小説 『リーンの翼』 (富野由悠季) 個人的な感情を吐き出すことが・・・
[2009/06/15] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲
ちょっと失敗して3巻だけ未入手で未読なんですが、いちおう6巻まで読み終わったので、感想をメモしておきます。(別のところにラフスケッチを書きましたが、もう少しだけまとめられないかな、と。)
相変わらずだらだらと長くばかりなるので、ポイントを先に書いておいてみます。
- 小説『リーンの翼』の執筆時期は1983~1985年。アニメでは『聖戦士ダンバイン』、『重戦機エルガイム』、『機動戦士Zガンダム』の製作時期。アニメ『ダンバイン』と小説『リーンの翼』の物語はほぼ並行して書き始められ、バイストン・ウェルの世界観を創った。
- この小説の主人公・迫水真次郎は太平洋戦争末期に特攻兵器“桜花”のパイロットだった軍人。現代っ子が異世界へトリップするのではなく、過去から来た主人公。主人公が戦争中の日本の状況についてあれこれと反芻する描写が作中で非常に多く、そして長い。
- 『リーンの翼』は富野監督にとって、はじめて(アニメのノベライズではない)オリジナルの小説を書く機会となった作品。
『彼は、個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破するうえで一番重要なことではないかと感じたのだ』
小説『リーンの翼』の感想の話をするのに、何故いきなりアニメ『Zガンダム』テレビ版でのクワトロ大尉のセリフかというと、この小説は『野性時代』(角川書店)1983年3月号~1985年12月号に連載(全34回)されたものであり、この時期がアニメ監督としての富野由悠季にとっては、『聖戦士ダンバイン』、『重戦機エルガイム』、『機動戦士Zガンダム』の製作時期に当たるということは、これは見ておくべきだろうということです。
”バイストン・ウェルの物語を覚えている物は幸せである” このキーワードで始めた物語のはずが、 僕自身の不幸さを実体験するようになろうとは思わなかった。 僕は、その記憶を持っていないのに気づいて、なんと不幸な人なのだろうとカンカクするからだ。
(「リーンの翼1」より)
『ダンバイン』とこの小説が並行して書き進められたということを、私はあまり意識していなかったのですが、なるほどバイストン・ウェルという架空の物語空間は、アニメと小説の双方で創り出されたものなんですね。私は『ファウ・ファウ物語』や『オーラバトラー戦記』、『ガーゼィの翼』のほうを先に読んでしまって、バイストン・ウェルものの中では、この『リーンの翼』を読むのが最後になってしまいました。
しかし、それにしては作者の筆は、自ら創造した異世界バイストン・ウェルを描写することに、それほど嬉々として走ってはいないなぁという印象でした。「僕は、その記憶を持っていない」っていうのはそういうことじゃないかと。
その代わりに。他のバイストン・ウェルものにはない、この作品の特色は、主人公の迫水真次郎が太平洋戦争末期に特攻兵器“桜花”のパイロットだった軍人で、つまり現代っ子が異世界へトリップするのではなく、過去から来た主人公だというところだと思います。
迫水真次郎はどこから来た男なのか
物語の素直な読みではなくて、斜から執筆の舞台裏をのぞき見るようなことばかり考えてしまって恐縮ですが、何しろ物語の流れをしばしば遮ってまで、迫水が戦争中の日本の状況についてあれこれと反芻する描写は作中で非常に多く、そして長いです。この違和感はどうにかすっきりしたい。
はじめに思ったのは、富野監督は戦争を知っている世代だからなぁ・・・ということですが、しかし1941年生まれの御大には、幼時に防空壕に逃げ込んだ記憶ぐらいはあっても、さすがに迫水のような記憶を持っているはずはないですよね。
だとすれば、たぶん迫水は、監督が小学生ぐらいのときに夢中で読んだ戦記ものとか、そういう世界から来た男なんじゃないでしょうか。ただ富野監督のことだから、そんな頃からそれらの物語には飽き足りぬものがあって、やがて中学生ぐらいになると自分で小説もどきを書き始めてしまったり・・・。
『ガンダム』、『イデオン』と小説は書いたものの、アニメの(それも“ロボットもの”の)ノベライズであることに忸怩たる思いを持っていた富野監督にとって、はじめてオリジナルの小説を書く機会となった、この『リーンの翼』を書くにあたって、少年の頃から持っていた物語のイメージをここに投影したいと考えたことは容易に想像されます。
そして、もうひとつには、あえて言えば「露悪趣味」とでも名づけるしかない、自分の趣味嗜好の濃厚な表出。(逆さ吊りとか、ねぇ・・・。w)
これもあわせて考え出すと、アニメ『ダンバイン』ではやれない大人のストーリーをやりたかったというのは分かる。分かるんだけど、オリジナルの小説であるのを免罪符にして、「自分独自のもの」を入れ込むことに執心しちゃっている面があるのではないか。そういう疑念がわきます。今回は「ロボット」を出さないというのはそんなに大事なのか、何でそれがそんなに嬉しいのか、などとも。
「迫水が地上に帰るある瞬間まで」
しかし、自分は、迫水が地上に帰るある瞬間まで見てみたいだけのことで、 ”リーン”を描く。
(「リーンの翼3」より)
所詮、嘘八百のお話なのだから、チャラと書けばいいのではないか、 とい言いきかせはするのだが、動き始めたキャラクター達に対して、 作り手の独善だけを働かせるのは罪業を為すものであろうという予測が、楽をさせてくれない。
(「リーンの翼2」より)
小説としての形をとらねばならない段階だという感覚だけが先行する。 人物たちの生き死にが繰り返されて、その整合性の破綻さえ演じてみせてしまっては、 もう小説以前なのだと言わざるを得ないのにだ。そんな地獄の中で、なんの小説かとも思う。 それでも尚、書かなければならないのも、自分の中から生まれたものであるからだ。
(「リーンの翼4」より)
この『リーンの翼』は富野由悠季の作品の中では、ラストシーンの構成が珍しく明晰なほうではないかと思います。つまり「小説としての形」ができているというのかな。
普通に言って、先に触れたように、自分独自のもので作品を充たそうとすることは美点であり、まして、小説らしい構成が整っているというのは、長所と言うべきことでしょう。
しかしここで、それは「作り手の独善」なのではないのか、と疑い始めてしまう。それが富野クオリティ。私が富野作品を好きなところは、むしろそういう(困った)ところなのかもしれません。w
作中人物の生き死にの整合性が破綻しているというのはどういうことか。やたらにばたばたとキャラクターが死ぬ。これは富野作品にはよくあることです。整合性、つまり「因果の理」がすっかり納得の行くものであれば無難なんですが、この作者はそういう安全策はあまり取らないですね。その代わりに、富野由悠季という人は「因果の律」(≒物語の「本線の情」)で見せることに卓越した物語作者だと私は思うのですが、この小説『リーンの翼』では、ラストの形がきれいにまとまっている代償なのか、人物たちの生き死にの「律」(人々の生きざまが重なり合って響きあう効果)が、他の富野作品に比べると弱いんじゃないか。そんな気が私にはするんです。
「あるかも知れぬ事なれば、あるかも知れぬとして聴くのだぞ!」
これは『ファウ・ファウ物語』あとがきの言葉。
「『あるかも知れぬ事なれば、あるかも知れぬとして聴くのだぞ!』と言うに似た言葉を聞いた時から、それは、個人の創作物以上に、現実のものになったのです」
「それ」というのはバイストン・ウェルのことです。『ファウ・ファウ物語』は『ニュータイプ』(角川書店)1985年4月号~1986年12月号に連載されました(全21回)。つまり『リーンの翼』の後半は、『ファウ・ファウ物語』と並行して書かれています。
『リーンの翼』の後半に行くにしたがって、迫水真次郎のものの見方は広がっていっているという気がします。バイストン・ウェルという異界でのさまざまな体験を通じて、外部から物事を観察理解する視座をサコミズは獲得するわけですが、それはかつて軍国日本の渦中にいたときには決して得られなかったものであり、その目を持って自分が通り過ぎてきた現実世界を再び考察できるようになっていくのです。
この迫水の異界での体験が、すなわち物語(ファンタジー)の意味ということに通じるんではないでしょうか。「所詮、嘘八百」だと、作り手の独善で自意識の井戸を掘るばかりでは閉塞する。
所詮、嘘八百。しかし「あるかも知れぬ事なれば、あるかも知れぬ」と考えはじめたとき、物語の世界とそこに生きる人々は生命あるものとして動き始め、「個人の創作物以上に、現実のもの」になることができる。そうした物語の中を生きる体験こそが、現実世界を生きるための糧となる。
パラレル・ワールドは無責任な世界なのです。 そう笑い飛ばして、投げ出したい衝動に駆られたことが何度かある。 しかし、最終章に近いところに描きすすみながら思うことが、 なにも書いていなかったのではないかという不安である。 劇中の人々に対して、大罪を犯している自分を自覚するのである。
(「リーンの翼5」より)
物語が終ったのは、ぼくが根負けしたのだろうし、 ぼくの中に何もなくなったからなのだろう。その両方が理由かも知れない。 そして、分かったことがひとつある。ぼくごとき凡俗には、心を安んずる行為というものは、 絶対にないということである。これを不幸とはしないが、 多少辛いし、恥ずかしいだと思う。しかし、小さい容器の中でも、 自分として納得できた経験をさせて貰ったことに、心から嬉しく思っている。
(「リーンの翼6」より)
このあたりの言葉というのは、同時期に創られた『Zガンダム』の物語についても同じように読むことができる言葉だと思います。ここには自意識の井戸を掘るばかりの「ブンガク性」、その貧しさへの気付きが萌芽している点で重要だと思うんですが、小説『リーンの翼』自体は「小さい容器の中でも、自分として納得できた経験」に留まったと認めているようです。
長い間隔を置いて、劇場版『Zガンダム』が「新訳」として製作されたのと、同じようなタイミングで、『リーンの翼』という同じタイトルで迫水真次郎が活躍するOVA作品が製作されたのは、そういう意味で偶然ではないのでしょう。
テレビ版の『Zガンダム』再見が終わったら、改めてOVA『リーンの翼』を見直してみたくなりました。
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コメント
ボクが関わった動画です。
http://www.youtube.com/watch?v=L2i6D67ylXA
微妙~~~!www 金髪さんで思い出しましたが、
そこにはなんと、麗しのアルテイシアさまクッションが!
値段も見ないで速攻でレジへ持っていってしまいました。値段は何と500円。く、くじ本体と同じ値段じゃないか!www
あのくじ、アルテイシアさま欲しさに二回買っちゃったんですが、結果は・・・。
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-1374.html
結局1500円のクッションのようなものですね。
それにしても、いすの上に置いておしりの下にするなど思いもよりませんし、飾っておくしかないですねー。(笑)
読む順…私は確かリーン→ファウファウ→AB戦記→ガーゼィだと思う
ただ、一つ気になるのは、
>人物たちの生き死にの「律」(人々の生きざまが重なり合って響きあう効果)が、他の富野作品に比べると弱いんじゃないか。
というのは、どこらへんのことを言ってるのでしょうか。自分はあまりそんなこと感じてないので、教えていただければありがたいですね。
おっしゃることも分かるような気がします。ただ、もし本当にそのようなことがあっても、私はそれがこの本の方法論によって導き出されたものではなく、ただあまり上手にそのへんを処理できなかったに過ぎませんと思います。つまり、「描き損ねた」ということです。そのへんはいかがでしょうか。
微妙~ですか。
ガンダムさんみたいに、シャアはいじりやすいけど、アムロはいじられキャラに向かないということなのでしょうか……
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