泥沼の刺し合いの発端は、2年前の佐々木社長退任会見だといわれている。2013年2月、西田氏同席の元、佐々木氏の社長退任、田中新社長の就任を発表する記者会見が開かれた。
その席上で西田氏が、原子力一筋だった佐々木氏に対して、「1つの事業しかやっていない人が(会社全体を)見られるかといったら見られない」と批判。さらに「(新社長には)もう一度、東芝を成長軌道に乗せてほしい」と発言した。すると佐々木氏は「成長軌道に乗せる私の役割は果たした」と応戦したのである。
西田氏はパソコンの売り上げを拡大した功績で、“家電閥”の雄として2005年に社長に就任する。「選択と集中」を経営方針に掲げ、半導体と原子力の2つに注力し、東芝の事業再編を成し遂げた。一方の佐々木氏は原子力事業のエキスパートとして活躍した“インフラ閥”の雄だ。前出の中堅幹部はこう証言する。
「佐々木さんは社内で『原発野郎』と揶揄されるなど、原子力以外は詳しくないとの評が多く、語学も苦手で海外出張にはほとんど行かなかった。奥さんがイラン人で国際派を自任する西田さんとは、そもそもソリが合わなかったんです。
西田さんは“ろくに英語もできない”、“現場を見ずに会議ばかりしている”と事あるごとに佐々木さんを批判していた」
前述の「成長軌道」発言からもわかるように、西田氏は佐々木時代の業績に不満を抱いていたようだ。だが、佐々木氏らインフラ閥にも言い分がある。
西田時代終盤の2008年にリーマン・ショックの影響もあって業績が悪化し、2009年3月期には約3400億円の赤字に転落した。佐々木氏に課せられたのは赤字からの脱却だった。
「西田氏の締め付けが強まるなか、それを見返してやろうとする佐々木氏が部下に厳しく業績改善の檄を飛ばした」(前出・中堅幹部)時期が、インフラ事業の“粉飾”のタイミングと重なるのは無縁とは思えない。
※週刊ポスト2015年7月31日号