僕は今まで企業に就職した事はない。その代わりに、株式会社や有限会社や農業生産法人、NPO法人、社団法人などいろいろな会社や組織を設立して来た。
始まりは学生時代に、イギリスに留学していた弟の生活を成り立たせるために買い付けした骨董品を売るために、黒崎兄弟商会という組織を作った。そしてすぐに黒崎貿易株式会社という会社にした。
そして青山の現在の骨董通りを中島誠之助さん達と名づ、西洋アンテイークの店を作った。それまで古いものに興味があったわけではなかったが、祖父の家などには古いものそれもイギリス製のドローリーフテーブルや、フランス製の石の屋根瓦や、いろいろな骨董品にふれてはいた。
ただ海外に行くとまずは骨董街に行き古いものを見て買うのが好きだった。弟が住んでいたロンドンのバーモンジーには毎週金曜日には朝早く骨董市がたち、ありとあらゆる骨董品が売られていた。古いものを大切にして、その価値を説明して、値段を決めて思い思いに売っている様子を見るにつけ骨董品に興味が深まった。
その頃、古いエジソンの蝋管蓄音機を探して新宿のジャズ喫茶を経営している人に買ってもらったのをきっかけに、古い万年筆やオイルライターなどを弟に言って集めさせそれを日本で売る事を始めた。そうしているうちにアンティークに引き込まれて行った。
そして絵画やデザインにも惹かれて行った。もともと家では父や母と芸術論を闘わすような家ではあったが、特に骨董品について詳しかったわけではないが、もののデザインや歴史を熱心に話す骨董品のお客さんから影響を受けた。
それから僕の興味は古い家具からインテリアデザイン、建築、ライフスタイルに移っていった。外国で自分の好きな家具やデザインされたものにに囲まれて、好きな音楽を聴いているのを、羨ましいと思った。
その頃、受験勉強をして競争社会で大きな企業に入り安全に暮らすことに疑問を持ち始めていた。また外国で自分の好きな家具とインテリアに囲まれて、趣味と仕事に包まれて暮らす人に会うと羨ましく思った。
一方、日本で偏差値の高い大学に行き一流企業といわれるところで働いている人に羨望の気持ちは湧かなかった。おじさんたちは皆一高、東大出て偉そうにしていたけど羨ましく無く、父親も開成から陸軍士官学校出て技術将校になって、戦争に負け数年してから結婚して、僕が生まれ、自分の科学技術を生かすべく陶器の釉薬を研究する技術者の道に進んだようだ。
父の兄も開成から東北大、日立中央研究所設立メンバーから大学教授になリ、また大叔父2人も一高、東大出て三菱重工で飛行機を開発したり軍需産業の会社をしたり、また祖母の父、僕の曾祖父は東大で教えてからフランスに留学してフランスの火薬や武器や研究して、帰国してから日本陸軍のフランス派の将軍になった。こ
うした経歴が僕は嫌だった。恥ずかしくはあれ自慢ではなかった。僕の高校時代は60sでブリテイシュロック全盛で、ビートルズ、ストーンズ、ツェッペリンを始めパンクまで没頭していた。
歌詞で英語を学び影響を受けた。そしてアメリカではサンフランシスコのヘイトアシュベリーに行ったり、ベトナム反戦運動やヒッピー文化に影響を受けて、ボブディランやPPMの歌詞にも影響を受けた。
僕がいった早稲田の理工学部の応用物理学科には当時コンピューターの研究に向かう方向と物性論、素粒子の研究に向かう方向があった。僕は今の様なコンピュター社会が来るとは思はないで、ものの存在とは?とかサルトルの存在と無などを読んだりして考えていた。
目先のお金のことなど考えるのはダサいという考え方だった。そこで始めた骨董屋で始めてお金儲けに集中した。アンテイークの照明器具や家具をコンテナで輸入する様になって、そのリプロダクションをつくろうと思い、当時アーチィスト崩れで鉄工所をやっていた友人の鉄工所でビクトリアンの照明を作った。
また同時にアンテイークの曲木の椅子を日本の木工所で作らせたりして、IDEEというブランドで売り始めた。
その頃フランスによく行き、フィリップスタークに会ったりして彼のデザインを日本の家具屋として始めて日本で発表して展示会をした。骨董屋の頃は3人ぐらいの社員がいたがその後リプロの家具を作る頃には30人くらいになった。
もともと社長になりたいわけではなかったけど、昔から親分気質で長男なので自然に社長をやっていたけど、人は皆平等という所はあり、天は人の上に人は作らず、人の下に人は作らずと行った考えや、真理の前にはみな平等という風に考えていた。