、中追放までです。それ以上の刑罰を言渡すためには、老中に伺出て、その下知(差図ともいう)を得ることを要します。一件の者のなかに、一人でも、手限仕置のできない者がいると、その一件の者の処刑には(単独犯なら手限で処刑できる者についても)老中に伺出ることが必要だったのです。(石井良助『第五江戸時代漫筆』)

 火付盗賊改の沿革は三田村鳶魚氏の『捕物の話』が詳しいので、少し長いものですが紹介します。


 口つきがいいので、盗賊火方改と申しておりますが、それよりももっと便利なのは、御先手が加役に勤めることから、加役と言い慣らされているが、『武鑑』には、盗賊火方改と書いてあります。この役はいつはじまったかわかりませんが、慶応二年1866八月四日に、この役が廃されました。(中略)
火付盗賊改は、最初は、火付改、盗賊改といって、二つに分れており、各々一人ずつの役柄になっておりました。それが、元禄度になりまして、博奕改というのが一つ殖えて、丁度分科が三つになりました。享保三年1718の十二月、山川安左衛門といふ人が御役の時に、三科打込みにして、兼帯で勤めることになった。それから、享保十年1725の十二月、進喜太郎という人の御役の時に、博奕改は町奉行の方の掛りになりまして、また一科目減りました。この享保十年から文久元年1861までの間は、従来二人勤めであったのが、一人勤めということになりました。そうして、文久二年1862十二月に、土方八十郎という人の御役の時に、御目付の大久保雄之助という人が任命されまして、享保以来一人勤めであったものが、また定役二人になった。この時に火付盗賊改という役名になって、役高千五百石、布衣ということになりました。布衣と申すと六位相当で、御先手の上座、若年寄支配ということになった。役名がきまり、役高がきまり、格式がきまったのであります。
 それまではどうであったかというと、御先手頭の格式で勤めていたので、火付盗賊改の格式というものは別になかった。それでは、御先手頭の格式はどうかというと、今きめられた火付盗賊改の格式と違っていない。ただ、ここで火付盗賊改としての格式がきまったわけなのであります。それと、御先手からきっと勤めるので、加役ということだったのですが、今度はそうでなく、御目付から任命されるということが、従来と変っているところで、文久三年1863八月に、佐久間鐇五郎が御役になって、これからまた一人勤めということになりました。しかし、組下は、前の土方・大久保両人の組をそのままということで、与力二十騎、同心百人、従来は六十人扶持だったのが、この時から百人扶持ということになって、老中支配ということになった。それから、その年の九月に、大久保雄之助が再勤することになりまして、その時格式を上げて、諸大夫ということになった。諸大夫は五位相当ですから、位が一格上ったわけです。この時はじめて役宅が出来ることになったので、それまでは別に役宅というものなしに、めいめいの屋敷をすぐに役宅に使っておった。(以下略)

本役加役図.jpg

 火附盗賊改には年間通して勤める「本役」と、冬春の半年ほど勤める狭義の加役(紛らわしいので、ここでは「当分加役」と呼んでおきます)があります。また、火事・盗賊が頻発した際には臨時に増加役が任命されています。寛政後半の本役等を図にすると右のようになります。


本役と当分加役は徳川実紀の記載上では区別できません。期間の違いだけで同等の扱いだったようです。

 『続徳川実紀第一篇』によれば、寛政七年1795の長谷川平蔵から森山源五郎への交代は次の通りです。


 五月八日森山源五郎孝盛火賊捕盗の事奉はるべしとなり。これは平蔵宣以

     病により假に命ぜらる。

 五月十六日先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆれされ。久々勤務

     により金三枚。時ふく二賞賜あり。

 五月廿一日先手筒頭森山源五郎孝盛捕盗の事命ぜらる。


 塩入大三郎から池田雅次郎への交代は、塩入が病のため、当分加役を勤めていた池田が本役となり、当分加役の跡を大久保甚兵衛が任命されています。『続徳川実紀第一篇』の記載は次の通りです。

 寛政八年1796十二月廿九日 先手筒頭塩入大三郎利恭病により捕盗の事免さ

   れ。池田雅次郎政貞もて命ぜられ。大久保甚兵衛忠良同じく命ぜらる


池田雅次郎は享和元年1801五月朔日禁裏附へ転役するまで火附盗賊改本役を勤めています。


 当分加役長谷川半四郎の任免は

寛政六年十月朔日  先手筒頭長谷川半四郎佑正火賊捕盗の事命ぜらる

寛政七年三月晦日  先手筒頭長谷川半四郎佑正捕盗のことゆるさる


 一方、増加役三上因幡守の任免の記載は以下の通りです。

寛政九年十二月朔日 先手弓頭三上因幡守季寛に伝へしは。此ころ火災多き

 故。所属市中昼夜となく巡視し。あやしげなるもの見及はゞ。武家地など

 へ入とも召捕ふべしとなり

寛政十年正月十二日 先手弓頭三上因幡守季寛捕盗の事免さる


 『続徳川実紀』には「長谷川平蔵宣以」とありますが、「平蔵」は通称、「宣以」は本名です。他人が人の本名を呼ぶことは甚だ非礼とされていましたから、通常は通称を使います。このことは落語の中の言葉49「寿限無」でも触れました。本人が提出した正式書類でも本名でなく通称を使っています。その例は、公開済みのブログでいえは、落語の中の言葉69「乗物」の遠山金四郎の駕籠願いと、雑話07「大江戸の正体」正誤2の大田南畝(本名覃、通称直次郎)の由緒書があります。ただ同じ通称を代々使う家もありますので歴史書等では特定できるように本名を添えています。何代も同じ通称を使った例は岡本玄冶に見られます(落語の中の言葉258「玄冶店」)。長谷川平蔵宣以の場合も、父親の宣雄が通称に平蔵を使っています。


 明和八年十月十七日 先手頭長谷川平蔵宣雄盗賊考察を命ぜらる

                  (『徳川実紀』第十篇)

町年寄から名主等への通知は通称のみです。

 明和八年十月十八日

  当分御加役長谷川平蔵様被仰付、御屋敷本所三ツ目、御役羽織御紋所、

  前印長之字、後(印は略)      (『江戸町触集成』第七巻)


遠山の金さんで有名な遠山景元の通称「金四郎」も同様で、父親の景晋も「金四郎」と称しています。

 享和二年1802三月十七日 徒頭遠山金四郎景晋目付となる

                      (『続徳川実紀』第一篇)

 文政二年1819九月二十四日 作事奉行遠山左衛門尉勘定奉行となる

                      (『続徳川実紀』第二篇)

 一方、金さんは、

 文政八年1826十一月七日 けふ小納戸に入るもの四十五人。……勘定奉行

  遠山左衛門尉金四郎……        (『続徳川実紀』第二篇)

 文政十二年四月十九日 遠山左衛門尉西城小納戸金四郎。はじめ。父致

  仕して子家つぐもの二十二人。左衛門尉は養老料三百苞を賜ふ

                      (『続徳川実紀』第二篇)


 従五位下に叙位されて官名がつくと通称に換えて官名が使われます。武士の官名は越前守・肥前守など「〇〇守」が多いのですが、その他に右近将監・主殿頭・式部少輔・内匠頭など多数あり、左衛門尉もその一つです。

なお、「遠山左衛門尉金四郎」と「孫」となっていますが家督相続の事情からで、景元は景晋の実子です。その事情は火附盗賊改と無関係のため省略します。


 また、新たに火附盗賊改になった者を町役人へ知らせる町年寄からの通知に屋敷の場所がありますが、それは火附盗賊改が御先手の加役から独立した役になって、役屋敷が出来たのが廃止になる少し前で、それまでは先手頭の居屋敷を役所にしていたためです。また、役羽織の紋所が通知に加わったのは宝暦十三年1763正月の本多采女からです。

 火附盗賊改の与力同心は交代が頻繁です。そのため偽者もあったようで、身分証明となる札がありました。


正徳三年1713巳九月十八日

一火方盗賊御改佐久間小左衛門様之御跡役、阿部四郎兵衛様御附被成、御屋敷牛込御門之内


同日

   奈良屋而町々名主被申渡

一此度阿部四郎兵衛様、火付盗賊御改被仰付候付、町々名主方、合印札壱枚ツヽ御渡被成候旨而、

則合印札請取、左之文言而、奈良屋之帳面名主致判形、尤左之書面、同日樽屋而月行持写之

     覚

此度阿部四郎兵衛、火附盗賊改被仰付候、依之組之者并家来之内御用向之儀有之、町方吟味等指出候節、判鑑為持可出之候、依之合印壱枚宛名主共方渡し置候間、若組之者、又家来等似せ候而怪敷者、町方令徘徊候ハヽ、判鑑令吟味、合印所持不致者ハヽ召捕、早速四郎兵衛方召連可申候、隠置脇より相知候ハヽ、其所之者可為越度候

 右之趣、町々名主共被召寄、支配々々申聞せ置候様可申渡候、以上

   巳九月



火附盗賊改判鑑.jpg
          合印の画


正徳五年未八月十八日

 阿部四郎兵衛樣御役御免付、此節右御合印、奈良屋指出申候 (『江戸町触集成』第三巻)


享保十一年1726午正月五日

   樽屋年番名主被呼、左之御書付之趣、町々可申通旨被申渡

一今度加役被仰付候付、組之与力同心不限昼夜、不時町中裏々迄可相廻候、就夫、若吟味事寄、権威間敷躰之者歟、少し成共貪間敷事申掛候躰之者候ハヽ、其所止置、早々此方可申来候、此方ゟ不求候、先々而しいて馳走間敷儀致候歟、少成共賄賂間敷事致者有之候ハヽ、直召捕候様申渡置候、不限何事、訴訟願之儀役所可告来候事候得、内々而組之者如何様之少事たり共可相願儀有之間敷事候、尤組之者も堅申付候間、組之者縱取次自分計ひ而宜様可取持と申者有之候共、必々許容有之間敷事候間、兼而申触置候家来之もの之儀、曾而御用之筋不差寄事候間、右之品事寄、偽者有之候ハヽ、早々役所召連可罷出候、且又役所致出入候者と号、如何様之事而も、取持可申躰申族有之候共、少も用申間敷候、しいて品を栫候者在之候ハヽ実敷存候共、早々役所召連可罷出者也

  十二月       進 喜太郎   (『江戸町触集成』第四巻)


 わざわざこうした書付を出しているということは、こうしたことが行われていたからでしょう。


その後、町奉行所の同心も同様に印を所持することになったようです。


天明八年1788八月

近頃所々役躰之者多有之、其上廻り方名前を申、傘挑灯下駄等借受候義有之由及承候、依之此度廻り方拾人印鑑致し、町々自身番屋相渡置候間、急雨之節、此方共傘下駄又は夜分挑灯等借請候節は、右印鑑引合用立候様、兼而町役人被相達候様致度、尤此書面自身番屋張置候は不及候間、此段御達し可有之候、以上

  八月廿七日

      南定廻り 四人

      臨時廻り 四人

      夜廻り  弐人

        南北小囗年番名主中  (『江戸町触集成』第八巻)


寛政元年1789二月

昨廿八日惣年番名主信濃守様御番所被召出、御年番安藤源助殿被申渡候は、御用先而御組之衆中名主并月行事持之場所被参、雨具挑灯等被借請候節別紙印鑑引合用立候様致、印鑑無之衆中は決而用立申間敷旨被仰渡候間、右之通証文御取御渡し被成候、依之右印鑑壱枚ツヽ御渡申候、前書之通御承知可被成候、且又昨日源助殿御口上而被申聞候は、右御組与力衆家来抔雨具挑灯等借請参候共、決而用立申間鋪候、達而彼是申候ハヽ其者留置御番所へ御訴可申上候、勿論右之通取計候義名主共迷惑存候者は御年番申上御差図可請候、是又被仰渡候付此段御達申候、已上

 但、右之趣北御番所も相伺候様被仰渡候付罷越候所、是は追而御渡可被成旨被仰渡候

  二月廿九日

 朱書

「信濃守様御番所御廻り衆中ゟ去申年八月中御渡被置候印鑑、来ル廿九日迄年番方可遣旨、引替之積り通達」


御番所印形.jpg




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追補
火附盗賊改のうち一年を通して勤める「本役」は寛政期には任期が一年だったようです。
長谷川平蔵宣以は天明八年1788十月から寛政七年1795五月まで本役を勤めていますが『続徳川実紀』には次のように記載されています。

天明八年十月二日  先手頭長谷川平蔵宣以盗賊捕獲命ぜらる
(寛政元年の十月には記載なし)
寛政二年十月十六日 先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗の事その儘勤むべし
          命ぜらる
寛政三年十月廿一日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗期月といへど明の
          年十月まで勤よと命ぜらる
寛政四年十月十九日 先手弓頭長谷川平蔵宣以捕盗加役の事。明の年三月
          (十月の誤りか)まで勤べしと命ぜらる
寛政五年十月十二日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗の事。明の年十月
          まで勤べしと命ぜらる
寛政六年十月十三日 先手弓頭長谷川平蔵宣以火賊捕盗命ぜらる
寛政七年五月十六日 先手弓頭長谷川平蔵宣以病により捕盗の事ゆるされ。
          久々勤務により金三枚。時ふく二賞賜あり

 同じくこの時期に長期間本役を勤めたもう一人の池田雅次郎も同様に

寛政八年十二月廿九日 先手筒頭塩入大三郎利恭病により捕盗の事免され。
           池田雅次郎政貞もて命ぜられ。大久保甚兵衛忠良
           同じく命ぜらる
寛政九年十二月十二日 先手筒頭池田雅次郎政貞捕盗の事命ぜらる
寛政十年十二月十二日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事命ぜらる
寛政十一年十二月九日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事。明の年十
           二月迄勤べしと命ぜらる
寛政十二年十二月八日 先手筒頭池田雅次郎政貞火賊捕盗の事命ぜらる
享和元年五月朔日   先手筒頭火賊捕盗奉はりし池田雅次郎政貞 
           禁裏附となり。納戸組頭長崎源之助元良西城の同
           じ頭となる

 この時期だけのことかどうかは判りませんが、任期一年が更新更新で長期間になっていたことを説明したものを見かけませんのであげておきます。
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雑話 たて長屋の隠居 blog:https://blog.seesaa.jp,9rakugo-fan/510125894
https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/Z19.html 雑話19「江戸で暮らす」補正・下 Mon, 20 Jan 2025 19:51:06 +0900 ********************************* 139 正保期(一六四〇年代半ば)、神田の堀丹後守屋敷前の通称 ** 「丹前風呂」に勝山・市野・采女という人気の湯女が相ついで ** 現われた。旗本奴や、男伊達が売り物の町奴らが客となって競 ** い合い、ついに承応二年(一六五三)、両者は大ゲンカとなった。** 幕府は遊廓復興のため、この機会を逃さず湯女風呂の廃業を命 ** じた。人気の湯女だった勝山らは吉原に鞍替えさせられた。  *************.. <![CDATA[ ******************************** * 139 正保期(一六四〇年代半ば)、神田の堀丹後守屋敷前の通称 * * 「丹前風呂」に勝山・市野・采女という人気の湯女が相ついで * * 現われた。旗本奴や、男伊達が売り物の町奴らが客となって競 * * い合い、ついに承応二年(一六五三)、両者は大ゲンカとなった。* * 幕府は遊廓復興のため、この機会を逃さず湯女風呂の廃業を命 * * じた。人気の湯女だった勝山らは吉原に鞍替えさせられた。  * ********************************  湯女風呂の禁止は明暦三年1657六月です。 一跡々より度々町中風呂屋共ニ申渡候通、吉原町御立被成候ニ付、弥当月十六日切ニ遊女之分町中御払被成候、自今以後風呂屋ニ遊女隠置候ハヽ、五人組は不及申、其壱町之者ニ相懸り可被成候間、町中致僉議、若只今迄隠置候遊女有之候ハヽ早々払可申候、少も相背申間敷者也   (明暦三年)酉六月      (『江戸町触集成』第一巻) この湯女風呂の禁止は、吉原所替えに対する優遇条件の一つでした。 一 明暦二年申十月九日、吉原町年寄共、石谷將監様、榊尾備前守様御立合ニテ、此度吉原町御用地ニ罷成候間、所替被為仰付候。代地は川向本庄、日本堤両所之内御願可申上被仰渡、猶亦御慈悲ヲ以、所徳数多下サレ候。 第一、引料金子一萬五百両被下候。第二、遠方へ被遣候ニ付、向後夜之商売御免被遊候。第三、所々ニ有之候風呂屋売女共御潰シ、以後堅ク御停止ニ被仰付候。第四、代地只今ノ地面ニ五割増シ、二町ニ三町被下候。第五、跡火消ノ町役御免被遊候間、難有可奉存旨、將監様被仰渡候。其後五町相談之上、日本堤可然ニ相定リ、其段御訴申上候得者、同八月御見分有之、両御奉行、町年寄、地割方御立合ニテ、今少箕輪ノ方江寄候ヲ土手ノ上ニテ御願申上、一町程金龍山之方へ御寄、御榜示杭御立被下候。     (竹嶋仁左衛門『洞房古鑑』宝暦四年1754)  この時禁止された湯女風呂の多くは茶屋と姿を変え、相変わらず隠売女商売を続けています。それが取締り強化により大挙して吉原へ入ったのは寛文八年1668のことです。  また勝山の吉原入りについて、庄司又左衛門『異本洞房語園』享保五年1720には次ぎように書かれています。 承応明暦(1652-57)の頃、新町山本芳順が家に、かつ山といふ太夫ありし。元は神田の丹後殿前、紀国風呂市郎兵衛といふもの方に居りし、風呂屋女なりしが、其頃風呂屋女御停止にて、かつ山も親里へ帰り、又吉原芳順方へ勤に出たり。髪は白き元結にて、片曲のだて結び勝山風とて今にすたらず。揚屋は大門口多右衛門にて、始て勤に出る日、吉原五町中の太夫格子の名とり共、勝山を見んとて、中の町の両側に群り居たりける。始ての道中なれ共、遊女の揚屋通ひの、八文字を蹈て、通りし粧ひ、(遊女の揚屋通ひの往来を、ドウチウと云。)器量おし立、又双びなく見へしと。全盛は其頃廓第一と、きこへたり。(以下略) ********************************* * 145宿場の伝馬負担の代償策もあり、享保三年(一七一八)、旅籠 * * 一軒につき二人の飯盛女を置くのを許した。ただし江戸四宿は例 * * 外として品川に五百人、新宿・千住・板橋に各百五十人の飯盛女 * * (宿場女郎)を許可した。                  * *********************************  古くは飯盛女は禁止されていましいた。 万治三年1660十一月八日 この日諸駅に令せらるゝは。高札の旨。其他令制違犯のものあらば。各駅の役人。其日の行事曲事たるべし。こたび添札の旨を守り。毎駅にてかしこみ。いよいよゆきゝの輩。風雨の時も官用はいふまでもなし。卑賤の者たりとも疎略をなさす。人馬とゞこほりなく出すべし。博徒その他無頼のもの。をこたりなく査検すべし。娼婦を蓄をくべからす。もしかゝへをかば。其女其地の守護人。代官にうたへ出べし。上より探索ありて露顕せば。娼婦も曲事に行はれ。里正。役人等まで悉同罪たるべし。(以下略)    (『厳有院殿御実紀巻二十』) 享保三年の御触の内容は ①内藤新宿の宿場廃止 ②北品川新町・善福寺と法禅寺の門前町屋にある茶屋の食売女禁止再触  品川宿の食売女一軒に二人まで ③江戸十里四方の宿場の旅籠の食売女も従来通り一軒に二人まで です。 御触書は次の通りです。 享保三戌年1718十月       (一) 内藤新宿之儀、甲州計え之通筋ニて、旅人もすくなく、新宿之儀に候間、向後古来之通宿場相止、家居等も常々百姓町屋にいたし、商売物にて渡世致させ可申候、尤自今猶以猥ニ成義無之様に入念可申付候、右宿場相止候付て、馬次之儀も古来のことく、日本橋より高井土宿馬次に可申付候、新宿運上金不納幷拝借金之儀は追て可被伺候、 一右新宿之旅籠屋共二階座敷之分ハ、不残取彿ハせ可申付候、     以上   十月       (二) 北品川新町幷善福寺法禅寺門前之茶屋町ハ、食売女一切差置間敷旨、去ル未年証文迄申付候処、右之類之女抱置候由不届候、吟味之上右之女ハ親共幷親類え相渡、家主ハ急度過料出させ、戸〆可申付候、且又家居之儀も遂吟味、茶屋町ハ常体之茶屋造りに致させ.二階座敷ハ取佛わセ可申候、 一品川宿之内ニも食売女之外ニ、疑敷女は遂吟味、向後弥弐人宛より外ニハ差置セ申間敷候、   十月       (三) 道中筋旅籠屋之食売女、近年猥ニ人多有之由ニ候、向後江戸十里四方之道中筋ニハ古来之通、旅籠屋壱軒に食売女弐人宛之外ハ、堅差置セ申間敷候、十里外之道中筋旅籠屋も、右に准し可申候以上、   十月             (『御触書寛保集成』) 「古来之通」旅籠屋一軒に二人とありますから、この時初めて許可されたわけではありません。ただ、最初に許可されたがいつなのかが分かりません。江戸府内の茶屋の給仕女についての町触には次のものがあります。 延宝六午年1678十一月 一只今迄有来茶屋之外、一切茶屋為致申間敷候、若茶屋なくして不叶  所候ハヾ、奉行所江訴訟ニ罷出、差図次第ニ可仕事、 一給仕女持来候茶屋之分は、壱軒ニ女弐人ゟ多ハ指置へからす、右之外  妻幷嫁娘なと有之候共、一円馳走ニ出し申間敷候事、   但、みたりに女馳走に出し候ハヽ、則捕之、奉行所江召連候歟、又   は断置、急度申出候様ニ吉原之者共江申付置候間、可存其旨事、 一給仕女不持来茶屋之分ハ、向後弥以、馳走女壱人も不可差置事、 一茶屋女衣装之儀、布木綿之外、堅為着申間敷事、 一茶屋商売之儀、明六ツゟ暮六ツ迄ニ可仕候、日暮候而一切客差置キ申  間敷候、縦日之内たりといふとも、うさん成者茶屋江よせ申間敷候事、 右之趣、堅相守へし、若於致違背ハ、其者之儀ハ不及申、大屋五人組名主ニ至迄、曲事可申付者也、   午十一月朔日        (『江戸町触集成』第一巻)  この御触を『御触書寛保集成』では「道中筋之部」に入れていますので、あるいはこれを指しているのかも知れません。 内藤新宿は日本橋から高井戸までの距離が長いため、元禄十一年1698に新設されましたが、上に掲げた通り享保三年1718に廃止されています。  品川宿の食売女は規定を超して抱えられていて、何度も処罰されています。それが明和元申年1764八月に願いが許され増員されました。この時から宿全体で幾人という形になっています。品川三宿(南北本宿と歩行新宿)500人、板橋・千住は150人ずつです。 その時の宿場の請書は次の通りです。    差上申一札之事 一、品川宿旅籠屋共食売女過人数抱置、去ル巳ノ十一月中御咎メ被仰付候処、一体品川宿ハ泊旅人少ク候共江戸出立幷到着之休多キ場所ニ付、壱人弐人之食売女ニ而ハ手廻り不申段無相違相聞、右旅籠屋共ハ品川宿家持之者共少ク地借之者共ニ付、家業手支地ヲ明店替いたし候も既ニ三拾年程以前ハ旅籠屋百八十軒程有之候処、当時九十軒ニ相成、地主共農人ニ而地代店賃之余力を以宿役相勤候処、右体軒数相減候而者、自然と地主共困窮ニ相成、殊ニ五海道之内ニ而も泊旅人之助成ハ少ク、宿継御用其外宿送り等之取計多、或ハ江戸入継人馬戻之稼無之段無相違、外宿々とハ格別之思召を以、是迄食売女南北品川ニ而、旅籠屋壱軒弐人宛、歩行新宿ハ壱人宛御定法之処、已来本宿新宿之無差別幷壱軒ニ何人と不限、品川三宿食売女都合五百人迄ハ相抱可申旨被仰渡候、 一、板橋千住宿も泊旅人ハ少ク、宿継御用宿送り等之取計多、江戸入継人馬戻之稼無之、殊ニ三拾年程以前ハ板橋ニ七拾三軒、千住宿七拾弐軒有之候処、当時板橋宿ニ七軒、千住宿ニ弐拾弐軒ならでハ無之、自然と右体軒数相減、地主共困窮ニ相成候段無紛ニ付、是又品川宿ニ順シ格別之思召を以、唯今迄本宿壱軒弐人、新宿壱軒ニ壱人宛之処、以来本宿新宿無差別壱軒ニ何人と不限、板橋千住両宿共食売女一宿都合百五拾人迄相抱可申旨被仰渡候。 右者三ヶ宿共格別之御沙汰ニ御座候間、別而宿役無差支様出精仕、勿論食売女過人数不差置、都而御法度可相守旨被仰付難有奉畏候。若相背候ハヾ御咎可被仰付候。 仍御請証文差上申所如件  明和元甲申年1764八月七日              東海道              南品川宿                名主 権次郎印               以下名前省略  道中   御奉行所         (『足立区文化財調査報告書 古文書編一』)  五街道は宿場も含め道中奉行の支配ですから、道中奉行宛になっています。  なお、内藤新宿は元禄十一年1698に新設されましたが、前書の通り享保三年に廃止されていて此の時(明和元年)には存在しません。再興されたのは明和九年1771四月です。また享保三年の御触書の(二)に「北品川新町幷善福寺法禅寺門前之茶屋町」とありますが、ここが享保七年1722に品川宿に加わり、歩行(かち)新宿になりました。そのため明和元年の食売女増員の時点では「品川三宿」(南本宿・北本宿・歩行新宿)となっています。 ********************************* * 201 町奉行の警察権が江戸府内にかぎられていたのに対して、火 * * 盗改は江戸・関東を中心に全国に強権を発動できた。      * * といっても、陣容は与力十騎・同心四十人(のち五十人)で、町 * * 奉行所の半分以下の人員である。               * ********************************* 火付盗賊改に付属する与力同心の人数は定員が無く、人によって違っています。又任期中に増員もあったようです。 盗賊並火付御改(御若年寄衆御支配)  御役扶持四十人フチ外ニ廿人フチ 御先手ヨリ御勤 文政元年1818の武鑑   渡辺孫左衛門  千五百石  与力十キ同心五十人   安藤弾正少弼  八百石   与力六キ同心三十人 天保八年1837の武鑑   朽木弥五左衛門 千石    与力十キ同心五十人   岡部匠内(加役)千石    与力六キ同心三十人 嘉永四年1851の武鑑   水野甲子次郎  四百石   与力十キ同心三十人 火付盗賊改は御先手が加役として勤めるのですが、本務である御先手自体が付属する与力同心の人数に定員がありません。 御先手廿八人 若年寄支配 躑躅間 千五百石 弓八組炮廿組 一組与力五騎至十騎同心三十人至五十人不同     (『吏徴』弘化二年1845) 長谷川平蔵が重病になり、その跡を申し付けられた森山孝盛は『蜑の焼藻の記』巻之下(寛政十年1798)に次のように書いています。 翁が本役被仰たる時、長谷川が跡を可勤由被仰渡たれば、本役には紛レもなし。去間増人を願ひて、与力十騎同心五十人を賜るべしと申出けるに、氏教朝臣、正敦朝臣の了簡にて、長谷川も初め十騎三十人にて勤たり。未だ足不足の所も明らかには知れまじきに、増人を願ふは見越と云ものなり。長谷川が例もあれば、十騎は申に任すべしと有により、翁も心ゆかず思ひながら、ともかくも高慮に任せらるべきことにこそ候へ、本役を相勤候に、わづか三十人ばかりの同心をもて、江戸中の火附盗賊を改め可申様有べきことも不存候。乍然某が物好にて勤候ことにもなく候儘、御用心の行届候はでも不苦候はゞ、如何にも三十人にても不苦候。何れにも上の思召次第にて候条不足して不苦候はゞ、何が扨某が強て大勢を預るべきことにも候はずと云放ちたれば、後には正敦朝臣の余り少くてはいかゞなりとて、同心十人増人を賜りぬ。 註:氏教朝臣=戸田采女正氏教、老中    正敦朝臣=堀田摂津守正敦、若年寄  また火盗改の陣容は「町奉行所の半分以下」とありますが、重松一義『長谷川平蔵の生涯』には次のように記されています。 火付盗賊改.jpg 本文には何の説明もなく忽然とこのページがあり、出処は書かれていません。これによれば、寛政七年頃の人員は与力十騎、同心四十人で、そのうち捜査・捕縛に直接関わるのは与力七騎、同心七人とのことです。内容に疑問がありますが他に資料がないためあげておきます。 寛政六年と七年の武鑑は下の通りです。 火盗改1794&1795.jpg           左寛政七年、右寛政六年 長谷川平蔵と太田運八郎は与力十騎同心三十人で、長谷川半四郎は、与力七騎同心三十人です。『長谷川平蔵の生涯』にある数とは合いません。 一方、町奉行所の与力同心は、延享二年1745から弘化三年1846までは南北各与力25騎、同心120人で広範な業務を行っています。寛政五年1793の与力同心の役名と人数は次の通りです。(南和男『江戸の社会構造』、『南撰要集』七ノ下より)        分掌   与力  同心      本所見廻    2   6      養生所見廻   2   3      牢屋見廻    2   0      吟味方    10  20      高積見廻    2   4      赦帳并撰要懸  5  16      町火消人足改  4   8      江戸向橋掛   2   4      籾蔵定懸    4   4      風烈廻     9   0      例繰懸     7   9      年番      4  10      浅草会所見廻  2   4      定廻      0   8      臨時廻     0  11      隠密廻     0   2        計    55 109  「浅草会所見廻」は土佐守(北町奉行)のみ  与力の合計が定員25を超えているのは、兼務しているため。  同心はこのほかに部屋住見習が11人。 このうちで、捕り物に関わるのは三廻りと呼ばれる定町廻り・臨時廻り・隠密廻りだけです。同心21人のみで、担当与力はいませんが、捕縛の時には与力が検使として付くことがあります。幕末の町奉行所与力で明治新政府への引継ぎを担当した佐久間長敬の『江戸町奉行事蹟問答』には次のようにあります。 問 捕もの制度は如何 答 捕ものは同心の主役にして、与力は検使役なり。同心貸渡しのためにくさり帷子、同鉢巻、すね当、刃ひき刀備あり。同心これを用ひ、羽織を用ひず陣ばしよりの出立なり。 与力検使としての出役は、陣笠・羽織袴にて格式の供立にて、同心捕もの手余りの時は、与力切捨の令を発し、自身も鑓を入て同心を助け働く定法なり。捕へ来る時は、同心の働きを奉行へ具上して功を賞すなり。  与力検役なき平常捕ものは同心臨機の働きなり。  町奉行所の与力同心は町奉行所に所属しているのであって町奉行が変わっても異動しません。抱入席ではありますが、見習いから始めて新規抱入になります。不浄役人とされ転役は原則ありません。いわばその道のプロです。一方、火附盗賊改の与力同心は御先手が本務であって、しかも短期間で交代します。  なお火付盗賊改については、次回採り上げます。          雑話一覧へ ]]> <![CDATA[ ********************************
* 139 正保期(一六四〇年代半ば)、神田の堀丹後守屋敷前の通称 *
* 「丹前風呂」に勝山・市野・采女という人気の湯女が相ついで *
* 現われた。旗本奴や、男伊達が売り物の町奴らが客となって競 *
* い合い、ついに承応二年(一六五三)、両者は大ゲンカとなった。*
* 幕府は遊廓復興のため、この機会を逃さず湯女風呂の廃業を命 *
* じた。人気の湯女だった勝山らは吉原に鞍替えさせられた。  *
********************************

 湯女風呂の禁止は明暦三年1657六月です。
一跡々より度々町中風呂屋共申渡候通、吉原町御立被成候付、弥当月十六日切遊女之分町中御払被成候、自今以後風呂屋遊女隠置候ハヽ、五人組は不及申、其壱町之者相懸り可被成候間、町中致僉議、若只今迄隠置候遊女有之候ヽ早々払可申候、少も相背申間敷者也
  (明暦三年)酉六月      (『江戸町触集成』第一巻)

この湯女風呂の禁止は、吉原所替えに対する優遇条件の一つでした。
一 明暦二年申十月九日、吉原町年寄共、石谷將監様、榊尾備前守様御立合ニテ、此度吉原町御用地罷成候間、所替被為仰付候。代地は川向本庄、日本堤両所之内御願可申上被仰渡、猶亦御慈悲ヲ以、所徳数多下サレ候。
第一、引料金子一萬五百両被下候。第二、遠方へ被遣候付、向後夜之商売御免被遊候。第三、所々有之候風呂屋売女共御潰シ、以後堅ク御停止被仰付候。第四、代地只今ノ地面五割増シ、二町三町被下候。第五、跡火消ノ町役御免被遊候間、難有可奉存旨、將監様被仰渡候。其後五町相談之上、日本堤可然相定リ、其段御訴申上候得者、同八月御見分有之、両御奉行、町年寄、地割方御立合ニテ、今少箕輪ノ方寄候ヲ土手ノ上テ御願申上、一町程金龍山之方へ御寄、御榜示杭御立被下候。     (竹嶋仁左衛門『洞房古鑑』宝暦四年1754)

 この時禁止された湯女風呂の多くは茶屋と姿を変え、相変わらず隠売女商売を続けています。それが取締り強化により大挙して吉原へ入ったのは寛文八年1668のことです。
 また勝山の吉原入りについて、庄司又左衛門『異本洞房語園』享保五年1720には次ぎように書かれています。
承応明暦(1652-57)の頃、新町山本芳順が家に、かつ山といふ太夫ありし。元は神田の丹後殿前、紀国風呂市郎兵衛といふもの方に居りし、風呂屋女なりしが、其頃風呂屋女御停止にて、かつ山も親里へ帰り、又吉原芳順方へ勤に出たり。髪は白き元結にて、片曲のだて結び勝山風とて今にすたらず。揚屋は大門口多右衛門にて、始て勤に出る日、吉原五町中の太夫格子の名とり共、勝山を見んとて、中の町の両側に群り居たりける。始ての道中なれ共、遊女の揚屋通ひの、八文字を蹈て、通りし粧ひ、(遊女の揚屋通ひの往来を、ドウチウと云。)器量おし立、又双びなく見へしと。全盛は其頃廓第一と、きこへたり。(以下略)


*********************************
* 145宿場の伝馬負担の代償策もあり、享保三年(一七一八)、旅籠 *
* 一軒につき二人の飯盛女を置くのを許した。ただし江戸四宿は例 *
* 外として品川に五百人、新宿・千住・板橋に各百五十人の飯盛女 *
* (宿場女郎)を許可した。                  *
*********************************

 古くは飯盛女は禁止されていましいた。
万治三年1660十一月八日
この日諸駅に令せらるゝは。高札の旨。其他令制違犯のものあらば。各駅の役人。其日の行事曲事たるべし。こたび添札の旨を守り。毎駅にてかしこみ。いよいよゆきゝの輩。風雨の時も官用はいふまでもなし。卑賤の者たりとも疎略をなさす。人馬とゞこほりなく出すべし。博徒その他無頼のもの。をこたりなく査検すべし。娼婦を蓄をくべからす。もしかゝへをかば。其女其地の守護人。代官にうたへ出べし。上より探索ありて露顕せば。娼婦も曲事に行はれ。里正。役人等まで悉同罪たるべし。(以下略)    (『厳有院殿御実紀巻二十』)

享保三年の御触の内容は
①内藤新宿の宿場廃止
②北品川新町・善福寺と法禅寺の門前町屋にある茶屋の食売女禁止再触
 品川宿の食売女一軒に二人まで
③江戸十里四方の宿場の旅籠の食売女も従来通り一軒に二人まで
です。
御触書は次の通りです。

享保三戌年1718十月
      (一)
内藤新宿之儀、甲州計え之通筋て、旅人もすくなく、新宿之儀に候間、向後古来之通宿場相止、家居等も常々百姓町屋にいたし、商売物にて渡世致させ可申候、尤自今猶以猥成義無之様に入念可申付候、右宿場相止候付て、馬次之儀も古来のことく、日本橋より高井土宿馬次に可申付候、新宿運上金不納幷拝借金之儀は追て可被伺候、
一右新宿之旅籠屋共二階座敷之分、不残取彿せ可申付候、
    以上
  十月
      (二)
北品川新町幷善福寺法禅寺門前之茶屋町、食売女一切差置間敷旨、去ル未年証文迄申付候処、右之類之女抱置候由不届候、吟味之上右之女親共幷親類え相渡、家主急度過料出させ、戸〆可申付候、且又家居之儀も遂吟味、茶屋町常体之茶屋造りに致させ.二階座敷取佛わセ可申候、
一品川宿之内も食売女之外、疑敷女は遂吟味、向後弥弐人宛より外ニハ差置セ申間敷候
  十月
      (三)
道中筋旅籠屋之食売女、近年猥人多有之由候、向後江戸十里四方之道中筋ニハ古来之通、旅籠屋壱軒に食売女弐人宛之外、堅差置セ申間敷候、十里外之道中筋旅籠屋も、右に准し可申候以上、
  十月             (『御触書寛保集成』)

「古来之通」旅籠屋一軒に二人とありますから、この時初めて許可されたわけではありません。ただ、最初に許可されたがいつなのかが分かりません。江戸府内の茶屋の給仕女についての町触には次のものがあります。
延宝六午年1678十一月
一只今迄有来茶屋之外、一切茶屋為致申間敷候、若茶屋なくして不叶
 所候ハヾ、奉行所訴訟罷出、差図次第可仕事、
一給仕女持来候茶屋之分は、壱軒女弐人ゟ多指置へからす、右之外
 妻幷嫁娘なと有之候共、一円馳走出し申間敷候事、
  但、みたりに女馳走に出し候ハヽ、則捕之、奉行所召連候歟、又
  は断置、急度申出候様吉原之者共申付置候間、可存其旨事、
一給仕女不持来茶屋之分、向後弥以、馳走女壱人も不可差置事、
一茶屋女衣装之儀、布木綿之外、堅為着申間敷事、
一茶屋商売之儀、明六ツゟ暮六ツ迄可仕候、日暮候而一切客差置キ申
 間敷候、縦日之内たりといふとも、うさん成者茶屋よせ申間敷候事、
右之趣、堅相守へし、若於致違背、其者之儀不及申、大屋五人組名主至迄、曲事可申付者也、
  午十一月朔日        (『江戸町触集成』第一巻)

 この御触を『御触書寛保集成』では「道中筋之部」に入れていますので、あるいはこれを指しているのかも知れません。
内藤新宿は日本橋から高井戸までの距離が長いため、元禄十一年1698に新設されましたが、上に掲げた通り享保三年1718に廃止されています。
 品川宿の食売女は規定を超して抱えられていて、何度も処罰されています。それが明和元申年1764八月に願いが許され増員されました。この時から宿全体で幾人という形になっています。品川三宿(南北本宿と歩行新宿)500人、板橋・千住は150人ずつです。
その時の宿場の請書は次の通りです。
   差上申一札之事
一、品川宿旅籠屋共食売女過人数抱置、去ル巳ノ十一月中御咎メ被仰付候処、一体品川宿泊旅人少ク候共江戸出立幷到着之休多キ場所付、壱人弐人之食売女手廻り不申段無相違相聞、右旅籠屋共品川宿家持之者共少ク地借之者共付、家業手支地ヲ明店替いたし候も既三拾年程以前旅籠屋百八十軒程有之候処、当時九十軒相成、地主共農人而地代店賃之余力を以宿役相勤候処、右体軒数相減候而者、自然と地主共困窮相成、殊五海道之内而も泊旅人之助成少ク、宿継御用其外宿送り等之取計多、或江戸入継人馬戻之稼無之段無相違、外宿々と格別之思召を以、是迄食売女南北品川而、旅籠屋壱軒弐人宛、歩行新宿壱人宛御定法之処、已来本宿新宿之無差別幷壱軒何人と不限、品川三宿食売女都合五百人迄相抱可申旨被仰渡候、
一、板橋千住宿も泊旅人少ク、宿継御用宿送り等之取計多、江戸入継人馬戻之稼無之、殊三拾年程以前板橋七拾三軒、千住宿七拾弐軒有之候処、当時板橋宿ニ七軒、千住宿弐拾弐軒ならで無之、自然と右体軒数相減、地主共困窮相成候段無紛付、是又品川宿順シ格別之思召を以、唯今迄本宿壱軒弐人、新宿壱軒壱人宛之処、以来本宿新宿無差別壱軒何人と不限、板橋千住両宿共食売女一宿都合百五拾人迄相抱可申旨被仰渡候。
右者三ヶ宿共格別之御沙汰御座候間、別而宿役無差支様出精仕、勿論食売女過人数不差置、都而御法度可相守旨被仰付難有奉畏候。若相背候ハヾ御咎可被仰付候。
仍御請証文差上申所如件
 明和元甲申年1764八月七日
             東海道
             南品川宿
               名主 権次郎印
              以下名前省略
 道中
  御奉行所
        (『足立区文化財調査報告書 古文書編一』)

 五街道は宿場も含め道中奉行の支配ですから、道中奉行宛になっています。

 なお、内藤新宿は元禄十一年1698に新設されましたが、前書の通り享保三年に廃止されていて此の時(明和元年)には存在しません。再興されたのは明和九年1771四月です。また享保三年の御触書の(二)に「北品川新町幷善福寺法禅寺門前之茶屋町」とありますが、ここが享保七年1722に品川宿に加わり、歩行(かち)新宿になりました。そのため明和元年の食売女増員の時点では「品川三宿」(南本宿・北本宿・歩行新宿)となっています。


*********************************
* 201 町奉行の警察権が江戸府内にかぎられていたのに対して、火 *
* 盗改は江戸・関東を中心に全国に強権を発動できた。      *
* といっても、陣容は与力十騎・同心四十人(のち五十人)で、町 *
* 奉行所の半分以下の人員である。               *
*********************************

火付盗賊改に付属する与力同心の人数は定員が無く、人によって違っています。又任期中に増員もあったようです。
盗賊並火付御改(御若年寄衆御支配)
 御役扶持四十人フチ外廿人フチ 御先手ヨリ御勤

文政元年1818の武鑑
  渡辺孫左衛門  千五百石  与力十キ同心五十人
  安藤弾正少弼  八百石   与力六キ同心三十人
天保八年1837の武鑑
  朽木弥五左衛門 千石    与力十キ同心五十人
  岡部匠内(加役)千石    与力六キ同心三十人
嘉永四年1851の武鑑
  水野甲子次郎  四百石   与力十キ同心三十人

火付盗賊改は御先手が加役として勤めるのですが、本務である御先手自体が付属する与力同心の人数に定員がありません。

御先手廿八人 若年寄支配 躑躅間 千五百石 弓八組炮廿組 一組与力五騎至十騎同心三十人至五十人不同     (『吏徴』弘化二年1845)

長谷川平蔵が重病になり、その跡を申し付けられた森山孝盛は『蜑の焼藻の記』巻之下(寛政十年1798)に次のように書いています。
翁が本役被仰たる時、長谷川が跡を可勤由被仰渡たれば、本役には紛レもなし。去間増人を願ひて、与力十騎同心五十人を賜るべしと申出けるに、氏教朝臣、正敦朝臣の了簡にて、長谷川も初め十騎三十人にて勤たり。未だ足不足の所も明らかには知れまじきに、増人を願ふは見越と云ものなり。長谷川が例もあれば、十騎は申に任すべしと有により、翁も心ゆかず思ひながら、ともかくも高慮に任せらるべきことにこそ候へ、本役を相勤候に、わづか三十人ばかりの同心をもて、江戸中の火附盗賊を改め可申様有べきことも不存候。乍然某が物好にて勤候ことにもなく候儘、御用心の行届候はでも不苦候はゞ、如何にも三十人にても不苦候。何れにも上の思召次第にて候条不足して不苦候はゞ、何が扨某が強て大勢を預るべきことにも候はずと云放ちたれば、後には正敦朝臣の余り少くてはいかゞなりとて、同心十人増人を賜りぬ。
 註:氏教朝臣=戸田采女正氏教、老中
   正敦朝臣=堀田摂津守正敦、若年寄

 また火盗改の陣容は「町奉行所の半分以下」とありますが、重松一義『長谷川平蔵の生涯』には次のように記されています。

火付盗賊改.jpg
 本文には何の説明もなく忽然とこのページがあり、出処は書かれていません。これによれば、寛政七年頃の人員は与力十騎、同心四十人で、そのうち捜査・捕縛に直接関わるのは与力七騎、同心七人とのことです。内容に疑問がありますが他に資料がないためあげておきます。
寛政六年と七年の武鑑は下の通りです。
火盗改1794&1795.jpg
           左寛政七年、右寛政六年
長谷川平蔵と太田運八郎は与力十騎同心三十人で、長谷川半四郎は、与力七騎同心三十人です。『長谷川平蔵の生涯』にある数とは合いません。

一方、町奉行所の与力同心は、延享二年1745から弘化三年1846までは南北各与力25騎、同心120人で広範な業務を行っています。寛政五年1793の与力同心の役名と人数は次の通りです。(南和男『江戸の社会構造』、『南撰要集』七ノ下より)

       分掌   与力  同心
     本所見廻    2   6
     養生所見廻   2   3
     牢屋見廻    2   0
     吟味方    10  20
     高積見廻    2   4
     赦帳并撰要懸  5  16
     町火消人足改  4   8
     江戸向橋掛   2   4
     籾蔵定懸    4   4
     風烈廻     9   0
     例繰懸     7   9
     年番      4  10
     浅草会所見廻  2   4
     定廻         
     臨時廻       11
     隠密廻        
       計    55 109

 「浅草会所見廻」は土佐守(北町奉行)のみ
 与力の合計が定員25を超えているのは、兼務しているため。
 同心はこのほかに部屋住見習が11人。
このうちで、捕り物に関わるのは三廻りと呼ばれる定町廻り・臨時廻り・隠密廻りだけです。同心21人のみで、担当与力はいませんが、捕縛の時には与力が検使として付くことがあります。幕末の町奉行所与力で明治新政府への引継ぎを担当した佐久間長敬の『江戸町奉行事蹟問答』には次のようにあります。
問 捕もの制度は如何
答 捕ものは同心の主役にして、与力は検使役なり。同心貸渡しのためにくさり帷子、同鉢巻、すね当、刃ひき刀備あり。同心これを用ひ、羽織を用ひず陣ばしよりの出立なり。
与力検使としての出役は、陣笠・羽織袴にて格式の供立にて、同心捕もの手余りの時は、与力切捨の令を発し、自身も鑓を入て同心を助け働く定法なり。捕へ来る時は、同心の働きを奉行へ具上して功を賞すなり。
 与力検役なき平常捕ものは同心臨機の働きなり。

 町奉行所の与力同心は町奉行所に所属しているのであって町奉行が変わっても異動しません。抱入席ではありますが、見習いから始めて新規抱入になります。不浄役人とされ転役は原則ありません。いわばその道のプロです。一方、火附盗賊改の与力同心は御先手が本務であって、しかも短期間で交代します。

 なお火付盗賊改については、次回採り上げます。


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https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/Z18.html 雑話18「江戸で暮らす」補正・上 Tue, 31 Dec 2024 18:52:57 +0900 『江戸で暮らす。』(丹野 顯著2010年新人物往来社刊)から補正が必要と思われる事項をいくつか採り上げます。始めの数字はページです。********************************** 48 山東京伝は「通言総籬」で「拝み搗きの米を食う」のが江戸 ** っ子の豪儀さのように自慢したが、そんなつき方をしたら米は割 ** れてしまう。越後の出稼ぎ農民にまかせれば、ていねいについて ** 最高の精米に仕上がった。                  *********.. <![CDATA[ 『江戸で暮らす。』(丹野 顯著2010年新人物往来社刊)から補正が必要と思われる事項をいくつか採り上げます。始めの数字はページです。 ********************************* * 48 山東京伝は「通言総籬」で「拝み搗きの米を食う」のが江戸 * * っ子の豪儀さのように自慢したが、そんなつき方をしたら米は割 * * れてしまう。越後の出稼ぎ農民にまかせれば、ていねいについて * * 最高の精米に仕上がった。                  * ********************************* 搗屋四時交加.jpg    四時交加の画 山東京伝文・北尾重政画 寛政十年1798 「江戸で暮らす」も上の画を掲げ「江戸の庶民は精米ずみの米の一升買いがふつうだったが、景気のいい家は市中を臼を転がしてくる出稼ぎ人に一臼単位で米つきをしてもらった」とあります。「そんなつき方をしたら米は割れてしまう」とありますが、越後からの出稼ぎ農民も「拝み搗き」です。江戸では、各家に頼まれて米を搗く方法は、皆「拝み搗き」だったようです。  また「一臼単位で」とありますが「一斗いくら」ではないかと思います。(雑話06「大江戸の正体」正誤 参照)  米の搗方には「拝み搗き」の他に、唐臼(踏み臼)を使い、足で踏む方法があります。京伝は江戸っ子の条件の一つとして拝み搗きの米を食うことを挙げていますが、これは米を俵単位(米俵は普通玄米です)で買って米搗に搗かせる裕福な家を意味します。裏長屋の住人は搗き米屋から白米を買うので米搗に頼むことは無いでしょう。搗き米屋では踏み臼の方が楽ですから踏み臼が中心だったと思われます。 教草女房形気.jpg  楳蝶楼国貞画『教草女房形気』廿一編(万延二年1861) 深川江戸資料館に展示されている店には搗き臼が一つと踏み臼が二つになっています。   深川舂米屋.JPG   深川江戸資料館の画  平亭銀鶏文歌川貞広画『浪華雑誌 街能噂(ちまたのうわさ)』冬(天保六年1835)には次の画と詞があります。 搗屋街能噂.jpg 大阪の搗屋 「ふみうすを持あるきて家々の門へおろし、かくのごとく取りこしらひてつく也、いと手重きやうなれども江戸のうすをころばすよりハかへつて便利なるか」 江戸の搗屋 「をがミつきとてかくの如ききねにて搗也、これハ江戸の名物にして其さま頗るいきほひあり、力なくてハなしがたき業なり」 『譚海巻の六』にも大坂のことについて述べるところに「たて臼にて米をつく家なし、からうす斗りを用る也。」とあります。 ******************************** * 113 江戸っ子の人気は玉屋のほうにあったが、天保十四年(一 * * 八四三)四月、店から失火して町内を全焼。たまたま十二代将 * * 軍家慶の日光社参出発の前日の騒ぎだったので、玉屋は取り潰 * * しになった。                       * ******************************** 落語の中の言葉82「玉屋」で紹介しましたので、資料はあげず要点だけにします。 ○玉屋から出火したのは、家慶の日光社参中の四月十七日です。  家慶の社参は十三日首途、廿一日還御です。 ○類焼したのは「長凡二十八間余、幅平均六間半程」で町内全焼ではありません。 ○処罰は「所払い」です。浅草誓願寺門前へ移って花火屋を続けましたが、二年後の弘化二年1845に再び火を出して五六軒類焼し、廃業したようです。 ******************************** * 120 江戸初期から歌舞伎芝居は江戸のあちこちで転々と行なわ * * れていたが、堺町の中村座・葺屋町の市村座・木挽町の森田座 * * が「江戸三座」として幕府公認になり、興行を許されたのは正 * * 徳四年(一七一四)からである。絵島生島事件で山村座が廃止 * * された年である。                     * ******************************** 江戸三座になったのが正徳四年で、江戸の初期からさまざまな座が公許を得て興行しています。許可された興行場所もはじめはさまざまでしたが、禰宜町に集められたり、堺町に移動させられたりしながら、寛文元年1661には、興行の場所は堺町・葺屋町・木挽町五丁目・六丁目の四ヶ所に限定されました。 寛文元年1661十二月廿二日 一諸見物芝居物仕候者は、堺町葺屋町木挽町五町目六町目、此処ニ而可仕旨、自今已後他処之町中ニ而堅仕間鋪事   (『江戸町触集成』第一巻)  また各座が公許を得て起立したのは次の通りです。   中村座(元祖猿若勘三郎)寛永元年1624、中橋で起立   都座(元祖都伝内)寛永十年1633、堺町か?   市村座(元祖村山又三郎)寛永十一年1634、禰宜町と堺町の間   山村座(元祖山村長太夫)正保元年1644、木挽町五丁目   河原崎座(元祖河原崎権之助)慶安元年1648、木挽町五丁目   玉川座(元祖玉川彦十郎)承応元年1652、葺屋町   森田座(元祖うなぎ太郎兵衛)万治三年1660、木挽町五丁目   桐座(元祖桐大蔵)寛文元年1661、木挽町五丁目 正徳四年二月の江島生島事件直前には中村座・市村座・山村座・森田座の四座だけになっていましたが、同事件で正徳四年三月山村長太夫が流罪となり、山村座は廃絶します。 江戸の芝居が三座になったのが正徳四年です。以後願出ても新規の芝居は許可されませんでした。ただ、三座が資金繰りのため休業している間だけ代わりに興行が許されています。これを控櫓といいます。  『寛延雑秘録』巻十(寛延は1748~1751)には享保十年巳六月の三座(猿若勘三郎・市村竹之丞・森田勘弥)の由緒書の後ろに 一、右三芝居由緒の義御尋ね御座候処、町方役所に書留是なく、相知れざるにつき、町年寄奈良屋市右衛門に相尋候処、書面の通、銘々書付取(ママ)出し候、但先年は芝居座本四人にて是有候所、当十二年以前、御城女中絵島御詮義一件の義に付、木挽町に居候山村長太夫遠島に罷成、其已後長太夫跡芝居取立の儀、度々願人是有候得ども罷ならす、今度は右勘三郎竹之丞勘弥三人にて狂言座本仕候已上、   巳七月          大岡越前守                諏訪美濃守 とあります。また 其(控櫓)は享保十九年、彼の森田座が休座中たりし時なりき。木挽町に住居せるものは急に劇場を失ひて糊口に窮するより、森田座の代りに新にある劇場を建てん事を其の筋へ嘆願せしも、既に第二章に述べたるが如く劇場興行の權はかの三座に限られたるを以て、容易に裁可せられざりき。之より先、元祿以前に一度劇場主たりし河原崎權之助、桐大蔵及び都傳内の後裔が頻に其の祖先の由緒に依り劇場を再興せんことを熱望せる故、此の三者のうちの一人を抽籤に依りて森田座に代はるべき興行者と定め、且つ森田座が他日再興する場合には何時たりとも其の興行權を返戻すべしとの條件にて、始めて新劇場の興行を許され、かくて其の抽籤に當りしものは二世河原崎權之助なりしかば、享保二十年七月に至りて再び河原崎を木挽町に生ずるに至りて、即ち之を森田座の「控櫓」と称しき。而してこの控櫓の興行は延享元年まで十年間續きしが、同年に至り森田座が再興せるを以て河原崎座は自からその興行權を失ひ、之より四十七年にて寛政二年に再び森田座の休業と共に興行を始めたり。又かくの如くにして河原崎座が森田座の控櫓なりしと同じく、天明三年(引用者註:天明四年の誤り)に市村座の休場せるや桐座は其の控櫓として五年間の興行を免されしが、天明八年に至り期満ちて市村座の再興と共に興行權を失ひたり。次に、中村座も財政困難に依りて休業するや都座は遂に其の控櫓となり、此の例は其の後も頻繁に且つ規律正しく繰り返されたりき。(後藤慶二『日本劇場史』大正十四年) *森田座から河原崎座へ        三代目 河原崎権之助 幼年之砌、堺町におゐて享保十九甲寅年1734十二月、蒙御免、旧地木挽町におゐて、同二十巳年より延享元甲子年1744迄興行仕候、                   (『三座家狂言幷由緒書』) *市村座から桐座へ 天明四辰年1784十一月、顔見世、ふきや町市村羽左衛門座、やぐら幕をおろし、桐長桐座にかしてより、ことし(天明八年也)申年まで五年なり。市村当羽左衛門〔割註〕亀蔵也。」より到来書  〔割註〕天明五年巳十月十七日、家督相続羽左衛門となる。」    今日御番所様御内寄合え被召出。羽左衛門芝居再興被仰付。難有仕    合奉存候。興行之儀者、来る霜月朔日より、顔見世興行仕候様に是亦    被仰付候。右為御知申上度如此御座候。以上。       申五月十八日            市村 羽左衛門                         菊屋 善兵衛                         同  茂兵衛               (大田南畝『俗耳鼓吹』天明八年自序) (市村座)天明四辰年1784、四月三日より、仲蔵、相生獅子所作事相始候処、日数十二日いたし、夫より相休、芝居取崩し候、 同年十月十八日、於御内寄合、桐長桐仮り櫓、願之通被仰付、               (『江戸芝居年代記』) *中村座から都座へ 寛政五癸丑年1793 当顔見世より、五ヶ年、都座に相成、寛永九壬申年蒙御免、都伝内、明暦三丁酉年、堺町に而櫓上げ、歌舞伎興行いたし、当寛政五癸丑年迄、年数凡及百六十二年、   (『江戸芝居年代記』) ******************************** * 123 天保改革では贅沢や風俗紊乱を理由に歌舞伎弾圧があり、 * * 七代目市川団十郎はじめ尾上菊五郎・沢村宗十郎・中村歌右衛 * * 門らが処罰され、また江戸三座は江戸の中心から追われて、当 * * 時は辺鄙な浅草寺北側の猿若町へ移転させられた。      * ******************************** 元七代目市川団十郎(団十郎は八代目に譲り当時は海老蔵です)が処罰されたのは奢侈のためですが、尾上菊五郎・沢村宗十郎は猿若町から出るときに編笠を被らなかったためです。猿若町へ移転させられた時に「狂言役者共他行之節は編笠冠り素人と不紛様可致」と申し渡されていました。また中村歌右衛門は相撲見物で預けになっていますが、理由はよく分かりません。それぞれの処罰を『藤岡屋日記』から紹介します。 ○天保十三年四月十日 中村歌右衛門相撲見物致して預けに相成也。 ○木挽町芝居外題五ッ蝶金紋五三の桐狂言興行中、狂言役者市川海老蔵被召捕。  天保十三寅年六月廿二日     申渡                  深川田嶋町熊次郎地借                   重兵衛方同居同人父                     歌舞伎役者                        海老蔵 一 此者義、家作に長押壁(塗)かまち不相成、幷道具之義結構に致間敷旨前々町触有之候処、此者家業躰之義は、時之風俗に随ひ専表向きを飾見せ不申候而は、贔屓も薄く、道具類も右に准し、高金之品無之候而は融通も不宜候迚右町触書背居宅長押造床壁(塗)かまちに致し、赤銅七々子釘隠打付、庭向は御影石灯灯(籠)其外大石数多差置、又は同処土蔵内江不動之像出飾、荘厳向惣金箔彫物、須弥檀朱塗彫物、惣金泥合天井致、或は小たんすに赤銅七々子金丸桐之絞、小柄等鉄物致し、其外手書(ママ)込候鉄物相用、唐櫃幷額なら細工、木彫彩色之雛等近々買取、右雛道具は瓢たんを菊桐五三紋形付置、名前不存町人より貰置候迚、右檀江猩々緋打敷、座敷内に相飾、其上狂言に相用ひ候品々之義も、一卜通りに而は見物人気に入間敷と存、革装(製)具足壱領幷鉄用無之品所持致、狂言に相用ひ、且先代より持伝候迚、珊瑚珠根付且緒〆付高蒔絵之印籠等、狂言之節是又相用ひ、又は銀無垢ちろり等所持致し候処、金子に差支、右之内ちろりは所持いたし、其餘之品々質入、或は可売払と預け置、金子借請候後、去る丑年十月質素倹約之義被仰出候に付、不相済と後悔致し、居宅向造作等取崩候場処も有之候得共、右身分とも不顧、奢侈僭上之至、殊に先年より買置候共、高さ壱丈七尺之石灯籠一対、深川永代寺於境内開帳有之、不動江奉納可致と、高価之品右境内江差置候段、以旁不届に付、居宅取崩、木品共取上け、江戸十里四方追放申付之。   寅六月 右は鳥居甲斐守様御白洲におゐて被仰渡之。 ○天保十三寅年九月十九日               御咎   歌舞妓役者                       宗十郎                       梅 幸  右は編笠冠り候様兼々申渡置候処、木挽町芝居江罷出候役者之内、右両人編笠失念致し冠り不申候に付、吟味中手鎖之処、同日過料三貫文つゝ被申付。   『藤岡屋日記』には梅幸とありますが、改名して当時は三代目菊五郎です。        雑話一覧へ ]]> <![CDATA[
『江戸で暮らす。』(丹野 顯著2010年新人物往来社刊)から補正が必要と思われる事項をいくつか採り上げます。始めの数字はページです。


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* 48 山東京伝は「通言総籬」で「拝み搗きの米を食う」のが江戸 *

* っ子の豪儀さのように自慢したが、そんなつき方をしたら米は割 *

* れてしまう。越後の出稼ぎ農民にまかせれば、ていねいについて *

* 最高の精米に仕上がった。                  *

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搗屋四時交加.jpg
    四時交加の画 山東京伝文・北尾重政画 寛政十年1798


「江戸で暮らす」も上の画を掲げ「江戸の庶民は精米ずみの米の一升買いがふつうだったが、景気のいい家は市中を臼を転がしてくる出稼ぎ人に一臼単位で米つきをしてもらった」とあります。「そんなつき方をしたら米は割れてしまう」とありますが、越後からの出稼ぎ農民も「拝み搗き」です。江戸では、各家に頼まれて米を搗く方法は、皆「拝み搗き」だったようです。

 また「一臼単位で」とありますが「一斗いくら」ではないかと思います。(雑話06「大江戸の正体」正誤 参照)

 米の搗方には「拝み搗き」の他に、唐臼(踏み臼)を使い、足で踏む方法があります。京伝は江戸っ子の条件の一つとして拝み搗きの米を食うことを挙げていますが、これは米を俵単位(米俵は普通玄米です)で買って米搗に搗かせる裕福な家を意味します。裏長屋の住人は搗き米屋から白米を買うので米搗に頼むことは無いでしょう。搗き米屋では踏み臼の方が楽ですから踏み臼が中心だったと思われます。


教草女房形気.jpg
  楳蝶楼国貞画『教草女房形気』廿一編(万延二年1861)


深川江戸資料館に展示されている店には搗き臼が一つと踏み臼が二つになっています。

  
深川舂米屋.JPG
   深川江戸資料館の画


 平亭銀鶏文歌川貞広画『浪華雑誌 街能噂(ちまたのうわさ)』冬(天保六年1835)には次の画と詞があります。


搗屋街能噂.jpg


大阪の搗屋

「ふみうすを持あるきて家々の門へおろし、かくのごとく取りこしらひてつく也、いと手重きやうなれども江戸のうすをころばすよりかへつて便利なるか」


江戸の搗屋

「をがミつきとてかくの如ききねにて搗也、これ江戸の名物にして其さま頗るいきほひあり、力なくてなしがたき業なり」


『譚海巻の六』にも大坂のことについて述べるところに「たて臼にて米をつく家なし、からうす斗りを用る也。」とあります。


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* 113 江戸っ子の人気は玉屋のほうにあったが、天保十四年(一 *

* 八四三)四月、店から失火して町内を全焼。たまたま十二代将 *

* 軍家慶の日光社参出発の前日の騒ぎだったので、玉屋は取り潰 *

* しになった。                       *

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落語の中の言葉82「玉屋」で紹介しましたので、資料はあげず要点だけにします。

○玉屋から出火したのは、家慶の日光社参中の四月十七日です。

 家慶の社参は十三日首途、廿一日還御です。

○類焼したのは「長凡二十八間余、幅平均六間半程」で町内全焼ではありません。

○処罰は「所払い」です。浅草誓願寺門前へ移って花火屋を続けましたが、二年後の弘化二年1845に再び火を出して五六軒類焼し、廃業したようです。



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* 120 江戸初期から歌舞伎芝居は江戸のあちこちで転々と行なわ *

* れていたが、堺町の中村座・葺屋町の市村座・木挽町の森田座 *

* が「江戸三座」として幕府公認になり、興行を許されたのは正 *

* 徳四年(一七一四)からである。絵島生島事件で山村座が廃止 *

* された年である。                     *

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江戸三座になったのが正徳四年で、江戸の初期からさまざまな座が公許を得て興行しています。許可された興行場所もはじめはさまざまでしたが、禰宜町に集められたり、堺町に移動させられたりしながら、寛文元年1661には、興行の場所は堺町・葺屋町・木挽町五丁目・六丁目の四ヶ所に限定されました。


寛文元年1661十二月廿二日

一諸見物芝居物仕候者は、堺町葺屋町木挽町五町目六町目、此処而可仕旨、自今已後他処之町中而堅仕間鋪事   (『江戸町触集成』第一巻)


 また各座が公許を得て起立したのは次の通りです。

  中村座(元祖猿若勘三郎)寛永元年1624、中橋で起立

  都座(元祖都伝内)寛永十年1633、堺町か?

  市村座(元祖村山又三郎)寛永十一年1634、禰宜町と堺町の間

  山村座(元祖山村長太夫)正保元年1644、木挽町五丁目

  河原崎座(元祖河原崎権之助)慶安元年1648、木挽町五丁目

  玉川座(元祖玉川彦十郎)承応元年1652、葺屋町

  森田座(元祖うなぎ太郎兵衛)万治三年1660、木挽町五丁目

  桐座(元祖桐大蔵)寛文元年1661、木挽町五丁目


正徳四年二月の江島生島事件直前には中村座・市村座・山村座・森田座の四座だけになっていましたが、同事件で正徳四年三月山村長太夫が流罪となり、山村座は廃絶します。

江戸の芝居が三座になったのが正徳四年です。以後願出ても新規の芝居は許可されませんでした。ただ、三座が資金繰りのため休業している間だけ代わりに興行が許されています。これを控櫓といいます。


 『寛延雑秘録』巻十(寛延は1748~1751)には享保十年巳六月の三座(猿若勘三郎・市村竹之丞・森田勘弥)の由緒書の後ろに


一、右三芝居由緒の義御尋ね御座候処、町方役所に書留是なく、相知れざるにつき、町年寄奈良屋市右衛門に相尋候処、書面の通、銘々書付取(ママ)出し候、但先年は芝居座本四人にて是有候所、当十二年以前、御城女中絵島御詮義一件の義に付、木挽町に居候山村長太夫遠島に罷成、其已後長太夫跡芝居取立の儀、度々願人是有候得ども罷ならす、今度は右勘三郎竹之丞勘弥三人にて狂言座本仕候已上、
  巳七月          大岡越前守
               諏訪美濃守

とあります。また


其(控櫓)は享保十九年、彼の森田座が休座中たりし時なりき。木挽町に住居せるものは急に劇場を失ひて糊口に窮するより、森田座の代りに新にある劇場を建てん事を其の筋へ嘆願せしも、既に第二章に述べたるが如く劇場興行の權はかの三座に限られたるを以て、容易に裁可せられざりき。之より先、元祿以前に一度劇場主たりし河原崎權之助、桐大蔵及び都傳内の後裔が頻に其の祖先の由緒に依り劇場を再興せんことを熱望せる故、此の三者のうちの一人を抽籤に依りて森田座に代はるべき興行者と定め、且つ森田座が他日再興する場合には何時たりとも其の興行權を返戻すべしとの條件にて、始めて新劇場の興行を許され、かくて其の抽籤に當りしものは二世河原崎權之助なりしかば、享保二十年七月に至りて再び河原崎を木挽町に生ずるに至りて、即ち之を森田座の「控櫓」と称しき。而してこの控櫓の興行は延享元年まで十年間續きしが、同年に至り森田座が再興せるを以て河原崎座は自からその興行權を失ひ、之より四十七年にて寛政二年に再び森田座の休業と共に興行を始めたり。又かくの如くにして河原崎座が森田座の控櫓なりしと同じく、天明三年(引用者註:天明四年の誤り)に市村座の休場せるや桐座は其の控櫓として五年間の興行を免されしが、天明八年に至り期満ちて市村座の再興と共に興行權を失ひたり。次に、中村座も財政困難に依りて休業するや都座は遂に其の控櫓となり、此の例は其の後も頻繁に且つ規律正しく繰り返されたりき。(後藤慶二『日本劇場史』大正十四年)

*森田座から河原崎座へ

       三代目 河原崎権之助

幼年之砌、堺町におゐて享保十九甲寅年1734十二月、蒙御免、旧地木挽町におゐて、同二十巳年より延享元甲子年1744迄興行仕候、

                  (『三座家狂言幷由緒書』)

*市村座から桐座へ

天明四辰年1784十一月、顔見世、ふきや町市村羽左衛門座、やぐら幕をおろし、桐長桐座にかしてより、ことし(天明八年也)申年まで五年なり。市村羽左衛門〔割註〕亀蔵也。」より到来書

 〔割註〕天明五年巳十月十七日、家督相続羽左衛門となる。」

   今日御番所様御内寄合え被召出。羽左衛門芝居再興被仰付。難有仕

   合奉存候。興行之儀者、来る霜月朔日より、顔見世興行仕候様に是亦

   被仰付候。右為御知申上度如此御座候。以上。

      申五月十八日            市村 羽左衛門

                        菊屋 善兵衛

                        同  茂兵衛

              (大田南畝『俗耳鼓吹』天明八年自序)

(市村座)天明四辰年1784、四月三日より、仲蔵、相生獅子所作事相始候処、日数十二日いたし、夫より相休、芝居取崩し候、

同年十月十八日、於御内寄合、桐長桐仮り櫓、願之通被仰付、

              (『江戸芝居年代記』)

*中村座から都座へ

寛政五癸丑年1793 当顔見世より、五ヶ年、都座に相成、寛永九壬申年蒙御免、都伝内、明暦三丁酉年、堺町に而櫓上げ、歌舞伎興行いたし、当寛政五癸丑年迄、年数凡及百六十二年、   (『江戸芝居年代記』)


********************************

* 123 天保改革では贅沢や風俗紊乱を理由に歌舞伎弾圧があり、 *

* 七代目市川団十郎はじめ尾上菊五郎・沢村宗十郎・中村歌右衛 *

* 門らが処罰され、また江戸三座は江戸の中心から追われて、当 *

* 時は辺鄙な浅草寺北側の猿若町へ移転させられた。      *

********************************


元七代目市川団十郎(団十郎は八代目に譲り当時は海老蔵です)が処罰されたのは奢侈のためですが、尾上菊五郎・沢村宗十郎は猿若町から出るときに編笠を被らなかったためです。猿若町へ移転させられた時に「狂言役者共他行之節は編笠冠り素人と不紛様可致」と申し渡されていました。また中村歌右衛門は相撲見物で預けになっていますが、理由はよく分かりません。それぞれの処罰を『藤岡屋日記』から紹介します。


○天保十三年四月十日

中村歌右衛門相撲見物致して預けに相成也。


○木挽町芝居外題五ッ蝶金紋五三の桐狂言興行中、狂言役者市川海老蔵被召捕。
 天保十三寅年六月廿二日
    申渡
                 深川田嶋町熊次郎地借
                  重兵衛方同居同人父
                    歌舞伎役者
                       海老蔵
一 此者義、家作に長押壁(塗)かまち不相成、幷道具之義結構に致間敷旨前々町触有之候処、此者家業躰之義は、時之風俗に随ひ専表向きを飾見せ不申候而は、贔屓も薄く、道具類も右に准し、高金之品無之候而は融通も不宜候迚右町触書背居宅長押造床壁(塗)かまちに致し、赤銅七々子釘隠打付、庭向は御影石灯灯(籠)其外大石数多差置、又は同処土蔵内江不動之像出飾、荘厳向惣金箔彫物、須弥檀朱塗彫物、惣金泥合天井致、或は小たんすに赤銅七々子金丸桐之絞、小柄等鉄物致し、其外手書(ママ)込候鉄物相用、唐櫃幷額なら細工、木彫彩色之雛等近々買取、右雛道具は瓢たんを菊桐五三紋形付置、名前不存町人より貰置候迚、右檀江猩々緋打敷、座敷内に相飾、其上狂言に相用ひ候品々之義も、一卜通りに而は見物人気に入間敷と存、革装(製)具足壱領幷鉄用無之品所持致、狂言に相用ひ、且先代より持伝候迚、珊瑚珠根付且緒〆付高蒔絵之印籠等、狂言之節是又相用ひ、又は銀無垢ちろり等所持致し候処、金子に差支、右之内ちろりは所持いたし、其餘之品々質入、或は可売払と預け置、金子借請候後、去る丑年十月質素倹約之義被仰出候に付、不相済と後悔致し、居宅向造作等取崩候場処も有之候得共、右身分とも不顧、奢侈僭上之至、殊に先年より買置候共、高さ壱丈七尺之石灯籠一対、深川永代寺於境内開帳有之、不動江奉納可致と、高価之品右境内江差置候段、以旁不届に付、居宅取崩、木品共取上け、江戸十里四方追放申付之。
  寅六月
右は鳥居甲斐守様御白洲におゐて被仰渡之。


○天保十三寅年九月十九日
              御咎   歌舞妓役者
                      宗十郎
                      梅 幸
 右は編笠冠り候様兼々申渡置候処、木挽町芝居罷出候役者之内、右両人編笠失念致し冠り不申候に付、吟味中手鎖之処、同日過料三貫文つゝ被申付。

  『藤岡屋日記』には梅幸とありますが、改名して当時は三代目菊五郎です。



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雑話 たて長屋の隠居 blog:https://blog.seesaa.jp,9rakugo-fan/507639367
https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R274.html 落語の中の言葉274「比翼塚の小紫・下」 Tue, 10 Dec 2024 19:55:51 +0900 最後に比翼塚について見ます。「比翼塚の小紫・上」で見た物語中の比翼塚は以下の通りです。①「安楽寺留書」権八郎墓所へ同葬遣し候て青石を建、比翼塚と印シ三尺程之桜植候事。  但其後三回忌之砌ハ一丈餘之大木ニ成り連理と成り候事。②「石井明道士」権八と一所に埋めて比翼塚と名を付べしと是にて互ひに成仏たらんと一つに築込ミし連理の塚印に植たる花橘青目の石に笹りんどふ丸に井の字の二つ紋弐人が俗名書顕わし鈴法寺の比翼塚右の由緒と書伝ふ③「烟花清談」印に連理の橘を植へ、青めの石に笹さゝりんどう.. <![CDATA[ 最後に比翼塚について見ます。 「比翼塚の小紫・上」で見た物語中の比翼塚は以下の通りです。 ①「安楽寺留書」 権八郎墓所へ同葬遣し候て青石を建、比翼塚と印シ三尺程之桜植候事。   但其後三回忌之砌ハ一丈餘之大木ニ成り連理と成り候事。 ②「石井明道士」 権八と一所に埋めて比翼塚と名を付べしと是にて互ひに成仏たらんと一つに築込ミし連理の塚印に植たる花橘青目の石に笹りんどふ丸に井の字の二つ紋弐人が俗名書顕わし鈴法寺の比翼塚右の由緒と書伝ふ ③「烟花清談」 印に連理の橘を植へ、青めの石に笹さゝりんどう丸に井の字の二ッ紋、二人か俗名書しるし、末世に残す比翼塚とて目黒行人坂の西の方、冷光寺といへる虚無僧寺に印を今に残しける ④「北女閭起原」 権八が墳に双て葬りたり。是を目黒の比翼塚とて、世に能知る所なり。 ⑤「麻布黒鍬谷」(『北里見聞録』中) 平井の塚を掘り直し、一つに埋石碑を建、法名良山妙空信女と號ける云々 ⑥「久夢日記」 権八が墳に双てほうむりたり、これを目黒の比翼塚とて、世によくしるところなり ⑦「吉原大鑑初編」 権八が墳(はか)と一所に葬りつかはしける。互の一念成仏うたがひなしとて、印に連理の橘を植、青石にて笹竜胆と丸に井の字の二ツ紋、俗名をしるし、これを比翼塚といふ。 ⑧「幡随院長兵衛一代記」 則ち権八が死骸と合葬し連理の塚標(つかしるし)に花橘花(はなたちばな)を植、青目の石にハ笹輪胴に丸に井の字の二ッ紋二人の俗名書顕したり、  実在の目黒の比翼塚について書かれたもののうちで私が見たもっとっも古いものは、『北女閭起原』にある次の文章です。 寛政の末の頃、三馬二三子と共に目黒なる梵論寺に至りて比翼塚を見たりしに、墳碑に比翼塚と鑴(せん)ありしをあらたに磨て銅箔を以て□たり。此碑などはいかにもふるく苔むしたるをこそ称美もすれ、磨きたるはいかにぞや。当住の心理、あまりに無雅にて歎はし。今はいかゞなりしや知らず。 寛政は1789~1801で、権八の処刑から130年ほど経っています。碑はありましがどのようなものか詳しくは分かりません。その碑も文化十二年1815には無くなっています。 下目黒入谷普化寺の比翼塚 一、武州荏原郡下目黒村入谷龍溪山南(ママ)昌寺曹洞は、目黒不動より西貳町路傍の北側にあり、寺號をば呼といへども、更に菴室たり、普化でらと稱して世々虚無僧の徒住り、此菴を比翼塚とよべり、近頃より無住となりて松風梢を音信(ヲトズル)のみ、いとゞ詫しく寂寥たり、爰に萬治年間悪行超過し、終に後刑よつて死せし平井権八郎おたづね者となりし砌、在所となく人相書を以て、御穿鑿ゆへ、身の置所なく此普化寺へ来り、菴主と師弟の約をなし、しばらく忍び居し縁を以て、権八郎御仕置の後、菴主骸(カバネ)を爰へ葬りしが、後新よし原の傾城小むらさきといふもの、日頃の誓約黙止(モダシ)がたくやありけん、書置して自滅しけるまゝ、一壘の塚に埋みて比翼塚と號けて、その名高ければ壹度は見んものと思ひしが此日はからずも門前を過るに、門の潜り際に一人の男線香に火を點じ、一人まへ六錢を貪りて門内へ入、扨て塚を見せしは胴欲(ドウヨク)とやいはん、扨彼塚は門内程なく南の垣根際に、一壘の土ある上に、手頃の破石(ワレイシ)を置のみにて、見る程の男女線香を供ずるも可笑(ヲカシ)、塚の體餘り麁末(ソマツ)にして、石碑だになかりし、河原の見せものを欺されて、見物したるには劣らんか、(十方庵敬順『遊歴雑記』二編巻之下 文化十二年1815) 一とせ中秋の頃彼の里に赴けるに、(割註:東福(ママ)寺と云神奈川四光寺末也、)久しく無住にて、此頃留守の道心は来り候由故、入て見るに、折節草庵には他行にて戸ざしをりたり、是非なくあたり近き人に尋るに、里人もくわしく知る事なし、只比翼塚の碑は、七八年以前無住の内、里のわらべ等がもて遊び物となりてありしが、終に打そんじて其行衞を知らずと云、左あれば書ける物にてもあるべきかと問ふに、是又久敷住ける者もなければ、其沙汰を聞ずといひける儘、あまり本意無亊におもひければ、あまたゝび彼の塚の廻りを見まはしけれ共、夫ぞとおもふ破石もなく、草葉に置ける白露のみ、葉末重げに打しめりて、絶て昔の俤もなく、さしもに名だゝる名妓といえども、二代目高尾は土手の道哲にむなしき跡をとゞめ、小紫は此比翼塚に浮名を殘せり、是又三浦やの二代目なるも又あやし、されども貞節の操は、猶人の口碑に残りていと尊く云々、(『北里見聞録』巻之六 文化十四年1817刊)  その後文政年間に、新たに石碑が建てられています。 目黒泰叡山滝泉寺不動尊へ参詣、是より門前壱町計出て行当り、左リヘ小半町曲りて、右側に黒塀黒門有、如図。〔割注〕是則比翼塚有之所なり。」 一、爰より比翼塚と云所は、塚も何もなく、たゞ手ごろの石苔むして壱つ有り。其辺り青きば其外木々にて甚乱雑なり。 (中略) ひよく塚并に碑の銘  元禄の昔、花の姿もゆかりの色の深かりしも、今はたゞ此古き塚成  苔の下に名のみ残りし、盛衰の世の移り替りやすくて、其塚だに雨  露にくち、地下に埋みて、かたち有計なる、こたび貲助をこい、誠  ある心を尽し、労をいとわず、こたび取繕て、猶末に星霜を経ても  廃ざるがために、此碑を造立して、予が一句をこわれければ、   其むかし比翼ざくらや帰り花                   東都芝浦                    暎堂雪草書   右碑の裏に、  今は昔元禄十三歳1690ときゝしも、さだかならざるを、人々あるは  おのれ幾世朽ざらんため、子引の石を手向とは、   文政八酉年1825       初冬となり                    随 月 堂                       補佐杜恭 一、此碑に元禄年中と有は、甚いぶかし。拠となすにはあらねど、石井明道士及平井強勇記には、貞享元子年1684と見へたり。尚時代後の考へをまつのみ。 一、東昌寺の事を、旧書は風呂寺と有如何。(江戸名所図会に風呂屋共云とみえたり) (中略) 一、武江年表に、延宝年己未(七年1679)十一月三日、浪人平井権八郎品川にて刑せらるゝと云。 (小寺玉晁『江戸見草』天保十二年1841自序) 東昌寺&比翼塚.jpg 平井権八が処刑された場所は鈴ヶ森で、処刑の日は「石井明道士」には貞享元年1684九月廿七日と書かれていますが、それは誤りで延宝七年1679十一月三日です。 また「比翼塚の小紫・上」であげた『新編武蔵風土記稿』の東昌寺には 「比翼塚 境内ニアリ断碑ナリ比翼塚ノ三字ヲ彫ル白井云侠客トソノ懸想セシ遊女ヲ合葬ノ墓ニシテ普ク世ニ知ル所ナリ側ニ梅樹アリ比翼ノ梅ト呼フ」とあります。 『新編武蔵風土記稿』は、文化七年1810昌平坂学問所内に地誌編修取調所を設置。すでに収集してあった多数の地誌や典籍を整理するほか、新たに実地踏査と古記録の調査を開始。文政十一年1828脱稿。補訂が加えられて天保元年1830清書が終わって上程(南 和男「『新編武蔵風土記』解題」 足立風土記資料 地誌1『新編武蔵風土記』) というもので、この記載の元になるものが何時のものかはわかりませんが、文政八年に新たに造られた碑とは違っていて、『北女閭起原』にある「比翼塚と鑴あり」という寛政末頃のもと一致しています。比翼塚の三文字が彫られているだけで、何時、誰のために建てられたものなのかは彫られていないようです。「上」で見た小紫と比翼塚の話の内容と、「中」で見た実在の小紫を併せて考えると、古碑に比翼塚の三文字しかないのを幸いに、この古い塚をそれと見做したという可能性もあります。雑話10「高尾稲荷」で採り上げたように、万治高尾は病死して春慶院に葬られているにもかかわらず、仙台侯に斬り殺されたという話が広がり、流れ着いたとも犬がくわえてきたとも云われる女の首を埋めた祠を、後には高尾稲荷としている例もあるからです。  以上、流布している話、実在の三浦屋内太夫小紫、目黒の比翼塚の三面から考えてみましたがどうやら作り話である可能性が高いように思われます。  最後に小紫の後追い心中を虚説とする桃花園三千麿の『萍花漫筆』を紹介します。 花川戸の助六が実説とて、諸説さまざま有れども、しかと定りたるものを見ず。予が友柳恭と云へる者の蔵せる旧蹟日課と云ものに、古き事どもを委しく書たる中に、山の宿大口屋助八が事と云へる所に、此者はさして世間にしれたるほどの男達といふにはあらねど、常のふるまひ少しも私欲のきたなげなく、町内にもあれ。隣町にもあれ。貧しくして過はひ出来かね、又は年よりて子なき輩などは愍みて、窃に米銭など遣しぬれば、誰となく敬ひにけり。家は米を商ひして、九代ほども相続しつれば、所にもめでたき家がらなりとてほめられにけり。左有ばはしたなく喧嘩などみだりにする者にてはあらざりつるが、此助八が病死せしことのよしを、其頃迄よくしりたる桶とぢ有て語りけるを、その儘に記せり。此頃は、今やうのごとく町に番する所もなく、町に事とし有ときは、最寄の家にてあつかひけるに、ある時、吉原にて喧嘩のうへ、人をあやめたる者を捕へ、山の宿なる薬屋の見世に引居たり。人立多き中に、助八も立交りて見ゐたるが、助八は彼の者を露しらざりけれども、彼の者は助八をよく見しりゐて、ひそかに助八に願けるは、我等昨夜吉原二丁目河岸にて人をあやめ候へども、一人の老母の候へば、われ今相果候ては、母を路頭に迷はせしまゝ、曲て一命御たすけ給りたく、男を見かけ頼入候なりといふに、助八は聞より涙を流し、彼の者のいましめをときながら、人をあやめて世にながらへんとは、日本一のふかく者なり、いづこへなりとも行べしとて追放ちやりたり。是はと人々さはげども、はやゆくへしれざれば、詮方なく助八を公に連て出るに、罪人を逃せし科なれば、獄屋に三歳をふるうち、病死して骸(なきがら)を老母に給はり、菩提寺易行院に葬るに、助八存生の砌深く馴染たる遊女あり。吉原江戸町大松屋半次郎が抱小紫と云へり。助八が死後年季明ければ、大口屋に来り、老母に孝養を尽し、三とせほど過て、老母なくなりにければ、墓所に詣で後、助八が墓を掃除し、墓のもとにて自害して果にけり。ちいさき包の有ければ開て見るに、夫助八と同穴の願なり。此よしを公に訴参らせて、小紫をも助八が墓に葬れり。土地の人、是を易行院の比翼塚といへり。されば狂言綺語の習ひにて、此頃白井権八の狂言に、此小紫が事を加へて操を伝へ、追々廓に其名高き揚巻、白玉なんどの事どもをも書そへにけり。伝奇の虚妄は取るに足らずといへども、実録を失ふこと、是に過たる事なし。 しかしこれとても、山の宿大口屋助八と吉原江戸町大松屋半次郎が抱小紫のことが事実と確かめられるまでは、そのまま信用することは出来ません。       落語の中の言葉一覧へ ]]> <![CDATA[ 最後に比翼塚について見ます。
「比翼塚の小紫・上」で見た物語中の比翼塚は以下の通りです。
①「安楽寺留書」
権八郎墓所へ同葬遣し候て青石を建、比翼塚と印シ三尺程之桜植候事。
  但其後三回忌之砌一丈餘之大木成り連理と成り候事。
②「石井明道士」
権八と一所に埋めて比翼塚と名を付べしと是にて互ひに成仏たらんと一つに築込ミし連理の塚印に植たる花橘青目の石に笹りんどふ丸に井の字の二つ紋弐人が俗名書顕わし鈴法寺の比翼塚右の由緒と書伝ふ
③「烟花清談」
印に連理の橘を植へ、青めの石に笹さゝりんどう丸に井の字の二ッ紋、二人か俗名書しるし、末世に残す比翼塚とて目黒行人坂の西の方、冷光寺といへる虚無僧寺に印を今に残しける
④「北女閭起原」
権八が墳に双て葬りたり。是を目黒の比翼塚とて、世に能知る所なり。
⑤「麻布黒鍬谷」(『北里見聞録』中)
平井の塚を掘り直し、一つに埋石碑を建、法名良山妙空信女と號ける云々
⑥「久夢日記」
権八が墳に双てほうむりたり、これを目黒の比翼塚とて、世によくしるところなり
⑦「吉原大鑑初編」
権八が墳(はか)と一所に葬りつかはしける。互の一念成仏うたがひなしとて、印に連理の橘を植、青石にて笹竜胆と丸に井の字の二ツ紋、俗名をしるし、これを比翼塚といふ。
⑧「幡随院長兵衛一代記」
則ち権八が死骸と合葬し連理の塚標(つかしるし)に花橘花(はなたちばな)を植、青目の石に笹輪胴に丸に井の字の二ッ紋二人の俗名書顕したり、

 実在の目黒の比翼塚について書かれたもののうちで私が見たもっとっも古いものは、『北女閭起原』にある次の文章です。

寛政の末の頃、三馬二三子と共に目黒なる梵論寺に至りて比翼塚を見たりしに、墳碑に比翼塚と鑴(せん)ありしをあらたに磨て銅箔を以てたり。此碑などはいかにもふるく苔むしたるをこそ称美もすれ、磨きたるはいかにぞや。当住の心理、あまりに無雅にて歎はし。今はいかゞなりしや知らず。

寛政は1789~1801で、権八の処刑から130年ほど経っています。碑はありましがどのようなものか詳しくは分かりません。その碑も文化十二年1815には無くなっています。

下目黒入谷普化寺の比翼塚
一、武州荏原郡下目黒村入谷龍溪山南(ママ)昌寺曹洞は、目黒不動より西貳町路傍の北側にあり、寺號をば呼といへども、更に菴室たり、普化でらと稱して世々虚無僧の徒住り、此菴を比翼塚とよべり、近頃より無住となりて松風梢を音信(ヲトズル)のみ、いとゞ詫しく寂寥たり、爰に萬治年間悪行超過し、終に後刑よつて死せし平井権八郎おたづね者となりし砌、在所となく人相書を以て、御穿鑿ゆへ、身の置所なく此普化寺へ来り、菴主と師弟の約をなし、しばらく忍び居し縁を以て、権八郎御仕置の後、菴主骸(カバネ)を爰へ葬りしが、後新よし原の傾城小むらさきといふもの、日頃の誓約黙止(モダシ)がたくやありけん、書置して自滅しけるまゝ、一壘の塚に埋みて比翼塚と號けて、その名高ければ壹度は見んものと思ひしが此日はからずも門前を過るに、門の潜り際に一人の男線香に火を點じ、一人まへ六錢を貪りて門内へ入、扨て塚を見せしは胴欲(ドウヨク)とやいはん、扨彼塚は門内程なく南の垣根際に、一壘の土ある上に、手頃の破石(ワレイシ)を置のみにて、見る程の男女線香を供ずるも可笑(ヲカシ)、塚の體餘り麁末(ソマツ)にして、石碑だになかりし、河原の見せものを欺されて、見物したるには劣らんか、(十方庵敬順『遊歴雑記』二編巻之下 文化十二年1815)

一とせ中秋の頃彼の里に赴けるに、(割註:東福(ママ)寺と云神奈川四光寺末也、)久しく無住にて、此頃留守の道心は来り候由故、入て見るに、折節草庵には他行にて戸ざしをりたり、是非なくあたり近き人に尋るに、里人もくわしく知る事なし、只比翼塚の碑は、七八年以前無住の内、里のわらべ等がもて遊び物となりてありしが、終に打そんじて其行衞を知らずと云、左あれば書ける物にてもあるべきかと問ふに、是又久敷住ける者もなければ、其沙汰を聞ずといひける儘、あまり本意無亊におもひければ、あまたゝび彼の塚の廻りを見まはしけれ共、夫ぞとおもふ破石もなく、草葉に置ける白露のみ、葉末重げに打しめりて、絶て昔の俤もなく、さしもに名だゝる名妓といえども、二代目高尾は土手の道哲にむなしき跡をとゞめ、小紫は此比翼塚に浮名を殘せり、是又三浦やの二代目なるも又あやし、されども貞節の操は、猶人の口碑に残りていと尊く云々、(『北里見聞録』巻之六 文化十四年1817刊)

 その後文政年間に、新たに石碑が建てられています。

目黒泰叡山滝泉寺不動尊へ参詣、是より門前壱町計出て行当り、左リヘ小半町曲りて、右側に黒塀黒門有、如図。〔割注〕是則比翼塚有之所なり。」
一、爰より比翼塚と云所は、塚も何もなく、たゞ手ごろの石苔むして壱つ有り。其辺り青きば其外木々にて甚乱雑なり。
(中略)
ひよく塚并に碑の銘
 元禄の昔、花の姿もゆかりの色の深かりしも、今はたゞ此古き塚成
 苔の下に名のみ残りし、盛衰の世の移り替りやすくて、其塚だに雨
 露にくち、地下に埋みて、かたち有計なる、こたび貲助をこい、誠
 ある心を尽し、労をいとわず、こたび取繕て、猶末に星霜を経ても
 廃ざるがために、此碑を造立して、予が一句をこわれければ、
  其むかし比翼ざくらや帰り花
                  東都芝浦
                   暎堂雪草書
  右碑の裏に、
 今は昔元禄十三歳1690ときゝしも、さだかならざるを、人々あるは
 おのれ幾世朽ざらんため、子引の石を手向とは、
  文政八酉年1825
      初冬となり
                   随 月 堂
                      補佐杜恭

一、此碑に元禄年中と有は、甚いぶかし。拠となすにはあらねど、石井明道士及平井強勇記には、貞享元子年1684と見へたり。尚時代後の考へをまつのみ。
一、東昌寺の事を、旧書は風呂寺と有如何。(江戸名所図会に風呂屋共云とみえたり)
(中略)
一、武江年表に、延宝年己未(七年1679)十一月三日、浪人平井権八郎品川にて刑せらるゝと云。 (小寺玉晁『江戸見草』天保十二年1841自序)

東昌寺&比翼塚.jpg

平井権八が処刑された場所は鈴ヶ森で、処刑の日は「石井明道士」には貞享元年1684九月廿七日と書かれていますが、それは誤りで延宝七年1679十一月三日です。

また「比翼塚の小紫・上」であげた『新編武蔵風土記稿』の東昌寺には
「比翼塚 境内ニアリ断碑ナリ比翼塚ノ三字ヲ彫ル白井云侠客トソノ懸想セシ遊女ヲ合葬ノ墓ニシテ普ク世ニ知ル所ナリ側ニ梅樹アリ比翼ノ梅ト呼フ」とあります。
『新編武蔵風土記稿』は、文化七年1810昌平坂学問所内に地誌編修取調所を設置。すでに収集してあった多数の地誌や典籍を整理するほか、新たに実地踏査と古記録の調査を開始。文政十一年1828脱稿。補訂が加えられて天保元年1830清書が終わって上程(南 和男「『新編武蔵風土記』解題」 足立風土記資料 地誌1『新編武蔵風土記』)
というもので、この記載の元になるものが何時のものかはわかりませんが、文政八年に新たに造られた碑とは違っていて、『北女閭起原』にある「比翼塚と鑴あり」という寛政末頃のもと一致しています。比翼塚の三文字が彫られているだけで、何時、誰のために建てられたものなのかは彫られていないようです。「上」で見た小紫と比翼塚の話の内容と、「中」で見た実在の小紫を併せて考えると、古碑に比翼塚の三文字しかないのを幸いに、この古い塚をそれと見做したという可能性もあります。雑話10「高尾稲荷」で採り上げたように、万治高尾は病死して春慶院に葬られているにもかかわらず、仙台侯に斬り殺されたという話が広がり、流れ着いたとも犬がくわえてきたとも云われる女の首を埋めた祠を、後には高尾稲荷としている例もあるからです。
 以上、流布している話、実在の三浦屋内太夫小紫、目黒の比翼塚の三面から考えてみましたがどうやら作り話である可能性が高いように思われます。
 最後に小紫の後追い心中を虚説とする桃花園三千麿の『萍花漫筆』を紹介します。

花川戸の助六が実説とて、諸説さまざま有れども、しかと定りたるものを見ず。予が友柳恭と云へる者の蔵せる旧蹟日課と云ものに、古き事どもを委しく書たる中に、山の宿大口屋助八が事と云へる所に、此者はさして世間にしれたるほどの男達といふにはあらねど、常のふるまひ少しも私欲のきたなげなく、町内にもあれ。隣町にもあれ。貧しくして過はひ出来かね、又は年よりて子なき輩などは愍みて、窃に米銭など遣しぬれば、誰となく敬ひにけり。家は米を商ひして、九代ほども相続しつれば、所にもめでたき家がらなりとてほめられにけり。左有ばはしたなく喧嘩などみだりにする者にてはあらざりつるが、此助八が病死せしことのよしを、其頃迄よくしりたる桶とぢ有て語りけるを、その儘に記せり。此頃は、今やうのごとく町に番する所もなく、町に事とし有ときは、最寄の家にてあつかひけるに、ある時、吉原にて喧嘩のうへ、人をあやめたる者を捕へ、山の宿なる薬屋の見世に引居たり。人立多き中に、助八も立交りて見ゐたるが、助八は彼の者を露しらざりけれども、彼の者は助八をよく見しりゐて、ひそかに助八に願けるは、我等昨夜吉原二丁目河岸にて人をあやめ候へども、一人の老母の候へば、われ今相果候ては、母を路頭に迷はせしまゝ、曲て一命御たすけ給りたく、男を見かけ頼入候なりといふに、助八は聞より涙を流し、彼の者のいましめをときながら、人をあやめて世にながらへんとは、日本一のふかく者なり、いづこへなりとも行べしとて追放ちやりたり。是はと人々さはげども、はやゆくへしれざれば、詮方なく助八を公に連て出るに、罪人を逃せし科なれば、獄屋に三歳をふるうち、病死して骸(なきがら)を老母に給はり、菩提寺易行院に葬るに、助八存生の砌深く馴染たる遊女あり。吉原江戸町大松屋半次郎が抱小紫と云へり。助八が死後年季明ければ、大口屋に来り、老母に孝養を尽し、三とせほど過て、老母なくなりにければ、墓所に詣で後、助八が墓を掃除し、墓のもとにて自害して果にけり。ちいさき包の有ければ開て見るに、夫助八と同穴の願なり。此よしを公に訴参らせて、小紫をも助八が墓に葬れり。土地の人、是を易行院の比翼塚といへり。されば狂言綺語の習ひにて、此頃白井権八の狂言に、此小紫が事を加へて操を伝へ、追々廓に其名高き揚巻、白玉なんどの事どもをも書そへにけり。伝奇の虚妄は取るに足らずといへども、実録を失ふこと、是に過たる事なし。

しかしこれとても、山の宿大口屋助八と吉原江戸町大松屋半次郎が抱小紫のことが事実と確かめられるまでは、そのまま信用することは出来ません。


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落語 たて長屋の隠居 blog:https://blog.seesaa.jp,9rakugo-fan/505988571
https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R273.html 落語の中の言葉273「比翼塚の小紫・中」 Wed, 20 Nov 2024 20:00:10 +0900  次に実在の三浦屋抱えの太夫小紫について考えます。『北女閭起原』には三浦屋の太夫小紫(濃紫)は三代あり、その二代目が比翼塚の小紫だとしていますが、忍頂寺務編の「小紫年代記」は、時代ごとに次の八代をあげて、延宝小紫を比翼塚の小紫としています。 明暦小紫  「吉原丸鑑」、寛文の頃「当世武野俗談」 延宝小紫  「吉原大雑書」・「北里見聞録」 天和小紫  「吉原あくた川」・「吉原買物之調」 貞享小紫  「吉原源氏五十四君」・「色里三所帯」 元禄小紫  「傾城草摺引」・「傾城色三味線」.. <![CDATA[  次に実在の三浦屋抱えの太夫小紫について考えます。 『北女閭起原』には三浦屋の太夫小紫(濃紫)は三代あり、その二代目が比翼塚の小紫だとしていますが、忍頂寺務編の「小紫年代記」は、時代ごとに次の八代をあげて、延宝小紫を比翼塚の小紫としています。  明暦小紫  「吉原丸鑑」、寛文の頃「当世武野俗談」  延宝小紫  「吉原大雑書」・「北里見聞録」  天和小紫  「吉原あくた川」・「吉原買物之調」  貞享小紫  「吉原源氏五十四君」・「色里三所帯」  元禄小紫  「傾城草摺引」・「傾城色三味線」中の名寄せ  宝永小紫   宝永二年吉原細見  正徳小紫  「えにし染」・「傾城手管三味線」  享保小紫  「両巴巵言」・「浮舟草」 但し、明暦小紫については「明暦から寛文まで前後十八年に亘るから、此間に二人あったかも知れぬが、詳細判明せない。」 天和小紫については「或は前代かも知れぬが兎に角揚げておく。」としています。元禄小紫以降は比翼塚の小紫に無関係のため省略します。  「吉原丸鑑」は享保五年1720の遊女評判記で、当時の薄雲の評文中に「そもそも、うすぐもと申は、明暦年中、うすぐも濃紫とて名君あり、そのころ高尾と全勢位をともにして、おしもおされもせぬきこゑ世上にあまねく、是を称して三浦の三美人と申せしとかや、云々」とありますが、「吉原丸鑑」以外には明暦期に小紫太夫があったことを示すものはないようです。小野晋『近世初期 遊女評判記集』研究篇には「小紫の名が初めて評判記に見えるのは、寛文末延宝初刊かと思われる二三の評書においてである。尤も、寛文十二年正月刊の『吉原丸裸』は未見であるが、それ以前の寛文度のものには絶えてその名を聞かない。」とあります。それで『吉原丸鑑』は除き、貞享小紫までの遊女評判記等を一覧にすると以下のようになります             三浦屋内小紫太夫             資料       小紫太夫      太夫数 1667寛文七年頃   「讃嘲記時之太鞁」  なし 1672-寛文末延宝初  「吉原天秤」     あり 1672-寛文末延宝初  「吉原袖かゝみ」   あり        13 1675延宝三年    「吉原大雑書」    あり        13 (1679延宝七年十一月  平井権八処刑) 1680延宝八年秋冬  「吉原人たばね」   あり         9 1681天和元年正月  「吉原あくた川」   あり         5 1681天和元年三月  「吉原下職原」    あり        10 1682天和二年    「吉原買もの調」   なし 太夫→格子 1683天和三年初夏  「吉原大豆俵評判」  なし         5 1686貞享三年?   「吉原酒てんとうじ」 あり 二代目の名よごし 1687貞享四年    「吉原源氏五十四君」 あり 1689元禄二年     絵入大画図     なし 格子小紫    3 「吉原酒てんとうじ」は新造(艘)の遊女のみをとりあげたもので、その中に 「 太夫 こむらさき     同(京町 三浦四郎左衛門)うち 二代目の名よごし。此ころの小哥に、もろこしだんごおといたといふは、此きみははなにあるさうな。(以下略)」 とあって、三代目であることを示しています。「吉原天秤」「吉原袖かゝみ」が初代、「吉原人たばね」から「吉原買もの調」までは二代でしょう。問題は延宝三年の「吉原大雑書」の小紫です。初代なのか二代目なのか、初代と二代の代替わりが何時なのかということです。 小野晋氏は、「初代二代の代替り襲名はいつの頃であったか。延宝二年の『吉原失墜』に小紫の名がみえないのを重視すれば、初代は寛文十一二年頃に出世し、早くもその頃までには亡くなっていたのであろう。そして延宝三年の『大ざつしよ』以前に二代目は襲名したものと思われる。」としています。 もしそうであれば、二代目小紫は延宝三年1675から天和二年1682まで三浦屋に存在したことになり、延宝七年1679十一月に刑死した権八への初七日や三十五日の後追い自殺はなかったことになります。 それで小野晋氏は次のように書かれています。 小紫と平井権八との情事や東昌寺での跡追心中については、巷説が流布されているが、『甲子夜話』や『萍花漫筆』はこれを妄説として退けている。大口屋助八と江戸町大松屋小紫とのことが附会されて、歌謡や芝居に仕組まれたことを明らかにしているのである。しかしこのことによって、かえって後人に美化され追慕されるようになり、「傾城に誠なしとは情(わけ)知らず目黒に残せし比翼塚」などと、その心中立てを礼讃され、嬌名を今日に伝えているのである。 ただ、「吉原大雑書」の小紫を二代目とすることには小野氏自身も疑問を持っています。 「しかし、(「吉原買もの調」に)年若にて候まゝ、末々たのもしく候まゝ御求め可被成候」と言う二代小紫については、さきに延宝二三年頃襲名説を出したけれども、十四歳の出世とみても天和二年はもはや廿一二歳である。」 とも書かれているからです。江戸時代には廿一二歳は年増であって「年若」とは言いません。  ちなみに「吉原買もの調」は      買  物                こむらさき 内々被仰候、我等出入之屋敷に安き払物候はゝ御調被成度由、御尤に存候。京町三うら内に、こむらさきと申物御座候。去比まて上官にて候へ共、御さかりにて、ふりかゝりにもなり申候。生れつきほそなかく、うつくしく候。心ね、うは気に面白候。君来すはねやへもいらしといふ古哥も、身あかり計のやうにそんし候。しかし、年若にて候まゝ、末々たのもしく候まゝ、御もとめ可被成候。安きもの御たつね候間、申進候。一笑々々。  私は「吉原大雑書」の小紫を初代と考えます。初代が延宝三年か四年に若死にして、その後それ程間を置かずに二代目が襲名したものと考えます。それなら「吉原買もの調」の「年若」にも矛盾しません。延宝二年の『吉原失墜』は徒然草の注釈書「鉄槌」のパロディであって、遊女評判記ではありません。遊女の名前が多数おりこまれていますが、そこに小紫の名前がないからと言って小紫が存在しなかったとは言い切れません。「吉原大雑書」の小紫を初代と考える理由の一つは、「吉原天秤」の評に「もつはらにはりつよし」とあり、「吉原大雑書」にも「今は、としまの君もまなひかたきいきはり」とあって、ハリの強さを特徴としているのに対し、「人たばね」「あくた川」「下職原」にはそれがないこと。二つには「袖かゝみ」と「大雑書」と「あくた川」には小紫の紋が載っていますが「袖かゝみ」と「大雑書」は木瓜の中に菊で同じであるのに対して「あくた川」は木瓜と菊になっていることです。 小紫家紋.jpg 「あくた川」(天和元年=延宝九年1681)は小紫の不義・不差配を多数数え上げてこき下ろしていますが、そのなかに「五年いせん極月七日に、きゝやうやおもてにかいにて、もとさくしやに申ひらき有、小ながとふぎなるよしをそうす。」とあって延宝四年1676頃には二代目小紫が(太夫かどうかは分かりませんが)存在していたことがわかります。  いづれにしても少なくとも延宝四年1676頃から権八処刑後二年以上経過した天和二年1682まで小紫は三浦屋に存在しましたからその間の自害はありません。天和二年以降に自害した可能性はあります。しかし「吉原あくた川」「下職原」に書かれている二代目小紫は、後追い心中をするようなものには思えないのです。 「吉原あくた川」は小紫について次のようにいいます。 ひとたばねのことくひいきいやなり。つみなきたかをかぎちらすふてきじんたれば、此ひやうばんかなふまじ。われかはりて、むかしよりの不義をかきあらはさん。(以下多くの不差配の例をあげていますが略します) しりのはやき事あかかねなべにて候。一さんごくいちのほれずきにて、ちらと見そめしよし、しづこゝろなきこひといふ手くだにて、大人のてきとみればくみとめうりたがり申候所、みなみなしやうこある事うたがひなし。数ぶさはいくだんのことく、(以下略)  また「吉原あくた川」の評を 「おほくは、みうら、山もと、りやうけのうわさばかりにて、御ぜんせいのきみたちまゝあれど、そこそこにいひすてぬ。さくしやの心げれつにして、画工がまいなひやとりぬらん。または一座のなじみをもつて、あがり膳をいたゞくわけあるか。人もえしらぬものどりを、高ひ山もとの女郎といひそだて、すこしのうらみあれば、やごとなき君たちを谷そこまでもつきおとす事、おのがこゝろのあくた川とは、げにげに爰にてあらはれたり。」 と厳しく批判する序をもつ「吉原下職原」ですが、小紫については 左大身従一威太夫  こむらさき この官、吉原にて一二をあらそふ君にあらずむば、にんずべからず。この君、しよ人にこうしよくにすぐれ給へるによりこむらさきとは申せ、めんていすこししやくみたりといへども、よの人には似べからず、ふうぞくかわりたるめいたいものなり。され共あくしやうの名をとりたまふ事、よしはら一ばん也。町内にねんころをもつ事はこの君ばかりにあらねども、名たかき女郎の一度ならずかれ是とし給ふも、にあはぬ事なり。第一しさいらしくて人のにくむよりて云ひろむるなり。 と書いているのです。  また二代目小紫が廓を出た後の天和三年1683初夏刊の「吉原大豆俵評判」における小若狭の評には、次のようにあります。  小若狭      角町 久右衛門内 面躰吉。誠に其さまいたゐけに、心形ちもこ若さの、とかふ申へきなんあらす。何れも宜御わたり候へ。かく申出すを、世のひとひゐきといへる、さにあらす。(中略) 小紫悪人たれともぜんせゐをしたりといわん。小紫吉原開ひやく此方の出来物也。かの君ふさはいになくをわさは、江戸の名物高尾か名をけして吉原の伝へと成へし。さのことく小紫か不義故、出たる跡迄うらむる物はあれとも、恋しきといへる人一人もなし。又高尾かなき跡をとう人はをほう有。能名は取共あしき名を取なと申せは、万御たしなみ候へ。近付ならねは、をとなしき君はいとしく筆取候へ。  柳亭種彦は「吉原買もの調」の刊年を天和二年と推定する文のなかにこの小紫について 如此人に悪まれし故に客もすくなくなり、太夫より格子へおりたるなるべし。それを此買物調の作者こゝろよく思ひ、第一に買物によそへ小紫を謗り、標題も彼が事より名つけしにやあらん、小紫も格子へおりたるを恥てや、此年出廓したり。年若にてとあるを思へば、年ん明にはあるまじ。身請哉、他所へ住替哉、その事は考へ合すべき草紙を見ず。 と記しています。  この二代目小紫は若くして傑出した存在だったのでしょう、不差配による悪評判にもかかわらず全盛だったようです。柳亭種彦は「客もすくなくなり、太夫より格子へおりたるなるべし」と云っていますが、三浦屋主人は客は多くとも三浦屋の太夫としてはふさわしくないと判断して格子へ格下げしたのではないかと思います。また、種彦は天明三年1783生まれ、天保十三年1842歿ですから二代目小紫が後追い心中をしたという話は知っているはずですが、小紫の出廓について、「年若にてとあるを思へば、年ん明にはあるまじ。身請哉、他所へ住替哉、その事は考へ合すべき草紙を見ず。」とのみ書いています。  不差配さえなければ高尾に代わって吉原の伝説的太夫になり得る逸材が自害すれば、同時代に様々採り上げられるはずですがそれが全くなく、七八十年後の噂話をまとめたような書しか存在しないのは、実在の小紫から見て、後追い自殺は作り話の可能性が高いように思われます。      落語の中の言葉一覧へ ]]> <![CDATA[
 次に実在の三浦屋抱えの太夫小紫について考えます。

『北女閭起原』には三浦屋の太夫小紫(濃紫)は三代あり、その二代目が比翼塚の小紫だとしていますが、忍頂寺務編の「小紫年代記」は、時代ごとに次の八代をあげて、延宝小紫を比翼塚の小紫としています。

 明暦小紫  「吉原丸鑑」、寛文の頃「当世武野俗談」

 延宝小紫  「吉原大雑書」・「北里見聞録」

 天和小紫  「吉原あくた川」・「吉原買物之調」

 貞享小紫  「吉原源氏五十四君」・「色里三所帯」

 元禄小紫  「傾城草摺引」・「傾城色三味線」中の名寄せ

 宝永小紫   宝永二年吉原細見

 正徳小紫  「えにし染」・「傾城手管三味線」

 享保小紫  「両巴巵言」・「浮舟草」

但し、明暦小紫については「明暦から寛文まで前後十八年に亘るから、此間に二人あったかも知れぬが、詳細判明せない。」

天和小紫については「或は前代かも知れぬが兎に角揚げておく。」としています。元禄小紫以降は比翼塚の小紫に無関係のため省略します。


 「吉原丸鑑」は享保五年1720の遊女評判記で、当時の薄雲の評文中に「そもそも、うすぐもと申は、明暦年中、うすぐも濃紫とて名君あり、そのころ高尾と全勢位をともにして、おしもおされもせぬきこゑ世上にあまねく、是を称して三浦の三美人と申せしとかや、云々」とありますが、「吉原丸鑑」以外には明暦期に小紫太夫があったことを示すものはないようです。小野晋『近世初期 遊女評判記集』研究篇には「小紫の名が初めて評判記に見えるのは、寛文末延宝初刊かと思われる二三の評書においてである。尤も、寛文十二年正月刊の『吉原丸裸』は未見であるが、それ以前の寛文度のものには絶えてその名を聞かない。」とあります。それで『吉原丸鑑』は除き、貞享小紫までの遊女評判記等を一覧にすると以下のようになります


            三浦屋内小紫太夫

            資料       小紫太夫      太夫数

1667寛文七年頃   「讃嘲記時之太鞁」  なし


1672-寛文末延宝初  「吉原天秤」     あり

1672-寛文末延宝初  「吉原袖かゝみ」   あり        13


1675延宝三年    「吉原大雑書」    あり        13


(1679延宝七年十一月  平井権八処刑)

1680延宝八年秋冬  「吉原人たばね」   あり         9

1681天和元年正月  「吉原あくた川」   あり         5

1681天和元年三月  「吉原下職原」    あり        10

1682天和二年    「吉原買もの調」   なし 太夫→格子

1683天和三年初夏  「吉原大豆俵評判」  なし         5


1686貞享三年?   「吉原酒てんとうじ」 あり 二代目の名よごし

1687貞享四年    「吉原源氏五十四君」 あり

1689元禄二年     絵入大画図     なし 格子小紫    3


「吉原酒てんとうじ」は新造(艘)の遊女のみをとりあげたもので、その中に

「 太夫 こむらさき     同(京町 三浦四郎左衛門)うち

二代目の名よごし。此ころの小哥に、もろこしだんごおといたといふは、此きみははなにあるさうな。(以下略)」

とあって、三代目であることを示しています。「吉原天秤」「吉原袖かゝみ」が初代、「吉原人たばね」から「吉原買もの調」までは二代でしょう。問題は延宝三年の「吉原大雑書」の小紫です。初代なのか二代目なのか、初代と二代の代替わりが何時なのかということです。

小野晋氏は、「初代二代の代替り襲名はいつの頃であったか。延宝二年の『吉原失墜』に小紫の名がみえないのを重視すれば、初代は寛文十一二年頃に出世し、早くもその頃までには亡くなっていたのであろう。そして延宝三年の『大ざつしよ』以前に二代目は襲名したものと思われる。」としています。

もしそうであれば、二代目小紫は延宝三年1675から天和二年1682まで三浦屋に存在したことになり、延宝七年1679十一月に刑死した権八への初七日や三十五日の後追い自殺はなかったことになります。

それで小野晋氏は次のように書かれています。

小紫と平井権八との情事や東昌寺での跡追心中については、巷説が流布されているが、『甲子夜話』や『萍花漫筆』はこれを妄説として退けている。大口屋助八と江戸町大松屋小紫とのことが附会されて、歌謡や芝居に仕組まれたことを明らかにしているのである。しかしこのことによって、かえって後人に美化され追慕されるようになり、「傾城に誠なしとは情(わけ)知らず目黒に残せし比翼塚」などと、その心中立てを礼讃され、嬌名を今日に伝えているのである。

ただ、「吉原大雑書」の小紫を二代目とすることには小野氏自身も疑問を持っています。

「しかし、(「吉原買もの調」に)年若にて候まゝ、末々たのもしく候まゝ御求め可被成候」と言う二代小紫については、さきに延宝二三年頃襲名説を出したけれども、十四歳の出世とみても天和二年はもはや廿一二歳である。」

とも書かれているからです。江戸時代には廿一二歳は年増であって「年若」とは言いません。

 ちなみに「吉原買もの調」は

     買  物                こむらさき
内々被仰候、我等出入之屋敷に安き払物候はゝ御調被成度由、御尤に存候。京町三うら内に、こむらさきと申物御座候。去比まて上官にて候へ共、御さかりにて、ふりかゝりにもなり申候。生れつきほそなかく、うつくしく候。心ね、うは気に面白候。君来すはねやへもいらしといふ古哥も、身あかり計のやうにそんし候。しかし、年若にて候まゝ、末々たのもしく候まゝ、御もとめ可被成候。安きもの御たつね候間、申進候。一笑々々。

 私は「吉原大雑書」の小紫を初代と考えます。初代が延宝三年か四年に若死にして、その後それ程間を置かずに二代目が襲名したものと考えます。それなら「吉原買もの調」の「年若」にも矛盾しません。延宝二年の『吉原失墜』は徒然草の注釈書「鉄槌」のパロディであって、遊女評判記ではありません。遊女の名前が多数おりこまれていますが、そこに小紫の名前がないからと言って小紫が存在しなかったとは言い切れません。「吉原大雑書」の小紫を初代と考える理由の一つは、「吉原天秤」の評に「もつはらにはりつよし」とあり、「吉原大雑書」にも「今は、としまの君もまなひかたきいきはり」とあって、ハリの強さを特徴としているのに対し、「人たばね」「あくた川」「下職原」にはそれがないこと。二つには「袖かゝみ」と「大雑書」と「あくた川」には小紫の紋が載っていますが「袖かゝみ」と「大雑書」は木瓜の中に菊で同じであるのに対して「あくた川」は木瓜と菊になっていることです。


小紫家紋.jpg

「あくた川」(天和元年=延宝九年1681)は小紫の不義・不差配を多数数え上げてこき下ろしていますが、そのなかに「五年いせん極月七日に、きゝやうやおもてにかいにて、もとさくしやに申ひらき有、小ながとふぎなるよしをそうす。」とあって延宝四年1676頃には二代目小紫が(太夫かどうかは分かりませんが)存在していたことがわかります。


 いづれにしても少なくとも延宝四年1676頃から権八処刑後二年以上経過した天和二年1682まで小紫は三浦屋に存在しましたからその間の自害はありません。天和二年以降に自害した可能性はあります。しかし「吉原あくた川」「下職原」に書かれている二代目小紫は、後追い心中をするようなものには思えないのです。

「吉原あくた川」は小紫について次のようにいいます。

ひとたばねのことくひいきいやなり。つみなきたかをかぎちらすふてきじんたれば、此ひやうばんかなふまじ。われかはりて、むかしよりの不義をかきあらはさん。(以下多くの不差配の例をあげていますが略します)
しりのはやき事あかかねなべにて候。一さんごくいちのほれずきにて、ちらと見そめしよし、しづこゝろなきこひといふ手くだにて、大人のてきとみればくみとめうりたがり申候所、みなみなしやうこある事うたがひなし。数ぶさはいくだんのことく、(以下略)

 また「吉原あくた川」の評を

「おほくは、みうら、山もと、りやうけのうわさばかりにて、御ぜんせいのきみたちまゝあれど、そこそこにいひすてぬ。さくしやの心げれつにして、画工がまいなひやとりぬらん。または一座のなじみをもつて、あがり膳をいたゞくわけあるか。人もえしらぬものどりを、高ひ山もとの女郎といひそだて、すこしのうらみあれば、やごとなき君たちを谷そこまでもつきおとす事、おのがこゝろのあくた川とは、げにげに爰にてあらはれたり。」

と厳しく批判する序をもつ「吉原下職原」ですが、小紫については


左大身従一威太夫
 こむらさき
この官、吉原にて一二をあらそふ君にあらずむば、にんずべからず。この君、しよ人にこうしよくにすぐれ給へるによりこむらさきとは申せ、めんていすこししやくみたりといへども、よの人には似べからず、ふうぞくかわりたるめいたいものなり。され共あくしやうの名をとりたまふ事、よしはら一ばん也。町内にねんころをもつ事はこの君ばかりにあらねども、名たかき女郎の一度ならずかれ是とし給ふも、にあはぬ事なり。第一しさいらしくて人のにくむよりて云ひろむるなり。

と書いているのです。

 また二代目小紫が廓を出た後の天和三年1683初夏刊の「吉原大豆俵評判」における小若狭の評には、次のようにあります。

 小若狭      角町 久右衛門内
面躰吉。誠に其さまいたゐけに、心形ちもこ若さの、とかふ申へきなんあらす。何れも宜御わたり候へ。かく申出すを、世のひとひゐきといへる、さにあらす。(中略)
小紫悪人たれともぜんせゐをしたりといわん。小紫吉原開ひやく此方の出来物也。かの君ふさはいになくをわさは、江戸の名物高尾か名をけして吉原の伝へと成へし。さのことく小紫か不義故、出たる跡迄うらむる物はあれとも、恋しきといへる人一人もなし。又高尾かなき跡をとう人はをほう有。能名は取共あしき名を取なと申せは、万御たしなみ候へ。近付ならねは、をとなしき君はいとしく筆取候へ。

 柳亭種彦は「吉原買もの調」の刊年を天和二年と推定する文のなかにこの小紫について

如此人に悪まれし故に客もすくなくなり、太夫より格子へおりたるなるべし。それを此買物調の作者こゝろよく思ひ、第一に買物によそへ小紫を謗り、標題も彼が事より名つけしにやあらん、小紫も格子へおりたるを恥てや、此年出廓したり。年若にてとあるを思へば、年ん明にはあるまじ。身請哉、他所へ住替哉、その事は考へ合すべき草紙を見ず。

と記しています。

 この二代目小紫は若くして傑出した存在だったのでしょう、不差配による悪評判にもかかわらず全盛だったようです。柳亭種彦は「客もすくなくなり、太夫より格子へおりたるなるべし」と云っていますが、三浦屋主人は客は多くとも三浦屋の太夫としてはふさわしくないと判断して格子へ格下げしたのではないかと思います。また、種彦は天明三年1783生まれ、天保十三年1842歿ですから二代目小紫が後追い心中をしたという話は知っているはずですが、小紫の出廓について、「年若にてとあるを思へば、年ん明にはあるまじ。身請哉、他所へ住替哉、その事は考へ合すべき草紙を見ず。」とのみ書いています。

 不差配さえなければ高尾に代わって吉原の伝説的太夫になり得る逸材が自害すれば、同時代に様々採り上げられるはずですがそれが全くなく、七八十年後の噂話をまとめたような書しか存在しないのは、実在の小紫から見て、後追い自殺は作り話の可能性が高いように思われます。



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https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R272.html 落語の中の言葉272「比翼塚の小紫・上」 Thu, 31 Oct 2024 20:00:07 +0900     古今亭志ん生「幾世餅」枕より 志ん生師匠は「幾世餅」の枕で、新吉原三浦屋の太夫小紫について、平井権八と心中したと話しています。小紫が平井権八の墓の前で後追い自殺したという話は広く知られていました。遊女とて操の正しき有。後年に三浦屋四郎左衛門が抱に濃紫といへる三代有。二代目濃むらさきは、賊平井権八に逢染しが、権八悪事露顕ありて被召捕、御仕置被仰付しが、由緒のもの、其遺骸を目黒の里に葬りて、一堆の土と成しぬ。 しかせし後、濃紫は何気なき風情に苦界して、ある豪夫にしたしみ、.. <![CDATA[     古今亭志ん生「幾世餅」枕より  志ん生師匠は「幾世餅」の枕で、新吉原三浦屋の太夫小紫について、平井権八と心中したと話しています。小紫が平井権八の墓の前で後追い自殺したという話は広く知られていました。 遊女とて操の正しき有。後年に三浦屋四郎左衛門が抱に濃紫といへる三代有。二代目濃むらさきは、賊平井権八に逢染しが、権八悪事露顕ありて被召捕、御仕置被仰付しが、由緒のもの、其遺骸を目黒の里に葬りて、一堆の土と成しぬ。 しかせし後、濃紫は何気なき風情に苦界して、ある豪夫にしたしみ、終に請出されぬ。濃紫は、その請出されし夜にそこなる宿をぬけ出、目黒へゆき、権八が墓の前にて自殺したり。自殺の後、其趣意を知れるもの不便がりて、権八が墳に双て葬りたり。是を目黒の比翼塚とて、世に能知る所なり。賊とは知れど連理の契りうしなわず、死を以て報ず。遊女の貞操、このかぎりにはあらねども、因に爰に記。(石原徒流『北女閭起原』成立は天明年間1781~89、或いは享和二年1802) この他にもさまざま書かれています。こむらさきの名は「小紫」とも「濃紫」とも書かれていますが、以下引用文以外は「小紫」に統一します。まずは話の内容から考えてみます。権八の処刑日・刑の種類・小紫自害の時期・自害の場所・その時の小紫の身分・比翼紋・幡随院長兵衛の登場有無について表にすると以下の通りです。 小紫と比翼塚.jpg  〇「安楽寺留書」は始めに 「 延宝五丁巳年1677   平井権八郎一件              武州多摩郡上布田大光山三照院                 安楽寺留書寫 」 とあって最後は 「 右筆記一冊鈴法寺前住満応老より借写せしとて小泉忍斎子みせらる。   天保八年1837丁酉二月廿九日当直写校竟 椎   園 」 です。「安楽寺留書」では、権八は安楽寺で虚無僧になったとしています。 〇「石井明道士」は石井兄弟による亀山の敵討の実録物で、そのなかに挿話として平井権八の話が出て来ますが、安永九年1780の写本には権八の記事はないそうです(及川季江「変遷する逸話」)。とすれば権八物が加わったのはその後ということになります。 〇「烟花清談」は序に「金竜山下の茶店に、往来の里語雑談を聴て、書集たる旧章(ほうく)より、見出るまゝ書ちらしぬ」とあるように、吉原に関する話を集めたもので、「三浦や小紫貞操之事付タリ平井権八比翼塚事」はその中の一話です。その文末に「末世に残す比翼塚とて目黒行人坂の西の方、冷光寺といへる虚無僧寺に印を今に残しける」とあります。 〇「麻布黒鍬谷」は「北里見聞録」に「予麻布黒鍬谷と云書を見るに」としてその内容が書かれているもので、引用文ではありませんので、「北里見聞録」に書かれていることだけしか分かりません。 〇「久夢日記」は「延宝より貞享に至る十五年間の、江戸・京都・大坂三都の風俗巷談を、後人が古書を渉猟して編纂したもの」(「続日本随筆大成 別巻」解題)と云われ、小紫の話はその中の一つです。そしてその内容から「北女閭起原」に拠っているようです。  因みに東昌寺・鈴法寺・安楽寺はすべて虚無僧寺です。東昌寺は下目黒にありますが、鈴法寺・安楽寺は多摩郡です。 享保二十年1735序の『続江戸砂子温故名跡志』巻之四には浄土宗十八壇林並諸宗役寺の最後に   虚無僧番所  金龍山梅林院一月寺 普化禅宗触頭  下総小金 江戸番所 浅草東中丁  神明山青山寺            同州舟橋 同    橘町  廓嶺山鈴法寺    普化禅宗触頭  武州青梅 同    市谷田町  安楽寺 甲州            同州布田 同    鈴法寺兼帯  東昌寺 目黒    神奈川西光寺末 江府虚無僧住居の所を番所と号、或風呂屋と云。斯徒(このと)は虚無空寂を宗とす。故に虚無僧と称す。云々。 とあります。 三寺とも江戸府外ですから『新編武蔵風土記稿』に記載があります。 〇東昌寺 境内年貢地百五十六坪下目黒町ノ西ニアリ普化宗ニテ龍渓山ト號ス橘樹郡神奈川宿西向寺末本堂五間半ニ三間半  比翼塚 境内ニアリ断碑ナリ比翼塚ノ三字ヲ彫ル白井云侠客トソノ懸想セシ遊女ヲ合葬ノ墓ニシテ普ク世ニ知ル所ナリ側ニ梅樹アリ比翼ノ梅ト呼フ(『新編武蔵風土記稿』巻四十七荏原郡) 〇鈴法寺 境内除地五段六畝二十九歩普化宗諸流ノ触頭ナリ、廓嶺山ト稱ス、本堂三間半ニ三間、本尊弥陀ヲ安ス、長一尺餘ノ木像ナリ、客殿ハ三間半ニ四間、開山養風、是モ慶長十九年吉野織部起立トイフ 薬師堂九尺四方、境内ニアリ(『新編武蔵風土記稿』巻百十八 多摩郡新町村) 〇安楽寺 境内除地三段六畝八歩上宿南裏ニアリ大光山ト號ス普化宗本郡新町村鈴法寺末、開山開基詳ナラス、客殿破壊シテイマタ再興セス、本尊ハ今假ニ永法寺ニ置、木像ノ薬師ニシテ長七八寸(『新編武蔵風土記稿』巻九三 多摩郡上布田宿) 江戸番所のうち浅草東仲町の一月寺番所だけ町方書上に見つかりました。 〇一月寺番所 浅草東仲町                     宿主文右衛門店                         一月寺番所 普化禅宗惣本寺触頭下総国小金宿一月寺番所の儀は、御入国の砌より御府内へ罷りあり 御用向き相勤め来り候。もっとも、御府内へ地所御座なく候につき、借地または店借にて罷りあり候。これにより、場所替えなど致し候節は、その時々寺社 御奉行所にお届け申し上げ候。もっとも、古来より所々に罷りあり、当東仲町へは享保年中に罷り成り候。 右の通りに御座候。この段申し上げ候。以上。                        一月寺院代   (文政八年1825)酉十一月十九日        西 向 寺                (『江戸町方書上』浅草東仲町) 石井良助氏は『第二江戸時代漫筆』に 江戸時代の普化宗の総本山は下総小金の一月寺と武蔵青梅の鈴法寺の二つであって、各寺はいずれも末寺があり、虚無僧はこのいずれかの寺に属したのでした。普化宗の寺の住持は剃髪の場合には住職、有髪のときは看主(かんす)と呼びました。(中略)  普化宗の末寺を風呂屋とか風呂寺とかいいました。これは二代目の祖が寺中に風呂をたてて、諸人に施しましたが、その中、志ある者が薪木料を志として置いたのを申請けましたので、それが言伝えられて、風呂寺という称呼ができたといわれます。 と書かれています。  安楽寺留書を除くと平井権八の処刑から百年程後に書かれたものです。権八の処刑日を「石井明道士」「幡随院長兵衛一代記」は貞享元年九月廿七日と誤っており、その他の書には日付がありません。刑の種類も「石井明道士」「麻布黒鍬谷」「幡随院長兵衛一代記」が磔としている他は明記されていません。これらの話が書かれた頃には、処刑されたことだけが伝わっていて、処刑の年月日も磔だったことも不明になっていたものと思われます。安楽寺留書が権八処刑前の延宝五年になっているのも、それらが不明になった頃に書かれたからでしょう。延宝五年に書かれたものではありえません。椎園は天保八年の時点で権八の処刑日と磔だったことを知らなかったために、この留書写を本物と思い「平井権八郎事実」として記録しています。  また、「平井権八と幡随院長兵衛」で紹介したように、幡随院長兵衛は平井権八が磔になる二十数年前に死亡していますから、小紫の自害の場に登場するはずはありません。以上からどうも事実に基づいて書かれたものではない可能性が高いように思われます。しかし小紫の自害自体が無かったということにはなりません。そこで次に、実在した小紫と比翼塚について検討してみます。        落語の中の言葉一覧へ ]]> <![CDATA[     古今亭志ん生「幾世餅」枕より

 志ん生師匠は「幾世餅」の枕で、新吉原三浦屋の太夫小紫について、平井権八と心中したと話しています。小紫が平井権八の墓の前で後追い自殺したという話は広く知られていました。

遊女とて操の正しき有。後年に三浦屋四郎左衛門が抱に濃紫といへる三代有。二代目濃むらさきは、賊平井権八に逢染しが、権八悪事露顕ありて被召捕、御仕置被仰付しが、由緒のもの、其遺骸を目黒の里に葬りて、一堆の土と成しぬ。 しかせし後、濃紫は何気なき風情に苦界して、ある豪夫にしたしみ、終に請出されぬ。濃紫は、その請出されし夜にそこなる宿をぬけ出、目黒へゆき、権八が墓の前にて自殺したり。自殺の後、其趣意を知れるもの不便がりて、権八が墳に双て葬りたり。是を目黒の比翼塚とて、世に能知る所なり。賊とは知れど連理の契りうしなわず、死を以て報ず。遊女の貞操、このかぎりにはあらねども、因に爰に記。(石原徒流『北女閭起原』成立は天明年間1781~89、或いは享和二年1802)

この他にもさまざま書かれています。こむらさきの名は「小紫」とも「濃紫」とも書かれていますが、以下引用文以外は「小紫」に統一します。まずは話の内容から考えてみます。権八の処刑日・刑の種類・小紫自害の時期・自害の場所・その時の小紫の身分・比翼紋・幡随院長兵衛の登場有無について表にすると以下の通りです。
小紫と比翼塚.jpg
 
〇「安楽寺留書」は始めに
「 延宝五丁巳年1677
  平井権八郎一件
             武州多摩郡上布田大光山三照院
                安楽寺留書寫 」
とあって最後は
「 右筆記一冊鈴法寺前住満応老より借写せしとて小泉忍斎子みせらる。
  天保八年1837丁酉二月廿九日当直写校竟 椎   園 」
です。「安楽寺留書」では、権八は安楽寺で虚無僧になったとしています。
〇「石井明道士」は石井兄弟による亀山の敵討の実録物で、そのなかに挿話として平井権八の話が出て来ますが、安永九年1780の写本には権八の記事はないそうです(及川季江「変遷する逸話」)。とすれば権八物が加わったのはその後ということになります。
〇「烟花清談」は序に「金竜山下の茶店に、往来の里語雑談を聴て、書集たる旧章(ほうく)より、見出るまゝ書ちらしぬ」とあるように、吉原に関する話を集めたもので、「三浦や小紫貞操之事付タリ平井権八比翼塚事」はその中の一話です。その文末に「末世に残す比翼塚とて目黒行人坂の西の方、冷光寺といへる虚無僧寺に印を今に残しける」とあります。
〇「麻布黒鍬谷」は「北里見聞録」に「予麻布黒鍬谷と云書を見るに」としてその内容が書かれているもので、引用文ではありませんので、「北里見聞録」に書かれていることだけしか分かりません。
〇「久夢日記」は「延宝より貞享に至る十五年間の、江戸・京都・大坂三都の風俗巷談を、後人が古書を渉猟して編纂したもの」(「続日本随筆大成 別巻」解題)と云われ、小紫の話はその中の一つです。そしてその内容から「北女閭起原」に拠っているようです。

 因みに東昌寺・鈴法寺・安楽寺はすべて虚無僧寺です。東昌寺は下目黒にありますが、鈴法寺・安楽寺は多摩郡です。
享保二十年1735序の『続江戸砂子温故名跡志』巻之四には浄土宗十八壇林並諸宗役寺の最後に
  虚無僧番所
 金龍山梅林院一月寺 普化禅宗触頭  下総小金 江戸番所 浅草東中丁
 神明山青山寺            同州舟橋 同    橘町
 廓嶺山鈴法寺    普化禅宗触頭  武州青梅 同    市谷田町
 安楽寺 甲州            同州布田 同    鈴法寺兼帯
 東昌寺 目黒    神奈川西光寺末
江府虚無僧住居の所を番所と号、或風呂屋と云。斯徒(このと)は虚無空寂を宗とす。故に虚無僧と称す。云々。
とあります。
三寺とも江戸府外ですから『新編武蔵風土記稿』に記載があります。
〇東昌寺 境内年貢地百五十六坪下目黒町ノ西ニアリ普化宗ニテ龍渓山ト號ス橘樹郡神奈川宿西向寺末本堂五間半ニ三間半  比翼塚 境内ニアリ断碑ナリ比翼塚ノ三字ヲ彫ル白井云侠客トソノ懸想セシ遊女ヲ合葬ノ墓ニシテ普ク世ニ知ル所ナリ側ニ梅樹アリ比翼ノ梅ト呼フ(『新編武蔵風土記稿』巻四十七荏原郡)

〇鈴法寺 境内除地五段六畝二十九歩普化宗諸流ノ触頭ナリ、廓嶺山ト稱ス、本堂三間半ニ三間、本尊弥陀ヲ安ス、長一尺餘ノ木像ナリ、客殿ハ三間半ニ四間、開山養風、是モ慶長十九年吉野織部起立トイフ 薬師堂九尺四方、境内ニアリ(『新編武蔵風土記稿』巻百十八 多摩郡新町村)

〇安楽寺 境内除地三段六畝八歩上宿南裏ニアリ大光山ト號ス普化宗本郡新町村鈴法寺末、開山開基詳ナラス、客殿破壊シテイマタ再興セス、本尊ハ今假ニ永法寺ニ置、木像ノ薬師ニシテ長七八寸(『新編武蔵風土記稿』巻九三 多摩郡上布田宿)

江戸番所のうち浅草東仲町の一月寺番所だけ町方書上に見つかりました。
〇一月寺番所 浅草東仲町
                    宿主文右衛門店
                        一月寺番所
普化禅宗惣本寺触頭下総国小金宿一月寺番所の儀は、御入国の砌より御府内へ罷りあり 御用向き相勤め来り候。もっとも、御府内へ地所御座なく候につき、借地または店借にて罷りあり候。これにより、場所替えなど致し候節は、その時々寺社 御奉行所にお届け申し上げ候。もっとも、古来より所々に罷りあり、当東仲町へは享保年中に罷り成り候。
右の通りに御座候。この段申し上げ候。以上。
                       一月寺院代
  (文政八年1825)酉十一月十九日        西 向 寺
               (『江戸町方書上』浅草東仲町)

石井良助氏は『第二江戸時代漫筆』に
江戸時代の普化宗の総本山は下総小金の一月寺と武蔵青梅の鈴法寺の二つであって、各寺はいずれも末寺があり、虚無僧はこのいずれかの寺に属したのでした。普化宗の寺の住持は剃髪の場合には住職、有髪のときは看主(かんす)と呼びました。(中略)
 普化宗の末寺を風呂屋とか風呂寺とかいいました。これは二代目の祖が寺中に風呂をたてて、諸人に施しましたが、その中、志ある者が薪木料を志として置いたのを申請けましたので、それが言伝えられて、風呂寺という称呼ができたといわれます。

と書かれています。

 安楽寺留書を除くと平井権八の処刑から百年程後に書かれたものです。権八の処刑日を「石井明道士」「幡随院長兵衛一代記」は貞享元年九月廿七日と誤っており、その他の書には日付がありません。刑の種類も「石井明道士」「麻布黒鍬谷」「幡随院長兵衛一代記」が磔としている他は明記されていません。これらの話が書かれた頃には、処刑されたことだけが伝わっていて、処刑の年月日も磔だったことも不明になっていたものと思われます。安楽寺留書が権八処刑前の延宝五年になっているのも、それらが不明になった頃に書かれたからでしょう。延宝五年に書かれたものではありえません。椎園は天保八年の時点で権八の処刑日と磔だったことを知らなかったために、この留書写を本物と思い「平井権八郎事実」として記録しています。
 また、「平井権八と幡随院長兵衛」で紹介したように、幡随院長兵衛は平井権八が磔になる二十数年前に死亡していますから、小紫の自害の場に登場するはずはありません。以上からどうも事実に基づいて書かれたものではない可能性が高いように思われます。しかし小紫の自害自体が無かったということにはなりません。そこで次に、実在した小紫と比翼塚について検討してみます。



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https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/K19.html 気になる言葉19「かわいい」 Thu, 10 Oct 2024 19:56:51 +0900  「かわいい」という言葉は頻繁に聞きます。大分前からのはやり言葉で、未だに廃れません。ただこの言葉少し変なのです。「そうだ」という言葉を後ろに付けた時、それが現れます。 形容詞の場合、終止形に「そうだ」を付けると伝聞の意味になり、語幹に付けると推量の意味になります。        伝聞の意      推量の意  寒い    寒いそうだ     寒そうだ  痛い    痛いそうだ     痛そうだ  面白い   面白いそうだ    面白そうだ  美しい   美しいそうだ    .. <![CDATA[  「かわいい」という言葉は頻繁に聞きます。大分前からのはやり言葉で、未だに廃れません。ただこの言葉少し変なのです。「そうだ」という言葉を後ろに付けた時、それが現れます。  形容詞の場合、終止形に「そうだ」を付けると伝聞の意味になり、語幹に付けると推量の意味になります。         伝聞の意      推量の意   寒い    寒いそうだ     寒そうだ   痛い    痛いそうだ     痛そうだ   面白い   面白いそうだ    面白そうだ   美しい   美しいそうだ    美しそうだ  ところが「かわいい」になると   かわいい  かわいいそうだ   かわいそうだ 終止形に「そうだ」と続けた場合は他の言葉と同じく伝聞の意味になりますが、語幹に付けた時は他の言葉の場合とは違い、「かわいい」とは別の意味になってしまいます。何故でしょう。 「かわいい」を辞書で引くと  かわいい《形》(カワユイの転。「可愛い」は当て字)   ①いたわしい。ふびんだ。かわいそうだ。   ②愛すべきである。深い愛情を感じる。   ③小さくて美しい。         (『広辞苑』) とあります。今は専ら②と③の意味で使われ、①の意味では使われていません。どうやら『広辞苑』は、この言葉の意味を古い順に並べたらしく思われます。  「かわいい」は「かはゆし」が元で、かはゆし→かは(ワ)ゆい→かわいい と変化したらしい。そこで 「かはゆし」を辞書で引くと次のようにありました。  かはゆし 形ク  ①いとおしい。かわいそうだ。  ②恥ずかしい。  ③愛らしい。     (『角川古語辞典』) 清水浜臣は『答問雑稿』(享和二年頃~文政五年頃)に多くの例を引いて次のように云います。 按ずるに、かはゆしといふ詞、可愛の字音也といふは、いみじきあやまり也。(中略) さればかはゆしとは、其人を不便におもふ心の、われながらとどめがたきをいふ事なりとしるべし。 〇今昔物語巻廿六 継母は自分の連れ子に財産を独り占めさせようと、手なずけた家来に継子を殺させようとする、 男の思ふ様、「この児に刀を突き立て、箭を射立てて殺さむは、なほかはゆし。ただ野に将て行て、掘り埋まん」と思ひて、 〇『徒然草』第百七十五段 酔っぱらいの醜態について 年老い、袈裟掛けたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いとかはゆし。 いずれも不憫に思う気持ちを表しています。 江戸時代にも「ふびんだ、かわいそうだ」の意味で「可愛い」が使われています。 ○木室卯雲『鹿の子餅』明和九年1772 夜発(よたか)蕎麦、一つ辻へ集まり、「さて、惣兵衛と十兵衛、『米が高くて蕎麦きりも合(あは)ぬ合ぬ』と言ふたが、ゆふべから内へもどらぬといふ事じや。出奔したか、又は狐にでも化(ば)やかされて、どこぞに居るか、何にもせい可愛(かわゆ)いこつた。どうで歩く夜道、手ンでンに呼んで、尋ねてやらうじやあるまいか」「いかにも、それがよかろう」と、面々、箱をかついで立ち別れ、声張り上げて、「蕎麦きり蕎麦きり」。声低にして、「十兵衛やそうべい」。  言葉は使い方も意味も変わっていきます。もとは、〈いたわしい・不憫だ〉という意味であった「かはゆし」も、〈愛すべき〉の意味が加わって「可愛い」と当て字されるようになり、ついには専らその意味で使われるようになったものと思われます。そしてもともとの〈いたわしい・不憫だ〉という意味は「かわいそうだ」という言葉にだけ残ったのでしょう。  「かわゆい」と同様に、一部の意味でしか使われなくなった言葉に「おかしい(をかし)」「かなしい(かなし)」もあります。 さて猶くはしく考へおもへば、をかしも、あはれも、かなしも、皆心の中にいたくしみとほるほど切なる時、うれしきにも、かなしきにも、わらはしきにも、おもしろきにもいふ詞也。(『答問雑稿』) 「をかし」は、枕草子に多用されていて知られていますので省きますが、普通でないこと(プラスの価値の方向にもマイナスの価値の方向にも)に使われていましたが、プラスの価値の方向に普通でないことには使われなくなったように思われます。 かなしとは、身にしみておもふことにひろくいへる詞なり。悲歎の意をいふやうなれど、これハことに身にしみておぼゆれバ、おのづからそのこころにいへるがあまたあるゆゑに、さおもハるゝになん。古今集の歌に、みちのくハいづくハあれどしほがまのうらこぐ舟のつなでかなしも、といへるハ、身にしミておもしろくおぼゆるこゝろ、伊勢物語に、ひとり子にさへありければいとかなしうしたまひけり、とあるハ、身にしみていつくしむこゝろ、又同物語に、さりともとおもふらんこそかなしけれあるにもあらぬ身をばしらずて、といひ、古今集に、声をだにきかでわかるゝたまよりもなきとこにねん君ぞかなしき、といへるハ、身にしみていとほしくおもふこころなり。かくいろいろにつかへるやうかはれども、身にしみておもふこゝろは同じけれバ、さるこゝろの詞とおもひて。 (藤井髙尚『松の落葉』 髙尚は天保十一年1840歿) 〇今昔物語巻廿六 それが若かりける時、子もなかりければ、わが財伝ふべき人なしとて、子をあながちに願ひける程に、年もやうやく老いにけり。妻の年は四十に余るまでなん、今は子産まん事も思ひ懸けぬ程に、懐妊しにけり。夫妻ともにこれを喜び思ふ程に、月満ちて端正美麗なる男子を産めば、父母これを悲しみ愛して、目を放たず養ふ程に、(以下略) 〇古今和歌集 をとこの人の国にまかりけるまに女にはかにやまひをしていとよわくなりにける時よみおきてみまかりにける      よみ人しらず   声をだにきかでわかるゝたまよりもなきとこにねむ君ぞかなしき この歌を本居宣長は次のように口語訳をしています(『古今集遠鏡』)。 追付京へ御カヘリナサッタラ ワタシハモウ今度死ンデシマウテ居モセヌ床ヘオヒトリサビシウ御寝(ぎよし)ナルデアラウト存ジマスレバ オマヘノ御声ヲサヘエキカズニ ワカレテ死ニマスルワタシガ魂ヨリモ オマヘガサ ワシヤオイトシイ この二例の「悲しみ」「かなしき」はともに「いとおしい」の意味で悲哀ではありません。        気になる言葉一覧へ ]]> <![CDATA[  「かわいい」という言葉は頻繁に聞きます。大分前からのはやり言葉で、未だに廃れません。ただこの言葉少し変なのです。「そうだ」という言葉を後ろに付けた時、それが現れます。
 形容詞の場合、終止形に「そうだ」を付けると伝聞の意味になり、語幹に付けると推量の意味になります。

        伝聞の意      推量の意
  寒い    寒いそうだ     寒そうだ
  痛い    痛いそうだ     痛そうだ
  面白い   面白いそうだ    面白そうだ
  美しい   美しいそうだ    美しそうだ

 ところが「かわいい」になると

  かわいい  かわいいそうだ   かわいそうだ

終止形に「そうだ」と続けた場合は他の言葉と同じく伝聞の意味になりますが、語幹に付けた時は他の言葉の場合とは違い、「かわいい」とは別の意味になってしまいます。何故でしょう。

「かわいい」を辞書で引くと

 かわいい《形》(カワユイの転。「可愛い」は当て字)
  ①いたわしい。ふびんだ。かわいそうだ。
  ②愛すべきである。深い愛情を感じる。
  ③小さくて美しい。         (『広辞苑』)

とあります。今は専ら②と③の意味で使われ、①の意味では使われていません。どうやら『広辞苑』は、この言葉の意味を古い順に並べたらしく思われます。

 「かわいい」は「かはゆし」が元で、かはゆし→かは(ワ)ゆい→かわいい と変化したらしい。そこで 「かはゆし」を辞書で引くと次のようにありました。

 かはゆし 形ク
 ①いとおしい。かわいそうだ。
 ②恥ずかしい。
 ③愛らしい。     (『角川古語辞典』)

清水浜臣は『答問雑稿』(享和二年頃~文政五年頃)に多くの例を引いて次のように云います。
按ずるに、かはゆしといふ詞、可愛の字音也といふは、いみじきあやまり也。(中略)
さればかはゆしとは、其人を不便におもふ心の、われながらとどめがたきをいふ事なりとしるべし。

〇今昔物語巻廿六
継母は自分の連れ子に財産を独り占めさせようと、手なずけた家来に継子を殺させようとする、

男の思ふ様、「この児に刀を突き立て、箭を射立てて殺さむは、なほかはゆし。ただ野に将て行て、掘り埋まん」と思ひて、

〇『徒然草』第百七十五段
酔っぱらいの醜態について

年老い、袈裟掛けたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いとかはゆし

いずれも不憫に思う気持ちを表しています。
江戸時代にも「ふびんだ、かわいそうだ」の意味で「可愛い」が使われています。
○木室卯雲『鹿の子餅』明和九年1772
夜発(よたか)蕎麦、一つ辻へ集まり、「さて、惣兵衛と十兵衛、『米が高くて蕎麦きりも合(あは)ぬ合ぬ』と言ふたが、ゆふべから内へもどらぬといふ事じや。出奔したか、又は狐にでも化(ば)やかされて、どこぞに居るか、何にもせい可愛(かわゆ)いこつた。どうで歩く夜道、手ンでンに呼んで、尋ねてやらうじやあるまいか」「いかにも、それがよかろう」と、面々、箱をかついで立ち別れ、声張り上げて、「蕎麦きり蕎麦きり」。声低にして、「十兵衛やそうべい」。

 言葉は使い方も意味も変わっていきます。もとは、〈いたわしい・不憫だ〉という意味であった「かはゆし」も、〈愛すべき〉の意味が加わって「可愛い」と当て字されるようになり、ついには専らその意味で使われるようになったものと思われます。そしてもともとの〈いたわしい・不憫だ〉という意味は「かわいそうだ」という言葉にだけ残ったのでしょう。

 「かわゆい」と同様に、一部の意味でしか使われなくなった言葉に「おかしい(をかし)」「かなしい(かなし)」もあります。

さて猶くはしく考へおもへば、をかしも、あはれも、かなしも、皆心の中にいたくしみとほるほど切なる時、うれしきにも、かなしきにも、わらはしきにも、おもしろきにもいふ詞也。(『答問雑稿』)

「をかし」は、枕草子に多用されていて知られていますので省きますが、普通でないこと(プラスの価値の方向にもマイナスの価値の方向にも)に使われていましたが、プラスの価値の方向に普通でないことには使われなくなったように思われます。

かなしとは、身にしみておもふことにひろくいへる詞なり。悲歎の意をいふやうなれど、これハことに身にしみておぼゆれバ、おのづからそのこころにいへるがあまたあるゆゑに、さおもハるゝになん。古今集の歌に、みちのくハいづくハあれどしほがまのうらこぐ舟のつなでかなしも、といへるハ、身にしミておもしろくおぼゆるこゝろ、伊勢物語に、ひとり子にさへありければいとかなしうしたまひけり、とあるハ、身にしみていつくしむこゝろ、又同物語に、さりともとおもふらんこそかなしけれあるにもあらぬ身をばしらずて、といひ、古今集に、声をだにきかでわかるゝたまよりもなきとこにねん君ぞかなしき、といへるハ、身にしみていとほしくおもふこころなり。かくいろいろにつかへるやうかはれども、身にしみておもふこゝろは同じけれバ、さるこゝろの詞とおもひて。 (藤井髙尚『松の落葉』 髙尚は天保十一年1840歿)

〇今昔物語巻廿六
それが若かりける時、子もなかりければ、わが財伝ふべき人なしとて、子をあながちに願ひける程に、年もやうやく老いにけり。妻の年は四十に余るまでなん、今は子産まん事も思ひ懸けぬ程に、懐妊しにけり。夫妻ともにこれを喜び思ふ程に、月満ちて端正美麗なる男子を産めば、父母これを悲しみ愛して、目を放たず養ふ程に、(以下略)

〇古今和歌集
をとこの人の国にまかりけるまに女にはかにやまひをしていとよわくなりにける時よみおきてみまかりにける      よみ人しらず
  声をだにきかでわかるゝたまよりもなきとこにねむ君ぞかなしき

この歌を本居宣長は次のように口語訳をしています(『古今集遠鏡』)。
追付京へ御カヘリナサッタラ ワタシハモウ今度死ンデシマウテ居モセヌ床ヘオヒトリサビシウ御寝(ぎよし)ナルデアラウト存ジマスレバ オマヘノ御声ヲサヘエキカズニ ワカレテ死ニマスルワタシガ魂ヨリモ オマヘガサ ワシヤオイトシイ

この二例の「悲しみ」「かなしき」はともに「いとおしい」の意味で悲哀ではありません。


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言葉 たて長屋の隠居 blog:https://blog.seesaa.jp,9rakugo-fan/505100652
https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R271.html 落語の中の言葉271「幡随院長兵衛追補2」 Fri, 20 Sep 2024 20:00:10 +0900  幡随院長兵衛の生業についてWEB上には幡随院長兵衛の生業を「口入業」としているものもありますが、正確ではありません。幡随院長兵衛の生業は武家奉公人の一般口入ではなく、小普請高割人足の請負だったようです。『昔々物語』(享保十七1732・十八年1733頃八十歳程の老人の著)に幡随院長兵衛の時代の一般の武家奉公人の口入と小普請高割人足の請負のことが書かれています。一般の武家奉公人の口入についてはむかしは家来春替り二月二日也、寛文申年(寛文の申年は八年1668)より三月五日成、出替.. <![CDATA[  幡随院長兵衛の生業について WEB上には幡随院長兵衛の生業を「口入業」としているものもありますが、正確ではありません。幡随院長兵衛の生業は武家奉公人の一般口入ではなく、小普請高割人足の請負だったようです。『昔々物語』(享保十七1732・十八年1733頃八十歳程の老人の著)に幡随院長兵衛の時代の一般の武家奉公人の口入と小普請高割人足の請負のことが書かれています。 一般の武家奉公人の口入については むかしは家来春替り二月二日也、寛文申年(寛文の申年は八年1668)より三月五日成、出替の日奉公人肝煎の宿来り、御家へ何様の御奉公人何人御用候哉と家々に来り問答夫々申會かへす、また外のものも右の通申来、幾人も可掛御目とて男女五六人も召連来、其内人柄気に入候者有之候得は、宿何と申者大屋は誰、先主は誰と尋、切米の高取替、夏貸等極め、男女共に食に付、先一日召仕色々奉公申附、女には縫物其外藝致させ、又早朝より参り候様申付返す、男女共に同前也。翌日もまた呼ひ終日奉公申付、又明日も参り候様に申付、如斯五日も六日も毎日呼出召仕其内外にも宜者参り候へは、引替るもあり、五日も十日も呼候へは、奉公人最早幾日相勤候、願くは御請状可被下と願ふ時、請状致させ、男は其晩引越、女は翌晩引越、三日も四日も能働時、奉公今まてはよく勤候、おのれは新参、七十日と申にてはなきかなとゝ油断せす、其頃奉公人は食に付是もはつし候得は、殊外むつかしく成て奉公人も構て宿迠も及迷惑、惣して男の奉公人は、少しも悪舗事あり慮外するなれは、家々にて手討にする。欠落すれは、尋出させためしものにする故、家々のためしもの、爰かしこに壹ヶ月には二三度も有之ゆへ、下々作法もよく、刀脇差の身の心見も調(とゝのふ)なり。 小普請高割人足の請負については 八九拾年以前の昔は、小普請の面々御破損の人足を出す、百石已下は御免にて不出、百石(以上)斗出す、五百石以上より杖突とて侍壱人たち付に羽織を着し、人足を引連出、人足の出し様大かた萬(百)石に付一ケ年に貳三人出す。杖突一年に五六度出、人数の扶持かた一ヶ月に壱人扶持つゝ被下、手前の中間御城の人足に出す故、春中間召抱候時小普請の中間は江戸中大屋請とて、請人に差添て大屋請に立、文言は此誰様御内御仲間御城に普請に於て何様の悪事仕候か、又は御奉行様方江少も慮外仕候はゝ、當人の儀は不及申上請人幷大屋迠何様に被仰付候共、少も御恨に存間敷候と文言、出入の有人数、當る前日に誰々内杖突誰よりとて小普請の用人方へ手紙を明日何方の御普請に人足何人申候由、小普請奉行より被仰付候、御高割其元様の御高にて、明日何壱人(何処へ何人)と成共二人と成共人足御出し候節に御申上候間、明日何時何分何所へ人足御出可被成候、其節私罷出差圖致御普請場へ同道仕可申と申来る。相心得申由返事仕、扨其日夜の内主人も起其人足遣、仲間御普請大切に相勤候様にと申付出す、其日の晩方七つ過帰る迠気遣ひ致し相待、夫より後は手前の仲間出る事止み、町人に普請人足請合候者出来、請合の町人に金子渡す、譬へは百石に付金子何程にて請合可申と申者有之候へは、下直成るは百石に付貳朱斗にて請合も有、亦二三百石にて壱歩貳朱も有、尤慥成家屋舗持たる町人を請合、尤人足毎日御扶持方其町人の方へ請取也。方々故大分の金高成候付、請合たる町人夥しく有、尤請状毎年仕直し御普請場人足少も間違相違仕間敷、人足慥成者出し可申候。萬一少しも悪事仕出し候はゝ人足は不及申、私等請人まて何様の曲事被仰付候様にと證文致させ取置候也。寛文の比より右町人請合止る、百石に付金子壱両つゝ小普請金とて差上る。其後亦小普請金上り、百石に付壱両貳歩に成、百石以下も出す。  深井雅海氏の「御庭番の隠密活動」(徳川林政史研究所監修『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』)に、小普請組支配船越駿河守景範に関する御庭番中村与八郎惟寅の風聞書の解説があり、その中に小普請についての簡潔な説明がありますので紹介します。 小普請とは、旗本・御家人の内、家禄三〇〇〇石未満の無役の士をいう。幕府では、無役の士のうち家禄三〇〇〇石以上、あるいはかつて布衣以上の役職に就いていた者を寄合に編入し、家禄三〇〇〇石未満、および本来は寄合の資格を持つ者でも処罰された者を小普請に編入した。  その名称の起源は、はじめ老人や幼少で無役・無勤の者が、日頃の奉公にかわるものとして殿中その他の小普請の際に夫役を負担し、家士や奉公人を人夫として差し出したところにあるという。これは元禄三年(一六九〇)より役金の上納に変わり、それを小普請金と称し、家禄五〇〇俵(石)以上の者は、一〇〇俵(石)につき金二両を上納した(それ以下の者は軽減)。  小普請ははじめ留守居の支配に属したが、享保四年(一七一九)六月には小普請組支配(役高三〇〇〇石、布衣役)を新設して、家禄三〇〇〇石未満二〇〇石以上の士をその配下となし(二〇〇石未満の士は従前のように留守居支配)、さらに宝暦三年(一七五三)六月には留守居の支配を廃止して、二〇〇石未満の士も小普請組支配の所属とした。  以後は御目見以上の士(旗本)を小普請支配、御目見以下の士(御家人)を小普請組ととなえることになったという。その頭である小普請組支配は一〇人前後置かれ、各組に小普請組支配組頭(役高二〇〇俵、御目見以上)一人、小普請組世話役(役高五〇俵、御目見以下)三人の他、小普請組世話取扱・小普請金上納役・小普請医師などが所属した。 文政元年1818の武鑑には   御小普請支配     御老中御支配 布衣 中之間 三千石高     当御役享保四ヨリ新規 前八組宝暦ヨリ十二組     〔同組頭〕     焼火之間 高無構 御役料三百俵 延享三ヨリ新規     〔同世話役〕     五十俵高 御役扶持三人扶持 とあって、御小普請支配として次の八名をあげています。 朝比奈河内守昌始・石川右近将監忠房・松平石見守正卜・大島肥前守義徳・近藤左京政風・松平内匠頭乗譲・米津小太夫田朝・堀田伊勢守一知 各御小普請支配には組頭一名と世話役三名が載っています。  高割人足の請負業については三田村鳶魚氏が『武家の生活』で分かりやすく説明しています。 小普請というのは御役に出ないやつで、つまり非役の分になる。ですから、小普請になりますと、百石の者は百石、百俵の者は百俵、持高でいるのです。閑職のわけだ。小普請奉行とか、小普請方とかいって、本当に普請する役回りではない。無役ということになるのです。小普請という言葉は、屋根の瓦が壊れたとか、垣根が壊れたとかいうような小さい工事 ― 補修工事の意味で、そういうことをやるのが、小普請奉行の仕事なのですが、無役でいる旗本・御家人は、御役をつとめませんから、この小普請工事に参加させたのです。それを後には、小普請金を持高に割り当てて出させて、工事に参加することに代えたのです。(中略)  小普請金というものは、七月に三分ノ一、十一月に三分ノ二納めるのですが、これはどういう標準で出すかといいますと、知行を取っている者でも一石一俵の割、すなわち俵取りも一俵を一石として勘定するのです。扶持は総締にして俵に換算するので、前に申した老年小普請を除くほか、二十俵未満の人を取り除けて、他は皆出すのです。二十俵から五十俵までは金二分、百俵以内は一両、百俵から五百俵までは百俵ごとに一両二分、五百俵以上は百俵ごとに二両、ということになっております。    小普請の夫役―割元業の成立と消滅、遊侠の掃蕩  この定は元禄二年1689からと聞いておりますが、延宝三年1675までは夫役でありました。その時は、百石一両と押えて金を納める。夫役の時代には、工事のある場合には、小普請奉行から人足を割当てたのですが、百石以下には当てません。百石以上は百石ごとに二三人ずつ出させるので、五百石になると、そのほかに杖突が一人出る。杖突というのは人夫の小頭みたいなもので、これは士ですが、他の人夫は中間です。しかし、寛永度になりますと、もう人夫は持っていない。実際人がないのだから、人夫を出せといわれても人が出せない。臨時に雇うよりほかに仕方がないので、どこかから雇って、従来いたような顔をして、小普請奉行の指図通りに人を出す。この出した人については、工事に出る時だけ雇った者でありましても、とにかく家来のわけなのですから、何か仕損いがあれば主人に責任がくる。相手が幕府だけに、なかなか面倒臭い。随分これを出した旗本の身分に関係するようなことがありましたから、普通の雇入請状の請人は勿論、本人の尊属の住っている土地の町役人に加判させる。恐しい格高な雇人になったわけです。  それでも、不断用のない人間を抱えておくわけにはゆきませんから、そういうふうにしていたのですが、とてもこれは続きません。そこで、慶安頃からは、町人が引き受けるようになりました。こうなると費用も安くなり、百石について二朱、二三百石について一分二朱くらいで引き受けてくれる。これは、幕府から、出した人数の各々に一人扶持をくれるので、それは町人に渡します。その上に、二朱とか、一分二朱とかいうものを払うのですが、請け負わせるだけは請け負わせても、幕府へは請負人誰の名義で出すのではない。何の某という士の名義で出すのですから、間違った場合には、腹を切らなければならぬ。よっぽど請負人に信用がなければ、頼むわけにはいかない。  また、これを引き受ける割元なるものの方でも、いつそう言われても差し出し得るだけの人数を持っていなければならない。常に元気のいい若い者を持っていて、たとえば、松平備後守から言って来れば、直ちにその家来として人を出す。松平美濃守から命令があれば、またその名義で直ちに人を出す。そういうわけですから、手に始終それだけの寄子を持っていなければならぬのみならず、寄子はその割元の言うことを聞くようでなければならない。割元は、旗本からの信用と、寄子からの信用と、両方釣り合わして行くのだから、非常に骨が折れる。こういう次第で割元業が成立したのですが、その中に、例の幡随院長兵衛がおりました。割元業者は幾人もおったのだけれども、最も人に知られたのが長兵衛で、あれはただの侠客なんていうものではありません。それが、小普請金の制度が出来るようになると、長兵衛の稼業は上ったりで、割元業も延宝度からなくなったわけであります。これは遊侠掃蕩が行われたので、小普請金になるに先立って、割元業が滅亡したのです。  金納に変わった時期について、『昔々物語』には「寛文(1661~1673)の比より右町人請合止る、百石に付金子壱両つゝ小普請金とて差上る」とありますが、小普請金の最初の規定は延宝三年1675十二月で  小普請人足金ノ定 小普請人足御用千石拾両百石ニ付壱両、知行高下其割を以請負ニ被仰付候(割注:按ニ延宝八年九月ヨリ小普請百石ニ付金弐分ニ改正アリ) (『徳川禁令考』巻17) とあり、詳細な規定が出来たのは元禄三年1690です。 戸田茂睡『御当代記』には、 元禄二年1689極月十六日、小普請衆、人足料之事、二十俵御切米より百石迄金二分ヅヽ、百石より九百石迄百石ニ付金壱両二分ヅヽ、千石より九千石迄千石ニ付二十両ヅヽ、竹村九郎左衛門・松田又兵衛方迄遣し可申由 『常憲院殿御実紀巻廿一』には 元禄三年1690六月 此月小普請金上納の制を定めらる。例年小普請金出す輩。金は後藤包。銀は常是包とし。七月三分一。十一月三分二出すべし。金銀上納の事は。その役人より元方金蔵に納むべし。七十歳以上にて老免の輩は。この小普請金出すに及ばす。尤前々より小普請にて金出し来りしは。七十歳に餘りたりとも出すべし。小普請の輩。致仕あるは病死して其子家つぎ。其まゝ小普請たらば。小普請金出すべし。分地せしもこれにおなじかるべし。但し子役つとめ来り。家つぎし後も役つかふまつらば。家督命ぜられし月より。小普請金出すべからず。父役つとめ。子いまだ役つかふまつらずして家督命ぜられ。小普請にいる輩は。その月より小普請金出すべしとなり。(憲教類典) とあります。さらに詳しい内容は、『御触書寛保集成』元祿三午年1690十一月の「小普請金取立之事」に書かれています。         落語の中の言葉一覧へ ]]> <![CDATA[  幡随院長兵衛の生業について
WEB上には幡随院長兵衛の生業を「口入業」としているものもありますが、正確ではありません。幡随院長兵衛の生業は武家奉公人の一般口入ではなく、小普請高割人足の請負だったようです。『昔々物語』(享保十七1732・十八年1733頃八十歳程の老人の著)に幡随院長兵衛の時代の一般の武家奉公人の口入と小普請高割人足の請負のことが書かれています。

一般の武家奉公人の口入については
むかしは家来春替り二月二日也、寛文申年(寛文の申年は八年1668)より三月五日成、出替の日奉公人肝煎の宿来り、御家へ何様の御奉公人何人御用候哉と家々に来り問答夫々申會かへす、また外のものも右の通申来、幾人も可掛御目とて男女五六人も召連来、其内人柄気に入候者有之候得は、宿何と申者大屋は誰、先主は誰と尋、切米の高取替、夏貸等極め、男女共に食に付、先一日召仕色々奉公申附、女には縫物其外藝致させ、又早朝より参り候様申付返す、男女共に同前也。翌日もまた呼ひ終日奉公申付、又明日も参り候様に申付、如斯五日も六日も毎日呼出召仕其内外にも宜者参り候へは、引替るもあり、五日も十日も呼候へは、奉公人最早幾日相勤候、願くは御請状可被下と願ふ時、請状致させ、男は其晩引越、女は翌晩引越、三日も四日も能働時、奉公今まてはよく勤候、おのれは新参、七十日と申にてはなきかなとゝ油断せす、其頃奉公人は食に付是もはつし候得は、殊外むつかしく成て奉公人も構て宿迠も及迷惑、惣して男の奉公人は、少しも悪舗事あり慮外するなれは、家々にて手討にする。欠落すれは、尋出させためしものにする故、家々のためしもの、爰かしこに壹ヶ月には二三度も有之ゆへ、下々作法もよく、刀脇差の身の心見も調(とゝのふ)なり。

小普請高割人足の請負については
八九拾年以前の昔は、小普請の面々御破損の人足を出す、百石已下は御免にて不出、百石(以上)斗出す、五百石以上より杖突とて侍壱人たち付に羽織を着し、人足を引連出、人足の出し様大かた萬(百)石に付一ケ年に貳三人出す。杖突一年に五六度出、人数の扶持かた一ヶ月に壱人扶持つゝ被下、手前の中間御城の人足に出す故、春中間召抱候時小普請の中間は江戸中大屋請とて、請人に差添て大屋請に立、文言は此誰様御内御仲間御城に普請に於て何様の悪事仕候か、又は御奉行様方少も慮外仕候はゝ、當人の儀は不及申上請人幷大屋迠何様に被仰付候共、少も御恨に存間敷候と文言、出入の有人数、當る前日に誰々内杖突誰よりとて小普請の用人方へ手紙を明日何方の御普請に人足何人申候由、小普請奉行より被仰付候、御高割其元様の御高にて、明日何壱人(何処へ何人)と成共二人と成共人足御出し候節に御申上候間、明日何時何分何所へ人足御出可被成候、其節私罷出差圖致御普請場へ同道仕可申と申来る。相心得申由返事仕、扨其日夜の内主人も起其人足遣、仲間御普請大切に相勤候様にと申付出す、其日の晩方七つ過帰る迠気遣ひ致し相待、夫より後は手前の仲間出る事止み、町人に普請人足請合候者出来、請合の町人に金子渡す、譬へは百石に付金子何程にて請合可申と申者有之候へは、下直成るは百石に付貳朱斗にて請合も有、亦二三百石にて壱歩貳朱も有、尤慥成家屋舗持たる町人を請合、尤人足毎日御扶持方其町人の方へ請取也。方々故大分の金高成候付、請合たる町人夥しく有、尤請状毎年仕直し御普請場人足少も間違相違仕間敷、人足慥成者出し可申候。萬一少しも悪事仕出し候はゝ人足は不及申、私等請人まて何様の曲事被仰付候様にと證文致させ取置候也。寛文の比より右町人請合止る、百石に付金子壱両つゝ小普請金とて差上る。其後亦小普請金上り、百石に付壱両貳歩に成、百石以下も出す。

 深井雅海氏の「御庭番の隠密活動」(徳川林政史研究所監修『江戸時代の古文書を読む 享保の改革』)に、小普請組支配船越駿河守景範に関する御庭番中村与八郎惟寅の風聞書の解説があり、その中に小普請についての簡潔な説明がありますので紹介します。
小普請とは、旗本・御家人の内、家禄三〇〇〇石未満の無役の士をいう。幕府では、無役の士のうち家禄三〇〇〇石以上、あるいはかつて布衣以上の役職に就いていた者を寄合に編入し、家禄三〇〇〇石未満、および本来は寄合の資格を持つ者でも処罰された者を小普請に編入した。
 その名称の起源は、はじめ老人や幼少で無役・無勤の者が、日頃の奉公にかわるものとして殿中その他の小普請の際に夫役を負担し、家士や奉公人を人夫として差し出したところにあるという。これは元禄三年(一六九〇)より役金の上納に変わり、それを小普請金と称し、家禄五〇〇俵(石)以上の者は、一〇〇俵(石)につき金二両を上納した(それ以下の者は軽減)。
 小普請ははじめ留守居の支配に属したが、享保四年(一七一九)六月には小普請組支配(役高三〇〇〇石、布衣役)を新設して、家禄三〇〇〇石未満二〇〇石以上の士をその配下となし(二〇〇石未満の士は従前のように留守居支配)、さらに宝暦三年(一七五三)六月には留守居の支配を廃止して、二〇〇石未満の士も小普請組支配の所属とした。
 以後は御目見以上の士(旗本)を小普請支配、御目見以下の士(御家人)を小普請組ととなえることになったという。その頭である小普請組支配は一〇人前後置かれ、各組に小普請組支配組頭(役高二〇〇俵、御目見以上)一人、小普請組世話役(役高五〇俵、御目見以下)三人の他、小普請組世話取扱・小普請金上納役・小普請医師などが所属した。

文政元年1818の武鑑には
  御小普請支配
    御老中御支配 布衣 中之間 三千石高
    当御役享保四ヨリ新規 前八組宝暦ヨリ十二組
    〔同組頭〕
    焼火之間 高無構 御役料三百俵 延享三ヨリ新規
    〔同世話役〕
    五十俵高 御役扶持三人扶持
とあって、御小普請支配として次の八名をあげています。
朝比奈河内守昌始・石川右近将監忠房・松平石見守正卜・大島肥前守義徳・近藤左京政風・松平内匠頭乗譲・米津小太夫田朝・堀田伊勢守一知
各御小普請支配には組頭一名と世話役三名が載っています。

 高割人足の請負業については三田村鳶魚氏が『武家の生活』で分かりやすく説明しています。
小普請というのは御役に出ないやつで、つまり非役の分になる。ですから、小普請になりますと、百石の者は百石、百俵の者は百俵、持高でいるのです。閑職のわけだ。小普請奉行とか、小普請方とかいって、本当に普請する役回りではない。無役ということになるのです。小普請という言葉は、屋根の瓦が壊れたとか、垣根が壊れたとかいうような小さい工事 ― 補修工事の意味で、そういうことをやるのが、小普請奉行の仕事なのですが、無役でいる旗本・御家人は、御役をつとめませんから、この小普請工事に参加させたのです。それを後には、小普請金を持高に割り当てて出させて、工事に参加することに代えたのです。(中略)
 小普請金というものは、七月に三分ノ一、十一月に三分ノ二納めるのですが、これはどういう標準で出すかといいますと、知行を取っている者でも一石一俵の割、すなわち俵取りも一俵を一石として勘定するのです。扶持は総締にして俵に換算するので、前に申した老年小普請を除くほか、二十俵未満の人を取り除けて、他は皆出すのです。二十俵から五十俵までは金二分、百俵以内は一両、百俵から五百俵までは百俵ごとに一両二分、五百俵以上は百俵ごとに二両、ということになっております。

   小普請の夫役―割元業の成立と消滅、遊侠の掃蕩

 この定は元禄二年1689からと聞いておりますが、延宝三年1675までは夫役でありました。その時は、百石一両と押えて金を納める。夫役の時代には、工事のある場合には、小普請奉行から人足を割当てたのですが、百石以下には当てません。百石以上は百石ごとに二三人ずつ出させるので、五百石になると、そのほかに杖突が一人出る。杖突というのは人夫の小頭みたいなもので、これは士ですが、他の人夫は中間です。しかし、寛永度になりますと、もう人夫は持っていない。実際人がないのだから、人夫を出せといわれても人が出せない。臨時に雇うよりほかに仕方がないので、どこかから雇って、従来いたような顔をして、小普請奉行の指図通りに人を出す。この出した人については、工事に出る時だけ雇った者でありましても、とにかく家来のわけなのですから、何か仕損いがあれば主人に責任がくる。相手が幕府だけに、なかなか面倒臭い。随分これを出した旗本の身分に関係するようなことがありましたから、普通の雇入請状の請人は勿論、本人の尊属の住っている土地の町役人に加判させる。恐しい格高な雇人になったわけです。
 それでも、不断用のない人間を抱えておくわけにはゆきませんから、そういうふうにしていたのですが、とてもこれは続きません。そこで、慶安頃からは、町人が引き受けるようになりました。こうなると費用も安くなり、百石について二朱、二三百石について一分二朱くらいで引き受けてくれる。これは、幕府から、出した人数の各々に一人扶持をくれるので、それは町人に渡します。その上に、二朱とか、一分二朱とかいうものを払うのですが、請け負わせるだけは請け負わせても、幕府へは請負人誰の名義で出すのではない。何の某という士の名義で出すのですから、間違った場合には、腹を切らなければならぬ。よっぽど請負人に信用がなければ、頼むわけにはいかない。
 また、これを引き受ける割元なるものの方でも、いつそう言われても差し出し得るだけの人数を持っていなければならない。常に元気のいい若い者を持っていて、たとえば、松平備後守から言って来れば、直ちにその家来として人を出す。松平美濃守から命令があれば、またその名義で直ちに人を出す。そういうわけですから、手に始終それだけの寄子を持っていなければならぬのみならず、寄子はその割元の言うことを聞くようでなければならない。割元は、旗本からの信用と、寄子からの信用と、両方釣り合わして行くのだから、非常に骨が折れる。こういう次第で割元業が成立したのですが、その中に、例の幡随院長兵衛がおりました。割元業者は幾人もおったのだけれども、最も人に知られたのが長兵衛で、あれはただの侠客なんていうものではありません。それが、小普請金の制度が出来るようになると、長兵衛の稼業は上ったりで、割元業も延宝度からなくなったわけであります。これは遊侠掃蕩が行われたので、小普請金になるに先立って、割元業が滅亡したのです。

 金納に変わった時期について、『昔々物語』には「寛文(1661~1673)の比より右町人請合止る、百石に付金子壱両つゝ小普請金とて差上る」とありますが、小普請金の最初の規定は延宝三年1675十二月で
 小普請人足金ノ定
小普請人足御用千石拾両百石付壱両、知行高下其割を以請負被仰付候(割注:按延宝八年九月ヨリ小普請百石付金弐分改正アリ) (『徳川禁令考』巻17)
とあり、詳細な規定が出来たのは元禄三年1690です。
戸田茂睡『御当代記』には、
元禄二年1689極月十六日、小普請衆、人足料之事、二十俵御切米より百石迄金二分ヅヽ、百石より九百石迄百石付金壱両二分ヅヽ、千石より九千石迄千石付二十両ヅヽ、竹村九郎左衛門・松田又兵衛方迄遣し可申由

『常憲院殿御実紀巻廿一』には
元禄三年1690六月 此月小普請金上納の制を定めらる。例年小普請金出す輩。金は後藤包。銀は常是包とし。七月三分一。十一月三分二出すべし。金銀上納の事は。その役人より元方金蔵に納むべし。七十歳以上にて老免の輩は。この小普請金出すに及ばす。尤前々より小普請にて金出し来りしは。七十歳に餘りたりとも出すべし。小普請の輩。致仕あるは病死して其子家つぎ。其まゝ小普請たらば。小普請金出すべし。分地せしもこれにおなじかるべし。但し子役つとめ来り。家つぎし後も役つかふまつらば。家督命ぜられし月より。小普請金出すべからず。父役つとめ。子いまだ役つかふまつらずして家督命ぜられ。小普請にいる輩は。その月より小普請金出すべしとなり。(憲教類典)

とあります。さらに詳しい内容は、『御触書寛保集成』元祿三午年1690十一月の「小普請金取立之事」に書かれています。


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https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R270.html 落語の中の言葉270「幡随院長兵衛追補1」 Sat, 31 Aug 2024 20:00:10 +0900 一、幡随院長兵衛の歿年幡随院長兵衛の歿年は同じ三年でも、古碑・寺の過去帳では慶安1650、徳川実紀では明暦1657としていて七年の開きがあります。 古碑は長兵衛の妻の父親が建てたものですから長兵衛の死後間もなくのことと思われます。寺の過去帳も特別のことがない限り、書き写して新しくすることもないでしょうから長兵衛の死と同時代のものと考えられます。一方『徳川実紀』は吉川弘文館『新訂/増補 国史大系』の『徳川実紀』第一篇凡例に次のようにあります。徳川実紀は家康以来家治に至る江戸幕府.. <![CDATA[ 一、幡随院長兵衛の歿年 幡随院長兵衛の歿年は同じ三年でも、古碑・寺の過去帳では慶安1650、徳川実紀では明暦1657としていて七年の開きがあります。 古碑は長兵衛の妻の父親が建てたものですから長兵衛の死後間もなくのことと思われます。寺の過去帳も特別のことがない限り、書き写して新しくすることもないでしょうから長兵衛の死と同時代のものと考えられます。一方『徳川実紀』は吉川弘文館『新訂/増補 国史大系』の『徳川実紀』第一篇凡例に次のようにあります。 徳川実紀は家康以来家治に至る江戸幕府将軍の実紀にして、一代ごとに将軍の言行逸事等を別叙し、之を附録とせり。大學頭林衡総裁の下に成島司直旨を奉じて撰述し、文化六年1809に稿を起し、嘉永二年1849に至りその功を成したり。総じて之を御実紀と稱し、各代将軍の廟號に因りて題し、東照宮御実紀を始め、台徳院殿御実紀以下俊明院殿御実紀に終る。今こゝに徳川実紀といへるは、世に行はるゝ通稱に從ふなり。註:俊明院=第十代将軍家治 宝暦十年1760九月将軍宣下、天明六年1786九月歿  『続徳川実紀』第一篇 凡例 本書は家康より家治まで徳川氏歴代将軍の實紀の後を承け、更に第十一代家齊の實紀より漸次稿を起して第十五代慶喜に及べり。然るに業半ばにして戊辰の變に遇ひ、家齊・家慶の二代は、編述僅に成りたれども、其功を完くするに至らず、家定以後に至りては、たゞ資料を蒐集按排して、簡單なる綱文を附したるのみ、遂に未定稿のまゝに傳はれり。さきに續徳川實紀と題して経済雑誌社よりこれを刊行せしが、文恭院殿御實紀の中、天明六年より文化十四年までを、こゝに新訂増補国史大系第四十八巻として公刊す。  因みに『徳川実紀』第一篇 凡例には「嘉永二年1849に至りその功を成したり」とありますが、『慎徳院殿御実紀巻七』(『続徳川実紀』第二篇)には 天保十四年1843十二月廿二日 儒臣林大学頭御実紀編集の事。父大内記申上しむねも。こたび全部たてまつりしによて時服を賜ひ。その事にあづかりしともがら二十五人賜物差あり。とあって、天保十四年には「俊明院殿御実紀」まではほぼ完成しているようです。 『徳川実紀』は「文化六年1809に稿を起し」とありますから明暦三年1657からでも約150年後に編集が始まったもので、古い記録を基にまとめられたものです。 「厳有院殿御実紀巻十四」にある 明暦三年1657七月 此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに。侠客幡隨長兵衛といへるもの来り。強て花街に誘引せんとす。十郎左衛門けふはさりかたき故障ありとて辭しければ。長兵衛大に怒り。そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて。種々罵り不礼をふるまひしかば。十郎左衛門も怒りにたえず討すてゝ。其よし町奉行のもとに告しかば。奉行より老臣にうたへしに。長兵衛處士の事なれば。そのまゝたるべきむね老臣より令せられしとぞ。(日記、御側日記、尾張記) という短い記述も「日記、御側日記、尾張記」から作られたもののようです。 事件発生の年月が三つの史料のすべてに書かれているのか、あるいは一つだけにあるのかは元史料を見ないとわかりません。 幡随院長兵衛の歿年は、現在のところいずれが正しいかは不明です。もっともこれ以外にも例えば『久夢日記』(文化四年1807頃)には、武士男達の部に  水野十郎左衛門、大小神祇組、幡随院長兵衛に意恨ありて、たばかりころしぬ、長兵衛子分ども、十郎左衛門殿を吉原の土手にてさいなまれ、屋敷帰り御しおきになりぬ、  幡随院長兵衛、(割註:下谷幡随院境内に住す、)六法組、よき男なり、花房大膳殿もの、浪人してみじかきあい口に大刀さし、名高き男達なり、寛文五乙巳年1665より十八年の間男達をし、一度もひけをとらざるところ、水野十郎左衛門いこんあるゆへよびよせ、いろいろちそういたし、大酒いださせこゝろをゆるさせ、大勢にて切ころしぬ、時に天和二壬戌年1682のことなり、長兵衛三十六歳にて、水野がために横死す、 などとあります。 二、幡随院長兵衛病死説に十方庵が何もコメントしていない事 此長兵衛といふもの説区々にして聢(シカ)としたる書は見あたらず、伝えいふ、長兵衛は淺草花川戸町に住宅し、白鞘組などの類にて、生涯男伊達を好み土地の若者の頭と成て、意気地をたてゝ五十餘歳にして病死すといひ、又一説には下谷幡随意院の門前町に住宅し力量ありて、初め米搗事を渡世として親に至孝也、後に搗屋の親方株となりて三四人の米搗どもを抱え豊に暮して、弱を扶け強きを蹇(ママ)き老年にして病死す、本名搗屋長兵衛なれども門前町に住宅して名だゝる男なれば、誰いふとなく幡隨長兵衛といえりしともいふ、何れが是なるやしらず、云々(『遊歴雑記』五編巻の中 文政八年1825)とだけ云って、二説とも「病死」としていることについては触れていません。 演劇でおなじみの侠客幡随院長兵衛の一件。三千石の旗本水野十郎左ヱ門が、身持不行跡の理由で切腹となるのが寛文四年(一六六四)で 長兵衛は、その一四年前の慶安三年(一六五○)に十郎左ヱ門の邸の湯殿で殺害された、とされている。  長兵衛に関する出版物がずっと後代になって、演劇などによって有名になるまで発行されなかったのは、長兵衛の行跡には常に水野十郎左ヱ門その他の旗本武士が関係していて、これらの旗本の行跡を記すことは、出版界の禁忌(タブー)とされていたからであって、以下に記す川柳なども、筆写・転写による実録本(奇癖道人序『幡随院長兵衛』等)もしくは幕末の中形読本(『幡随長兵衛一代記』等)あるいは、黙阿弥の『極附幡随長兵衛』などの歌舞伎脚本によったもので、その真偽を確かめることはできない。(花咲一男『江戸入浴百姿』) 『江戸入浴百姿』に取り上げられている川柳は    爼板へ乗るもあづまの男達     一〇七24オ   文政十二年刊    まな板へ乗て男をたて通し     明八天2    爼板へ乗て男の骨を見せ      樽一三五17ウ  天保五年刊    男を磨き居風呂で落命し      天満宮狂句合48ウ    顔をよごされ白柄は湯の支度    入船狂句合106ウ    長兵衛の迎ひ焼場へいそぐやう   樽一〇六22ウ  文政十二年刊    早桶の迎は江戸の花川戸      樽七八37    文政六年刊    迎ひ早桶院号のつくをとこ     樽一〇六22   文政十二年刊 です。ただし出版年は引用者の追記。奇癖道人序『幡随院長兵衛』『幡随長兵衛一代記』が書かれた時期は不明です。黙阿弥の『極附幡随長兵衛』は明治十四年1881十月東京春木座で初演といいます。 川柳のうち出版年は柳多留しか分かりませんが、文政六年刊1823(樽七八)もあります。十方庵の『遊歴雑記』五編巻の中の二年前です。 さらに古くは、明和の頃(1764~1771)に関宿藩士和田正路が著した『異説まちまち』には 男伊達のはやりたるには、水野十郎左衛門名高し。幡随院長兵衛といふ町男、伊達には及ばざりしかば、たばかりて殺せしといふ。水野の悪事侠気、人口に余る計り也。後切腹被仰付、金の水引にて髪を結、腹を十文字にきりけるといふ。白無垢にしらみを縫紋にして登城したりと云。其外のこと不可勝計。 とあって、一部の人には知られていましたが、十方庵は文政八年の時点で知らなかったようです。広く知れ渡るようになったのはいつ頃からなのでしょうか。 三、幡随院長兵衛の住所について 『遊歴雑記』では浅草花川戸町と下谷幡随意院門前町の二説をあげていますが、これもはっきりしたことは、わかりません。 源空寺の過去帳には「金五十両供養代、花川戸所々朋友より」とあり、後に掘り出した古碑を祀ったのも花川戸に住んでいたという巷説から花川戸の者です。 一方、浅草幡随院門前については確かな資料を見ていません。反対に浅草幡随院門前の町方書上には、 一門前惣家数、表裏家とも八十四軒に御座候。 一町内南北八十四間三尺、東西四十間   但し、幡随院の表門構いの分相除き申し候。 (下げ札)  門前町屋表家五十五間(軒)御座候 一幡随院(長)兵衛当所に住居致し候由、世俗種々申し伝えなども候えども、取りとめ候義いっさい御座なく候。住居の義も是以て相知れ申さず候。土地の義も右同断に御座候。   文政九戌年     名主これなく     二月十五日     月行事 五郎兵衛 と書かれています。  嘉永六年の尾張屋板切絵図から幡随院と源空寺の部分をあげます。上野と浅草寺の中間にあります。 源空寺.jpg      落語の中の言葉一覧へ ]]> <![CDATA[
一、幡随院長兵衛の歿年

幡随院長兵衛の歿年は同じ三年でも、古碑・寺の過去帳では慶安1650、徳川実紀では明暦1657としていて七年の開きがあります。 古碑は長兵衛の妻の父親が建てたものですから長兵衛の死後間もなくのことと思われます。寺の過去帳も特別のことがない限り、書き写して新しくすることもないでしょうから長兵衛の死と同時代のものと考えられます。一方『徳川実紀』は吉川弘文館『新訂/増補 国史大系』の『徳川実紀』第一篇凡例に次のようにあります。


徳川実紀は家康以来家治に至る江戸幕府将軍の実紀にして、一代ごとに将軍の言行逸事等を別叙し、之を附録とせり。大學頭林衡総裁の下に成島司直旨を奉じて撰述し、文化六年1809に稿を起し、嘉永二年1849に至りその功を成したり。総じて之を御実紀と稱し、各代将軍の廟號に因りて題し、東照宮御実紀を始め、台徳院殿御実紀以下俊明院殿御実紀に終る。今こゝに徳川実紀といへるは、世に行はるゝ通稱に從ふなり。
註:俊明院=第十代将軍家治 宝暦十年1760九月将軍宣下、天明六年1786九月歿


 『続徳川実紀』第一篇 凡例

本書は家康より家治まで徳川氏歴代将軍の實紀の後を承け、更に第十一代家齊の實紀より漸次稿を起して第十五代慶喜に及べり。然るに業半ばにして戊辰の變に遇ひ、家齊・家慶の二代は、編述僅に成りたれども、其功を完くするに至らず、家定以後に至りては、たゞ資料を蒐集按排して、簡單なる綱文を附したるのみ、遂に未定稿のまゝに傳はれり。さきに續徳川實紀と題して経済雑誌社よりこれを刊行せしが、文恭院殿御實紀の中、天明六年より文化十四年までを、こゝに新訂増補国史大系第四十八巻として公刊す。

 因みに『徳川実紀』第一篇 凡例には「嘉永二年1849に至りその功を成したり」とありますが、『慎徳院殿御実紀巻七』(『続徳川実紀』第二篇)には

天保十四年1843十二月廿二日 儒臣林大学頭御実紀編集の事。父大内記申上しむねも。こたび全部たてまつりしによて時服を賜ひ。その事にあづかりしともがら二十五人賜物差あり。
とあって、天保十四年には「俊明院殿御実紀」まではほぼ完成しているようです。

『徳川実紀』は「文化六年1809に稿を起し」とありますから明暦三年1657からでも約150年後に編集が始まったもので、古い記録を基にまとめられたものです。

「厳有院殿御実紀巻十四」にある

明暦三年1657七月 此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに。侠客幡隨長兵衛といへるもの来り。強て花街に誘引せんとす。十郎左衛門けふはさりかたき故障ありとて辭しければ。長兵衛大に怒り。そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて。種々罵り不礼をふるまひしかば。十郎左衛門も怒りにたえず討すてゝ。其よし町奉行のもとに告しかば。奉行より老臣にうたへしに。長兵衛處士の事なれば。そのまゝたるべきむね老臣より令せられしとぞ。(日記、御側日記、尾張記)
 という短い記述も「日記、御側日記、尾張記」から作られたもののようです。

事件発生の年月が三つの史料のすべてに書かれているのか、あるいは一つだけにあるのかは元史料を見ないとわかりません。

幡随院長兵衛の歿年は、現在のところいずれが正しいかは不明です。もっともこれ以外にも例えば『久夢日記』(文化四年1807頃)には、武士男達の部に

 水野十郎左衛門、大小神祇組、幡随院長兵衛に意恨ありて、たばかりころしぬ、長兵衛子分ども、十郎左衛門殿を吉原の土手にてさいなまれ、屋敷帰り御しおきになりぬ、
 幡随院長兵衛、(割註:下谷幡随院境内に住す、)六法組、よき男なり、花房大膳殿もの、浪人してみじかきあい口に大刀さし、名高き男達なり、寛文五乙巳年1665より十八年の間男達をし、一度もひけをとらざるところ、水野十郎左衛門いこんあるゆへよびよせ、いろいろちそういたし、大酒いださせこゝろをゆるさせ、大勢にて切ころしぬ、時に天和二壬戌年1682のことなり、長兵衛三十六歳にて、水野がために横死す、
 などとあります。


二、幡随院長兵衛病死説に十方庵が何もコメントしていない事


此長兵衛といふもの説区々にして聢(シカ)としたる書は見あたらず、伝えいふ、長兵衛は淺草花川戸町に住宅し、白鞘組などの類にて、生涯男伊達を好み土地の若者の頭と成て、意気地をたてゝ五十餘歳にして病死すといひ、又一説には下谷幡随意院の門前町に住宅し力量ありて、初め米搗事を渡世として親に至孝也、後に搗屋の親方株となりて三四人の米搗どもを抱え豊に暮して、弱を扶け強きを蹇(ママ)き老年にして病死す、本名搗屋長兵衛なれども門前町に住宅して名だゝる男なれば、誰いふとなく幡隨長兵衛といえりしともいふ、何れが是なるやしらず、云々(『遊歴雑記』五編巻の中 文政八年1825)
とだけ云って、二説とも「病死」としていることについては触れていません。


演劇でおなじみの侠客幡随院長兵衛の一件。三千石の旗本水野十郎左ヱ門が、身持不行跡の理由で切腹となるのが寛文四年(一六六四)で 長兵衛は、その一四年前の慶安三年(一六五○)に十郎左ヱ門の邸の湯殿で殺害された、とされている。
 長兵衛に関する出版物がずっと後代になって、演劇などによって有名になるまで発行されなかったのは、長兵衛の行跡には常に水野十郎左ヱ門その他の旗本武士が関係していて、これらの旗本の行跡を記すことは、出版界の禁忌(タブー)とされていたからであって、以下に記す川柳なども、筆写・転写による実録本(奇癖道人序『幡随院長兵衛』等)もしくは幕末の中形読本(『幡随長兵衛一代記』等)あるいは、黙阿弥の『極附幡随長兵衛』などの歌舞伎脚本によったもので、その真偽を確かめることはできない。(花咲一男『江戸入浴百姿』)

『江戸入浴百姿』に取り上げられている川柳は

   爼板へ乗るもあづまの男達     一〇七24オ   文政十二年刊

   まな板へ乗て男をたて通し     明八天2

   爼板へ乗て男の骨を見せ      樽一三五17ウ  天保五年刊

   男を磨き居風呂で落命し      天満宮狂句合48ウ

   顔をよごされ白柄は湯の支度    入船狂句合106ウ

   長兵衛の迎ひ焼場へいそぐやう   樽一〇六22ウ  文政十二年刊

   早桶の迎は江戸の花川戸      樽七八37    文政六年刊

   迎ひ早桶院号のつくをとこ     樽一〇六22   文政十二年刊

です。ただし出版年は引用者の追記。奇癖道人序『幡随院長兵衛』『幡随長兵衛一代記』が書かれた時期は不明です。黙阿弥の『極附幡随長兵衛』は明治十四年1881十月東京春木座で初演といいます。

川柳のうち出版年は柳多留しか分かりませんが、文政六年刊1823(樽七八)もあります。十方庵の『遊歴雑記』五編巻の中の二年前です。

さらに古くは、明和の頃(1764~1771)に関宿藩士和田正路が著した『異説まちまち』には


男伊達のはやりたるには、水野十郎左衛門名高し。幡随院長兵衛といふ町男、伊達には及ばざりしかば、たばかりて殺せしといふ。水野の悪事侠気、人口に余る計り也。後切腹被仰付、金の水引にて髪を結、腹を十文字にきりけるといふ。白無垢にしらみを縫紋にして登城したりと云。其外のこと不可勝計。

とあって、一部の人には知られていましたが、十方庵は文政八年の時点で知らなかったようです。広く知れ渡るようになったのはいつ頃からなのでしょうか。


三、幡随院長兵衛の住所について

『遊歴雑記』では浅草花川戸町と下谷幡随意院門前町の二説をあげていますが、これもはっきりしたことは、わかりません。

源空寺の過去帳には「金五十両供養代、花川戸所々朋友より」とあり、後に掘り出した古碑を祀ったのも花川戸に住んでいたという巷説から花川戸の者です。

一方、浅草幡随院門前については確かな資料を見ていません。反対に浅草幡随院門前の町方書上には、


一門前惣家数、表裏家とも八十四軒に御座候。
一町内南北八十四間三尺、東西四十間
  但し、幡随院の表門構いの分相除き申し候。
(下げ札)
 門前町屋表家五十五間(軒)御座候

一幡随院(長)兵衛当所に住居致し候由、世俗種々申し伝えなども候えども、取りとめ候義いっさい御座なく候。住居の義も是以て相知れ申さず候。土地の義も右同断に御座候。
  文政九戌年     名主これなく
    二月十五日     月行事 五郎兵衛

と書かれています。

 嘉永六年の尾張屋板切絵図から幡随院と源空寺の部分をあげます。上野と浅草寺の中間にあります。


源空寺.jpg



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https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R269.html 落語の中の言葉269「平井権八と幡隨院長兵衛」 Sat, 10 Aug 2024 19:57:11 +0900     十代目桂文治「湯屋番」より 文治師匠は、平井権八が幡隨院長兵衛のところで居候をしていたことから、居候のことを江戸では「権八」と言ったと話しています。幡隨院長兵衛と平井権八の話は広く知られていたようです。しかし これは芝居等によって広まったもので、実在した平井権八と幡随意院長兵衛を結びつけて作り上げた物語であって、小野小町が鎮西八郎為朝に出した手紙と同様のものです。 平井権八は身元も年齢も不明です。誰でも知っている平井権八、あれは鳥取の城主松平相模守光仲の家来、平井正右.. <![CDATA[     十代目桂文治「湯屋番」より  文治師匠は、平井権八が幡隨院長兵衛のところで居候をしていたことから、居候のことを江戸では「権八」と言ったと話しています。幡隨院長兵衛と平井権八の話は広く知られていたようです。しかし これは芝居等によって広まったもので、実在した平井権八と幡随意院長兵衛を結びつけて作り上げた物語であって、小野小町が鎮西八郎為朝に出した手紙と同様のものです。  平井権八は身元も年齢も不明です。 誰でも知っている平井権八、あれは鳥取の城主松平相模守光仲の家来、平井正右衛門という、六百石取る者の総領子で、寛文十二年の秋に、親仁に対し暴言を吐いて辱めた本庄助太夫という者を斬殺して、ところを立ち退いた。それから江戸へ来て、渡り徒士になり、忍の城主であった阿部豊後守正武、信州高遠の鳥居左京亮忠常などのところを、渡り奉公をしているうちに、だんだん江戸慣れてきて、辻斬りやら強盗やらを働くようになり、吉原の遊女の小紫に馴染んだ。この小紫に馴染んだという話は、嘘でもないらしく思われる。けれども、今鳥取の池田侯爵家の方で調べてみると、平井正右衛門などという六百石取りの士は分限帳にない。従って、本庄助太夫と喧嘩が出来るということもないわけで、池田家の方では、平井権八に関しては、記録もなければ証拠もない。全く事実無根だといっている。  それからまたある伝えによれば、権八は熊本在の白梅村というところから出てきたもので、白梅権八といっていたのを、後に白井権八と言い伝えたのである、ともいっている。権八の伝説については、たしかなことは一向わかりません。だが、平井権八が、延宝七年十一月三日に品川で磔にかかった、ということだけはたしかだ。磔にかかった時の捨札というのが残っておりまして、これは疑うべきものでない、たしかなものであります。(中略)  権八の墓なんていうものも、今では目黒の名物になっておりますけれども、あれも実はいくつもいくつも墓があるのです。小紫という女は、金持に身請されていたのが、目黒の虚無僧寺の東昌寺に権八の墓がある、その墓に詣でて、そこで自殺した、という話があって、いわゆる比翼塚なるものが出来た。(中略)権八・小紫の連理塚は、目黒権之助坂に、中根六右衛門という者がある、この者の庭の中に、高さ四尺ばかりの自然石の連理塚がある、明治三十四年に、六右衛門の後家が亡くなって、跡を相続する者がないから、菩提寺である桐ヶ谷の安楽寺へ移した、ともいう。墓がわからないどころの話じゃない、人間の筋道がわかっていないのですが、捨札にも平井権八とあり、苗字があるのを見れば、士出の者であるには相違ない。士出の者で、泥坊を働いて磔になるほどの罪科を犯す者があったことはたしかです。(三田村鳶魚『江戸の白浪』) 大田南畝は『一話一言』巻之三十八にその捨札を記録しています。 延宝七未1679十一月三日断 一平井権八年不知 此者武州於大宮原小刀売を切殺し金銀取候者、於  品川磔。   札文言   此者追はぎの本人、其上宿次之証文たばかり取、剰手鎖をはづし   欠落仕に付て如此行ふもの也。      十一月 曲亭馬琴も同文を『兎園小説 余録』(天保三年)に載せています。  また十方庵敬順は『遊歴雑記』五編巻の中(文政八年1825)に次のように書いています。 御仕置の御書付左のごとし   延宝七未年1679十一月三日御仕置   此もの儀、武州大宮原に於て小刀売を切殺、金銀奪取、或は熊谷   土手にて絹売馬士共切殺金銀奪取、其上常々追剥し本人並宿次之   証文謀り取、是迄数多辻切致し剰手鎖を迦(ママ)し迯去候始末   重々不届至極に付、於品川磔可申付、 磔になった時の年齢も諸説あります。 終に鈴ヶ森にて磔付に被仰付ける、十六才にて国を出、年二十三歳に至る迄、人を殺す事百八十五人也、(寛閑楼『北里見聞録』巻之六 文化十四年1817刊) 評定相極まり九月廿七日御仕置あるべしとて鈴が森へと引れ行、真先に平井権八生年弐拾五年、(『石井明道士』巻の拾) 平井権八について確かなことは延宝七未年1679十一月三日に品川において磔になったことだけです。  一方幡随意院長兵衛には碑がありました。  幡随意(ママ)長兵衛墓 源空寺境内記。下谷源空寺境内に幡随意長兵衛の墓といふ石地蔵をほり付たる碑二基有。山脇惣右衛門といひしものゝ立てし由彫付けてあり。  幡随碑.jpg 此の通りの地蔵二躯あり。年号法名等全く    同じくて、たゞ左右に書付しばかりなり。    地蔵の古色実に竒古のものなり。〔割註〕    歿日は四月十三日といへり、伝馬町村田長    兵衛鏡師といふもの今の施主なり。」 芝居年代記。寛保四(甲子)年1744春中村座碝  (サヾレイシ)末広源氏江戸男立の親分ばんずい  長兵衛、大谷広治、小性梅之丞に玉沢才次、ば  んずい長兵衛梅之丞に、むたいに衆道をいひか  け、恋塚の門兵衛と出入立合の所、大評判大当  り。〔割註〕芝居狂言に、幡随意長兵衛を出せ  しはじめなるべし。」(栗原信充 手録『柳庵随  筆』波字篇(巻之三) 柳庵は、寛政六年1794  生、明治三年1870歿)   源空寺中幡隨長兵衛が墓 一、武城下谷新寺町源空寺浄土は東本願寺添地の北に隣り、貳編に鐘の銘及び源空上人の木像より、本號引地の譯など具に述しかど、此拾餘年前幡隨院長兵衛が墓碑を掘出し、淺草花川戸町に住居せしといふ巷談より、花川戸町の好事の者一流して古碑を取繕ひ建、聊法事の学びせしより猶芝居がゝりの者、就中優伎古松本幸四郎錦幸は、幡ずい長兵衛が狂言して度々当たるより、当時の幸四郎錦升もこれに縋りて、両三度まで幡隨長兵衛が役廻りにて評判の能かりし程に、件の石碑の後へ卒都婆を営み、しらぬ人にも回向追福にあひしは仕合者といふべし、その頃古碑の模形を写し置しを、爰に図する事左のごとし、 幡隨長兵衛碑遊歴.jpg右、慶安三庚寅年1650より文政八乙の酉年  1825にいたりて百七十七年に及べば、親族  も絶て施主山脇惣右衙門といふものも疾家  名断絶也しけん、無縁の碑ゆへ土中へ埋め  たりしを、近頃掘出したる也、但し年號の  み鍛付て、帰空の日のしれざるは、存命の  内建しかと思えば、施主の名あるは歿後建  しとも思はれて未審(イブカシ)、道散とい  ふは長兵衛にて、壽散(ママ)といふは妻  の戒名やらん、歿故の月日源空寺の過去帳  には定て記しありぬべし、此長兵衛といふ  もの説区々にして聢(シカ)としたる書は見あたらず、伝えいふ、長兵衛は淺草花川戸町に住宅し、白鞘組などの類にて、生涯男伊達を好み土地の若者の頭と成て、意気地をたてゝ五十餘歳にして病死すといひ、又一説には下谷幡随意院の門前町に住宅し力量ありて、初め米搗事を渡世として親に至孝也、後に搗屋の親方株となりて三四人の米搗どもを抱え豊に暮して、弱を扶け強きを蹇(ママ)き老年にして病死す、本名搗屋長兵衛なれども門前町に住宅して名たゝる男なれば、誰いふとなく幡隨長兵衛といえりしともいふ、何れが是なるやしらず、(十方庵敬順『遊歴雑記』五編巻の中 文政八年(1825) その源空寺の過去帳の写が、加藤曳尾庵『我衣』巻十三(文政元年1818)にあります。  慶長十二年1607二月五日  忠信院大休義心居士              塚本長兵衛父    右肥前国の住人也   当寺旦那山脇惣右衛門を以、法事頼に来る。是より長兵衛檀家と成り金五両寄附  善譽壽教勇士                 幡隨長兵衛   慶安三年1650寅四月十三日、吊(弔)二十六日 幕四ッ六役十二僧、施主は朋友大勢。江戸に名高き長兵衛也。俗に幡隨長兵衛と云。本名、塚本惣右衛門。引付檀那也。 金五十両供養代、花川戸所々朋友より。石塔は(山脇)惣右衛門より建る。後代に及ても無縁に不相成と申事。尤地蔵尊二躰被造立。   慶安三寅二月十四日  善譽道敬(ママ)信女             山脇惣右衛門娘   右源空寺過去帳の写  幡随院長兵衛の末孫について、菅園『そらおぼえ』(明治十五年)には次のようにあります。 幡随院長兵衛の末孫 大伝馬町弐丁目南がわ中程也、むかし江戸の花と呼れし、町奴大親分ん幡隨院長兵衛の末孫は、代々村田長兵衛と称し、大伝馬町弐丁目南がわ中程の表店にて、銅鏡、眼鏡を売りて家業とす、菩提所は下谷五台山源空寺にて、浄土宗也、男伊達ばんずい長兵衛の墓も、同寺卵塔の内に現存す、村田の家にて、仏事、年回等今に絶へず、 村田長兵衛は、明治十五午年、本町三丁日南がわ西角へ転宅す。 文政八年十二月の源空寺の寺社書上は以下の通りです。   善譽壽教勇士  俗ニ幡随長兵エト云           本名塚本長兵衛     慶安三寅年四月十三日死去   善譽道散信女   山脇惣右衛門娘            長兵衛妻とも云     同年二月十四日死去  長兵衛が死亡した年は古碑と寺の過去帳では慶安三寅1650としていますが、徳川実紀には明暦三年1657とあります。 明暦三年七月 此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに。侠客幡隨長兵衛といへるもの来り。強て花街に誘引せんとす。十郎左衛門けふはさりかたき故障ありとて辭しければ。長兵衛大に怒り。そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて。種々罵り不礼をふるまひしかば。十郎左衛門も怒りにたえず討すてゝ。其よし町奉行のもとに告しかば。奉行より老臣にうたへしに。長兵衛處士の事なれば。そのまゝたるべきむね老臣より令せられしとぞ。(日記、御側日記、尾張記) 徳川実紀にも「處士」とありますから、幡随長兵衛は武家出身であることは確かなようです。 幡隨院長兵衛の歿年は慶安三年1650四月十三日(古碑・寺の過去帳)、あるいは明暦三年1657七月(徳川実紀)。一方、平井権八は延宝七年1679十一月三日処刑 つまり平井権八が磔になったのは幡隨院長兵衛の死後29年後あるいは22年後なのです。  ところで疑問点が二つあります。一つは長兵衛の歿年に二説あること。今一つは十方庵が長兵衛の住所・生業について二説をあげ、「何れが是なるやしらず」と云いながら、二説とも長兵衛を病死としていることについては何も触れていないことです。         落語の中の言葉一覧へ ]]> <![CDATA[
    十代目桂文治「湯屋番」より


 文治師匠は、平井権八が幡隨院長兵衛のところで居候をしていたことから、居候のことを江戸では「権八」と言ったと話しています。幡隨院長兵衛と平井権八の話は広く知られていたようです。しかし これは芝居等によって広まったもので、実在した平井権八と幡随意院長兵衛を結びつけて作り上げた物語であって、小野小町が鎮西八郎為朝に出した手紙と同様のものです。

 平井権八は身元も年齢も不明です。


誰でも知っている平井権八、あれは鳥取の城主松平相模守光仲の家来、平井正右衛門という、六百石取る者の総領子で、寛文十二年の秋に、親仁に対し暴言を吐いて辱めた本庄助太夫という者を斬殺して、ところを立ち退いた。それから江戸へ来て、渡り徒士になり、忍の城主であった阿部豊後守正武、信州高遠の鳥居左京亮忠常などのところを、渡り奉公をしているうちに、だんだん江戸慣れてきて、辻斬りやら強盗やらを働くようになり、吉原の遊女の小紫に馴染んだ。この小紫に馴染んだという話は、嘘でもないらしく思われる。けれども、今鳥取の池田侯爵家の方で調べてみると、平井正右衛門などという六百石取りの士は分限帳にない。従って、本庄助太夫と喧嘩が出来るということもないわけで、池田家の方では、平井権八に関しては、記録もなければ証拠もない。全く事実無根だといっている。
 それからまたある伝えによれば、権八は熊本在の白梅村というところから出てきたもので、白梅権八といっていたのを、後に白井権八と言い伝えたのである、ともいっている。権八の伝説については、たしかなことは一向わかりません。だが、平井権八が、延宝七年十一月三日に品川で磔にかかった、ということだけはたしかだ。磔にかかった時の捨札というのが残っておりまして、これは疑うべきものでない、たしかなものであります。(中略)
 権八の墓なんていうものも、今では目黒の名物になっておりますけれども、あれも実はいくつもいくつも墓があるのです。小紫という女は、金持に身請されていたのが、目黒の虚無僧寺の東昌寺に権八の墓がある、その墓に詣でて、そこで自殺した、という話があって、いわゆる比翼塚なるものが出来た。(中略)権八・小紫の連理塚は、目黒権之助坂に、中根六右衛門という者がある、この者の庭の中に、高さ四尺ばかりの自然石の連理塚がある、明治三十四年に、六右衛門の後家が亡くなって、跡を相続する者がないから、菩提寺である桐ヶ谷の安楽寺へ移した、ともいう。墓がわからないどころの話じゃない、人間の筋道がわかっていないのですが、捨札にも平井権八とあり、苗字があるのを見れば、士出の者であるには相違ない。士出の者で、泥坊を働いて磔になるほどの罪科を犯す者があったことはたしかです。(三田村鳶魚『江戸の白浪』)

大田南畝は『一話一言』巻之三十八にその捨札を記録しています。


延宝七未1679十一月三日断
一平井権八年不知 此者武州於大宮原小刀売を切殺し金銀取候者、於
 品川磔。
  札文言
  此者追はぎの本人、其上宿次之証文たばかり取、剰手鎖をはづし
  欠落仕に付て如此行ふもの也。
     十一月

曲亭馬琴も同文を『兎園小説 余録』(天保三年)に載せています。

 また十方庵敬順は『遊歴雑記』五編巻の中(文政八年1825)に次のように書いています。

御仕置の御書付左のごとし
  延宝七未年1679十一月三日御仕置
  此もの儀、武州大宮原に於て小刀売を切殺、金銀奪取、或は熊谷
  土手にて絹売馬士共切殺金銀奪取、其上常々追剥し本人並宿次之
  証文謀り取、是迄数多辻切致し剰手鎖を迦(ママ)し迯去候始末
  重々不届至極に付、於品川磔可申付、

磔になった時の年齢も諸説あります。

終に鈴ヶ森にて磔付に被仰付ける、十六才にて国を出、年二十三歳に至る迄、人を殺す事百八十五人也、(寛閑楼『北里見聞録』巻之六 文化十四年1817刊)


評定相極まり九月廿七日御仕置あるべしとて鈴が森へと引れ行、真先に平井権八生年弐拾五年、(『石井明道士』巻の拾)


平井権八について確かなことは延宝七未年1679十一月三日に品川において磔になったことだけです。


 一方幡随意院長兵衛には碑がありました。


 幡随意(ママ)長兵衛墓 源空寺境内記。下谷源空寺境内に幡随意長兵衛の墓といふ石地蔵をほり付たる碑二基有。山脇惣右衛門といひしものゝ立てし由彫付けてあり。
 幡随碑.jpg 此の通りの地蔵二躯あり。年号法名等全く 
  同じくて、たゞ左右に書付しばかりなり。 
  地蔵の古色実に竒古のものなり。〔割註〕 
  歿日は四月十三日といへり、伝馬町村田長 
  兵衛鏡師といふもの今の施主なり。」
芝居年代記。寛保四(甲子)年1744春中村座碝 
(サヾレイシ)末広源氏江戸男立の親分ばんずい 
長兵衛、大谷広治、小性梅之丞に玉沢才次、ば 
んずい長兵衛梅之丞に、むたいに衆道をいひか 
け、恋塚の門兵衛と出入立合の所、大評判大当 
り。〔割註〕芝居狂言に、幡随意長兵衛を出せ 
しはじめなるべし。」(栗原信充 手録『柳庵随 
筆』波字篇(巻之三) 柳庵は、寛政六年1794 
生、明治三年1870歿)


  源空寺中幡隨長兵衛が墓
一、武城下谷新寺町源空寺浄土は東本願寺添地の北に隣り、貳編に鐘の銘及び源空上人の木像より、本號引地の譯など具に述しかど、此拾餘年前幡隨院長兵衛が墓碑を掘出し、淺草花川戸町に住居せしといふ巷談より、花川戸町の好事の者一流して古碑を取繕ひ建、聊法事の学びせしより猶芝居がゝりの者、就中優伎古松本幸四郎錦幸は、幡ずい長兵衛が狂言して度々当たるより、当時の幸四郎錦升もこれに縋りて、両三度まで幡隨長兵衛が役廻りにて評判の能かりし程に、件の石碑の後へ卒都婆を営み、しらぬ人にも回向追福にあひしは仕合者といふべし、その頃古碑の模形を写し置しを、爰に図する事左のごとし、
幡隨長兵衛碑遊歴.jpg右、慶安三庚寅年1650より文政八乙の酉年 
1825にいたりて百七十七年に及べば、親族 
も絶て施主山脇惣右衙門といふものも疾家 
名断絶也しけん、無縁の碑ゆへ土中へ埋め 
たりしを、近頃掘出したる也、但し年號の 
み鍛付て、帰空の日のしれざるは、存命の 
内建しかと思えば、施主の名あるは歿後建 
しとも思はれて未審(イブカシ)、道散とい 
ふは長兵衛にて、壽散(ママ)といふは妻 
の戒名やらん、歿故の月日源空寺の過去帳 
には定て記しありぬべし、此長兵衛といふ 
もの説区々にして聢(シカ)としたる書は見あたらず、伝えいふ、長兵衛は淺草花川戸町に住宅し、白鞘組などの類にて、生涯男伊達を好み土地の若者の頭と成て、意気地をたてゝ五十餘歳にして病死すといひ、又一説には下谷幡随意院の門前町に住宅し力量ありて、初め米搗事を渡世として親に至孝也、後に搗屋の親方株となりて三四人の米搗どもを抱え豊に暮して、弱を扶け強きを蹇(ママ)き老年にして病死す、本名搗屋長兵衛なれども門前町に住宅して名たゝる男なれば、誰いふとなく幡隨長兵衛といえりしともいふ、何れが是なるやしらず、(十方庵敬順『遊歴雑記』五編巻の中 文政八年(1825)


その源空寺の過去帳の写が、加藤曳尾庵『我衣』巻十三(文政元年1818)にあります。


 慶長十二年1607二月五日
 忠信院大休義心居士              塚本長兵衛父
   右肥前国の住人也
  当寺旦那山脇惣右衛門を以、法事頼に来る。是より長兵衛檀家と成り金五両寄附
 善譽壽教勇士                 幡隨長兵衛
  慶安三年1650寅四月十三日、吊(弔)二十六日
幕四ッ六役十二僧、施主は朋友大勢。江戸に名高き長兵衛也。俗に幡隨長兵衛と云。本名、塚本惣右衛門。引付檀那也。
金五十両供養代、花川戸所々朋友より。石塔は(山脇)惣右衛門より建る。後代に及ても無縁に不相成と申事。尤地蔵尊二躰被造立。
  慶安三寅二月十四日
 善譽道敬(ママ)信女             山脇惣右衛門娘
  右源空寺過去帳の写

 幡随院長兵衛の末孫について、菅園『そらおぼえ』(明治十五年)には次のようにあります。


幡随院長兵衛の末孫 大伝馬町弐丁目南がわ中程也、むかし江戸の花と呼れし、町奴大親分ん幡隨院長兵衛の末孫は、代々村田長兵衛と称し、大伝馬町弐丁目南がわ中程の表店にて、銅鏡、眼鏡を売りて家業とす、菩提所は下谷五台山源空寺にて、浄土宗也、男伊達ばんずい長兵衛の墓も、同寺卵塔の内に現存す、村田の家にて、仏事、年回等今に絶へず、
村田長兵衛は、明治十五午年、本町三丁日南がわ西角へ転宅す。

文政八年十二月の源空寺の寺社書上は以下の通りです。

  善譽壽教勇士  俗幡随長兵エ

          本名塚本長兵衛

    慶安三寅年四月十三日死去

  善譽道散信女   山脇惣右衛門娘

           長兵衛妻とも云

    同年二月十四日死去


 長兵衛が死亡した年は古碑と寺の過去帳では慶安三寅1650としていますが、徳川実紀には明暦三年1657とあります。

明暦三年七月
此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに。侠客幡隨長兵衛といへるもの来り。強て花街に誘引せんとす。十郎左衛門けふはさりかたき故障ありとて辭しければ。長兵衛大に怒り。そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて。種々罵り不礼をふるまひしかば。十郎左衛門も怒りにたえず討すてゝ。其よし町奉行のもとに告しかば。奉行より老臣にうたへしに。長兵衛處士の事なれば。そのまゝたるべきむね老臣より令せられしとぞ。(日記、御側日記、尾張記)

徳川実紀にも「處士」とありますから、幡随長兵衛は武家出身であることは確かなようです。

幡隨院長兵衛の歿年は慶安三年1650四月十三日(古碑・寺の過去帳)、あるいは明暦三年1657七月(徳川実紀)。一方、平井権八は延宝七年1679十一月三日処刑

つまり平井権八が磔になったのは幡隨院長兵衛の死後29年後あるいは22年後なのです。


 ところで疑問点が二つあります。一つは長兵衛の歿年に二説あること。今一つは十方庵が長兵衛の住所・生業について二説をあげ、「何れが是なるやしらず」と云いながら、二説とも長兵衛を病死としていることについては何も触れていないことです。



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https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/Z17.html 雑話17「和語と漢字」 Sat, 20 Jul 2024 19:51:25 +0900  漢字は中国語を表記するための文字ですが、日本では古代から和語を表記するために利用してきました。多くは和語の内容にほぼ同じ内容を表す漢字をあてています。「あめ」には「雨」、「かぜ」には「風」のように。 しかし中には別の内容を表す漢字をあてている場合もあります。魚介類が多いようです。例えば、  和語       漢字  あわび      鮑(しおうお)  あゆ       鮎(なまず)  かじか      鰍(どじょう)  さけ       鮭(ふぐ)  はも       鱧(.. <![CDATA[  漢字は中国語を表記するための文字ですが、日本では古代から和語を表記するために利用してきました。多くは和語の内容にほぼ同じ内容を表す漢字をあてています。「あめ」には「雨」、「かぜ」には「風」のように。  しかし中には別の内容を表す漢字をあてている場合もあります。魚介類が多いようです。例えば、   和語       漢字  あわび      鮑(しおうお)  あゆ       鮎(なまず)  かじか      鰍(どじょう)  さけ       鮭(ふぐ)  はも       鱧(やつめうなぎ)  ふか       鱶(ひもの)  ふぐ       鰒(あわび)  また一語では同じ内容でも二文字(複数文字)になると順序が逆になるものもあります。発音のし易さからでしょうか。   和語       漢語  あとさき     先後  センゴ  あめかぜ     風雨  フウウ  うみやま     山海  サンカイ  うらおもて    表裏  ヒョウリ  きたみなみ    南北  ナンボク  しりかしら    首尾  シュビ  しろくろ     黒白  コクビャク  たてよこ     経緯  ケイイ  でこぼこ     凹凸  オウトツ  なみかぜ     風波  フウハ  にしひがし    東西  トウザイ  のやま      山野  サンヤ  まごこ      子孫  シソン  みぎひだり    左右  サユウ  めをと      夫婦  フウフ  よるひる     昼夜  チュウヤ  つきゆきはな   雪月花 セツゲッカ  また和語を漢字表記したものを音読みした詞もあります。   和語      漢字表記   音読  あそびめ     遊女    ゆうじょ  おこ       尾籠    びろう  おほね      大根    だいこん  かへりごと    返事    へんじ  くれはとり    呉服    ごふく  こころくばり   心配    しんぱい  こころのほか   心外    しんがい  でばる      出張    しゅっちょう  ひのあて     日当    にっとう  ものさわがし   物騒    ぶっそう  やすね      安価    あんか  やすね      安直    あんちょく  和語に意味無関係の漢字をあてるものもあります。江戸時代以前のものに多いようです。   家老      勘当      機嫌  吟味      家来      沙汰  承知      所帯      心中  神妙      推参      世話  粗末      存知      大切  達者      逐電      馳走  序(ついで)  当時      同心  年寄      頓着      念頃  扶持      不調法     触  程       罷(まかる)  未練  無下      無茶      迷惑  面倒      勿体なし    野暮  余儀なし    立腹      態(わざと)  江戸時代の版本はふりがな付が普通ですが、和語等に面白い漢字をあてています。直前の家老・勘当などとは違い、漢字の意味を利用して使っています。少々例をあげます。 〇紙鳶堂風来山人『風流志道軒伝巻之一』  うまれつき(生性) ひとゝなる(長) おどりこ(女妓) 〇為永春水『春告鳥』序  よわたり(活業)  ふみや(書林)  ごけんぶつ(看官)  かんかゆれど(翻案れど) 〇式亭三馬『浮世風呂』 浮世風呂大意  なまゑひ(酔客)  しらふ(醒的)  ものゝふ(武士)  ちうつぱら(侠客) しんだい(家私) ごしんぞさま(令室)         雑話一覧へ ]]> <![CDATA[
 漢字は中国語を表記するための文字ですが、日本では古代から和語を表記するために利用してきました。多くは和語の内容にほぼ同じ内容を表す漢字をあてています。「あめ」には「雨」、「かぜ」には「風」のように。

 しかし中には別の内容を表す漢字をあてている場合もあります。魚介類が多いようです。例えば、

  和語       漢字
  あわび      鮑(しおうお)
  あゆ       鮎(なまず)
  かじか      鰍(どじょう)
  さけ       鮭(ふぐ)
  はも       鱧(やつめうなぎ)
  ふか       鱶(ひもの)
  ふぐ       鰒(あわび)

 また一語では同じ内容でも二文字(複数文字)になると順序が逆になるものもあります。発音のし易さからでしょうか。

  和語       漢語
  あとさき     先後  センゴ
  あめかぜ     風雨  フウウ
  うみやま     山海  サンカイ
  うらおもて    表裏  ヒョウリ
  きたみなみ    南北  ナンボク
  しりかしら    首尾  シュビ
  しろくろ     黒白  コクビャク
  たてよこ     経緯  ケイイ
  でこぼこ     凹凸  オウトツ
  なみかぜ     風波  フウハ
  にしひがし    東西  トウザイ
  のやま      山野  サンヤ
  まごこ      子孫  シソン
  みぎひだり    左右  サユウ
  めをと      夫婦  フウフ
  よるひる     昼夜  チュウヤ
  つきゆきはな   雪月花 セツゲッカ

 また和語を漢字表記したものを音読みした詞もあります。

  和語      漢字表記   音読
  あそびめ     遊女    ゆうじょ
  おこ       尾籠    びろう
  おほね      大根    だいこん
  かへりごと    返事    へんじ
  くれはとり    呉服    ごふく
  こころくばり   心配    しんぱい
  こころのほか   心外    しんがい
  でばる      出張    しゅっちょう
  ひのあて     日当    にっとう
  ものさわがし   物騒    ぶっそう
  やすね      安価    あんか
  やすね      安直    あんちょく

 和語に意味無関係の漢字をあてるものもあります。江戸時代以前のものに多いようです。

  家老      勘当      機嫌
  吟味      家来      沙汰
  承知      所帯      心中
  神妙      推参      世話
  粗末      存知      大切
  達者      逐電      馳走
  序(ついで)  当時      同心
  年寄      頓着      念頃
  扶持      不調法     触
  程       罷(まかる)  未練
  無下      無茶      迷惑
  面倒      勿体なし    野暮
  余儀なし    立腹      態(わざと)

 江戸時代の版本はふりがな付が普通ですが、和語等に面白い漢字をあてています。直前の家老・勘当などとは違い、漢字の意味を利用して使っています。少々例をあげます。

〇紙鳶堂風来山人『風流志道軒伝巻之一』
  うまれつき(生性) ひとゝなる(長) おどりこ(女妓)

〇為永春水『春告鳥』序
  よわたり(活業)  ふみや(書林)  ごけんぶつ(看官)
  かんかゆれど(翻案れど)

〇式亭三馬『浮世風呂』 浮世風呂大意
  なまゑひ(酔客)  しらふ(醒的)  ものゝふ(武士)
  ちうつぱら(侠客) しんだい(家私) ごしんぞさま(令室)



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https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R268.html 落語の中の言葉268「鼠小僧」 Sun, 30 Jun 2024 19:58:33 +0900      十代目桂文治「お血脈」より 落語には泥坊の咄も多くありますが、錚錚(そうそう)たるところは出てきません。この咄には珍しく石川五右衛門が登場します。信濃の善光寺から血脈の御印を盗み出す役を務める者を選ぶところに、日本の有名な泥坊の名前が出てきます。袴垂保輔、熊坂長範、石川五右衛門、それに鼠小僧次郎吉です。袴垂保輔以外は実在の人物です。袴垂保輔は袴垂と藤原保輔の二人を一つにしたもので、「袴垂保輔」は実在しません。これらの泥坊は伝説や芝居等で有名であるものの、その実像は不.. <![CDATA[      十代目桂文治「お血脈」より  落語には泥坊の咄も多くありますが、錚錚(そうそう)たるところは出てきません。この咄には珍しく石川五右衛門が登場します。信濃の善光寺から血脈の御印を盗み出す役を務める者を選ぶところに、日本の有名な泥坊の名前が出てきます。袴垂保輔、熊坂長範、石川五右衛門、それに鼠小僧次郎吉です。袴垂保輔以外は実在の人物です。袴垂保輔は袴垂と藤原保輔の二人を一つにしたもので、「袴垂保輔」は実在しません。これらの泥坊は伝説や芝居等で有名であるものの、その実像は不明です。最も現代に近い鼠小僧も真の姿はよくわかりません。  次に鼠小僧の、生まれと生業・捕縛時の様子・首の晒された場所について江戸時代の風聞を紹介します。 一、生まれと生業 ○曲亭馬琴『曲亭雑記』巻四下編 此もの元来木挽町の船宿某甲(なにがし)が子なりとぞ、いとはやくより放蕩無頼なりけるにや。家を逐(おは)れて武家の足軽奉公などしけり。文化中箱館奉行より町奉行に転役して程なく死去せられし荒尾但馬守の供押(ともおさへ)を勤め、其後荒尾家を退きて處々の武處(ぶけ)に渡り奉公したり。依て武家の案内に熟したる歟といふ一説あり。  最後のところに「虚実ハ知られ(ね)ど風聞のまゝ記すのみ」とあります。 ○塵哉翁『巷街贅説』寛政三年1791から安政四年1857の巷街雑話贅説 右次郎吉、初めは建具渡世いたし、日々五六匁の作料は取候よし、当時深川辺徘徊いたし居、博奕渡世にいたし罷在候由、鼠子(ママ)僧と申触し盗賊に有之、父は堺町中村勘三郎座芝居木戸番、定七と申者にて、大坂町に住居致し、十三ケ年程已前勘当いたし候よし、 ○鈴木棠三『藤岡屋ばなし』 右次郎吉出生ハ新和泉町也。 勘三の木戸番目かち定吉の悴也。新和泉町内田の裏ニて生ル也。 二、捕縛時の様子 ○『曲亭雑記』 かく今茲(ことし)(割註:天保三年壬辰)五月廿日の夜。濱町なる松平宮内少輔殿屋敷へしのび入り。納戸金をぬすみとらんとて。主侯の臥房(ふしど)の襖をあけし折。宮内殿目を覚して。頻に宿直の近習を呼覚して。云々の事あり。そこらをよく見よといはれしにより。皆承りて見つるに。戸を引あけたる所あり。さてハ盗人の入りたらんとて。是より家中までさわぎ立て。残す隈なくあさりしかば。鼠小僧庭に走り出。屏を乗て屋敷外へ摚(たう)と飛をりし折。町方定廻り役(割註:榊原殿組同心大谷本七兵衛)夜廻りの爲。はからずもその處へ通りかゝりけり。深夜に武家の屏を乗て飛をりたるものなれば。子細を問ふに及ばず立地に搦捕たり。扨宮内殿屋敷へしのび入りしよし白状に及びしかは。留守居に届けて掛合に及びしに。途中捕もの趣に取計くれ候様頼(たのみ)に付。右の趣に執行ひて。向寄(もより)の町役人に預け。明朝町奉行所へ聞えあげて入牢せられ。(以下略) ○『藤岡屋ばなし』 右五月八日松平宮内少輔方ニて捕押へ候て、南組同心相場半左衛門方へ案内之有り候へども、半左衛門方より北組同心豊田磯右衛門へ通達ニ及び、磯右衛門召捕り候よし。 ○未詳(大坂の医師?)『浮世の有様』(文化三年1806起筆、弘化年中に至る天変・地異・人事を記録) 大坂川口與力首藤四郎右衛門が実況を慥に聞きしとて、予に語りぬるには、すべて賊へ仰渡されの始末にて、賊を召捕つて差出したる諸侯の名をば忘れしが、何分小大名の様に覚えたり、此賊、此屋敷奥向へ忍び入りしを、更に之を知る者なかりしに、一人の女ふと目を覚して、密に殿へ告げしかば、其殿起出でて近習の者共を引起し、召捕にかゝりしかば、賊は少しもわるびれたる事なくて、「是迄斯樣に盜して世を渡りぬる事なれば、召捕へらるゝ事は素よりの覚悟なり。されども陪臣の手には決して捕へらるまじく思ひしに、大名の直に召捕へらるゝ事故、此場を逃るゝの心なし。故に少しも手向せざれば早く繩掛けよ」とて、尋常の事なりしといふ。 ○未詳(大御番の旗本?)『事々録』(天保二年1831から嘉永二年1849に至る風聞雑説を記録) か程の大賊も天網もらさす、時来り松平宮内少輔の深殿の天井に、日頃の大胆をもて深更をまつうち、眠りにつき大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者や有けん搦捕られたり 三、首を晒された場所 ○『曲亭雑記』 八月十九日牽廻しの上鈴森(すゞがもり)に於て梟首せられけり。 ○『浮世の有様』巻之四 申渡書の最後、「引廻之上於浅草獄門申付候」 ○『藤岡屋ばなし』 鼠小僧次郎吉は、天保三年五月五日夜に捕われ、同月十日に北町奉行榊原主計頭役所に差出しになり、八月十九日浅草で獄門になった、というのが、藤岡屋日記に載せる一連の記録にあらわれる要領である。  江戸時代に記録された風聞でさえ、区々です。確かなのは天保三年八月十九日に引廻しの上獄門に処されたということだけです。  申し渡し                        異名鼠小僧事                         無宿入墨                          次 郎 吉  其方儀、十年已前未年以来、諸所武家屋鋪二十八ケ所、度数三十二度、塀を乗越又は通用門より紛入、長局奥向等へ忍入、錠前を固辞明け、或は土蔵の戸を鋸にて挽切、金七百五十一両一分、銭七貫五百文程盗取遣捨候後、武家屋敷へ這入候得共盗不得候処、被召捕数ケ所にて盗致し候儀は押包、博奕数度致し候旨申立、右依科入墨の上中追放相成候処、入墨を消紛し悪事不相止、尚又武家方七十一ケ所、度数九十度、右同様の手続にて、長局奥向等へ忍入、金二千三百三十四両二分、銭三百七十二文、銀四匁三分盗取、右体御仕置に相成候前後共、盗ケ所都合九十九ケ所、度数百二十二度の内、屋敷名前失念又は不覚、金銭不得盗も有之、凡金高三千百二十一両二分、銭九貫二百六十文、銀四匁三分の内、古金五両、銭七百文は取捨、其餘は不残酒食遊興、又は博奕を渡世同様にいたし、在方諸所へも持参、不残遣捨候始末、不届至極に付、引廻しの上獄門申付之、   八月十九日          (『巷街贅説』) 『曲亭馬琴日記』第三巻、天保三年八月十九日癸巳の条中 一当五月上旬、召とられ候夜盗鼠小僧次郎太夫、今日刑罪、江戸中引まハされ候ニ付、処々見物群集のよし、覚重物がたり也。(以下略)  ついでに「引廻しの上獄門」についても触れておきます。 江戸時代の町人の場合、死刑の方法は三つです。カッコ内は江戸時代の刑罰の名です。槍で突く(鋸挽・磔)、火あぶり(火罪)、刀で首を切り落とす(獄門・死罪・下手人)。 鋸挽は、『御定書百箇条』百三 御仕置形之事 に 一鋸挽  一日引廻。両之肩に刀目を入。竹鋸に血を附。側に立置。二日晒。挽可申  と申もの有之時は為挽候事。 とありますが、 (七十一)人殺并疵附御仕置之事 には 一主殺     二日晒一日引廻鋸挽之上磔 とあって、磔にする前に日本橋での二日晒しを磔に付加したものです。 死罪と下手人の違いは33「十両盗むと首がとぶ・下」に書きましたので繰り返しません。 「引廻し」は火罪には必ず付きますが、磔と獄門と死罪には「引廻し」が付く場合と付かない場合があります。下手人には「引廻し」はつきません。  獄門とは 獄門台.jpg 獄門に処する罪人は先づ馬喰町の牢屋に於て首を刎ね、非人をしてこれを洗はしめ、かねて用意の俵に入れ、獄門検使町方年寄同心抔立会の上、これを牢屋より請取り捨札を押し立て(もし引廻しを附加するときは紙幟を加ふ)検使同心差添ひて刑場(犯罪人日本橋以北の者なれば千住小塚原、日本橋以南の者なれば品川鈴ヶ森)に送り、上図の如き獄門台に乗せ置くなり。  獄門場には獄門台の側に三道具、捨札(罪状を記す)を建て、また番小屋を設く。首級は三日二夜これを曝したる上、弾左衛門より町奉行所へ伺の上取捨るなり。但し捨札は三十日間これを建置の例なり。     (『江戸町方の制度』)  獄門について浅草(小塚原)あるいは品川(鈴ヶ森)で処刑されたと表現されることがありますが、斬首するのは牢屋敷内の刑場(切り場とも土壇場とも云います)であって、小塚原・鈴ヶ森は首を晒すだけです。ここに「もし引廻しを附加するときは紙幟を加ふ」とあるのは、獄門首を晒場へ送るときにも引廻しの時と同様に紙幟を立てるということで、「引廻しの上獄門」の罪人は、まず引廻しをして牢屋敷へ戻り、牢屋敷内の刑場で首を刎ね、その首を小塚原または鈴ヶ森へ送って晒すのです。  牢屋敷平面図T.jpg 小伝馬町牢屋敷平面図 石井良助『江戸の刑罰』(『古事類苑』より)  また「引廻し」には「江戸中引廻し」と「五ケ所引廻」があり、「江戸中引廻し」は江戸の中心部の狭い範囲だけを引廻すもので、広範囲を引廻すのは「五ケ所引廻」の方です。幕末から明治まで町奉行所与力を務めた佐久間長敬(おさひろ)氏が問答形式で著した『江戸町奉行事蹟問答』に次のように書かれています。 問 引廻し検使は如何 答 引廻しの上死罪になるものは平民の刑にて、検使は前日掛り奉行所へ南北与力呼出し相成、検使の命令を奉行より受るなり。(中略)牢屋敷の表門外より囚人を乗馬せしめ、谷の者、非人附添、真先に罪科を記せし幟りを立、三道具非人これを携へ、前後左右同心にて固め警衛す。掛り組与力は跡に添、乗馬にて警衛す。引廻すべき町々定めあり。死刑獄門の如きは帰路牢屋の裏門へ入る。此処にて下乗し直に刑場へ入るなり。刑場の躰は前々陳へし如く違ふことなし。 問 引廻しケ所の区別は如何 答 引廻ケ所に江戸中引廻と云あり。五ヶ所引廻と云あり。江戸中引廻と云は、江戸の真中を引廻すと云略言にて、日本橋・江戸橋荒和布橋筋辺今の日本橋区を一周して引廻なり。五ヶ所と云は大城の外曲輪を引廻ものにて、日本橋区を巡りて南は品川、西は赤坂・四谷、北は小石川・浅草の五ヶ所を引廻し、定めたる刑場へ至るなり。亦宛て場所と唱るは、本人江戸産なれば出生の町其他犯罪地を引廻し、被害者に示し他人の戒めとする趣意なり。         落語の中の言葉一覧へ ]]> <![CDATA[      十代目桂文治「お血脈」より

 落語には泥坊の咄も多くありますが、錚錚(そうそう)たるところは出てきません。この咄には珍しく石川五右衛門が登場します。信濃の善光寺から血脈の御印を盗み出す役を務める者を選ぶところに、日本の有名な泥坊の名前が出てきます。袴垂保輔、熊坂長範、石川五右衛門、それに鼠小僧次郎吉です。袴垂保輔以外は実在の人物です。袴垂保輔は袴垂と藤原保輔の二人を一つにしたもので、「袴垂保輔」は実在しません。これらの泥坊は伝説や芝居等で有名であるものの、その実像は不明です。最も現代に近い鼠小僧も真の姿はよくわかりません。
 次に鼠小僧の、生まれと生業・捕縛時の様子・首の晒された場所について江戸時代の風聞を紹介します。
一、生まれと生業
○曲亭馬琴『曲亭雑記』巻四下編
此もの元来木挽町の船宿某甲(なにがし)が子なりとぞ、いとはやくより放蕩無頼なりけるにや。家を逐(おは)れて武家の足軽奉公などしけり。文化中箱館奉行より町奉行に転役して程なく死去せられし荒尾但馬守の供押(ともおさへ)を勤め、其後荒尾家を退きて處々の武處(ぶけ)に渡り奉公したり。依て武家の案内に熟したる歟といふ一説あり。
 最後のところに「虚実知られ(ね)ど風聞のまゝ記すのみ」とあります。

○塵哉翁『巷街贅説』寛政三年1791から安政四年1857の巷街雑話贅説
右次郎吉、初めは建具渡世いたし、日々五六匁の作料は取候よし、当時深川辺徘徊いたし居、博奕渡世にいたし罷在候由、鼠子(ママ)僧と申触し盗賊に有之、父は堺町中村勘三郎座芝居木戸番、定七と申者にて、大坂町に住居致し、十三ケ年程已前勘当いたし候よし、

○鈴木棠三『藤岡屋ばなし』
右次郎吉出生新和泉町也。
勘三の木戸番目かち定吉の悴也。新和泉町内田の裏て生也。

二、捕縛時の様子
○『曲亭雑記』
かく今茲(ことし)(割註:天保三年壬辰)五月廿日の夜。濱町なる松平宮内少輔殿屋敷へしのび入り。納戸金をぬすみとらんとて。主侯の臥房(ふしど)の襖をあけし折。宮内殿目を覚して。頻に宿直の近習を呼覚して。云々の事あり。そこらをよく見よといはれしにより。皆承りて見つるに。戸を引あけたる所あり。さて盗人の入りたらんとて。是より家中までさわぎ立て。残す隈なくあさりしかば。鼠小僧庭に走り出。屏を乗て屋敷外へ摚(たう)と飛をりし折。町方定廻り役(割註:榊原殿組同心大谷本七兵衛)夜廻りの爲。はからずもその處へ通りかゝりけり。深夜に武家の屏を乗て飛をりたるものなれば。子細を問ふに及ばず立地に搦捕たり。扨宮内殿屋敷へしのび入りしよし白状に及びしかは。留守居に届けて掛合に及びしに。途中捕もの趣に取計くれ候様頼(たのみ)に付。右の趣に執行ひて。向寄(もより)の町役人に預け。明朝町奉行所へ聞えあげて入牢せられ。(以下略)

○『藤岡屋ばなし』
右五月八日松平宮内少輔方て捕押へ候て、南組同心相場半左衛門方へ案内之有り候へども、半左衛門方より北組同心豊田磯右衛門へ通達及び、磯右衛門召捕り候よし。

○未詳(大坂の医師?)『浮世の有様』(文化三年1806起筆、弘化年中に至る天変・地異・人事を記録)
大坂川口與力首藤四郎右衛門が実況を慥に聞きしとて、予に語りぬるには、すべて賊へ仰渡されの始末にて、賊を召捕つて差出したる諸侯の名をば忘れしが、何分小大名の様に覚えたり、此賊、此屋敷奥向へ忍び入りしを、更に之を知る者なかりしに、一人の女ふと目を覚して、密に殿へ告げしかば、其殿起出でて近習の者共を引起し、召捕にかゝりしかば、賊は少しもわるびれたる事なくて、「是迄斯樣に盜して世を渡りぬる事なれば、召捕へらるゝ事は素よりの覚悟なり。されども陪臣の手には決して捕へらるまじく思ひしに、大名の直に召捕へらるゝ事故、此場を逃るゝの心なし。故に少しも手向せざれば早く繩掛けよ」とて、尋常の事なりしといふ。

○未詳(大御番の旗本?)『事々録』(天保二年1831から嘉永二年1849に至る風聞雑説を記録)
か程の大賊も天網もらさす、時来り松平宮内少輔の深殿の天井に、日頃の大胆をもて深更をまつうち、眠りにつき大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者や有けん搦捕られたり

三、首を晒された場所
○『曲亭雑記』
八月十九日牽廻しの上鈴森(すゞがもり)に於て梟首せられけり。

○『浮世の有様』巻之四
申渡書の最後、「引廻之上於浅草獄門申付候」

○『藤岡屋ばなし』
鼠小僧次郎吉は、天保三年五月五日夜に捕われ、同月十日に北町奉行榊原主計頭役所に差出しになり、八月十九日浅草で獄門になった、というのが、藤岡屋日記に載せる一連の記録にあらわれる要領である。

 江戸時代に記録された風聞でさえ、区々です。確かなのは天保三年八月十九日に引廻しの上獄門に処されたということだけです。

 申し渡し
                       異名鼠小僧事
                        無宿入墨
                         次 郎 吉
 其方儀、十年已前未年以来、諸所武家屋鋪二十八ケ所、度数三十二度、塀を乗越又は通用門より紛入、長局奥向等へ忍入、錠前を固辞明け、或は土蔵の戸を鋸にて挽切、金七百五十一両一分、銭七貫五百文程盗取遣捨候後、武家屋敷へ這入候得共盗不得候処、被召捕数ケ所にて盗致し候儀は押包、博奕数度致し候旨申立、右依科入墨の上中追放相成候処、入墨を消紛し悪事不相止、尚又武家方七十一ケ所、度数九十度、右同様の手続にて、長局奥向等へ忍入、金二千三百三十四両二分、銭三百七十二文、銀四匁三分盗取、右体御仕置に相成候前後共、盗ケ所都合九十九ケ所、度数百二十二度の内、屋敷名前失念又は不覚、金銭不得盗も有之、凡金高三千百二十一両二分、銭九貫二百六十文、銀四匁三分の内、古金五両、銭七百文は取捨、其餘は不残酒食遊興、又は博奕を渡世同様にいたし、在方諸所へも持参、不残遣捨候始末、不届至極に付、引廻しの上獄門申付之、
  八月十九日          (『巷街贅説』)

『曲亭馬琴日記』第三巻、天保三年八月十九日癸巳の条中
一当五月上旬、召とられ候夜盗鼠小僧次郎太夫、今日刑罪、江戸中引まされ候付、処々見物群集のよし、覚重物がたり也。(以下略)

 ついでに「引廻しの上獄門」についても触れておきます。
江戸時代の町人の場合、死刑の方法は三つです。カッコ内は江戸時代の刑罰の名です。槍で突く(鋸挽・磔)、火あぶり(火罪)、刀で首を切り落とす(獄門・死罪・下手人)。
鋸挽は、『御定書百箇条』百三 御仕置形之事 に
一鋸挽
 一日引廻。両之肩に刀目を入。竹鋸に血を附。側に立置。二日晒。挽可申
 と申もの有之時は為挽候事。
とありますが、
(七十一)人殺并疵附御仕置之事 には
一主殺     二日晒一日引廻鋸挽之上磔
とあって、磔にする前に日本橋での二日晒しを磔に付加したものです。
死罪と下手人の違いは33「十両盗むと首がとぶ・下」に書きましたので繰り返しません。
「引廻し」は火罪には必ず付きますが、磔と獄門と死罪には「引廻し」が付く場合と付かない場合があります。下手人には「引廻し」はつきません。

 獄門とは
獄門台.jpg

獄門に処する罪人は先づ馬喰町の牢屋に於て首を刎ね、非人をしてこれを洗はしめ、かねて用意の俵に入れ、獄門検使町方年寄同心抔立会の上、これを牢屋より請取り捨札を押し立て(もし引廻しを附加するときは紙幟を加ふ)検使同心差添ひて刑場(犯罪人日本橋以北の者なれば千住小塚原、日本橋以南の者なれば品川鈴ヶ森)に送り、上図の如き獄門台に乗せ置くなり。
 獄門場には獄門台の側に三道具、捨札(罪状を記す)を建て、また番小屋を設く。首級は三日二夜これを曝したる上、弾左衛門より町奉行所へ伺の上取捨るなり。但し捨札は三十日間これを建置の例なり。     (『江戸町方の制度』)


 獄門について浅草(小塚原)あるいは品川(鈴ヶ森)で処刑されたと表現されることがありますが、斬首するのは牢屋敷内の刑場(切り場とも土壇場とも云います)であって、小塚原・鈴ヶ森は首を晒すだけです。ここに「もし引廻しを附加するときは紙幟を加ふ」とあるのは、獄門首を晒場へ送るときにも引廻しの時と同様に紙幟を立てるということで、「引廻しの上獄門」の罪人は、まず引廻しをして牢屋敷へ戻り、牢屋敷内の刑場で首を刎ね、その首を小塚原または鈴ヶ森へ送って晒すのです。
 
牢屋敷平面図T.jpg
 小伝馬町牢屋敷平面図 石井良助『江戸の刑罰』(『古事類苑』より)

 また「引廻し」には「江戸中引廻し」と「五ケ所引廻」があり、「江戸中引廻し」は江戸の中心部の狭い範囲だけを引廻すもので、広範囲を引廻すのは「五ケ所引廻」の方です。幕末から明治まで町奉行所与力を務めた佐久間長敬(おさひろ)氏が問答形式で著した『江戸町奉行事蹟問答』に次のように書かれています。

問 引廻し検使は如何
答 引廻しの上死罪になるものは平民の刑にて、検使は前日掛り奉行所へ南北与力呼出し相成、検使の命令を奉行より受るなり。(中略)牢屋敷の表門外より囚人を乗馬せしめ、谷の者、非人附添、真先に罪科を記せし幟りを立、三道具非人これを携へ、前後左右同心にて固め警衛す。掛り組与力は跡に添、乗馬にて警衛す。引廻すべき町々定めあり。死刑獄門の如きは帰路牢屋の裏門へ入る。此処にて下乗し直に刑場へ入るなり。刑場の躰は前々陳へし如く違ふことなし。

問 引廻しケ所の区別は如何
答 引廻ケ所に江戸中引廻と云あり。五ヶ所引廻と云あり。江戸中引廻と云は、江戸の真中を引廻すと云略言にて、日本橋・江戸橋荒和布橋筋辺今の日本橋区を一周して引廻なり。五ヶ所と云は大城の外曲輪を引廻ものにて、日本橋区を巡りて南は品川、西は赤坂・四谷、北は小石川・浅草の五ヶ所を引廻し、定めたる刑場へ至るなり。亦宛て場所と唱るは、本人江戸産なれば出生の町其他犯罪地を引廻し、被害者に示し他人の戒めとする趣意なり。



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落語 たて長屋の隠居 blog:https://blog.seesaa.jp,9rakugo-fan/503786752
https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/R267.html 落語の中の言葉267「大家といえば親も同然」 Mon, 10 Jun 2024 19:56:36 +0900  大家(家主・家守)については、38「家主」(差配人・給金以外の収入・店賃など)、254「店だて」(店子の吟味・連帯責任・店請証文など)で採り上げました。今回は大家と店子との関係についてです。一部重なる部分もあります。 落語には「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」という言葉がよく出てきます。親子ほど親密な関係という意味で使われているようですが、これは落語の世界での話であって歴史的な事実とは云えないようです。 江戸に於ける大家と店子の関係は例えば次のように云われます。.. <![CDATA[  大家(家主・家守)については、38「家主」(差配人・給金以外の収入・店賃など)、254「店だて」(店子の吟味・連帯責任・店請証文など)で採り上げました。今回は大家と店子との関係についてです。一部重なる部分もあります。  落語には「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」という言葉がよく出てきます。親子ほど親密な関係という意味で使われているようですが、これは落語の世界での話であって歴史的な事実とは云えないようです。 江戸に於ける大家と店子の関係は例えば次のように云われます。 さて、家主は五人組を組織し、その中から選出された月行事(がちぎょうじ)が、毎月交代で町の政務を勤めた。しかし、家主は町役人という側面に加え、地主に雇用されているいわば管理人でもあり、任されている土地建物に居住する店子、すなわち地借・店借層に対する地代・店賃の徴収、防犯監視などの経営実務も課せられていたのである。したがって、あくまでも家主は店子を監護する立場にあり、両者間には一般にいわれるような、親密な交友関係は成り立たなかったと考えられる。(小沢詠美子「首都江戸の発展」 大石学編『江戸時代への接近』)  青字の部分はちょっと言い過ぎのように思います。 「大家といえば親も同然、店子といえば子も同様」などという表現とともに、落語にはしょっちゅう登場してくる大家さんであるが、まことに江戸時代は現代と違って随分と人情が厚かったものだと考えるのは、やはり現代的視点による一種の誤解であろう。 そもそも、「大家」というのは貸家の持ち主なのではなく、それを管理している者なのである。 『守貞謾稿』によると、  家主、……私には大屋とも云。……地主の地面を支配し、地代・店賃を店子より集めて地主に収め、公用・町用を勤め、自身番所に出て非常を守るを職とす。とある。つまりへ地主や貸家の持ち主から委託されて、地代および店賃を徴収する役目の者で、形式から言えば、現代の管理人に近い者ということになる。しかし、現代の管理人と大きく違うのは、町役人として、町の行政権・警察権を担当、ことに店子(正式の町人とは認められていなかった)に対してはあらゆる責任を負う立場にあったという点であろう。このことは逆に、店子に対して指導・監督権をも有するということである。この責任・権利関係が「大家といえば親も同然、店子といえば子も同様」といわれるような人間関係を生じさせたのである。(岩田秀行「大家」 西山松之助編『江戸ことば百話』) 254「店だて」で紹介したように、大家は、店子の犯罪その他の行為に対し、かなり広い範囲に連帯責任を負わされていました。隠売女を例にとると、 文政四年1821十月町々ニ而娘又は女を抱置、料理茶屋其外茶見世等ニ客有之候節差遣、売女同様之稼為致候由相聞不届至極ニ付、若左様之者於有之は召捕、当人は不及申町役人共迄咎可申付、地主は地面可取上旨、天明年中触置候処、一躰近来人数相増、其上売女ニ紛敷所業之者共も有之不届至極ニ付、以来右躰之儀於有之は無用捨召捕、当人は勿論地主并町役人共迄急度咎メ可申付候、常々無油断遂穿鑿、如何之風聞及承候ハヾ、早々可申立候、此旨町中可触知者也  巳十月右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中家持借屋店借裏々迄不洩様可相触候  巳十月十九日      町年寄役所  (『江戸町触集成』第十二巻) 『御定書百箇条』(四十七)隠売女御仕置之事一家主    身上に応じ過料之上、百日手鎖隔日封印改       家主建置候家蔵有之候はゞ、五年之内店賃相納させ可申候。一五人組   過料一地主    五ヶ年之内、家屋敷取上地代店賃共為相納、五ヶ年過候はゞ       元地主え返可被下       但外に罷在候共、右同断に取斗い、又候売女置候はゞ、幾度       も同様に申付、明地には申付間敷候。 家主の場合、自分の店子でなくても五人組の店子であれば過料に処されます。そのため土地建物を貸す際には、その身元を慎重に調べることになり、店子にした後も、その生活に十分気を配ることになります。 親子同然というのは、未成年者と親権者のような責任・権利関係が元で、親密な関係というのは二次的に派生してきたもののようです。 因みに、江戸の町人にはいくつかのランクがありました。家持・地借・店借・裏店借です。『守貞謾稿』には次のようにあります。 家 持 自宅の地を買得て自地に住居する者 地 借 他人の地を借り、こゝに居宅・土蔵等を造るには自費をもつてした     るを云ふ。地代と号して毎晦家主にこれを収め、家主より地主に収     む。 店 借 地と家宅ともに借りて住むを店借と云ふ。月収を店賃と号(なづ)     け、毎晦家主にこれを収む同前。 裡借屋 同前。ただし裡地に居宅するを云ふ。  家 主 戸籍等には家主と書く。すなはち家守なり。私には大屋とも云ふ。    (中略)地主の地面を支配し、地代・店賃を店子より集めて地主に     収め、公用・町用を勤め、自身番所に出て非常を守るを職とす。 町人には権利もあれば義務もあり、借家人には権利もなければ義務もないと前に述べた。町人とは厳密にいえば家屋敷を所有する者、すなわち家持(いえもち)のことである。大阪では家持を、①町内持、②他町持、③他国持の三つに分ける。①の町内持が江戸の居附地主に当ります。②③は持主が他町他国に住んでいるのですから、その町に住んでいる何人かに依頼し、自己所有の家屋敷を代表し、併せて家屋敷内にある地借・店借人を支配せしめなければなりません。その依頼を受けた人が家守です。(幸田成友『江戸と大阪』)  一口に「町人」と云いますが、これは「武士」に対する言葉で、正式の町人は家持だけです。地借・店借・裏店借は店子であって、一人前の「町人」ではありません。町の費用を負担する義務はありませんが、町政に参加する権利もありません。また訴訟も大家の印が無くては出来ませんでした。家主(家守・大家)は正式の「町人」ではありませんが、それに準ずる者とされています。 町触にみる町人の区分実例 安政二年十月 地震被害者への施しに対する褒美下賜に関する触              深川木場町                家持 善右衛門              同所                平三郎地借 (註:平三郎は地主)                   治郎兵衛 嘉永三年六月 孝子に対する褒美下賜に関する触              元赤坂町亀右衛門店 (註:亀右衛門は大家)                   弥市悴                     市三郎         「落語の中の言葉」一覧へ ]]> <![CDATA[
 大家(家主・家守)については、38「家主」(差配人・給金以外の収入・店賃など)、254「店だて」(店子の吟味・連帯責任・店請証文など)で採り上げました。今回は大家と店子との関係についてです。一部重なる部分もあります。

 落語には「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」という言葉がよく出てきます。親子ほど親密な関係という意味で使われているようですが、これは落語の世界での話であって歴史的な事実とは云えないようです。
 江戸に於ける大家と店子の関係は例えば次のように云われます。

さて、家主は五人組を組織し、その中から選出された月行事(がちぎょうじ)が、毎月交代で町の政務を勤めた。しかし、家主は町役人という側面に加え、地主に雇用されているいわば管理人でもあり、任されている土地建物に居住する店子、すなわち地借・店借層に対する地代・店賃の徴収、防犯監視などの経営実務も課せられていたのである。したがって、あくまでも家主は店子を監護する立場にあり、両者間には一般にいわれるような、親密な交友関係は成り立たなかったと考えられる。(小沢詠美子「首都江戸の発展」 大石学編『江戸時代への接近』)
  青字の部分はちょっと言い過ぎのように思います。

「大家といえば親も同然、店子といえば子も同様」などという表現とともに、落語にはしょっちゅう登場してくる大家さんであるが、まことに江戸時代は現代と違って随分と人情が厚かったものだと考えるのは、やはり現代的視点による一種の誤解であろう。
 そもそも、「大家」というのは貸家の持ち主なのではなく、それを管理している者なのである。
 『守貞謾稿』によると、
  家主、……私には大屋とも云。……地主の地面を支配し、地代・店賃を店子より集めて地主に収め、公用・町用を勤め、自身番所に出て非常を守るを職とす。
とある。つまりへ地主や貸家の持ち主から委託されて、地代および店賃を徴収する役目の者で、形式から言えば、現代の管理人に近い者ということになる。しかし、現代の管理人と大きく違うのは、町役人として、町の行政権・警察権を担当、ことに店子(正式の町人とは認められていなかった)に対してはあらゆる責任を負う立場にあったという点であろう。このことは逆に、店子に対して指導・監督権をも有するということである。この責任・権利関係が「大家といえば親も同然、店子といえば子も同様」といわれるような人間関係を生じさせたのである。(岩田秀行「大家」 西山松之助編『江戸ことば百話』)

254「店だて」で紹介したように、大家は、店子の犯罪その他の行為に対し、かなり広い範囲に連帯責任を負わされていました。
隠売女を例にとると、

文政四年1821十月
町々而娘又は女を抱置、料理茶屋其外茶見世等客有之候節差遣、売女同様之稼為致候由相聞不届至極付、若左様之者於有之は召捕、当人は不及申町役人共迄咎可申付、地主は地面可取上旨、天明年中触置候処、一躰近来人数相増、其上売女紛敷所業之者共も有之不届至極付、以来右躰之儀於有之は無用捨召捕、当人は勿論地主并町役人共迄急度咎メ可申付候、常々無油断遂穿鑿、如何之風聞及承候ハヾ、早々可申立候、此旨町中可触知者也
  巳十月
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中家持借屋店借裏々迄不洩様可相触候
  巳十月十九日      町年寄役所  (『江戸町触集成』第十二巻)

『御定書百箇条』(四十七)隠売女御仕置之事
一家主    身上に応じ過料之上、百日手鎖隔日封印改
       家主建置候家蔵有之候はゞ、五年之内店賃相納させ可申候。
一五人組   過料
一地主    五ヶ年之内、家屋敷取上地代店賃共為相納、五ヶ年過候はゞ
       元地主え返可被下
       但外に罷在候共、右同断に取斗い、又候売女置候はゞ、幾度
       も同様に申付、明地には申付間敷候。

家主の場合、自分の店子でなくても五人組の店子であれば過料に処されます。
そのため土地建物を貸す際には、その身元を慎重に調べることになり、店子にした後も、その生活に十分気を配ることになります。
 親子同然というのは、未成年者と親権者のような責任・権利関係が元で、親密な関係というのは二次的に派生してきたもののようです。
 因みに、江戸の町人にはいくつかのランクがありました。家持・地借・店借・裏店借です。
『守貞謾稿』には次のようにあります。
 家 持 自宅の地を買得て自地に住居する者
 地 借 他人の地を借り、こゝに居宅・土蔵等を造るには自費をもつてした
     るを云ふ。地代と号して毎晦家主にこれを収め、家主より地主に収
     む。
 店 借 地と家宅ともに借りて住むを店借と云ふ。月収を店賃と号(なづ)
     け、毎晦家主にこれを収む同前。
 裡借屋 同前。ただし裡地に居宅するを云ふ。

 家 主 戸籍等には家主と書く。すなはち家守なり。私には大屋とも云ふ。
    (中略)地主の地面を支配し、地代・店賃を店子より集めて地主に
     収め、公用・町用を勤め、自身番所に出て非常を守るを職とす。

町人には権利もあれば義務もあり、借家人には権利もなければ義務もないと前に述べた。町人とは厳密にいえば家屋敷を所有する者、すなわち家持(いえもち)のことである。大阪では家持を、①町内持、②他町持、③他国持の三つに分ける。①の町内持が江戸の居附地主に当ります。②③は持主が他町他国に住んでいるのですから、その町に住んでいる何人かに依頼し、自己所有の家屋敷を代表し、併せて家屋敷内にある地借・店借人を支配せしめなければなりません。その依頼を受けた人が家守です。(幸田成友『江戸と大阪』)

 一口に「町人」と云いますが、これは「武士」に対する言葉で、正式の町人は家持だけです。地借・店借・裏店借は店子であって、一人前の「町人」ではありません。町の費用を負担する義務はありませんが、町政に参加する権利もありません。また訴訟も大家の印が無くては出来ませんでした。家主(家守・大家)は正式の「町人」ではありませんが、それに準ずる者とされています。

町触にみる町人の区分実例

安政二年十月 地震被害者への施しに対する褒美下賜に関する触
              深川木場町
                家持 善右衛門
              同所
                平三郎地借 (註:平三郎は地主)
                   治郎兵衛

嘉永三年六月 孝子に対する褒美下賜に関する触
              元赤坂町亀右衛門店 (註:亀右衛門は大家)
                   弥市悴
                     市三郎



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