理事長から皆さまへ
年頭所感(2025年1月1日)
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
昨年の夏も大変な猛暑で、日本全体が急激に亜熱帯化していることを実感する年となりました。一昨年前に登場したChatGPTなどの生成AIは日々進化し、ネット上に展開するさまざまな新しいサービスが私たちの日常に深く浸透しています。リアルとバーチャルが融合しつつある生活環境は、選挙などの社会の意思決定のシステムにも大きな変化をもたらしています。
このような自然・人間環境の大きな変動と向かい合い、理化学研究所は、科学を通じて社会に貢献する使命を再確認し、新たな挑戦に向けて歩みを進めてまいります。
第5期中長期計画開始
理研は本年2025年4月から中長期計画の第5期に入ります。
2022年4月、理事長となった際に私は次のようなメッセージをみなさんにお伝えしました。
「科学者自身が究めたいと感じる研究が、みんなの未来のためにいつか必要となる研究と自然に重なり、科学と社会の相互の信頼が深まり、互いに繋がるという姿こそが望ましいと考えています」
この思いは今も変わりません。ただ、このわずか3年足らずの間に人類が抱える課題はいっそう深刻化し、それを乗り越えるための科学に対する社会からの期待もいよいよ高まっています。その求めにしっかり応えるために、理研は新しい仕組みを備え、成長しなければなりません。そうした責務について職員のみなさんと共に考え、改革を進めてまいりました。
TRIP構想とつなぐ科学の推進
理研では自然科学の幅広い分野で、高度で先鋭化した研究が進められています。私の専門は物理学ですが、理研の多様な分野の研究者と交流するなかで、最先端の研究は、分野を超えた感動と共感のうえに創りあげられていると実感しました。卓越した研究者同士が語り合い、直接刺激し合うことができれば、そこに理研でなければできない研究が生まれるに違いないと確信しました。その思いをもとに着手したのが、TRIP(Transformative Research Innovation Platform of RIKEN Platforms)構想です。理研がすでに持っている多様な分野の最先端研究のプラットフォームを、分野を超えて有機的に連携させ、理研全体を新しい知を創造する壮大なプラットフォームとするという構想です。研究者はそれぞれの分野で、世界を相手にした熾烈な競争をしています。その健闘をしっかりと支援しつつ、異分野の研究者とも自然につながれるような仕掛けが必要です。その鍵として注目したのが「データの高度な活用」です。幸い理研では、データを軸とする分野横断の取り組みがいくつも進められており、それらの成果を引き継ぐことで、TRIP構想は私の予想をはるかに超えるスピードで理研全体に浸透していきました。
昨年11月、理研神戸地区でTRIP事業の第2回リトリートを開催し、現地・オンライン合わせて約200名の参加がありました。TRIP構想による「つなぐ科学」について、各人の取り組みが紹介され、この構想の今後の展開について議論しました。これまでセンターや研究室で個別に進められてきた先鋭的な研究が、隣接分野やデータ科学の最先端研究にふれることで、深さと広がりを得て一気に発展したという実例が多数報告されました。そして、地球規模の課題解決に貢献し、科学の力で社会を変革するという兆候も見え始めていることを頼もしく思います。
次の7年間の第5期中長期計画ではTRIP構想を踏まえ、それをさらに大きく展開したいと思っています。そのため、科学を横断的に見わたす「研究領域」という新たな仕組みを導入し、領域総括を据え、分野を超えた研究者同士の化学反応を促し、理研ならではの研究が生まれる機会を増やしていく計画です。研究者の好奇心を原動力として、人類が抱える課題を乗り越えていくために必要な知恵を次々と生み出していくのです。
グローバル・コモンズ
物理科学、生命科学、数理・計算・情報科学、環境科学の4つの領域を設定し、理研設立以来の伝統を担う開拓科学を加え、TRIP事業本部を含めて理研全体をダイナミックに連動させて行くための新たな体制を整えます。
特に環境科学は人類にとって唯一無二の地球、すなわちグローバル・コモンズの保全にとって不可欠な知識と体系的な技術を追求する重要な領域です。昨年10月に東京大学、東京大学グローバル・コモンズ・センター(CGC)と理研の共催で、「グローバル・コモンズ・フォーラム」を、開催しました。このフォーラムでは、プラネタリー・バウンダリーズ(地球の限界)を2009年に提唱したドイツのポツダム気候影響研究所(PIK)所長のヨハン・ロックストローム博士をお招きし、基調講演をしていただきました。科学的データをもとに地球システムの状態を評価すると、地球が復元不可能な危険水域にまで入ってしまっていることが報告されました。フォーラムでは、国内外の経済界、学術界から第一線で活躍されている強い影響力を持つ方々が一堂に会し、人類は自らの行動をどう転換すべきか、グローバル・コモンズの崩壊を防ぐための戦略について討論が行われました。
理研と東京大学CGCとドイツのPIKとの三者の連携による共同研究も始まっています。理研が担う基礎科学とPIKが担うシステム科学をしっかり結びつけ、人類がとるべき行動指針を世界に示し、経済社会の行動変容を促すのです。そして、世界の基礎科学コミュニティに呼びかけ、基礎科学の潜在力を地球規模課題の解決につなげる大きな力として生み出すことを狙いとしています。
科学研究の“普遍性”とそれが誘起する“信頼性”こそが連帯を生みだし、国境を越えた感動と共感に基づく行動変容の原動力になると確信しています。
AI技術の急展開と先端半導体科学研究
さて、2024年のノーベル物理学賞と化学賞を受賞したのは、共にAIが深く関わる研究でした。近年登場した深層学習と大規模言語モデルによる生成AI技術は、瞬く間に世界中に広がり、社会の経済・政治・文化の様相を一変させつつあります。それと同時にそれらを支える消費電力の問題が深刻化しています。大規模言語モデルの利用が飛躍的に拡大するなかで、従来のサーバーの6倍とも言われるAI学習用サーバーが生まれ、電力の消費量が急増しています。
2027年には、世界中のデータセンターが消費する電力は、全電力供給能力の8%を超えるまでに増加すると予想されています。扱うデータ量の増大とデータ転送の必要および計算量の爆発的増大が原因です。消費電力の徹底的な低減のためには、ほとんど現状破壊に等しい革新的な技術イノベーションが必要で、そのための新しい知恵を創出することが私たち科学者に課題として突きつけられているのです。理研で進めている、大規模計算科学や量子計算科学の飛躍に加え、半導体デバイスの革新も不可欠です。それに向けて、超低消費電力化を目指す先端半導体科学研究を推進し、超省エネ型メモリや新原理による量子機能素子デバイス開拓等の研究も進めていきたいと思います。
昨年12月にSEMICON JAPAN 2024というイベントがありました。日本政府による先端半導体産業への大規模投資が進むなか、半導体製造装置や周辺企業等の出展が急増し、出展者・来場者数ともに2年前の2倍近くになっていました。3日間で1,100の企業・団体が出展し10万人が来場しました。私はオープニングセッションのキーノートスピーチで、政府投資を日本の経済成長に着実に結びつけ勝機をつかむには、新しい時代の姿を適切に描き、そこで求められる技術を見極めることが必要であると述べました。
フィジカル・インテリジェンス
高性能な推論専用の半導体チップ、量子古典ハイブリッド計算、光電融合技術など、さまざまな革新技術によって、“計算”技術がいっそう拡大していくことは間違いありません。さらに緻密で大規模なデジタルツインも実現するでしょう。
現在もっぱらクラウドのサーバーで行われている生成AIの推論計算も、全体システムのエネルギー利用最適化を追求するなかで、エッジやクラウドあるいはその中間へと、計算が行われる場所の分散化が進むでしょう。特に高速かつ低消費電力の推論計算専用チップが開発され、それらがエッジデバイスに装着できるようになると、高度なセンサーを搭載した機械がクラウドと交信しながら、非常に高度な知能を獲得して自律的に動作することが可能となるでしょう。その結果、自動運転車や半導体の後工程のような複雑な製造現場の完全自動化など、物理空間とサイバー空間がリアルタイムで結合した高度なサイバーフィジカルシステムが構築され、社会や産業の形も大きくかわる可能性があります。そのような未来に備え、必要な先端科学を“フィジカル・インテリジェンス”研究として理研全体で先回りして進めたいと思っています。
計算可能領域の拡張
人類の計算能力をいっそう拡張する努力も続けます。そのための重要な研究課題が量子コンピュータとHPC(ハイパフォーマンス・コンピューティング)を連携させたハイブリッド計算科学です。
理研では国産の量子コンピュータ「叡」に加え、IBM社の最新量子プロセッサやQuantinuum社のイオントラップ型量子コンピュータをスーパーコンピュータ「富岳」とつないで、ハイブリッド計算のシステムソフトウエア開発に本格的に取り組んでいます。「富岳」とIBM社製量子コンピュータを連携させて実行した計算結果を2024年5月に発表しました。微生物における窒素固定や光合成反応での触媒機能を担う鉄と硫黄のクラスター構造の電子状態を、量子コンピュータと「富岳」がそれぞれの強みを活かして連携して計算しました。その結果、これまでHPCだけでは計算が難しかった規模の電子数と軌道数をもつクラスター構造に対し、量子化学計算が実行できることを世界に先駆けて実証しました。これまでの量子計算研究では、量子コンピュータはHPCより明らかに優れているかという、「量子超越性」の実証がフォーカスされがちでした。しかしながら、この研究では量子コンピュータをどんな問題にどのように使うべきかの重要性、すなわち「量子有用性」を競う時代に突入したことを世界に示し、その記念碑となる成果として世界から注目されています。
基礎量子科学研究
その一方で、量子計算の本格活用という時代に入った今だからこそ、その基礎をより深く理解する努力が、いっそう重要になっていることも忘れてはなりません。理研では、量子科学の基礎に立ち返り、その原理を深く掘り下げ、再発見することで、新たな技術の動向を見極める “基礎量子科学研究”と題するプログラムを開始することにいたしました。このプログラムでは、非平衡や開放系といった側面に注目して、量子科学の基礎を見つめなおしたいと思っています。
まず、米国ブルックヘブン国立研究所が進めるEIC計画に協力して素粒子や核物理といった物質の基礎に潜む新たな研究課題に取り組みます。それに向け、東京大学や大阪大学等と連携して日本の量子物理ネットワーク研究拠点を立ち上げることにいたしました。さらに量子科学の新たな展開として、生命科学に潜む量子科学の原理とその機能の探求にも挑戦できたらすばらしいと思っています。ここはまったく未踏の領域です。
ライフサイエンスの展開
現在、理研の研究者の半数強がライフサイエンスに関わっています。ライフサイエンス分野では、「ライフコース」という大きな構想を準備中です。
生命を生殖・発生・再生から老化までの一連のプロセスととらえ、社会科学的な分析手法も取り入れて、より俯瞰的総体的に生命を理解するという野心的な構想です。個体の一生にとどまることなく、生命の進化や生物がつくりあげる社会や環境の世代を超えた変化について、科学的理解が深まることを期待しています。
サステナブルな研究活動
昨年10月には、STSフォーラム年次総会に合わせ毎年開催される、世界各国の研究機関の長が集う世界研究機関長会議が京都で行われました。世界から23の研究機関の長が参加し、理研はフランス国立科学研究センター(CNRS)との共同議長、産総研との共同主催機関という立場で参加しました。第13回目となる今回のテーマは、「研究の卓越性を損なうことなく、エコロジカル・フットプリントを削減する」でした。
高い水準の研究活動を維持しながら環境への影響を軽減するさまざまな取組が紹介され、今後の取り組みについて議論が展開されました。「先進的な研究機関として、より環境にやさしい社会の創造を支援し促進する研究を行うという重要な役割を担っていると認識している。同時に、ネットゼロを達成する国際的な責任を考えると、その目標の達成に役立つ高度な研究を維持しながら、私たち研究機関のエコロジカル・フットプリントを削減するというバランスを達成しなければならない」との共同宣言をまとめました。研究活動におけるサステナビリティへの対応について、理研は先陣を切って取り組んでいく必要があると改めて感じています。
結びに
以上のように今年は、2022年から2024年までに準備を進めてきた研究プロジェクトが一斉に芽吹く、とても重要な年になると感じています。「富岳」の後継機である富岳NEXTの開発、SPring-8-Ⅱの開発がそれぞれ本格化します。冒頭に述べた「研究者自身が究めたいと願う研究と人類の未来に必要となる学知の創造が重なる」ということがさまざまなプログラムのなかで実現していくでしょう。そして同時に、自然のあらたな側面をあぶりだす科学の深淵に迫る研究がいっそう進むことを期待しています。
私たちは、科学の共感力と創造性を信じ、「つなぐ科学」によるさらなる革新を通じて、より良い未来を皆でしっかりつかむために邁進してまいります。本年4月から始める理化学研究所第5期中長期計画にご支援ご協力をいただけますよう、お願い申し上げます。
2025年1月1日
理事長 五神 真