近江八景いつの年にかありけん、蜀山人京都へ登らむとて東海道をゆくゆく勢田の長橋にかゝれり、時に橋のあたりに二三人の雲助居りて頻りに駕籠に乗れよとすゝめけるに蜀山ハ笑ひて、懐中に銭なけれバ歩行にてゆかむとて通りすぐる、後より雲助どもハ呼びとめ、旅人よいま即詠に茲の近江八景の狂歌をよみて給ハらむにハ銭をまうし受けずして我等が駕籠に乗せまゐらすべし、と戯れにいひけれバ蜀山ハ取りあへず八つの名所を三十一文字の中にいれて一首よみけり
乗せたからさきハあはずかたゝの駕籠 ひら石山やはせらしてみゐ
大名・旗本の当主は、江戸自邸以外の外泊はできません。
自分の下屋敷に行き郊外の空気を楽しむとか、中屋敷の先代隠居の訪問は、日帰りですからできますが、帰り時刻に大風雨などの異変以外は、そこに外泊することはできません。上屋敷にいるべき当主に、急使があって不在となると、ことが公になって問題になります。これは江戸住まいの話です。
江戸御府内外への外出はどうでしょうか。たとえば先祖の墓地が御府外四里くらい離れていても、日帰りの距離であればさしつかえありません。川崎大師は日帰りですが、鎌倉の鶴岡八幡宮は一泊で、遠馬で日帰りできても必ず届けをして許可を取ります。横浜あたりの墓所での墓参は、外泊一、二日の許可をとります。 (小川恭一『江戸の旗本事典』)
宿駅の人馬を使役するのに、朱印または証文によってその使用を許されている公用旅行者が最優先することはよく知られている。朱印状は将軍名で発行するもので、その受給者は、公家・門跡・上使などで、その人馬数は朱印状面に明示されていた。また証文は老中・京都所司代・大坂城代・駿府城代・勘定奉行・道中奉行・長崎奉行等が発行者で、その受給者も決められていた。
江戸を出発するものであれば、あらかじめ朱印や証文の写しと旅行の日程表を、江戸の伝馬町(大伝馬町と南伝馬町が交互に扱う)の伝馬役所に示しておくと、伝馬役所から先々へその写しを逓送しておく。すなわちそれが先触となり、宿々ではそれを写して当日の人馬の用意をしたのである。(中略)
朱印状の例を示すと、元禄十四年(一七〇一)に越後国の見分を命ぜられた旗本の朝倉半九郎の朱印状写しは次のとおりである。
御朱印人足弐人馬三疋従江戸越後迄上下可出之、是者右之国為見分朝倉半九郎参ニ付被下候者也元禄拾四年三月廿三日右宿中
御朱印とあるところには、伝馬にだけ用いる特別の印が押してあった。朝倉半九郎は、朱印人足二人はそのままとし、馬三疋のうち一疋は人足二人に替え、その他に賃人足二人を必要として、江戸南伝馬所に伝えた。南伝馬所では、朱印状の写しを添えて、江戸出発の日時を板橋から越後の高田領までの宿々の問屋に通達したのである。朱印状の人馬は無賃であるが、賃人足の二人分は御定賃銭を払うのである。 (児玉幸多『宿場と街道』)
寛政十午年1798の顔みせに、三芝居とも元のごとく、中村勘三郎、市村卯左衛門、森田勘弥座本なり。木挽町にも操芝居、吹屋町河岸に子供など出来て、いづれも繁昌時を得たり。此顔みせより六代目市川団十郎年若なれども、数代の名家にて贔屓多かりしかば、中村座の座頭らと成。仍て隠居白猿は座着口上に出る。大当りに付狂歌白猿一首といふ本出たり。是は座付の口上之内、毎日白猿狂歌一首づゝいだせしをしるせし本なり。其狂歌は取に足らずといへども、一二を爰にしるしぬ。伜団十郎廿一歳にて座がしらに成し有難さに、そろばんの親玉子だま目ぱちぱちしめて三七二十市川牛島をもう出まじとこもりしにひき出されたるはなのかほ見せ鼻たかき人とや我をうはさせんあきはの山のちかくに遊べば(以下略)(著者未詳『梅翁随筆』巻之五 享和頃1801-03?)
おはぐろどぶというのは、新吉原の周辺にある幅五間(のちに三間)ほどの下水をいう。廓の遊女が鉄漿を用いた残りを、窓からこの溝に捨てたので、水の色が鉄漿色になったのに由来するとされている。鉄漿も流れこんだであろうが、そのほかの汚物も流れたまったのであろう。汚くてとうてい泳いで渡ることなどできなかったという。遊女の逃亡を防ぐ手段である。新吉原への出入は大門だけに限られたのである。もっとも、非常用には九ヵ所に刎ね橋が備えてあったが、ふだんはあげてあって、大門だけが唯一の通路であった。(石井良助『吉原』)
吉原では不浄なものは、長く置かなかった。その日に出た不浄物は翌朝早く廓外に運び出してしまう。
人間社会の廃棄物、悪臭を放つゴミ、不用な物品をためておくゴミ溜がない。
わいだめもはきだめもない五丁町(柳多留八十五)
わいだめとは思慮分別をいう。わいだめとははきだめの語呂を合わせた句案であって、吉原に遊ぶ人々は思慮分別がなく、その吉原には、江戸の町屋敷には必ず設備してあった掃溜がない。
人間の生理上の老廃物である不潔な糞尿も、その日のものは翌朝早く遊客が来る前に廓外へ搬出してしまう。
大門をおつぴらかせて掃除馬(俳諧觹・嘉永本)
糞(こ)ひ取に込朝の大門(俳諧觹十九)
大門を馬も出這る朝朗(あさぼらけ)(みつめぎり)
(花咲一男『川柳江戸歳時記』)
此吉田屋のお職にて、印(二つ山形一つ星)のおいらん夕霧ときこへしは、神崎一の全盛にて、木地から磨た面屋の木偶、夜光珠の昼見ても、光りのうせぬすがたなり。朝がへりの客を茶屋まで送てかへりしとみへ、〔夕ぎり〕ヲヽつめた。卜はしごを上る。跡より振袖新造〔そらね〕さむそうななりにて、あたまのしらがもとゆひのさき、両ほりを紙にていはえ、おいらんの中をりの駒げたと、じぶんのげたと、さげて来る。 ヲヤもふ、そふじがきたさふだ。いつそ匂ふよ。(山東京伝『青楼昼之世界 錦之裏』寛政三年1791 )
辰時 ものこふ法師ばらうちつれて、はち々々とよひつゝいりもてく、むづかしげなるをけさしになひて、きたなげなる男どもいりくるもみゆ。(以下略) (石川雅望『吉原十二時』刊年未詳)
一 同年(明暦二年)十一月廿七日被召出、金一萬五百両被下置候。内金三百両ハ奈良屋ニテ請取候。
本柳町一丁目、間数百廿間一尺六寸分
金千六百八十三両壹分 銀九匁六分
同二丁目以下略
〆金九千八百六拾貳両銀八匁
残金百廿四両貳分銀五匁一分
右者茶屋三人分、此金曾所ニ有
残金五百両
右者惣下水普請料ニ被下ニ付、退置申候。
都合金一萬五百両
小間一間ニ付、金十四両ヅヽ割取。
尤當年餘日無之間、来春三月迄ニ引拂可申旨被仰渡候。
新 地
一 日本堤ヨリ五十間餘入りニ、町割有。
一 大門ハ東向ニ定。
一 大門ヨリ水道尻迄百三十五間。
一 江戸町一丁目、二丁目、川岸ヨリ川岸迄百八十間。
一 中之町道幅十間。
一 町々道幅五間。
一 惣堀幅五間、深サ九尺、堀向犬走三尺餘。
明暦三年酉二月下旬ヨリ惣堀ヲホラセ、其土ヲ以二町ニ三町ノ深田ヲ埋、地形ヲ築立候。(以下略)
江戸町壱丁目西側
明暦三年
一 京間十六間四尺八寸、裏行町並貳拾間。
明暦三年元吉原ヨリ引移候節、喜多川甚右衛門替地請取、其後忰三良右衛門江相譲、甚右衛門は致薙髪宗知卜名ヲ改候。
現在、一間(けん)というと、曲尺(かねじゃく)(三〇・三㎝)で六尺(一八一・八㎝)のことで、これは田舎間とも呼ばれている。だが、この一間=六尺が支配的になるのは、近世の後半ないし近代になってからのことで、近世の初めの段階ではむしろ六尺五寸(一九七㎝)を一間とする京間と呼ばれる間(けん)のほうが、一般に使われていたとみられる。(玉井哲雄『江戸 失われた都市空間を読む』1986)
一 享保十六年亥1731、龍泉寺門前田畑へ惣下水ノ悪水アフレ候由度々申来ニ付、九月廿八日五丁相談ノ上、江戸町一丁目通り五十間跡裏下水ヨリ向江長サ十六間ニ、此度新規ニ樋ヲ付樋ノ蓋車通ル。右十三本鋪申候。
一 延享五年辰1748三月、惣下水田畑ヘアフレ候旨龍泉寺門前ヨリ申来ニ付、五十間道樋此度石ニテ仕直申候。 (『洞房古鑑』)
一、吉原町男女芸者之儀、前々名主より札相渡、稼為致候処、十七年以前、安永八亥年中、角町家持正六儀、新吉原町附日本堤土手聖天町角四角寺前より、御榜示杭壱丈二尺、馬踏五間、築立、衣紋坂下より御高札塚前通五拾間道、幷大川口際迄地形一式、但石橋より大門口迄之間、道造り、幷吉原町四方惣下水浚、柵堰板修復、水道尻に有之火之見番人給分仕払、右入用手当、吉原町之内男女芸者、遊女屋抱、素人抱、幷自分稼之儀は、其当人より証文取置、雇口引受、男女芸者札数、永々百枚に相極、名題札相渡、以前名主より渡置候名題札は不残引上、稼為致候旨、吉原町名主町人共一同対談相極、為取替、致証文置候通、以後、人数名題札之儀は、定之通百枚に相究、右之高に限、不相増様に致可甲事、(『新吉原町定書』寛政七年1795)
おはぐろどぶ 寛文の吉原地図によりますと、溝の幅が五間と記してあり、どぶといっても田んぼの余り水を集めたものらしく絵でみますと流れがあったようで、たまり水ではないと考えられます。
遊女の逃亡を防ぐ目的で作られたものでありますが、後期になってから廓の者の生活の便宜か、或は火災の場合の逃げ道か、はね橋をつけ、次の句によると、ある程度は、その娼家の自由な差配で実用されていたもののようであります。
○はねて置鉄漿どぶのわたしがね (ケイ二六47オ)
○おはぐろへ或夜恋路の渡しがね (樽九六31ウ)
おはぐろをつける時、はんぞう(耳盥)の上に金属製の板を渡す。この板を、はね橋になぞらえた。
(花咲一男『川柳 江戸吉原図絵』)
一 享保二年酉1717三月十四日、奈良や懸リニテ、五十間道空地坪數并入用之譯書上候樣ニ被申渡候ニ付、書上候。
南側空地、表京間十間、裏幅同断、西ノ方裏行四間、東之方同二間。
右ハ惣下水サライ候節、土揚場ニ支配仕来候。 (『洞房古鑑』)
火付盗賊改は江戸およびその周辺で火付、盗賊およびこれに準ずる「ゆすり」、「かたり」、「ねだり」、もしくは博奕犯を捕え、かつ裁判する警察官的役職である。先手頭一名が本役に任じ、兼任なので加役という。冬の間だけ他の先手頭一名が本役を助け、狭義ではこれを加役という。いずれにしても本務は先手頭なのであるが、これは将軍の親衛隊たる弓、鉄炮隊の長で、これをいわば首都警察に転用したものである。職制上は若年寄支配に属しつつ、裁判については老中に伺う。捜査・逮捕官たることが本務であるから、裁判権はもともとなかったものであろうが、やがて吟味権すなわち審理権が与えられ、仕置権すなわち科刑については専決権は原則としてなく、すべて老中に伺うべきものであった。
寺社・町・勘定の三奉行や遠国奉行などには、手限(てぎり)仕置、すなわち専決できる刑罰の限度がきめてあります。たとえば、町奉行ですと、中追放までです。それ以上の刑罰を言渡すためには、老中に伺出て、その下知(差図ともいう)を得ることを要します。一件の者のなかに、一人でも、手限仕置のできない者がいると、その一件の者の処刑には(単独犯なら手限で処刑できる者についても)老中に伺出ることが必要だったのです。(石井良助『第五江戸時代漫筆』)
口つきがいいので、盗賊火方改と申しておりますが、それよりももっと便利なのは、御先手が加役に勤めることから、加役と言い慣らされているが、『武鑑』には、盗賊火方改と書いてあります。この役はいつはじまったかわかりませんが、慶応二年1866八月四日に、この役が廃されました。(中略)
火付盗賊改は、最初は、火付改、盗賊改といって、二つに分れており、各々一人ずつの役柄になっておりました。それが、元禄度になりまして、博奕改というのが一つ殖えて、丁度分科が三つになりました。享保三年1718の十二月、山川安左衛門といふ人が御役の時に、三科打込みにして、兼帯で勤めることになった。それから、享保十年1725の十二月、進喜太郎という人の御役の時に、博奕改は町奉行の方の掛りになりまして、また一科目減りました。この享保十年から文久元年1861までの間は、従来二人勤めであったのが、一人勤めということになりました。そうして、文久二年1862十二月に、土方八十郎という人の御役の時に、御目付の大久保雄之助という人が任命されまして、享保以来一人勤めであったものが、また定役二人になった。この時に火付盗賊改という役名になって、役高千五百石、布衣ということになりました。布衣と申すと六位相当で、御先手の上座、若年寄支配ということになった。役名がきまり、役高がきまり、格式がきまったのであります。
それまではどうであったかというと、御先手頭の格式で勤めていたので、火付盗賊改の格式というものは別になかった。それでは、御先手頭の格式はどうかというと、今きめられた火付盗賊改の格式と違っていない。ただ、ここで火付盗賊改としての格式がきまったわけなのであります。それと、御先手からきっと勤めるので、加役ということだったのですが、今度はそうでなく、御目付から任命されるということが、従来と変っているところで、文久三年1863八月に、佐久間鐇五郎が御役になって、これからまた一人勤めということになりました。しかし、組下は、前の土方・大久保両人の組をそのままということで、与力二十騎、同心百人、従来は六十人扶持だったのが、この時から百人扶持ということになって、老中支配ということになった。それから、その年の九月に、大久保雄之助が再勤することになりまして、その時格式を上げて、諸大夫ということになった。諸大夫は五位相当ですから、位が一格上ったわけです。この時はじめて役宅が出来ることになったので、それまでは別に役宅というものなしに、めいめいの屋敷をすぐに役宅に使っておった。(以下略)
一跡々より度々町中風呂屋共ニ申渡候通、吉原町御立被成候ニ付、弥当月十六日切ニ遊女之分町中御払被成候、自今以後風呂屋ニ遊女隠置候ハヽ、五人組は不及申、其壱町之者ニ相懸り可被成候間、町中致僉議、若只今迄隠置候遊女有之候ハヽ早々払可申候、少も相背申間敷者也
(明暦三年)酉六月 (『江戸町触集成』第一巻)
一 明暦二年申十月九日、吉原町年寄共、石谷將監様、榊尾備前守様御立合ニテ、此度吉原町御用地ニ罷成候間、所替被為仰付候。代地は川向本庄、日本堤両所之内御願可申上被仰渡、猶亦御慈悲ヲ以、所徳数多下サレ候。
第一、引料金子一萬五百両被下候。第二、遠方へ被遣候ニ付、向後夜之商売御免被遊候。第三、所々ニ有之候風呂屋売女共御潰シ、以後堅ク御停止ニ被仰付候。第四、代地只今ノ地面ニ五割増シ、二町ニ三町被下候。第五、跡火消ノ町役御免被遊候間、難有可奉存旨、將監様被仰渡候。其後五町相談之上、日本堤可然ニ相定リ、其段御訴申上候得者、同八月御見分有之、両御奉行、町年寄、地割方御立合ニテ、今少箕輪ノ方江寄候ヲ土手ノ上ニテ御願申上、一町程金龍山之方へ御寄、御榜示杭御立被下候。 (竹嶋仁左衛門『洞房古鑑』宝暦四年1754)
承応明暦(1652-57)の頃、新町山本芳順が家に、かつ山といふ太夫ありし。元は神田の丹後殿前、紀国風呂市郎兵衛といふもの方に居りし、風呂屋女なりしが、其頃風呂屋女御停止にて、かつ山も親里へ帰り、又吉原芳順方へ勤に出たり。髪は白き元結にて、片曲のだて結び勝山風とて今にすたらず。揚屋は大門口多右衛門にて、始て勤に出る日、吉原五町中の太夫格子の名とり共、勝山を見んとて、中の町の両側に群り居たりける。始ての道中なれ共、遊女の揚屋通ひの、八文字を蹈て、通りし粧ひ、(遊女の揚屋通ひの往来を、ドウチウと云。)器量おし立、又双びなく見へしと。全盛は其頃廓第一と、きこへたり。(以下略)
万治三年1660十一月八日
この日諸駅に令せらるゝは。高札の旨。其他令制違犯のものあらば。各駅の役人。其日の行事曲事たるべし。こたび添札の旨を守り。毎駅にてかしこみ。いよいよゆきゝの輩。風雨の時も官用はいふまでもなし。卑賤の者たりとも疎略をなさす。人馬とゞこほりなく出すべし。博徒その他無頼のもの。をこたりなく査検すべし。娼婦を蓄をくべからす。もしかゝへをかば。其女其地の守護人。代官にうたへ出べし。上より探索ありて露顕せば。娼婦も曲事に行はれ。里正。役人等まで悉同罪たるべし。(以下略) (『厳有院殿御実紀巻二十』)
享保三戌年1718十月
(一)
内藤新宿之儀、甲州計え之通筋ニて、旅人もすくなく、新宿之儀に候間、向後古来之通宿場相止、家居等も常々百姓町屋にいたし、商売物にて渡世致させ可申候、尤自今猶以猥ニ成義無之様に入念可申付候、右宿場相止候付て、馬次之儀も古来のことく、日本橋より高井土宿馬次に可申付候、新宿運上金不納幷拝借金之儀は追て可被伺候、
一右新宿之旅籠屋共二階座敷之分ハ、不残取彿ハせ可申付候、
以上
十月
(二)
北品川新町幷善福寺法禅寺門前之茶屋町ハ、食売女一切差置間敷旨、去ル未年証文迄申付候処、右之類之女抱置候由不届候、吟味之上右之女ハ親共幷親類え相渡、家主ハ急度過料出させ、戸〆可申付候、且又家居之儀も遂吟味、茶屋町ハ常体之茶屋造りに致させ.二階座敷ハ取佛わセ可申候、
一品川宿之内ニも食売女之外ニ、疑敷女は遂吟味、向後弥弐人宛より外ニハ差置セ申間敷候、
十月
(三)
道中筋旅籠屋之食売女、近年猥ニ人多有之由ニ候、向後江戸十里四方之道中筋ニハ古来之通、旅籠屋壱軒に食売女弐人宛之外ハ、堅差置セ申間敷候、十里外之道中筋旅籠屋も、右に准し可申候以上、
十月 (『御触書寛保集成』)
延宝六午年1678十一月
一只今迄有来茶屋之外、一切茶屋為致申間敷候、若茶屋なくして不叶
所候ハヾ、奉行所江訴訟ニ罷出、差図次第ニ可仕事、
一給仕女持来候茶屋之分は、壱軒ニ女弐人ゟ多ハ指置へからす、右之外
妻幷嫁娘なと有之候共、一円馳走ニ出し申間敷候事、
但、みたりに女馳走に出し候ハヽ、則捕之、奉行所江召連候歟、又
は断置、急度申出候様ニ吉原之者共江申付置候間、可存其旨事、
一給仕女不持来茶屋之分ハ、向後弥以、馳走女壱人も不可差置事、
一茶屋女衣装之儀、布木綿之外、堅為着申間敷事、
一茶屋商売之儀、明六ツゟ暮六ツ迄ニ可仕候、日暮候而一切客差置キ申
間敷候、縦日之内たりといふとも、うさん成者茶屋江よせ申間敷候事、
右之趣、堅相守へし、若於致違背ハ、其者之儀ハ不及申、大屋五人組名主ニ至迄、曲事可申付者也、
午十一月朔日 (『江戸町触集成』第一巻)
差上申一札之事
一、品川宿旅籠屋共食売女過人数抱置、去ル巳ノ十一月中御咎メ被仰付候処、一体品川宿ハ泊旅人少ク候共江戸出立幷到着之休多キ場所ニ付、壱人弐人之食売女ニ而ハ手廻り不申段無相違相聞、右旅籠屋共ハ品川宿家持之者共少ク地借之者共ニ付、家業手支地ヲ明店替いたし候も既ニ三拾年程以前ハ旅籠屋百八十軒程有之候処、当時九十軒ニ相成、地主共農人ニ而地代店賃之余力を以宿役相勤候処、右体軒数相減候而者、自然と地主共困窮ニ相成、殊ニ五海道之内ニ而も泊旅人之助成ハ少ク、宿継御用其外宿送り等之取計多、或ハ江戸入継人馬戻之稼無之段無相違、外宿々とハ格別之思召を以、是迄食売女南北品川ニ而、旅籠屋壱軒弐人宛、歩行新宿ハ壱人宛御定法之処、已来本宿新宿之無差別幷壱軒ニ何人と不限、品川三宿食売女都合五百人迄ハ相抱可申旨被仰渡候、
一、板橋千住宿も泊旅人ハ少ク、宿継御用宿送り等之取計多、江戸入継人馬戻之稼無之、殊ニ三拾年程以前ハ板橋ニ七拾三軒、千住宿七拾弐軒有之候処、当時板橋宿ニ七軒、千住宿ニ弐拾弐軒ならでハ無之、自然と右体軒数相減、地主共困窮ニ相成候段無紛ニ付、是又品川宿ニ順シ格別之思召を以、唯今迄本宿壱軒弐人、新宿壱軒ニ壱人宛之処、以来本宿新宿無差別壱軒ニ何人と不限、板橋千住両宿共食売女一宿都合百五拾人迄相抱可申旨被仰渡候。
右者三ヶ宿共格別之御沙汰ニ御座候間、別而宿役無差支様出精仕、勿論食売女過人数不差置、都而御法度可相守旨被仰付難有奉畏候。若相背候ハヾ御咎可被仰付候。
仍御請証文差上申所如件
明和元甲申年1764八月七日
東海道
南品川宿
名主 権次郎印
以下名前省略
道中
御奉行所
(『足立区文化財調査報告書 古文書編一』)
翁が本役被仰たる時、長谷川が跡を可勤由被仰渡たれば、本役には紛レもなし。去間増人を願ひて、与力十騎同心五十人を賜るべしと申出けるに、氏教朝臣、正敦朝臣の了簡にて、長谷川も初め十騎三十人にて勤たり。未だ足不足の所も明らかには知れまじきに、増人を願ふは見越と云ものなり。長谷川が例もあれば、十騎は申に任すべしと有により、翁も心ゆかず思ひながら、ともかくも高慮に任せらるべきことにこそ候へ、本役を相勤候に、わづか三十人ばかりの同心をもて、江戸中の火附盗賊を改め可申様有べきことも不存候。乍然某が物好にて勤候ことにもなく候儘、御用心の行届候はでも不苦候はゞ、如何にも三十人にても不苦候。何れにも上の思召次第にて候条不足して不苦候はゞ、何が扨某が強て大勢を預るべきことにも候はずと云放ちたれば、後には正敦朝臣の余り少くてはいかゞなりとて、同心十人増人を賜りぬ。註:氏教朝臣=戸田采女正氏教、老中
問 捕もの制度は如何
答 捕ものは同心の主役にして、与力は検使役なり。同心貸渡しのためにくさり帷子、同鉢巻、すね当、刃ひき刀備あり。同心これを用ひ、羽織を用ひず陣ばしよりの出立なり。
与力検使としての出役は、陣笠・羽織袴にて格式の供立にて、同心捕もの手余りの時は、与力切捨の令を発し、自身も鑓を入て同心を助け働く定法なり。捕へ来る時は、同心の働きを奉行へ具上して功を賞すなり。
与力検役なき平常捕ものは同心臨機の働きなり。
一、右三芝居由緒の義御尋ね御座候処、町方役所に書留是なく、相知れざるにつき、町年寄奈良屋市右衛門に相尋候処、書面の通、銘々書付取(ママ)出し候、但先年は芝居座本四人にて是有候所、当十二年以前、御城女中絵島御詮義一件の義に付、木挽町に居候山村長太夫遠島に罷成、其已後長太夫跡芝居取立の儀、度々願人是有候得ども罷ならす、今度は右勘三郎竹之丞勘弥三人にて狂言座本仕候已上、
巳七月 大岡越前守
諏訪美濃守
其(控櫓)は享保十九年、彼の森田座が休座中たりし時なりき。木挽町に住居せるものは急に劇場を失ひて糊口に窮するより、森田座の代りに新にある劇場を建てん事を其の筋へ嘆願せしも、既に第二章に述べたるが如く劇場興行の權はかの三座に限られたるを以て、容易に裁可せられざりき。之より先、元祿以前に一度劇場主たりし河原崎權之助、桐大蔵及び都傳内の後裔が頻に其の祖先の由緒に依り劇場を再興せんことを熱望せる故、此の三者のうちの一人を抽籤に依りて森田座に代はるべき興行者と定め、且つ森田座が他日再興する場合には何時たりとも其の興行權を返戻すべしとの條件にて、始めて新劇場の興行を許され、かくて其の抽籤に當りしものは二世河原崎權之助なりしかば、享保二十年七月に至りて再び河原崎を木挽町に生ずるに至りて、即ち之を森田座の「控櫓」と称しき。而してこの控櫓の興行は延享元年まで十年間續きしが、同年に至り森田座が再興せるを以て河原崎座は自からその興行權を失ひ、之より四十七年にて寛政二年に再び森田座の休業と共に興行を始めたり。又かくの如くにして河原崎座が森田座の控櫓なりしと同じく、天明三年(引用者註:天明四年の誤り)に市村座の休場せるや桐座は其の控櫓として五年間の興行を免されしが、天明八年に至り期満ちて市村座の再興と共に興行權を失ひたり。次に、中村座も財政困難に依りて休業するや都座は遂に其の控櫓となり、此の例は其の後も頻繁に且つ規律正しく繰り返されたりき。(後藤慶二『日本劇場史』大正十四年)
○木挽町芝居外題五ッ蝶金紋五三の桐狂言興行中、狂言役者市川海老蔵被召捕。
天保十三寅年六月廿二日
申渡
深川田嶋町熊次郎地借
重兵衛方同居同人父
歌舞伎役者
海老蔵
一 此者義、家作に長押壁(塗)かまち不相成、幷道具之義結構に致間敷旨前々町触有之候処、此者家業躰之義は、時之風俗に随ひ専表向きを飾見せ不申候而は、贔屓も薄く、道具類も右に准し、高金之品無之候而は融通も不宜候迚右町触書背居宅長押造床壁(塗)かまちに致し、赤銅七々子釘隠打付、庭向は御影石灯灯(籠)其外大石数多差置、又は同処土蔵内江不動之像出飾、荘厳向惣金箔彫物、須弥檀朱塗彫物、惣金泥合天井致、或は小たんすに赤銅七々子金丸桐之絞、小柄等鉄物致し、其外手書(ママ)込候鉄物相用、唐櫃幷額なら細工、木彫彩色之雛等近々買取、右雛道具は瓢たんを菊桐五三紋形付置、名前不存町人より貰置候迚、右檀江猩々緋打敷、座敷内に相飾、其上狂言に相用ひ候品々之義も、一卜通りに而は見物人気に入間敷と存、革装(製)具足壱領幷鉄用無之品所持致、狂言に相用ひ、且先代より持伝候迚、珊瑚珠根付且緒〆付高蒔絵之印籠等、狂言之節是又相用ひ、又は銀無垢ちろり等所持致し候処、金子に差支、右之内ちろりは所持いたし、其餘之品々質入、或は可売払と預け置、金子借請候後、去る丑年十月質素倹約之義被仰出候に付、不相済と後悔致し、居宅向造作等取崩候場処も有之候得共、右身分とも不顧、奢侈僭上之至、殊に先年より買置候共、高さ壱丈七尺之石灯籠一対、深川永代寺於境内開帳有之、不動江奉納可致と、高価之品右境内江差置候段、以旁不届に付、居宅取崩、木品共取上け、江戸十里四方追放申付之。
寅六月
右は鳥居甲斐守様御白洲におゐて被仰渡之。
○天保十三寅年九月十九日
御咎 歌舞妓役者
宗十郎
梅 幸
右は編笠冠り候様兼々申渡置候処、木挽町芝居江罷出候役者之内、右両人編笠失念致し冠り不申候に付、吟味中手鎖之処、同日過料三貫文つゝ被申付。
寛政の末の頃、三馬二三子と共に目黒なる梵論寺に至りて比翼塚を見たりしに、墳碑に比翼塚と鑴(せん)ありしをあらたに磨て銅箔を以て□たり。此碑などはいかにもふるく苔むしたるをこそ称美もすれ、磨きたるはいかにぞや。当住の心理、あまりに無雅にて歎はし。今はいかゞなりしや知らず。
下目黒入谷普化寺の比翼塚
一、武州荏原郡下目黒村入谷龍溪山南(ママ)昌寺曹洞は、目黒不動より西貳町路傍の北側にあり、寺號をば呼といへども、更に菴室たり、普化でらと稱して世々虚無僧の徒住り、此菴を比翼塚とよべり、近頃より無住となりて松風梢を音信(ヲトズル)のみ、いとゞ詫しく寂寥たり、爰に萬治年間悪行超過し、終に後刑よつて死せし平井権八郎おたづね者となりし砌、在所となく人相書を以て、御穿鑿ゆへ、身の置所なく此普化寺へ来り、菴主と師弟の約をなし、しばらく忍び居し縁を以て、権八郎御仕置の後、菴主骸(カバネ)を爰へ葬りしが、後新よし原の傾城小むらさきといふもの、日頃の誓約黙止(モダシ)がたくやありけん、書置して自滅しけるまゝ、一壘の塚に埋みて比翼塚と號けて、その名高ければ壹度は見んものと思ひしが此日はからずも門前を過るに、門の潜り際に一人の男線香に火を點じ、一人まへ六錢を貪りて門内へ入、扨て塚を見せしは胴欲(ドウヨク)とやいはん、扨彼塚は門内程なく南の垣根際に、一壘の土ある上に、手頃の破石(ワレイシ)を置のみにて、見る程の男女線香を供ずるも可笑(ヲカシ)、塚の體餘り麁末(ソマツ)にして、石碑だになかりし、河原の見せものを欺されて、見物したるには劣らんか、(十方庵敬順『遊歴雑記』二編巻之下 文化十二年1815)
一とせ中秋の頃彼の里に赴けるに、(割註:東福(ママ)寺と云神奈川四光寺末也、)久しく無住にて、此頃留守の道心は来り候由故、入て見るに、折節草庵には他行にて戸ざしをりたり、是非なくあたり近き人に尋るに、里人もくわしく知る事なし、只比翼塚の碑は、七八年以前無住の内、里のわらべ等がもて遊び物となりてありしが、終に打そんじて其行衞を知らずと云、左あれば書ける物にてもあるべきかと問ふに、是又久敷住ける者もなければ、其沙汰を聞ずといひける儘、あまり本意無亊におもひければ、あまたゝび彼の塚の廻りを見まはしけれ共、夫ぞとおもふ破石もなく、草葉に置ける白露のみ、葉末重げに打しめりて、絶て昔の俤もなく、さしもに名だゝる名妓といえども、二代目高尾は土手の道哲にむなしき跡をとゞめ、小紫は此比翼塚に浮名を殘せり、是又三浦やの二代目なるも又あやし、されども貞節の操は、猶人の口碑に残りていと尊く云々、(『北里見聞録』巻之六 文化十四年1817刊)
目黒泰叡山滝泉寺不動尊へ参詣、是より門前壱町計出て行当り、左リヘ小半町曲りて、右側に黒塀黒門有、如図。〔割注〕是則比翼塚有之所なり。」
一、爰より比翼塚と云所は、塚も何もなく、たゞ手ごろの石苔むして壱つ有り。其辺り青きば其外木々にて甚乱雑なり。
(中略)
ひよく塚并に碑の銘
元禄の昔、花の姿もゆかりの色の深かりしも、今はたゞ此古き塚成
苔の下に名のみ残りし、盛衰の世の移り替りやすくて、其塚だに雨
露にくち、地下に埋みて、かたち有計なる、こたび貲助をこい、誠
ある心を尽し、労をいとわず、こたび取繕て、猶末に星霜を経ても
廃ざるがために、此碑を造立して、予が一句をこわれければ、
其むかし比翼ざくらや帰り花
東都芝浦
暎堂雪草書
右碑の裏に、
今は昔元禄十三歳1690ときゝしも、さだかならざるを、人々あるは
おのれ幾世朽ざらんため、子引の石を手向とは、
文政八酉年1825
初冬となり
随 月 堂
補佐杜恭
一、此碑に元禄年中と有は、甚いぶかし。拠となすにはあらねど、石井明道士及平井強勇記には、貞享元子年1684と見へたり。尚時代後の考へをまつのみ。
一、東昌寺の事を、旧書は風呂寺と有如何。(江戸名所図会に風呂屋共云とみえたり)
(中略)
一、武江年表に、延宝年己未(七年1679)十一月三日、浪人平井権八郎品川にて刑せらるゝと云。 (小寺玉晁『江戸見草』天保十二年1841自序)
花川戸の助六が実説とて、諸説さまざま有れども、しかと定りたるものを見ず。予が友柳恭と云へる者の蔵せる旧蹟日課と云ものに、古き事どもを委しく書たる中に、山の宿大口屋助八が事と云へる所に、此者はさして世間にしれたるほどの男達といふにはあらねど、常のふるまひ少しも私欲のきたなげなく、町内にもあれ。隣町にもあれ。貧しくして過はひ出来かね、又は年よりて子なき輩などは愍みて、窃に米銭など遣しぬれば、誰となく敬ひにけり。家は米を商ひして、九代ほども相続しつれば、所にもめでたき家がらなりとてほめられにけり。左有ばはしたなく喧嘩などみだりにする者にてはあらざりつるが、此助八が病死せしことのよしを、其頃迄よくしりたる桶とぢ有て語りけるを、その儘に記せり。此頃は、今やうのごとく町に番する所もなく、町に事とし有ときは、最寄の家にてあつかひけるに、ある時、吉原にて喧嘩のうへ、人をあやめたる者を捕へ、山の宿なる薬屋の見世に引居たり。人立多き中に、助八も立交りて見ゐたるが、助八は彼の者を露しらざりけれども、彼の者は助八をよく見しりゐて、ひそかに助八に願けるは、我等昨夜吉原二丁目河岸にて人をあやめ候へども、一人の老母の候へば、われ今相果候ては、母を路頭に迷はせしまゝ、曲て一命御たすけ給りたく、男を見かけ頼入候なりといふに、助八は聞より涙を流し、彼の者のいましめをときながら、人をあやめて世にながらへんとは、日本一のふかく者なり、いづこへなりとも行べしとて追放ちやりたり。是はと人々さはげども、はやゆくへしれざれば、詮方なく助八を公に連て出るに、罪人を逃せし科なれば、獄屋に三歳をふるうち、病死して骸(なきがら)を老母に給はり、菩提寺易行院に葬るに、助八存生の砌深く馴染たる遊女あり。吉原江戸町大松屋半次郎が抱小紫と云へり。助八が死後年季明ければ、大口屋に来り、老母に孝養を尽し、三とせほど過て、老母なくなりにければ、墓所に詣で後、助八が墓を掃除し、墓のもとにて自害して果にけり。ちいさき包の有ければ開て見るに、夫助八と同穴の願なり。此よしを公に訴参らせて、小紫をも助八が墓に葬れり。土地の人、是を易行院の比翼塚といへり。されば狂言綺語の習ひにて、此頃白井権八の狂言に、此小紫が事を加へて操を伝へ、追々廓に其名高き揚巻、白玉なんどの事どもをも書そへにけり。伝奇の虚妄は取るに足らずといへども、実録を失ふこと、是に過たる事なし。
小紫と平井権八との情事や東昌寺での跡追心中については、巷説が流布されているが、『甲子夜話』や『萍花漫筆』はこれを妄説として退けている。大口屋助八と江戸町大松屋小紫とのことが附会されて、歌謡や芝居に仕組まれたことを明らかにしているのである。しかしこのことによって、かえって後人に美化され追慕されるようになり、「傾城に誠なしとは情(わけ)知らず目黒に残せし比翼塚」などと、その心中立てを礼讃され、嬌名を今日に伝えているのである。
買 物 こむらさき
内々被仰候、我等出入之屋敷に安き払物候はゝ御調被成度由、御尤に存候。京町三うら内に、こむらさきと申物御座候。去比まて上官にて候へ共、御さかりにて、ふりかゝりにもなり申候。生れつきほそなかく、うつくしく候。心ね、うは気に面白候。君来すはねやへもいらしといふ古哥も、身あかり計のやうにそんし候。しかし、年若にて候まゝ、末々たのもしく候まゝ、御もとめ可被成候。安きもの御たつね候間、申進候。一笑々々。
ひとたばねのことくひいきいやなり。つみなきたかをかぎちらすふてきじんたれば、此ひやうばんかなふまじ。われかはりて、むかしよりの不義をかきあらはさん。(以下多くの不差配の例をあげていますが略します)
しりのはやき事あかかねなべにて候。一さんごくいちのほれずきにて、ちらと見そめしよし、しづこゝろなきこひといふ手くだにて、大人のてきとみればくみとめうりたがり申候所、みなみなしやうこある事うたがひなし。数ぶさはいくだんのことく、(以下略)
左大身従一威太夫
こむらさき
この官、吉原にて一二をあらそふ君にあらずむば、にんずべからず。この君、しよ人にこうしよくにすぐれ給へるによりこむらさきとは申せ、めんていすこししやくみたりといへども、よの人には似べからず、ふうぞくかわりたるめいたいものなり。され共あくしやうの名をとりたまふ事、よしはら一ばん也。町内にねんころをもつ事はこの君ばかりにあらねども、名たかき女郎の一度ならずかれ是とし給ふも、にあはぬ事なり。第一しさいらしくて人のにくむよりて云ひろむるなり。
小若狭 角町 久右衛門内
面躰吉。誠に其さまいたゐけに、心形ちもこ若さの、とかふ申へきなんあらす。何れも宜御わたり候へ。かく申出すを、世のひとひゐきといへる、さにあらす。(中略)
小紫悪人たれともぜんせゐをしたりといわん。小紫吉原開ひやく此方の出来物也。かの君ふさはいになくをわさは、江戸の名物高尾か名をけして吉原の伝へと成へし。さのことく小紫か不義故、出たる跡迄うらむる物はあれとも、恋しきといへる人一人もなし。又高尾かなき跡をとう人はをほう有。能名は取共あしき名を取なと申せは、万御たしなみ候へ。近付ならねは、をとなしき君はいとしく筆取候へ。
如此人に悪まれし故に客もすくなくなり、太夫より格子へおりたるなるべし。それを此買物調の作者こゝろよく思ひ、第一に買物によそへ小紫を謗り、標題も彼が事より名つけしにやあらん、小紫も格子へおりたるを恥てや、此年出廓したり。年若にてとあるを思へば、年ん明にはあるまじ。身請哉、他所へ住替哉、その事は考へ合すべき草紙を見ず。
遊女とて操の正しき有。後年に三浦屋四郎左衛門が抱に濃紫といへる三代有。二代目濃むらさきは、賊平井権八に逢染しが、権八悪事露顕ありて被召捕、御仕置被仰付しが、由緒のもの、其遺骸を目黒の里に葬りて、一堆の土と成しぬ。 しかせし後、濃紫は何気なき風情に苦界して、ある豪夫にしたしみ、終に請出されぬ。濃紫は、その請出されし夜にそこなる宿をぬけ出、目黒へゆき、権八が墓の前にて自殺したり。自殺の後、其趣意を知れるもの不便がりて、権八が墳に双て葬りたり。是を目黒の比翼塚とて、世に能知る所なり。賊とは知れど連理の契りうしなわず、死を以て報ず。遊女の貞操、このかぎりにはあらねども、因に爰に記。(石原徒流『北女閭起原』成立は天明年間1781~89、或いは享和二年1802)
宿主文右衛門店
一月寺番所
普化禅宗惣本寺触頭下総国小金宿一月寺番所の儀は、御入国の砌より御府内へ罷りあり 御用向き相勤め来り候。もっとも、御府内へ地所御座なく候につき、借地または店借にて罷りあり候。これにより、場所替えなど致し候節は、その時々寺社 御奉行所にお届け申し上げ候。もっとも、古来より所々に罷りあり、当東仲町へは享保年中に罷り成り候。
右の通りに御座候。この段申し上げ候。以上。
一月寺院代
(文政八年1825)酉十一月十九日 西 向 寺
(『江戸町方書上』浅草東仲町)
江戸時代の普化宗の総本山は下総小金の一月寺と武蔵青梅の鈴法寺の二つであって、各寺はいずれも末寺があり、虚無僧はこのいずれかの寺に属したのでした。普化宗の寺の住持は剃髪の場合には住職、有髪のときは看主(かんす)と呼びました。(中略)
普化宗の末寺を風呂屋とか風呂寺とかいいました。これは二代目の祖が寺中に風呂をたてて、諸人に施しましたが、その中、志ある者が薪木料を志として置いたのを申請けましたので、それが言伝えられて、風呂寺という称呼ができたといわれます。
按ずるに、かはゆしといふ詞、可愛の字音也といふは、いみじきあやまり也。(中略)
さればかはゆしとは、其人を不便におもふ心の、われながらとどめがたきをいふ事なりとしるべし。
男の思ふ様、「この児に刀を突き立て、箭を射立てて殺さむは、なほかはゆし。ただ野に将て行て、掘り埋まん」と思ひて、
年老い、袈裟掛けたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いとかはゆし。
夜発(よたか)蕎麦、一つ辻へ集まり、「さて、惣兵衛と十兵衛、『米が高くて蕎麦きりも合(あは)ぬ合ぬ』と言ふたが、ゆふべから内へもどらぬといふ事じや。出奔したか、又は狐にでも化(ば)やかされて、どこぞに居るか、何にもせい可愛(かわゆ)いこつた。どうで歩く夜道、手ンでンに呼んで、尋ねてやらうじやあるまいか」「いかにも、それがよかろう」と、面々、箱をかついで立ち別れ、声張り上げて、「蕎麦きり蕎麦きり」。声低にして、「十兵衛やそうべい」。
さて猶くはしく考へおもへば、をかしも、あはれも、かなしも、皆心の中にいたくしみとほるほど切なる時、うれしきにも、かなしきにも、わらはしきにも、おもしろきにもいふ詞也。(『答問雑稿』)
かなしとは、身にしみておもふことにひろくいへる詞なり。悲歎の意をいふやうなれど、これハことに身にしみておぼゆれバ、おのづからそのこころにいへるがあまたあるゆゑに、さおもハるゝになん。古今集の歌に、みちのくハいづくハあれどしほがまのうらこぐ舟のつなでかなしも、といへるハ、身にしミておもしろくおぼゆるこゝろ、伊勢物語に、ひとり子にさへありければいとかなしうしたまひけり、とあるハ、身にしみていつくしむこゝろ、又同物語に、さりともとおもふらんこそかなしけれあるにもあらぬ身をばしらずて、といひ、古今集に、声をだにきかでわかるゝたまよりもなきとこにねん君ぞかなしき、といへるハ、身にしみていとほしくおもふこころなり。かくいろいろにつかへるやうかはれども、身にしみておもふこゝろは同じけれバ、さるこゝろの詞とおもひて。 (藤井髙尚『松の落葉』 髙尚は天保十一年1840歿)
それが若かりける時、子もなかりければ、わが財伝ふべき人なしとて、子をあながちに願ひける程に、年もやうやく老いにけり。妻の年は四十に余るまでなん、今は子産まん事も思ひ懸けぬ程に、懐妊しにけり。夫妻ともにこれを喜び思ふ程に、月満ちて端正美麗なる男子を産めば、父母これを悲しみ愛して、目を放たず養ふ程に、(以下略)
をとこの人の国にまかりけるまに女にはかにやまひをしていとよわくなりにける時よみおきてみまかりにける よみ人しらず
声をだにきかでわかるゝたまよりもなきとこにねむ君ぞかなしき
追付京へ御カヘリナサッタラ ワタシハモウ今度死ンデシマウテ居モセヌ床ヘオヒトリサビシウ御寝(ぎよし)ナルデアラウト存ジマスレバ オマヘノ御声ヲサヘエキカズニ ワカレテ死ニマスルワタシガ魂ヨリモ オマヘガサ ワシヤオイトシイ
むかしは家来春替り二月二日也、寛文申年(寛文の申年は八年1668)より三月五日成、出替の日奉公人肝煎の宿来り、御家へ何様の御奉公人何人御用候哉と家々に来り問答夫々申會かへす、また外のものも右の通申来、幾人も可掛御目とて男女五六人も召連来、其内人柄気に入候者有之候得は、宿何と申者大屋は誰、先主は誰と尋、切米の高取替、夏貸等極め、男女共に食に付、先一日召仕色々奉公申附、女には縫物其外藝致させ、又早朝より参り候様申付返す、男女共に同前也。翌日もまた呼ひ終日奉公申付、又明日も参り候様に申付、如斯五日も六日も毎日呼出召仕其内外にも宜者参り候へは、引替るもあり、五日も十日も呼候へは、奉公人最早幾日相勤候、願くは御請状可被下と願ふ時、請状致させ、男は其晩引越、女は翌晩引越、三日も四日も能働時、奉公今まてはよく勤候、おのれは新参、七十日と申にてはなきかなとゝ油断せす、其頃奉公人は食に付是もはつし候得は、殊外むつかしく成て奉公人も構て宿迠も及迷惑、惣して男の奉公人は、少しも悪舗事あり慮外するなれは、家々にて手討にする。欠落すれは、尋出させためしものにする故、家々のためしもの、爰かしこに壹ヶ月には二三度も有之ゆへ、下々作法もよく、刀脇差の身の心見も調(とゝのふ)なり。
八九拾年以前の昔は、小普請の面々御破損の人足を出す、百石已下は御免にて不出、百石(以上)斗出す、五百石以上より杖突とて侍壱人たち付に羽織を着し、人足を引連出、人足の出し様大かた萬(百)石に付一ケ年に貳三人出す。杖突一年に五六度出、人数の扶持かた一ヶ月に壱人扶持つゝ被下、手前の中間御城の人足に出す故、春中間召抱候時小普請の中間は江戸中大屋請とて、請人に差添て大屋請に立、文言は此誰様御内御仲間御城に普請に於て何様の悪事仕候か、又は御奉行様方江少も慮外仕候はゝ、當人の儀は不及申上請人幷大屋迠何様に被仰付候共、少も御恨に存間敷候と文言、出入の有人数、當る前日に誰々内杖突誰よりとて小普請の用人方へ手紙を明日何方の御普請に人足何人申候由、小普請奉行より被仰付候、御高割其元様の御高にて、明日何壱人(何処へ何人)と成共二人と成共人足御出し候節に御申上候間、明日何時何分何所へ人足御出可被成候、其節私罷出差圖致御普請場へ同道仕可申と申来る。相心得申由返事仕、扨其日夜の内主人も起其人足遣、仲間御普請大切に相勤候様にと申付出す、其日の晩方七つ過帰る迠気遣ひ致し相待、夫より後は手前の仲間出る事止み、町人に普請人足請合候者出来、請合の町人に金子渡す、譬へは百石に付金子何程にて請合可申と申者有之候へは、下直成るは百石に付貳朱斗にて請合も有、亦二三百石にて壱歩貳朱も有、尤慥成家屋舗持たる町人を請合、尤人足毎日御扶持方其町人の方へ請取也。方々故大分の金高成候付、請合たる町人夥しく有、尤請状毎年仕直し御普請場人足少も間違相違仕間敷、人足慥成者出し可申候。萬一少しも悪事仕出し候はゝ人足は不及申、私等請人まて何様の曲事被仰付候様にと證文致させ取置候也。寛文の比より右町人請合止る、百石に付金子壱両つゝ小普請金とて差上る。其後亦小普請金上り、百石に付壱両貳歩に成、百石以下も出す。
小普請とは、旗本・御家人の内、家禄三〇〇〇石未満の無役の士をいう。幕府では、無役の士のうち家禄三〇〇〇石以上、あるいはかつて布衣以上の役職に就いていた者を寄合に編入し、家禄三〇〇〇石未満、および本来は寄合の資格を持つ者でも処罰された者を小普請に編入した。
その名称の起源は、はじめ老人や幼少で無役・無勤の者が、日頃の奉公にかわるものとして殿中その他の小普請の際に夫役を負担し、家士や奉公人を人夫として差し出したところにあるという。これは元禄三年(一六九〇)より役金の上納に変わり、それを小普請金と称し、家禄五〇〇俵(石)以上の者は、一〇〇俵(石)につき金二両を上納した(それ以下の者は軽減)。
小普請ははじめ留守居の支配に属したが、享保四年(一七一九)六月には小普請組支配(役高三〇〇〇石、布衣役)を新設して、家禄三〇〇〇石未満二〇〇石以上の士をその配下となし(二〇〇石未満の士は従前のように留守居支配)、さらに宝暦三年(一七五三)六月には留守居の支配を廃止して、二〇〇石未満の士も小普請組支配の所属とした。
以後は御目見以上の士(旗本)を小普請支配、御目見以下の士(御家人)を小普請組ととなえることになったという。その頭である小普請組支配は一〇人前後置かれ、各組に小普請組支配組頭(役高二〇〇俵、御目見以上)一人、小普請組世話役(役高五〇俵、御目見以下)三人の他、小普請組世話取扱・小普請金上納役・小普請医師などが所属した。
小普請というのは御役に出ないやつで、つまり非役の分になる。ですから、小普請になりますと、百石の者は百石、百俵の者は百俵、持高でいるのです。閑職のわけだ。小普請奉行とか、小普請方とかいって、本当に普請する役回りではない。無役ということになるのです。小普請という言葉は、屋根の瓦が壊れたとか、垣根が壊れたとかいうような小さい工事 ― 補修工事の意味で、そういうことをやるのが、小普請奉行の仕事なのですが、無役でいる旗本・御家人は、御役をつとめませんから、この小普請工事に参加させたのです。それを後には、小普請金を持高に割り当てて出させて、工事に参加することに代えたのです。(中略)
小普請金というものは、七月に三分ノ一、十一月に三分ノ二納めるのですが、これはどういう標準で出すかといいますと、知行を取っている者でも一石一俵の割、すなわち俵取りも一俵を一石として勘定するのです。扶持は総締にして俵に換算するので、前に申した老年小普請を除くほか、二十俵未満の人を取り除けて、他は皆出すのです。二十俵から五十俵までは金二分、百俵以内は一両、百俵から五百俵までは百俵ごとに一両二分、五百俵以上は百俵ごとに二両、ということになっております。
小普請の夫役―割元業の成立と消滅、遊侠の掃蕩
この定は元禄二年1689からと聞いておりますが、延宝三年1675までは夫役でありました。その時は、百石一両と押えて金を納める。夫役の時代には、工事のある場合には、小普請奉行から人足を割当てたのですが、百石以下には当てません。百石以上は百石ごとに二三人ずつ出させるので、五百石になると、そのほかに杖突が一人出る。杖突というのは人夫の小頭みたいなもので、これは士ですが、他の人夫は中間です。しかし、寛永度になりますと、もう人夫は持っていない。実際人がないのだから、人夫を出せといわれても人が出せない。臨時に雇うよりほかに仕方がないので、どこかから雇って、従来いたような顔をして、小普請奉行の指図通りに人を出す。この出した人については、工事に出る時だけ雇った者でありましても、とにかく家来のわけなのですから、何か仕損いがあれば主人に責任がくる。相手が幕府だけに、なかなか面倒臭い。随分これを出した旗本の身分に関係するようなことがありましたから、普通の雇入請状の請人は勿論、本人の尊属の住っている土地の町役人に加判させる。恐しい格高な雇人になったわけです。
それでも、不断用のない人間を抱えておくわけにはゆきませんから、そういうふうにしていたのですが、とてもこれは続きません。そこで、慶安頃からは、町人が引き受けるようになりました。こうなると費用も安くなり、百石について二朱、二三百石について一分二朱くらいで引き受けてくれる。これは、幕府から、出した人数の各々に一人扶持をくれるので、それは町人に渡します。その上に、二朱とか、一分二朱とかいうものを払うのですが、請け負わせるだけは請け負わせても、幕府へは請負人誰の名義で出すのではない。何の某という士の名義で出すのですから、間違った場合には、腹を切らなければならぬ。よっぽど請負人に信用がなければ、頼むわけにはいかない。
また、これを引き受ける割元なるものの方でも、いつそう言われても差し出し得るだけの人数を持っていなければならない。常に元気のいい若い者を持っていて、たとえば、松平備後守から言って来れば、直ちにその家来として人を出す。松平美濃守から命令があれば、またその名義で直ちに人を出す。そういうわけですから、手に始終それだけの寄子を持っていなければならぬのみならず、寄子はその割元の言うことを聞くようでなければならない。割元は、旗本からの信用と、寄子からの信用と、両方釣り合わして行くのだから、非常に骨が折れる。こういう次第で割元業が成立したのですが、その中に、例の幡随院長兵衛がおりました。割元業者は幾人もおったのだけれども、最も人に知られたのが長兵衛で、あれはただの侠客なんていうものではありません。それが、小普請金の制度が出来るようになると、長兵衛の稼業は上ったりで、割元業も延宝度からなくなったわけであります。これは遊侠掃蕩が行われたので、小普請金になるに先立って、割元業が滅亡したのです。
元禄二年1689極月十六日、小普請衆、人足料之事、二十俵御切米より百石迄金二分ヅヽ、百石より九百石迄百石ニ付金壱両二分ヅヽ、千石より九千石迄千石ニ付二十両ヅヽ、竹村九郎左衛門・松田又兵衛方迄遣し可申由
元禄三年1690六月 此月小普請金上納の制を定めらる。例年小普請金出す輩。金は後藤包。銀は常是包とし。七月三分一。十一月三分二出すべし。金銀上納の事は。その役人より元方金蔵に納むべし。七十歳以上にて老免の輩は。この小普請金出すに及ばす。尤前々より小普請にて金出し来りしは。七十歳に餘りたりとも出すべし。小普請の輩。致仕あるは病死して其子家つぎ。其まゝ小普請たらば。小普請金出すべし。分地せしもこれにおなじかるべし。但し子役つとめ来り。家つぎし後も役つかふまつらば。家督命ぜられし月より。小普請金出すべからず。父役つとめ。子いまだ役つかふまつらずして家督命ぜられ。小普請にいる輩は。その月より小普請金出すべしとなり。(憲教類典)
徳川実紀は家康以来家治に至る江戸幕府将軍の実紀にして、一代ごとに将軍の言行逸事等を別叙し、之を附録とせり。大學頭林衡総裁の下に成島司直旨を奉じて撰述し、文化六年1809に稿を起し、嘉永二年1849に至りその功を成したり。総じて之を御実紀と稱し、各代将軍の廟號に因りて題し、東照宮御実紀を始め、台徳院殿御実紀以下俊明院殿御実紀に終る。今こゝに徳川実紀といへるは、世に行はるゝ通稱に從ふなり。
本書は家康より家治まで徳川氏歴代将軍の實紀の後を承け、更に第十一代家齊の實紀より漸次稿を起して第十五代慶喜に及べり。然るに業半ばにして戊辰の變に遇ひ、家齊・家慶の二代は、編述僅に成りたれども、其功を完くするに至らず、家定以後に至りては、たゞ資料を蒐集按排して、簡單なる綱文を附したるのみ、遂に未定稿のまゝに傳はれり。さきに續徳川實紀と題して経済雑誌社よりこれを刊行せしが、文恭院殿御實紀の中、天明六年より文化十四年までを、こゝに新訂増補国史大系第四十八巻として公刊す。
天保十四年1843十二月廿二日 儒臣林大学頭御実紀編集の事。父大内記申上しむねも。こたび全部たてまつりしによて時服を賜ひ。その事にあづかりしともがら二十五人賜物差あり。
明暦三年1657七月 此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに。侠客幡隨長兵衛といへるもの来り。強て花街に誘引せんとす。十郎左衛門けふはさりかたき故障ありとて辭しければ。長兵衛大に怒り。そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて。種々罵り不礼をふるまひしかば。十郎左衛門も怒りにたえず討すてゝ。其よし町奉行のもとに告しかば。奉行より老臣にうたへしに。長兵衛處士の事なれば。そのまゝたるべきむね老臣より令せられしとぞ。(日記、御側日記、尾張記)
水野十郎左衛門、大小神祇組、幡随院長兵衛に意恨ありて、たばかりころしぬ、長兵衛子分ども、十郎左衛門殿を吉原の土手にてさいなまれ、屋敷帰り御しおきになりぬ、
幡随院長兵衛、(割註:下谷幡随院境内に住す、)六法組、よき男なり、花房大膳殿もの、浪人してみじかきあい口に大刀さし、名高き男達なり、寛文五乙巳年1665より十八年の間男達をし、一度もひけをとらざるところ、水野十郎左衛門いこんあるゆへよびよせ、いろいろちそういたし、大酒いださせこゝろをゆるさせ、大勢にて切ころしぬ、時に天和二壬戌年1682のことなり、長兵衛三十六歳にて、水野がために横死す、
此長兵衛といふもの説区々にして聢(シカ)としたる書は見あたらず、伝えいふ、長兵衛は淺草花川戸町に住宅し、白鞘組などの類にて、生涯男伊達を好み土地の若者の頭と成て、意気地をたてゝ五十餘歳にして病死すといひ、又一説には下谷幡随意院の門前町に住宅し力量ありて、初め米搗事を渡世として親に至孝也、後に搗屋の親方株となりて三四人の米搗どもを抱え豊に暮して、弱を扶け強きを蹇(ママ)き老年にして病死す、本名搗屋長兵衛なれども門前町に住宅して名だゝる男なれば、誰いふとなく幡隨長兵衛といえりしともいふ、何れが是なるやしらず、云々(『遊歴雑記』五編巻の中 文政八年1825)
演劇でおなじみの侠客幡随院長兵衛の一件。三千石の旗本水野十郎左ヱ門が、身持不行跡の理由で切腹となるのが寛文四年(一六六四)で 長兵衛は、その一四年前の慶安三年(一六五○)に十郎左ヱ門の邸の湯殿で殺害された、とされている。
長兵衛に関する出版物がずっと後代になって、演劇などによって有名になるまで発行されなかったのは、長兵衛の行跡には常に水野十郎左ヱ門その他の旗本武士が関係していて、これらの旗本の行跡を記すことは、出版界の禁忌(タブー)とされていたからであって、以下に記す川柳なども、筆写・転写による実録本(奇癖道人序『幡随院長兵衛』等)もしくは幕末の中形読本(『幡随長兵衛一代記』等)あるいは、黙阿弥の『極附幡随長兵衛』などの歌舞伎脚本によったもので、その真偽を確かめることはできない。(花咲一男『江戸入浴百姿』)
男伊達のはやりたるには、水野十郎左衛門名高し。幡随院長兵衛といふ町男、伊達には及ばざりしかば、たばかりて殺せしといふ。水野の悪事侠気、人口に余る計り也。後切腹被仰付、金の水引にて髪を結、腹を十文字にきりけるといふ。白無垢にしらみを縫紋にして登城したりと云。其外のこと不可勝計。
一門前惣家数、表裏家とも八十四軒に御座候。
一町内南北八十四間三尺、東西四十間
但し、幡随院の表門構いの分相除き申し候。
(下げ札)
門前町屋表家五十五間(軒)御座候
一幡随院(長)兵衛当所に住居致し候由、世俗種々申し伝えなども候えども、取りとめ候義いっさい御座なく候。住居の義も是以て相知れ申さず候。土地の義も右同断に御座候。
文政九戌年 名主これなく
二月十五日 月行事 五郎兵衛
誰でも知っている平井権八、あれは鳥取の城主松平相模守光仲の家来、平井正右衛門という、六百石取る者の総領子で、寛文十二年の秋に、親仁に対し暴言を吐いて辱めた本庄助太夫という者を斬殺して、ところを立ち退いた。それから江戸へ来て、渡り徒士になり、忍の城主であった阿部豊後守正武、信州高遠の鳥居左京亮忠常などのところを、渡り奉公をしているうちに、だんだん江戸慣れてきて、辻斬りやら強盗やらを働くようになり、吉原の遊女の小紫に馴染んだ。この小紫に馴染んだという話は、嘘でもないらしく思われる。けれども、今鳥取の池田侯爵家の方で調べてみると、平井正右衛門などという六百石取りの士は分限帳にない。従って、本庄助太夫と喧嘩が出来るということもないわけで、池田家の方では、平井権八に関しては、記録もなければ証拠もない。全く事実無根だといっている。
それからまたある伝えによれば、権八は熊本在の白梅村というところから出てきたもので、白梅権八といっていたのを、後に白井権八と言い伝えたのである、ともいっている。権八の伝説については、たしかなことは一向わかりません。だが、平井権八が、延宝七年十一月三日に品川で磔にかかった、ということだけはたしかだ。磔にかかった時の捨札というのが残っておりまして、これは疑うべきものでない、たしかなものであります。(中略)
権八の墓なんていうものも、今では目黒の名物になっておりますけれども、あれも実はいくつもいくつも墓があるのです。小紫という女は、金持に身請されていたのが、目黒の虚無僧寺の東昌寺に権八の墓がある、その墓に詣でて、そこで自殺した、という話があって、いわゆる比翼塚なるものが出来た。(中略)権八・小紫の連理塚は、目黒権之助坂に、中根六右衛門という者がある、この者の庭の中に、高さ四尺ばかりの自然石の連理塚がある、明治三十四年に、六右衛門の後家が亡くなって、跡を相続する者がないから、菩提寺である桐ヶ谷の安楽寺へ移した、ともいう。墓がわからないどころの話じゃない、人間の筋道がわかっていないのですが、捨札にも平井権八とあり、苗字があるのを見れば、士出の者であるには相違ない。士出の者で、泥坊を働いて磔になるほどの罪科を犯す者があったことはたしかです。(三田村鳶魚『江戸の白浪』)
延宝七未1679十一月三日断
一平井権八年不知 此者武州於大宮原小刀売を切殺し金銀取候者、於
品川磔。
札文言
此者追はぎの本人、其上宿次之証文たばかり取、剰手鎖をはづし
欠落仕に付て如此行ふもの也。
十一月
御仕置の御書付左のごとし
延宝七未年1679十一月三日御仕置
此もの儀、武州大宮原に於て小刀売を切殺、金銀奪取、或は熊谷
土手にて絹売馬士共切殺金銀奪取、其上常々追剥し本人並宿次之
証文謀り取、是迄数多辻切致し剰手鎖を迦(ママ)し迯去候始末
重々不届至極に付、於品川磔可申付、
幡随意(ママ)長兵衛墓 源空寺境内記。下谷源空寺境内に幡随意長兵衛の墓といふ石地蔵をほり付たる碑二基有。山脇惣右衛門といひしものゝ立てし由彫付けてあり。
此の通りの地蔵二躯あり。年号法名等全く
同じくて、たゞ左右に書付しばかりなり。
地蔵の古色実に竒古のものなり。〔割註〕
歿日は四月十三日といへり、伝馬町村田長
兵衛鏡師といふもの今の施主なり。」
芝居年代記。寛保四(甲子)年1744春中村座碝
(サヾレイシ)末広源氏江戸男立の親分ばんずい
長兵衛、大谷広治、小性梅之丞に玉沢才次、ば
んずい長兵衛梅之丞に、むたいに衆道をいひか
け、恋塚の門兵衛と出入立合の所、大評判大当
り。〔割註〕芝居狂言に、幡随意長兵衛を出せ
しはじめなるべし。」(栗原信充 手録『柳庵随
筆』波字篇(巻之三) 柳庵は、寛政六年1794
生、明治三年1870歿)
源空寺中幡隨長兵衛が墓
一、武城下谷新寺町源空寺浄土は東本願寺添地の北に隣り、貳編に鐘の銘及び源空上人の木像より、本號引地の譯など具に述しかど、此拾餘年前幡隨院長兵衛が墓碑を掘出し、淺草花川戸町に住居せしといふ巷談より、花川戸町の好事の者一流して古碑を取繕ひ建、聊法事の学びせしより猶芝居がゝりの者、就中優伎古松本幸四郎錦幸は、幡ずい長兵衛が狂言して度々当たるより、当時の幸四郎錦升もこれに縋りて、両三度まで幡隨長兵衛が役廻りにて評判の能かりし程に、件の石碑の後へ卒都婆を営み、しらぬ人にも回向追福にあひしは仕合者といふべし、その頃古碑の模形を写し置しを、爰に図する事左のごとし、右、慶安三庚寅年1650より文政八乙の酉年
1825にいたりて百七十七年に及べば、親族
も絶て施主山脇惣右衙門といふものも疾家
名断絶也しけん、無縁の碑ゆへ土中へ埋め
たりしを、近頃掘出したる也、但し年號の
み鍛付て、帰空の日のしれざるは、存命の
内建しかと思えば、施主の名あるは歿後建
しとも思はれて未審(イブカシ)、道散とい
ふは長兵衛にて、壽散(ママ)といふは妻
の戒名やらん、歿故の月日源空寺の過去帳
には定て記しありぬべし、此長兵衛といふ
もの説区々にして聢(シカ)としたる書は見あたらず、伝えいふ、長兵衛は淺草花川戸町に住宅し、白鞘組などの類にて、生涯男伊達を好み土地の若者の頭と成て、意気地をたてゝ五十餘歳にして病死すといひ、又一説には下谷幡随意院の門前町に住宅し力量ありて、初め米搗事を渡世として親に至孝也、後に搗屋の親方株となりて三四人の米搗どもを抱え豊に暮して、弱を扶け強きを蹇(ママ)き老年にして病死す、本名搗屋長兵衛なれども門前町に住宅して名たゝる男なれば、誰いふとなく幡隨長兵衛といえりしともいふ、何れが是なるやしらず、(十方庵敬順『遊歴雑記』五編巻の中 文政八年(1825)
慶長十二年1607二月五日
忠信院大休義心居士 塚本長兵衛父
右肥前国の住人也
当寺旦那山脇惣右衛門を以、法事頼に来る。是より長兵衛檀家と成り金五両寄附
善譽壽教勇士 幡隨長兵衛
慶安三年1650寅四月十三日、吊(弔)二十六日
幕四ッ六役十二僧、施主は朋友大勢。江戸に名高き長兵衛也。俗に幡隨長兵衛と云。本名、塚本惣右衛門。引付檀那也。
金五十両供養代、花川戸所々朋友より。石塔は(山脇)惣右衛門より建る。後代に及ても無縁に不相成と申事。尤地蔵尊二躰被造立。
慶安三寅二月十四日
善譽道敬(ママ)信女 山脇惣右衛門娘
右源空寺過去帳の写
幡随院長兵衛の末孫 大伝馬町弐丁目南がわ中程也、むかし江戸の花と呼れし、町奴大親分ん幡隨院長兵衛の末孫は、代々村田長兵衛と称し、大伝馬町弐丁目南がわ中程の表店にて、銅鏡、眼鏡を売りて家業とす、菩提所は下谷五台山源空寺にて、浄土宗也、男伊達ばんずい長兵衛の墓も、同寺卵塔の内に現存す、村田の家にて、仏事、年回等今に絶へず、
村田長兵衛は、明治十五午年、本町三丁日南がわ西角へ転宅す。
明暦三年七月
此十八日寄合水野十郎左衛門成之のもとに。侠客幡隨長兵衛といへるもの来り。強て花街に誘引せんとす。十郎左衛門けふはさりかたき故障ありとて辭しければ。長兵衛大に怒り。そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて。種々罵り不礼をふるまひしかば。十郎左衛門も怒りにたえず討すてゝ。其よし町奉行のもとに告しかば。奉行より老臣にうたへしに。長兵衛處士の事なれば。そのまゝたるべきむね老臣より令せられしとぞ。(日記、御側日記、尾張記)
申し渡し
異名鼠小僧事
無宿入墨
次 郎 吉
其方儀、十年已前未年以来、諸所武家屋鋪二十八ケ所、度数三十二度、塀を乗越又は通用門より紛入、長局奥向等へ忍入、錠前を固辞明け、或は土蔵の戸を鋸にて挽切、金七百五十一両一分、銭七貫五百文程盗取遣捨候後、武家屋敷へ這入候得共盗不得候処、被召捕数ケ所にて盗致し候儀は押包、博奕数度致し候旨申立、右依科入墨の上中追放相成候処、入墨を消紛し悪事不相止、尚又武家方七十一ケ所、度数九十度、右同様の手続にて、長局奥向等へ忍入、金二千三百三十四両二分、銭三百七十二文、銀四匁三分盗取、右体御仕置に相成候前後共、盗ケ所都合九十九ケ所、度数百二十二度の内、屋敷名前失念又は不覚、金銭不得盗も有之、凡金高三千百二十一両二分、銭九貫二百六十文、銀四匁三分の内、古金五両、銭七百文は取捨、其餘は不残酒食遊興、又は博奕を渡世同様にいたし、在方諸所へも持参、不残遣捨候始末、不届至極に付、引廻しの上獄門申付之、
八月十九日 (『巷街贅説』)
獄門に処する罪人は先づ馬喰町の牢屋に於て首を刎ね、非人をしてこれを洗はしめ、かねて用意の俵に入れ、獄門検使町方年寄同心抔立会の上、これを牢屋より請取り捨札を押し立て(もし引廻しを附加するときは紙幟を加ふ)検使同心差添ひて刑場(犯罪人日本橋以北の者なれば千住小塚原、日本橋以南の者なれば品川鈴ヶ森)に送り、上図の如き獄門台に乗せ置くなり。
獄門場には獄門台の側に三道具、捨札(罪状を記す)を建て、また番小屋を設く。首級は三日二夜これを曝したる上、弾左衛門より町奉行所へ伺の上取捨るなり。但し捨札は三十日間これを建置の例なり。 (『江戸町方の制度』)
問 引廻し検使は如何
答 引廻しの上死罪になるものは平民の刑にて、検使は前日掛り奉行所へ南北与力呼出し相成、検使の命令を奉行より受るなり。(中略)牢屋敷の表門外より囚人を乗馬せしめ、谷の者、非人附添、真先に罪科を記せし幟りを立、三道具非人これを携へ、前後左右同心にて固め警衛す。掛り組与力は跡に添、乗馬にて警衛す。引廻すべき町々定めあり。死刑獄門の如きは帰路牢屋の裏門へ入る。此処にて下乗し直に刑場へ入るなり。刑場の躰は前々陳へし如く違ふことなし。
問 引廻しケ所の区別は如何
答 引廻ケ所に江戸中引廻と云あり。五ヶ所引廻と云あり。江戸中引廻と云は、江戸の真中を引廻すと云略言にて、日本橋・江戸橋荒和布橋筋辺今の日本橋区を一周して引廻なり。五ヶ所と云は大城の外曲輪を引廻ものにて、日本橋区を巡りて南は品川、西は赤坂・四谷、北は小石川・浅草の五ヶ所を引廻し、定めたる刑場へ至るなり。亦宛て場所と唱るは、本人江戸産なれば出生の町其他犯罪地を引廻し、被害者に示し他人の戒めとする趣意なり。
さて、家主は五人組を組織し、その中から選出された月行事(がちぎょうじ)が、毎月交代で町の政務を勤めた。しかし、家主は町役人という側面に加え、地主に雇用されているいわば管理人でもあり、任されている土地建物に居住する店子、すなわち地借・店借層に対する地代・店賃の徴収、防犯監視などの経営実務も課せられていたのである。したがって、あくまでも家主は店子を監護する立場にあり、両者間には一般にいわれるような、親密な交友関係は成り立たなかったと考えられる。(小沢詠美子「首都江戸の発展」 大石学編『江戸時代への接近』)
「大家といえば親も同然、店子といえば子も同様」などという表現とともに、落語にはしょっちゅう登場してくる大家さんであるが、まことに江戸時代は現代と違って随分と人情が厚かったものだと考えるのは、やはり現代的視点による一種の誤解であろう。そもそも、「大家」というのは貸家の持ち主なのではなく、それを管理している者なのである。『守貞謾稿』によると、家主、……私には大屋とも云。……地主の地面を支配し、地代・店賃を店子より集めて地主に収め、公用・町用を勤め、自身番所に出て非常を守るを職とす。とある。つまりへ地主や貸家の持ち主から委託されて、地代および店賃を徴収する役目の者で、形式から言えば、現代の管理人に近い者ということになる。しかし、現代の管理人と大きく違うのは、町役人として、町の行政権・警察権を担当、ことに店子(正式の町人とは認められていなかった)に対してはあらゆる責任を負う立場にあったという点であろう。このことは逆に、店子に対して指導・監督権をも有するということである。この責任・権利関係が「大家といえば親も同然、店子といえば子も同様」といわれるような人間関係を生じさせたのである。(岩田秀行「大家」 西山松之助編『江戸ことば百話』)
町人には権利もあれば義務もあり、借家人には権利もなければ義務もないと前に述べた。町人とは厳密にいえば家屋敷を所有する者、すなわち家持(いえもち)のことである。大阪では家持を、①町内持、②他町持、③他国持の三つに分ける。①の町内持が江戸の居附地主に当ります。②③は持主が他町他国に住んでいるのですから、その町に住んでいる何人かに依頼し、自己所有の家屋敷を代表し、併せて家屋敷内にある地借・店借人を支配せしめなければなりません。その依頼を受けた人が家守です。(幸田成友『江戸と大阪』)