ベートーヴェンはどうして交響曲などという代物を9つも書くことになったのか?
この世の中に「クラシック音楽」というのが存在し続けているのは、(たぶん)ベートーヴェンのせいである。
もちろん、彼の音楽が好きかどうかというのは、人それぞれだ。強力な主張と感動を与える音楽…というのは裏を返せば、有無を言わせず押しつけがましい音楽でもある。モーツァルトのように無害な音楽、バッハのように数理的な音楽を好み、ベートーヴェンのような劇的な音楽を敬遠する人もいて当然だ。
しかし、ロックにしろジャズにしろ演歌にしろ、この世の中にこれだけいろいろな音楽がある中で、200年も昔のヨーロッパの音楽を延々と繰り返し聴き続ける「クラシック音楽」などという奇妙な信仰がいまだに営々と存在し続けているのは、これはもうベートーヴェンという作曲家がいたせいだ。これは間違いない。
例えばここに「人が喜んで聴くわけでもなく、お金になったり売れたりもしない音楽」などというのがあるとする。誰も聴かないし、お金にもならない。
そんなものは、どう考えたって(公的な場では)存在できっこない。はっきり言って存在理由がない。音楽とは、基本的に人が(あるいは神が)聴き愉しむためのものだからだ。それが、人の営みの中での「音楽」の位置である。
しかし、クラシック音楽界では、その(存在理由がないゆえに存在する音楽)が存在し、それを「芸術音楽」などと(偉そうに)言う。その極致が〈交響曲〉という代物だ。好んで聴かれるわけでもなく、お金にもならない。しかし、それを全身全霊を傾けて創る人間(作曲家)がいる。そして、そのことが(なぜか)伝統にさえなっている。
それは、人に聴かれたり経済的に流通したりする、ということとは全く別の理念で存在する「絶対的な価値」を持った音楽がこの世にあるということにほかならない。(それは個人的な「愛」というものが、経済価値ゼロにもかかわらず、当人たちにとっては「お金に替え難い」心情的価値を持っているのに似ている)。
音楽(19世紀の西洋音楽限定ではあるけれど)においてそのことを高らかに宣言し(それは、もしかしたら壮大な「詐欺」の始まりだったのかも知れないが)、それを身をもって実践したのが、このベートーヴェンという人なのである。
■そもそも交響曲とは?
とは言っても、交響曲という代物に最初からそんな「絶対的価値」があったわけではない。
そもそも交響曲(シンフォニー)は、コンサートの最初(あるいは最後)にオーケストラだけで演奏された序曲(シンフォニア)が起源とされている。
教会で演奏される宗教曲にしろ、劇場で上演されるオペラにしろ、ソリストが華麗な妙技を聴かせるコンサートにしろ、大規模な(大勢の観客を集める)演奏会では、その伴奏にオーケストラ(大編成の楽器アンサンブル)が必要になる。
ただし、このオーケストラ、あくまで「伴奏する楽団」であって「演奏会の主役」ではない。あくまでも「脇役」として、コーラスや歌あるいは楽器のソリストが登場する前のイントロ場面や、途中のつなぎや休憩、あるいは最後に演奏家たちが退場する時に演奏するのが主な役割なのである。
しかし、脇役は脇役として、そのアンサンブルの精度や技術にかなりの熟練を要するのも事実。さまざまな演目が上演されるうち、指揮者の指示の元に整然と演奏出来るような、高度な演奏技術をもったオーケストラが生まれても不思議ではない。
かくして18世紀なかばにハイドンが、楽長として勤めていた宮廷楽団(オーケストラ)のトレーニングに精を出し、その成果を聞かせるためにオーケストラだけの曲を次々と書くようになった。
指揮に応じて自在に強弱や緩急を変化させるソナタ形式を第1楽章に置き、次いで緩やかなアンダンテ楽章で楽器による美しい歌を聴かせ、さらに優雅でキャッチーな舞曲を聴かせるメヌエット楽章をはさみ、最後にアンサンブルの精度を聞かせるアレグロのフィナーレ(終曲)で締めくくる。
これは「聴かせる演目」として実に理にかなった構成である。例えば現代のロックコンサートでも、最初に観客を引きつける鮮やかな曲を演奏し、途中にしっとり聴かせるバラードや、コミカルなナンバーを混ぜ、最後に華やかなフィナーレで盛り上げる。
ハイドンは、この実に効率的で効果的なパートを組み合わせた4つの楽章からなる作品を「シンフォニア」と呼び、様々な機会に応じて新作を書き続けるのである。
100曲以上に及ぶそれらの作品(交響曲)は、「朝」「昼」「夜」「ロンドン」「V字」「太鼓連打」などなどという愛称を付けられ、一種のキャラクター作品としてコンサートの一部を飾り、作曲家ハイドンの技量とオーケストラのアンサンブル技術を聴衆に印象づけることになる。
そんなハイドンのシンフォニアに影響され、次の世代の作曲家モーツァルトは幼少の頃から交響曲に手を染めている。最初の交響曲第1番は確か8歳頃の作である。
宮廷に勤めるわけでもなく自由音楽家として活動をしていたモーツァルトに、ハイドンのような子飼いのオーケストラなどあるはずもないが、自作を自演する個展コンサートでは、どうしてもオーケストラが必要になる。
メイン・プログラムはピアニストとしてオーケストラと競演する〈ピアノ協奏曲〉だが、バックで演奏するオーケストラをみずから指揮して「作曲の技術」の確かさを聴かせる〈交響曲〉も時には必要だったわけだ。
とは言っても、モーツァルトにとって、作曲家・音楽家として最大の目標はあくまでオペラや宗教曲。個展コンサートでピアノや指揮の腕を聞かせ、最終的には大きなオペラや宗教曲の仕事を貰うことこそが作曲家であり、〈交響曲〉はそのための通過点にすぎない。
第40番や第41番などの晩年の傑作交響曲にしても、あくまでも作曲技法の確かさとオーケストラ書法の熟練をアピールし、同時にコンサートに色を添える「大規模な器楽曲」にすぎず、決して作曲作品としての終着点ではありえなかったわけである。
モーツァルトよりさらに若く、ハイドンに弟子入りして作曲を学んだことのあるベートーヴェンも、最初のスタンスは似たようなものだった。狙っていたのはオペラでの成功であり、〈交響曲〉は自主コンサートなどで作曲家としての技術をアピールするための試作として書き始めたものだった、と言っていいだろう。
■ベートーヴェンの交響曲への道
1800年30歳の時に、ベートーヴェンはウィーンで初めての個展コンサートを開き、本格的なデビューを飾る。それまでは即興演奏が得意なピアノの名手として人気を博してきたベートーヴェンだが、作曲家としての本格的デビューは30歳を迎えてからと、意外と遅い。
そのコンサートで披露したのが、ピアノ協奏曲第1番、七重奏曲、そして〈交響曲第1番ハ長調〉という作品たち。もちろんピアノは自分で弾き、指揮もこなしている。要するに「ピアノも弾けます」「指揮もできます」「作曲もできます」…と自分を売り込むコンサートなのである。
つまり、ベートーヴェンは「何でも出来る音楽家」として「オペラでもオーケストラでも何でも書けます」「さあ、私を買ってください」「お金を出して作品を委嘱してください」とアピールしたわけである。
実際、この時期のベートーヴェンの音楽は、交響曲第1番にしろ第2番にしろ(ピアノ協奏曲にしろ七重奏曲にしろ)、健全でバランスの取れた作品が並ぶ。特に〈第2番ニ長調〉は、「よく書けた」「バランスのよい」しかも「力作」であり、ある意味では欠点のない美しさを持っている。
それらが、その当時のベートーヴェンの本心の発露だったかどうかは分からない。しかし、音楽家としての自負はいかに高かろうと、健全で分かりやすい音楽を書かなければ仕事にありつけないのも事実。精一杯「人々に愛される」「優れた音楽家」であろうとしていたことは確かだろう。
ところが、このコンサートの直後から、ベートーヴェンは聴覚の異常を感じるようになり、やがてピアノ演奏どころか日常生活にも不便な「難聴」の状態になる。これは、音を扱う音楽家としては致命的である。人一倍よく聴こえる耳を持っていなければならない職業なのに、その商売道具そのものを失ってしまうのだ。
かくして「何でも出来る音楽家」どころか「演奏家」としての未来をも断念せざるを得ない状況を自覚し、決定的な挫折を迎えたベートーヴェンは、32歳(1802年)には有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くことになる。
確かに、音楽家としてこれから階段を上って行こうとするのに、耳が聴こえなくなると言うのは、自殺を考えても不思議ではない状況だ。結果としてベートーヴェンはその選択はしなかったものの、それまでの自分の音楽からはハッキリと決別する意思を固める。
ここで、おそらく音楽史上初めて「芸術音楽」という概念が誕生する。それは「聴衆にこびたり、お金を得たり、社会的に健全を装う」ことを否定し、「純粋に自己の創作意欲のみに忠実に」音楽を創る姿勢であり、いわゆる「娯楽音楽」の反語となる(形而上学的な…早い話が非現実的な)概念である。
しかし、それは裏を返せば、もはや聴衆にこびることも、お金を得ることも、健全を装うことも「出来なくなった」ベートーヴェンが、絶望の果てに思い付いた「復讐の雄叫び」と言えなくもない。
これを後世ニーチェは〈ルサンチマン〉などという言い方で説明しているが、今で言うなら〈逆ギレ〉か。現実の世界ではもはや何によっても勝利を得ることが不可能となった〈決定的な弱者〉は、理念(空想)の世界でのみすべてに逆襲することが出来る。
ベートーヴェンはそれを実践することにした。他人に何と言われようと本音を叩き付ける…激情型の「作曲家」として生きる決意を固めたのである。
かくして翌1803年に生まれたのが〈交響曲第3番変ホ長調(エロイカ)〉。フランス革命の思想的な影響やナポレオン・ボナパルトの英雄像などを取り込んだこの音楽は、全4楽章で1時間近い巨大さと規模を持つ異形の交響曲である。
それは、明らかに「(従来の)交響曲」としてはバランスを失した、(この時代としては)誇大妄想狂の産物とでも言えるような作品だ。しかし、それは逆に、新しい「交響曲」という概念が誕生した瞬間でもあった。
以後、交響曲は、作曲家がその信じる思想と理想と(そして妄想)をすべてぶちまけた「集大成」的な作品として存在することになる。まさしく、この作品から交響曲の歴史が始まったのである。
■芸術としての交響曲へ
そして、オーケストラによる「作曲」という新しい翼を得たベートーヴェンは、次に「具体的な劇性をもったドラマ」としてのオペラの創作に向かう。それは、ある意味では当然の「進化」の方向と言えなくもない。同じドラマ性の表出でも、抽象的にならざるをえない純器楽の〈交響曲〉より、セリフや筋書きのある〈オペラ〉の方がより理想的で壮大な世界を描けるからだ。
しかし、残念ながら理想の「芸術」を目指す作曲家にとって、現実の「興業」に巻き込まれるオペラの世界はあまりに制御不能だったのだろう。徹底的に苦戦を余儀なくされ、「レオノーレ」「フィデリオ」と名前を変え、版を変えて書き直し、なんとか「オペラで成功する」ことを願ったが、遂にそれは果たされずに終わることになる。
それでも、三十代半ばの男盛りを迎えて燃えたぎる創作意欲は、連続して書かれた〈交響曲第4番変ロ長調〉〈第5番ハ短調〉〈第6番へ長調(田園)〉という3つの傑作へと結実する。(というより、オペラ不成功のフラストレーションや怨念の爆発が、これらの作品を書かせたような気さえする…)
疾走感をもった〈第4番〉、緊張感をたたえた〈第5番〉、幸福感に満ちた〈第6番〉、という見事なキャラクターの違いを聴かせるこの3作、さらに〈第4番〉は古典的で軽やかな形式感、〈第5番〉は前衛的で重厚な構築感、〈第6番〉は標題音楽的で視覚的な構成感…がそれぞれ作曲の課題として認められる。一種の三部作と言っていいかも知れない。
特に〈第5番〉における、「タタタ・ター」というきわめて短いモチーフを積み上げ組み立ててゆく第5番の圧倒的な構築感は、作曲技法的にも音楽的にも見事のひとことに尽きる。
いや、それよりなにより、西洋音楽の基本中の基本、ドミナント(属和音)→トニカ(主和音)、および〈短調〉→〈長調〉という構図を、「闘争」→「勝利」という図式に模したのも画期的だ。
シンプルきわまりないにもかかわらずこれほど効果最大かつ説得力最高の「方法論」には、頭がくらくらするほどである。
一方、第6番では、モチーフを何度も何度も繰り返し流すことで(現代のミニマル音楽に通じるような)、情緒的かつ視覚的な風景を生み出すことに成功している。作曲技法としては、後のワグナーの楽劇や現代の映画音楽の先駆と言うべき特筆すべき手法に満ちているのも注目すべきだろう。
一般に「標題音楽」とか「描写音楽」というと低く見られがちだが、この作品こそ実はポスト・ベートーヴェン世代(ベルリオーズやワーグナー!)に最大の影響を与えた「ロマン主義」の原点なのである。
かくして、この3つの交響曲によって、芸術音楽の頂点を担う「交響曲」という概念は確立された。ただし、それは逆に言えば、本来は作曲手腕をアピールするための「手段」が、作曲行為そのものの「目的」になってしまったという「倒錯」の瞬間でもあったわけなのだが・・・
ちなみに、〈第4番〉は1807年の個展コンサートで〈ピアノ協奏曲第4番〉と共に披露されそこそこ評価されている。しかし、古今の交響曲の傑作中の傑作〈第5番〉と〈第6番〉は翌1808年の個展コンサートで同時に披露されたものの、大失敗に終わったというのは有名な話。
交響曲の傑作が「拍手も得られず、お金ににもならない」という呪いは、この瞬間に始まったと言える。「あの〈運命〉〈田園〉すら、聴衆の支持を得られず、お金にもならなかったのだから」という事実は、キリストの受難に匹敵する呪縛を、その後の音楽史に残したと言っていいかも知れない。閑話休題。
■交響曲の完成と未来
しかし、それでもめげずに、ベートーヴェンは2年ほどブランクを空けた後、〈第7番イ長調〉と〈第8番ヘ長調〉という兄弟作品を書き下ろす。終始リズミカルで挑戦的な〈第7番〉と古典的なドラマ性を持つ〈第8番〉というキャラクターの違いは歴然とあるものの、ほどよい幸福感と完成度の高さが共通している。
四十代になって書かれたこの2作のうち、ビート感を持ったリズムに満ちた〈第7番〉は、作曲技法的には第5の延長線上にある。モチーフを積み重ね大伽藍を組み上げてゆく5番に対して、こちらは(付点音符によるスキップするような)リズム細胞で壮大な祭典を組み上げてゆく。
(ちなみに、第6番が「田園に着いた幸福感」や「自然への賛歌」を描いた標題音楽だと言うのなら、この第7番は絶対「お酒を飲んで酔っぱらった幸福感」や「バッカスの神への賛歌」を描いた標題音楽であるべきだと思うのだが如何?)
対して〈第8番〉は、直線的で古典的な純度の高さを追求し、ベートーヴェンとしては第2番以来久々の「バランスのとれた」交響曲となっている。加えて、独特のユーモアと幸福感にあふれているのも特徴だ。
これもリズム細胞が全曲を支配しているが、7番とは対照的に(付点音符のつかない)メトロノーム的な(どこか無機質な)リズムでドライヴさせているのも面白い。ある意味では、ベートーヴェンの考えた〈交響曲〉の理想型はこの2作にあると言ってもいいのかも知れない。
ちなみに、構想順から言うとヘ長調の方が〈第7番〉でイ長調が〈第8番〉という可能性もあったように思う。流れから言うと「田園」から「ヘ長調交響曲」へ繋がる方が自然だからだ。
しかし、そうすると「ヘ長調」が2曲続くことになる。それで番号を入れ替えたのだろうか?(蛇足ながら〈運命〉と〈田園〉も、初演の時は田園の方が第5番で運命が第6番だったそうな)
また、この時期に第7番と同時に「ウェリントンの勝利(いわゆる「戦争交響曲)」という曲も「交響曲」として発表されている。これは戦勝祝いで書かれた(オーケストラで戦闘場面を描いた見せ物っぽい)機会音楽だが、ベートーヴェンの生前はもっとも大衆受けした有名な作品となった。
もちろん番号付きではなかったから現在では彼の交響曲シリーズの中には数えられないが、それを言うなら次の第9交響曲も確か正式には「シラーの詩による合唱付きの大交響曲」というようなタイトルだったはず。
となると、さてベートーヴェン自身が果たして「9番目の交響曲」という認識で作曲したのかどうか?、ちょっと不明なところもなきにしもあらずなのである。
そして〈第9番〉である。四十代の初めに書いた第8番から10年以上を経て、もうかれこれ五十代の半ばを迎えたベートーヴェンが、それまでの交響曲の常識をすべて覆す異常な作品を書き上げた。それが合唱付きの巨作〈交響曲第9番ニ短調〉である。
この曲、現在ではもちろん音楽史上未曾有の傑作として知られているが、純粋に作曲作品として見た場合、この曲はあまりにアンバランスで常軌を逸した音楽であることは否めない。冷静にこのスコアを見る限り「どうかしている」としか言いようがないのだ。
実際、これを発表した当時のベートーヴェンは、耳がほとんど聴こえないこともあって偏屈で人嫌いになり、半ば世捨て人のようになっている。繰り返し書き直し続けたオペラ「フィデリオ」も成功とはほど遠く、作品も晦渋な分かりにくいもの(現在では「深遠」とも評されるが)ばかりになる。
そんな中で、独唱と合唱の付いた長大で巨大な交響曲を書いた真意はどこにあったのだろう?と常々考える。「全人類への抱擁」とか「星空の彼方の神」を歌い上げる…などというのは、当時のベートーヴェンの現実的生活の中ではもっとも「あり得ない」志向であり、一歩間違えれば、(青年時代のフランス革命の理想に燃えた時期を回想した)中年作曲家の誇大妄想(たわごと)の産物にすぎないとも言えそうだからだ。
事実、初演は(耳の聴こえない彼が喝采に気付かなかったという感動的な逸話も含めて)成功裏に終わったものの、その後ワーグナーが復活上演を果たすまで「わけの分からない巨作」として不評だったことがそれを裏付ける。
にもかかわらずこの曲が(現代において)傑作として流布している理由はただひとつ。あまりに不可解でアンバランスで歪んだ巨人が最後に歌い始める、あまりにシンプルな(それゆえに圧倒的な)「メロディ」。それに尽きる。
あのメロディがなかったら、この曲は世紀の駄作として終わった可能性もある。音楽の圧倒的な感興がある反面、構成や楽器法やバランスはあちこちで破綻している。ベートーヴェンは交響曲と言う大伽藍を一人で組み上げ、結局それを最後にぶち壊したかったのかも知れないとさえ思えてくるほどだ。
しかし、彼の交響曲は生き残った。
そして「9」というナンバーが、交響曲にとって聖なるナンバーとなった。
*
■パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団
7月16日(祝・月)東京オペラシティ
・ベートーヴェン
「プロメテウスの創造物」序曲
「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」(vn:諏訪内晶子)
「交響曲第3番変ホ長調〈英雄〉」
7月17日(火)紀尾井ホール
・ベートーヴェン
「ピアノ協奏曲第2番変ロ長調」(p:仲道郁代)
「交響曲第8番ヘ長調」
「ピアノ協奏曲第5番変ホ長調〈皇帝〉」
7月20日(金)横浜みなとみらいホール
・ベートーヴェン
「コリオラン序曲」
「交響曲第4番変ロ長調」
「交響曲第7番イ長調」
7月21日(土)横浜みなとみらいホール
・ベートーヴェン
「エグモント序曲」
「三重協奏曲ハ長調」
「交響曲第2番ニ長調」
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コメント
子供の時、一番インパクトのあったクラシック作曲家は、やはりベートーベンでした。
大人になって、ベートーベンの押し付けがましいところが、耳が聞こえなくなったり、女性ともうまく付き合えなかったりしたから、ストレスがたまっていたのだろう、とは思っていましたが、ちょっと子供っぽいナー、なんて、思っていました。
しかし、彼も最初は、自分を優れた作曲家、ピアノ奏者、指揮もできます、と謙虚に売り込んでいたのに、まさに彼の運命が、その様な普通の音楽家としての生き方を出来ない状況に彼を追い込み、次々に、人の目なんか気にしない、逆切れの、本音の音楽を書かせていったのだ、と言うことが分かり、ベートーベンに、本来はわがままでなく普通に生きたかったんだ、という人柄を感じると共に、神様と言うのは、こいつ、と思った人物に、時として、ぎょっとするような運命を与えて、事を成す、というパターンが、ベートーベンにも起こったんだなー、とわかりました。当事者は、必死だったろうけど、どんなにか大変だったろう、とその運命を生きたことに、お疲れさん!と思ったのでした。
神様が、ベートーベンを使って、芸術の絶対、という事を、音楽史に出現させた、と言う感じ、します。
投稿: vadim | 2007/07/11 08:02