『逆襲のシャア』でのアムロの死
[2006/11/20] | 随想系 | トラックバック(1) | コメント(4) | TOP ▲
![]() | 機動戦士ガンダム〈3〉 富野 由悠季 (1987/11) 角川書店 この商品の詳細を見る |
それがなんで、そういう話になるかというと、とりあえずPSB1981の日記 - ニュータイプを巡って(機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)/福井晴敏)に書かれていたことが気になっていたからということにしておきましょう。
Zガンダムから逆襲のシャアまでの物語というのは、ニュータイプという概念に振り回されて死んでゆく人々の話だったと言ってもいい。なぜ富野が逆襲のシャアにおいてアムロとシャアを堕ちたニュータイプ、みじめな中年オヤジとして描いたのか福井はもう一度考えてもいいと思う。
いつも鋭いPSB1981さんの指摘に「なるほど」ばかり言っているんですが、今回は珍しく、前半にはまったく同意できても、後半を「なるほど」と飲み下すことが素直にできなかったということだと思ってください。これには実は前段があって、もうひとつ気になっていた記事があります。
だがその結果、アムロ・レイはあれほど嫌がっていた軍人としての立場を降りることが出来ず、逆襲のシャアにおいては、大人にはなったがニュータイプとしては失速してしまっている。そして最後はアクシズと共に光の中に消えてしまう。
PSB1981の日記 - カテジナ日記/第四話「戦いは誰のために」(Vガンダム/富野由悠季)
結論から先に言ってしまうと、富野さんが大昔に書いた『機動戦士ガンダム』の小説版を読み直してみて、その当時には“日本語もヘタだしアニメとも違う”というだけで全否定して自分の中では終わっていたラスト(=アムロの死)のところに久しぶりに目を通し、なんだ、『逆襲のシャア』のラストっていうのは、要はこれだったじゃないかと驚いたという、それだけの話です。
この小説(1981年刊行)の富野さん自身によるあとがき(こちらには1987年とある)には、ぐだぐだと、アムロを殺してしまったラストをどうにか改変しようとしたけどできなかったという言い訳が記されています。『Zガンダム』を新訳した今の富野さんだったら、このラストも変えてしまえるだろうか、と少し意地悪な気持ちで読んでいたわけですが、「なによりも、自分が性急すぎたにしろ、本編はガンダムの始まりの時代に間違いなく自分が全力投球したものである」とまで言い訳しなきゃならないものなんだろうかと。むしろ作るはずのなかった続編を作ってしまったことのほうを恥じてもよさそうなものだが、そうしたところで自分には作家性などないというのが富野さんの立場なので、どうも意地悪な読み方に徹しきれない。
それで、むしろ、だから『逆襲のシャア』(1988年)では、アムロは死ななきゃならなかったのかという納得の仕方をしてしまった自分に驚いたというわけです。
小説版『機動戦士ガンダム』と変わったところは、シャアも道連れにしたってところですかね。シャアも道連れにしなきゃならなくなったことが「墜ちた」ところだと言ってもいいのかもしれないです。
![]() | 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 北爪宏幸 (2001/03/25) バンダイビジュアル この商品の詳細を見る |
*『海のトリトン』(72)では、「われわれ」の正義を「ぼく」の正義と信じ、戦ってきた少年の価値観が、ラストで一気に相対化
*『無敵超人ザンボット3』(77)では、「ぼく」が正義を行えば行うほど「われわれ」から遠ざけられる状況を描き、さらに最終回ではそれでもな「われわれ」のためと貫いた「ぼく」の正義が果たして本当に正義であったかと問いかけ
*表面上は明朗な活劇として演出された『無敵鋼人ダイターン3』(78)でも、主人公破嵐万丈を、敵味方どちらの「われわれ」にも最終的に属することのできない「ぼく」として描いた
そして“ぼく”と“われわれ”の齟齬に焦点をあてた三作品に対し、『ガンダム』では、その両者を徹底的に無関係なものとして描いたと筆者はまとめるのですが――。
「われわれ」の語る大義から距離を置いた上で「ぼく」の成長――社会との距離の変化――をどのように描けばいいか
筆者はこうした作劇上の手法として「アムロの成長物語を、人類の革新の物語へと重ね合わせ、そこでラストシーンを構成」するために案出されたアクロバティックな手法が“ニュータイプ”であるとしています。
「けっして、利口な僕じゃないんだけれど、願いなんだよね。その願いを出さなければ、物語なぞ何にもならん。(訴えかける力などない!)と、かすかに判断したんだ。その判断と、ある部分での勘が、“人間、我われオールドタイプが思っているほど、悲観したものじゃないのかも知れない……”と、考えたんだな。そう。人間って、きっと素敵なんだろうって考えた時に、ニュータイプって言葉を思いついたんだ」
・・・という富野監督の言葉は、それを裏付けるもののようですが、さて?
「ニュータイプ」とは煎じ詰めてしまうと、(何の根拠もない)「未来への希望」の言い替えに過ぎないというのも正しいと思いますし、「所詮、ニュータイプ論は、『ガンダム』のポーズでしかなく、SFぽく見せようとする作者の擬態でしかなかったのでしょう」という富野さんの言い方が、「いつまでも『大義のようなもの』に頼るな」というメッセージだという理解もとりあえずはうなづけます。
ただ、作り手としての富野さんとしては、ちょっとしたカンを働かせた思いつきにすぎなかったかもしれないけれど、“ニュータイプ”という観念は、当時少年だった私たちには、たぶん作り手側の想像を超えて響くものがあったと思うんです。だから、どうしてここまで書いておいて、この筆者は書いてくれないんだろうか、と私は残念がらなくちゃならないのです。――“われわれ”と“ぼく”という二つの価値観の間で引き裂かれた世代だったからこそ、相反するそれらをアクロバティックに繋いでみせる観念として、“ニュータイプ”という不思議なイメージは、私たちの間に電撃的に受け入れられたのではなかったかということこそを。
「われわれ」の時代から「ぼく」の時代へ。『ガンダム』の「リアルさ」とは、そんな70年代後半の変化の中で、ファンとの共振関係で生まれたものだった。それはアニメがその表現を深化させ続けていた青春時代であればこそ起きた、奇蹟のような一瞬であった。
私は、その奇跡の中で“ニュータイプ”という実体の定まらない(というか存在しない)観念が果たした役割は、決して小さなものではなかったと思うのですよ。ただ、こうして時代認識の中で考え直すことが重要なのは言うまでもないけれど、こうした整理のしかたを通じて、かつて自分にとっては大切だった作品や、考え方のいくつもが、今日の時代の中では「時代遅れ」になっていることに気付かされることも少なくない。その痛みはしかたのないことに違いありません。
何が言いたいかと言えば、そうした“われわれ”と“ぼく”とを無理やりにも繋ぐ観念は、今日ではどうやら、(もはやそれとも思い出されないほどに)まったく必要とはされていないんじゃないか、ということです。
* 僕は認識として、これまでずっと月軌道までの空間を想像して暮らせるかをシミュレーションしていたらしいが、その結果は「ありえない」ということだった。
* 1つだけ、生命を持たない意識体としての存在としてはあるかもしれないが、そういう自分を想像したくない。リアルに女性に触れたいわけだ(笑)。
* 「それを誘導したお前が言うな」と言われるだろうが、これには異議申し立てはしない。ただ、エクスキューズを述べたのは、1950~60年代のSFが底抜けにハッピーかロマンがある方向へ向かってしまうという、戦後の歴史にのっとったところに生きた人間だからだ。それを根底から覆すには30年かかる。そのうえで「ありえない」という結論に達したことを隠してはいけないと考えた。
ガンダムへの道 対談 富野由悠季×茂木健一郎「ニュータイプ、喪失と獲得」要約版:シャア専用ブログ
正直に言うと、こういうのを読んだときは、腹が立ったものです。ただ、今にして、ああそうかと思えるのは、富野さんが頭で理解するよりも先に、物語の中では、小説版『機動戦士ガンダム』の時点で答えが出てたんじゃないかということです。つまり、「生命を持たない意識体としての存在」としてでしか、「ニュータイプ的な交信を描く事」なんて出来ないということなのでしょう。真剣にシミュレーションすればするほどに。(先の話にむりやり結びつければ、「底抜けにハッピーかロマン」を、“われわれ”という言葉に置き換えてみてもいい。)――だから、小説版でのアムロの死は改変できなかったし、映像では、今度はシャアも道連れにしてアムロは死に直さなきゃならなかったのかな、ということです。
ここではじめのPSB1981さんの日記に帰ると、『逆襲のシャア』でアムロはようやく、“立派な軍人”になる代わりに“ニュータイプ”になることができたんじゃないですか、というのが私の(かろうじての)異議申し立てです。「ニュータイプとして失速」したのではなく、やっと「生命を持たない意識体としての存在」になれたのだから、「堕ちたニュータイプ」ではなく、真のニュータイプとして昇華したと言うべきなんじゃないかと。
ただ、ニュータイプという観念は、「SFぽく見せようとする作者の擬態」として持ち出された、何の根拠もない「未来への希望」の言い替えに過ぎない、というところにまで、もはやその輝きを失ってしまったようです。(そういう意味では確かに「墜ちて」いる。)
それでも、例えそれが今や“われわれ”と“ぼく”の齟齬を埋めるものではなくなったとしても、その齟齬を「生命を持たない意識体としての存在」として一瞬だけ埋めてみせたアムロの死という思い出は、“われわれ”と“ぼく”の間で引き裂かれた記憶を持った私の世代には、いつまでも価値を持ち続けるのかもしれないなぁ、と。
それはもはや普遍性を持ち得るイメージではない、と富野監督も認めてしまっています。そういう意味で、ニュータイプという概念が既に「墜ちた」ものであることを、宇宙世紀もののガンダムをやり直そうという福井晴敏さんはどう考えているのかってことですよね。
つまりは、もはや“われわれ”的な共同体のイメージを、今日を生きる“ぼく”たちは、一切必要としないということなのかどうかなのだと思うんですけど。(あるいは、こうした“われわれ”的な共同体のイメージというと、宮崎アニメのことなどが、すぐに頭に浮かんで来たりもするんですけど。これ以上分からないんだなぁ・・・。)
富野さんは“ニュータイプ”という言葉を否定してみせては、また持ち出してきますよね。何の根拠もない「未来への希望」だとすれば、それもうなづけることかもしれない。(それに、何の夢も希望もないよりは、そのほうがいいんじゃないかとも思える。)
最近は『総体を見ることができる人』、『宇宙があって地球があって、地球のなかに我々がいてってことを、パッとわかる人』という言い方をしたみたいですね。(→Cut 2006年12月号 富野由悠季インタビュー 激白! ガンダム永遠の謎が遂に明らかに!:シャア専用ブログ)
総体の作業ではなくて、個人の意志があまりにも作品全部にいきわたっていると、世代を超えて受け入れてもらえない。僕の場合、自己の主張を持っていなかったので、自己主張しないで済んだ。ファーストガンダムには子供の頃からの思いの丈が吐き出されてるけど、僕のあのときの好みだけで作ったものでは決してない。やっぱり時代が作らせたから。時代性は絶対に背負ってる。
私の理解が変に偏ってるだけかもしれないですが、もしかしたらこの人は、破れても破れてもあきらめずに、“われわれ”と“ぼく”の間に横たわる齟齬をなんとかしたいと繰り返してるドンキホーテなんじゃないかという気がしています。私には、そんな風に思えてならない。
存在しないものに「大義」を見出そうとすると、それは“主義”になってしまうんだけど、そうではなくて、ただの夢あるいは希望。そんなのは、やっぱり時代遅れなんでしょうかね――?
このブログの関連記事:
→ tag: 富野由悠季
→ tag: ニュータイプ
- 関連記事
コメント
あと逆シャアにおいてアムロが意識体となったララァを非難しているのもポイントです。シャアと違ってアムロは彼女にそこまで憧れてはいない。しかもララァはシャアとアムロが死ぬ間際には現れないんですよね。二人は最後までガキみたいにケンカしながら死ぬんです。普通ああゆうシーンだと折角のラストですから登場させちゃうじゃないですか。そこも面白いと思います。
>「生命を持たない意識体としての存在」
それと、おまけですが、こういう物言いにびっくりしちゃって、最近はやたらと身体性なんて言い出したと思うんです。逆シャア公開後も監督は「死んでから分かり合うなんて超無意味。こいつら(シャアとアムロ)バカなんだよね」みたいなコメントしていたと思いますが、むしろ真のNTになることはある種タブーというか、少なくとも普通に生きる「私たちにとっての解答」とはならないでしょう。現実を生きる私たちには今いる「ここ」から降りることは許されてない、というのが(NTが登場せず、地球上で物語が完結する)∀まで含めた富野ガンダムのひとつの結論のように思います。
ではでは、長文すみません。なんだかんだで熱いですね、私も。
曖昧なままで良いと思うのですけど・・・
ニュータイプは普通に説明すれば、パイロット特性に能動的意味を与えて、民族理念と結合させた複合概念。
となるのでは。
ところで私は種DESの評価の悪さはさておいて種そのものは富野ガンダムが解決できなかった問題を一部解いたと高く評価してます。
それは富野監督がさんざん愚弄してきた近代デモクラシーの一つの思考回路
(個人の自立、アンガージュマンそのものが自由という名のイデオロギーとして集団を律する規範となりえる)ということを久々に描いてくれたことです。
確かにロマン主義(個人の決断が歴史をも動かす)はニュータイプに替わりえる強力な私と我々を結ぶ思考ですから
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://zmock022.blog19.fc2.com/tb.php/611-2df11262
小学5年生、人生でもっとも「真面目」なころ
- [2006/12/13]
- いつのころから新発売 |
- TOP ▲
- | HOME |
コメントの投稿