人類の生存

November 20, 2024

サステナブルやSDGsなどと言われて久しいが、このまま行くと人類が生存し続ける事すらも難しく思える。

僕が高校生の頃は世界の人類は30億人くらいといわれてきたが、現在は80億人、そしてもう直ぐ90億人と、僕の生きているうちに3倍になりそうだ。

また、異常気象や世界の状況を見るにつけ、このままいくと人類はどうなっていくのだろうか?と思わざるを得ない。

バッタの大群が異常発生して全ての草を食べつづけて、自滅していく様に、人類もこのままいくと自滅していきそうだ。

アジアやアフリカの人口をこれ以上増やさない様にして、同時に教育のレベルを上げ、知性と人類の英知を結集させて、人類が仲良く文化的に暮らしていくことが出来るか?が緊急の課題だと思う。

気候の変化や戦争を見るにつけ、うかうかしている場合では無いと思う。

日本を考えてみると、食料の自給率は低くなり、農家の平均年齢は60歳代後半から70歳代となり、体を使ってする労働は減り、商業主体でますます情報に仕切られて、嘘が中心の社会になってしまっている。

晴れと褻 - ハレとケ

November 5, 2024

今、僕の頭の中を占めているのは、輪島の漆を再生して発展させるにはどうしたら良いかという事だ。

イデーを始めてすぐにオリジナルの漆の家具を作った。そもそもアイリーン・グレイの漆の家具や、アール・デコなど1930年代のデザインに惹かれ、当時のデザイン雑誌や建築の資料を集めて学んでいた。次第に資料だけでなく、現物も多数所有する様になった。そして、それらの家具の内のいくつかを再生した。アールデコから着想を得た、漆のスクリーン、テーブル、キャビネットやイーゼルなどだ。

今回の地震で壊れてしまった輪島で漆の工房は250軒以上あったらしい。ほとんどがもうやめてしまい事業を受け継がれない様だ。そこで、Make japan rize againとして漆工房を事業承継し、japanを再生して発展させようと思うに至った。

そもそも僕が小学校3年生ぐらいの時に、祖父と父に呼ばれて、もう一度日本がアメリカや西洋の国々に並ぶようになるには、ギリシャ時代からの西洋文化をよく学ばなければいけないと言われ、石井桃子訳のギリシャ神話やプルターク英雄伝(プルタルコスの対比列伝)やナポレオン伝を与えられた記憶がある。

僕の母方の祖父は、陸軍中将で陸軍参謀本部の服部武士だったし、父方の曽祖父は明治時代にフランスに留学して、日本陸軍の基礎を作った一族だった様だ。また父方の祖父は日露戦争で戦い金鵄勲章を明治天皇からもらい、また祖母は明治天皇の馬車に乗せてもらったりして喜んでいた様だ。

一方の僕は、中学高校の時はアナキストで、ブリティッシュ・ロックやボブ・ディランなどを聞いて育った。そして親たちに逆らって生きてきた。

早稲田の理工学部は卒業はしたが、いわゆるドロップアウトをして青山の骨董通りでアンテイーク屋を開いた。西洋かぶれで、日本史よりも世界史をよく学んだ。ロックの歌詞から影響を受けた。そして西洋骨董、特にイギリスやフランス、はたまたイタリアのものに影響を受け、またこの30年ほどは北欧のデザインや家具を集めてきた。

今年の正月に大地震が起きて漆器工房が壊滅状態になった。陶器をチャイナと言い、漆器をジャパンという様に、漆器のあの深い輝きは何物にも代えがたい。日本は安いものをたくさん作るのは得意の様だが、高くてもきちんと良いものを作ることは苦手なのかな?と思うに至った。そして陰陽説や五行説を調べていて、中国発ではなく日本発の概念で、hare-to-ke(晴れと褻)という考えに行き着いた。

晴れ着、はれの日、ハレの場などに対して、褻着、普段着、日用品。無印良品はこうした日用品のレベルを上げる様に心がけている様だし、イデーはハレの品々を発表したい。陰陽五行説、結界、晴れと褻、などを考えながら漆の家具を考え、妄想している。

漆器から考える

September 5, 2024

僕が骨董屋から家具屋になったきっかけは、骨董品を買う時に、併せて30〜60年代のデザイン雑誌や建築のものもたくさん買い集めていたことから始まる。古いイギリスの家具、ビクトリアンやエドワーディアン、はたまたジョージアンのオークの骨董家具をイギリス中から買い集めた。

1980年代初めから、少しずつアール・デコや50年代のモダンな家具に興味がいくようになった。色々調べると近代、モダンという概念のデザインは1930年代のアール・デコのデザインから始まった様だし、コンテンポラリー、現代アートは1950年代に始まった様だと分かってきた。

そしてその後は「なにが美しいか?」も様々な視点や思想や価値観によって異なることを理解した。すると目の前が開けた様になった。

その頃、アール・デコのデザインに影響されて様々なものが生まれた。僕がこだわったのはアイリーン・グレイの作った家具やル・コルビュジエの空間だった。そしてアール・デコのシンプルで潔い、モダンな思想の家具や絵画を集めている時に、漆の屏風/スクリーンが気になった。漆の黒い輝きは、プラスチックにはない存在であった。

そこでイデーという理念、概念を超えた新しい家具のブランドを立ち上げることになった時に、この漆の一連の家具を作ろうと思った。

漆の輝きは他には無い独特さで、特に輪島塗りや越前漆器や山中漆器は深い輝きを持っていた。歴史のある漆と近代のものであるアール・デコを合わせたアイリーン・グレイの家具にはどの様な意味があるのかと深く考えた。同時に必要のないものは全て諦めてミニマルという概念のデザインは僕にとってはすごく魅了的だった。

イデーの草創期 #6

February 14, 2024

今から30年くらい前、毎年ミラノのデザイン展に行っていて、カッペリーニやドリアーデの展示会は入り口に人々が溢れて大人気だった。

パリのファッション・ウィークの盛り上がりに続いて、家具デザインや空間デザイン、ライフスタイルやアートや食のデザインまでも意識して、全てにおいて最高のモノを表現してみたいという衝動に駆られた。

僕はマリー・クリスティーヌ・ドロネー、フィリップ・スタルク、セルジュ・ムーユ、倉俣史郎、マーク・ニューソン、エマニュエル・バブレッド、オリビエ・ベドリン、ジャスパー・モリソン、ロン・アラッドなど世界中のデザイナーやアーティストやクリエイターや建築家などと話していて、一緒になにか新しい価値観を作り上げること、生活の探求、造形の真実、趣味の冒険を掲て行こうと思うに至った。

そこで世界は一つ、結局、生活の質、文化性が高いのが最高だと思うに至った。Sputnikという、世界中を周る、最初の人工衛星の名前で、世界中のデザインを集めて、世界中の人々に向けて発信するデザインムーブメントを作ろうと思うに至り、ミラノからパリ、ロンドン、ニューヨークなどで展示会をやり始めた。

そして1999年から東京で、Tokyo Designers Block というデザイン展を始めた。2001〜2005頃は東京が世界のデザインの中心の一つになった。人はお金をどんなに持っても、人生のビジョンが無いとつまらないし、センスが良い生活の素晴らしさを追求したい。それを無名性のデザインと個人の創造性の両方から掘り下げることがしたいと思った。

飛行機の設計者

February 14, 2024

祖母(父親の母)の兄、本庄季郎という大叔父とは仲良くしていた。彼は一高、東大主席でドイツに留学して、BMWのバイクを乗り回し、三菱重工の航空機の主任設計者だった。そして一式陸上攻撃機を設計した。それでプリンス・オブ・ウェールズという英国海軍の旗艦を撃沈した。

小学校四年生頃、野生植物をコレクションしていて、牧野富太郎の植物図鑑を愛読していた。毎週末、その季郎叔父さんと植物採集に行った。今でも覚えているのは、イチリンソウとかニリンソウ、と一人静か、二人静か、という名前の野草に感情移入して、名前の由来を話し込んだこと。深大寺のそばで八重のキンポウゲと言う野草を発見して、叔父さんと新種を見つけたと大騒ぎした。

彼は自然の中の不思議を見つけ、僕に「テルちゃん何故空は青いか分かる?」など色々聞いてくれて、自然科学の問題点を考えることを教えてくれた。

彼は発想がぶっ飛んでいて、戦後、三菱重工が飛行機を作れなくなったとき、航空機部門で働いている人の仕事をキープするために、余ったジュラルミンで自転車を作った。それは、三菱十字号という名前で、戦後すぐに行われた東京、大阪の自転車ラリーにも出走したようだ。

その後ハンググライダーで世界記録を立てたり、一種の変人で天才的な人だった。スタジオジブリの映画、風立ちぬにもゼロ戦設計者と一式陸上攻撃機の設計者として出ている。

彼は当時から家の家具をアルヴァ・アアルトで揃えていて、デザインセンスが良かった。そして、色々と建築家に対する意見があった。そのため彼は家でも孤立していたが、僕は気が合って仲が良かった。

Let’s Make Japan Great Again

January 30, 2024

今年の元旦に起きた地震で輪島の漆器工房は壊滅的な打撃を受けた。また世界では、アメリカは「Make America Great Again」を唱えるトランプが大統領になるかもしれないし、ロシアはプーチンがロシアを再興してアメリカやいわゆる自由主義陣営に対抗し、中国は習近平が中華思想で中国を世界の中心に持っていこうとしているかの様だ。

一方、日本は戦後のアメリカの日本弱体化政策という様に、日本精神といったものを抑え、また日本人もそんなに武力や経済力やGDPで競い合ってもしょうがないという風で、社会も老人化が進み、そんなにやる気を感じられない。

それぞれをCultureに置き換えて、「Make American Culture Great Again」「Make Russian Culture Great Again」「Make Chinese Culture Great Again」と文化で競い合う社会に転化するならば少しはいいのではないかと思う。

「Let’s Make Japanese Culture Great Again」を考えていたら、陶器「ceramic」を「china」と言うし、漆器「lacquerware」を「japan」と言うことに気がついた。日本文化の良いところと弱いところを考え直して、「Make japan Great Again」日本の漆を再興したいと思うに至った。

そういえば2011年の東北の津波で被災した雄勝の硯産業再生活動後、僕らは金継ぎを広めるためにパリやオックスフォードやロンドン、ストックホルム、ポートランドで展示会をしたり漆と金継ぎのイベントをした。

その時一緒に行ったのが、福井の越前漆器会社を引き継いだ山久漆工の山本さんだった。彼は京都の漆職人を連れてきた。みんなで世界を回って、金継ぎで日本文化は壊れたものを再生し価値を生み出せる事を示した。

そして石川県の小松市滝ケ原町に北陸古民家再生機構という社団法人を設立した。また同時にTakigahara Farmという農業生産法人やCraft and Stayという会社も設立した。

そこで今回の能登半島の大地震が起きた。そして輪島の漆産業が大打撃を受けてしまった。僕はずっと文化で社会を再興する事をやってきた。日本の伝統工芸やクラフトは職人の高齢化が進んでいるが、ここで新しく生まれ変わり、特に漆器や陶器は昔ながらのやり方からの脱皮を模索している時期だと思う。

一方、美大を出てアートやデザインやクラフトや建築をやっている若者は、職人に弟子入りして地味な手仕事をする人はごくわずかだ。しかし最近は僕らのやっている青山のファーマーズマーケット周りにはこうした若者が集まっている。特に女子の優秀な人が多い。そういえばドイツの若い女の子が滝ケ原で漆をやりたいと職業訓練校に入学し始めた。こうした動きを集めて輪島の漆器工房を事業承継することを考えたい。

そういえばスウェーデンのデザイナーのインゲヤード・ローマンが僕らのためにガラス器をデザインしてくれたが、それを山本さんが漆器でも作ってくれた。ガラス器は木村ガラスが作って、漆器は山本さん。漆器の上品な存在感とモダンなデザインが伴って素晴らしい物ができたと思う。まだプロトタイプだけれどこうしたものも作っていきたい。

イデーの草創期 #5

January 23, 2024

IDÉEではまず初めに、モダンデザインの原点である1930年代のアール・デコの家具を集める事から始めた。

次に、1950年代のフランスのに影響を受けたFORMというブランドを作った。現代美術の始まった1950年代は、デザイナーや建築家の名前がはっきりしてきた時代でもあった。イサム・ノグチ、セルジュ・ムーユ、柳宗理、長大作など、デザイナーやアーテイストの才能や個性や思想が形に現れる様になってきた。

その後、PAYSAN (農民)という名前で、ベーシックでスタンダードな家具のシリーズを始めた。昔の家具のカタログや雑誌を収集していく内に、スタンダードであるが、誰がデザインしたのか分からないデザインの家具を追求したい気持ちになった。

その一方で、フィリップ・スタルク、マーク・ニューソン、倉俣史郎など同時代のデザイナーは、自分の存在をかけて美意識と価値観をスタイルやデザインに込めて表現してきた。ファッションとはまた違い、生き方や生活に直接関係している様で、僕らは1980〜90年代は熱中した。

僕は家具のデザインこそ、そのデザイナーの才能の発露だと思う。アンドレ・プットマンが手がけたニューヨークのホテルの内装や家具、フィリップ・スタルクによるデザインホテルなどが、そういった世界観を表現してきた。

IDÉEのデザイン

January 10, 2024

セルジュ・ムーユが来日した後、フランスからは、マリー・クリスティーヌ・ドルナーが日本に来てデザイン活動を始めた。また、フィリップ・スタルクとはパリで会い、一緒に日本のマーケットに向けた新しい家具を開発した。

この頃、たくさんのデザイナーと会った。

ジェイムス・アービンとは倉俣史郎氏の事務所で会った。その頃、彼は日本で企業デザイナーとして働き始めていた。ジェイムスのロンドン時代からの親友、ジャスパー・モリソンも倉俣氏の所で会った。

RCA(Royal College of Art)を卒業したばかりのジャスパーはたった一人で小さな事務所を開設したばかりだった。最近ジャスパーに会った時、フランスのワイナリーで作ったワインに、ジェイムスの名前をつけたと言っていた。古くからの親友の名前からとったワイン、良い話だと思う。

次第に世界中のデザイナーに、IDÉEのために新しくデザインすることが知られる様になった。

マシュー・ヒルトンも来日して、ソファーをデザインしてくれた。アメリカからはロス・メネズやニック・ダインがやってきた。カリム・ラシッドも来てくれた。

その頃、日本にいたマーク・ニューソンは、Appleで働き始めたジョナサン・アイブとIDÉEで会った。

80年代後半には、IDÉEは世界のデザインの中心地の一つとなっていった。その頃、家具をデザインすることは格好良く、アートやインテリアデザイン、建築やランドスケープ、クラフト、ファションや音楽などと一体となって、時代は80年代から90年代に突入していった。ファションの分野ではナイジェル・カーティスやポール・スミス達が、IDÉEの展示会に来てくれた。

最近は「どこの会社や組織で何をしているか?」などが、人の基準になってきているが、もっと大きな目線というか、いい加減というか「クリエイティブであるか?、進んでいて面白いやつか? 良い奴か?」などが人の基準になっていたと思う。

これは以前カタログに書いたが、マーク・ニューソンが僕に作品集を見せに来た時、彼の歯ブラシのコレクションの話になった。そして、僕の好きなミラノのお店の豚毛の歯ブラシを持っていたことから、すっかり信用したのだが、例えば一緒にご飯に行く時に何を食べるかなど、お互いの判断が、デザインよりも違った視点で、信用に関わったりするものだ。

ロンドンではロン・アラッドのOne Offという家具をアートにしたギャラリーが好きだった。当時、トム・ディクソンの元で働いていた、マイケル・ヤングもそういったデザイナーの一人だった。

デザイナーの世界でも、Apple Watchをデザインしたジョナサン・アイブやマーク・ニューソンなどは、昔ながらの人間臭さを残していて、お金だけでは無い所や、親友を大切にしている所や、格好良く生きる事を第一に考えている所などが、僕が気に入っている所だった。

セルジュとの出会い

December 30, 2023

IDÉEでは、カタログ雑誌 「Life with IDÉE」を発刊して毎号7万部以上販売した他に、岡崎乾二郎氏や小林康夫氏と組んでFRAMEという美術理論誌や、「SPUTNIK : whole life catalogue」という本と雑誌の間の様なものを、野村訓市くんという若者と組んで作ったりした。

僕の人生が大きく変わったことの中で、フランス人デザイナーのセルジュ・ムーユとの出会いがある。

FORMというフレンチ50’sのデザインから影響を受けたブランドを作った時、パリの骨董屋や蚤の市を訪れた。その時に、不思議なデザインの照明器具に目がいった。そのランプ扱っているアランという骨董商と知り合い話を聞いたり、色々調べてる内に、セルジュ・ムーユに会いに行くことになった。

ちょうどその時パリにいたマーク・ニューソンを連れて、お土産にサンジエルマンの花屋で綺麗に咲いていたケイトウの花をあるたけ買って、友人の車でパリから1時間ほどのシャトー=ティエリにある、セルジュのアトリエ兼住居を訪れた。

彼は僕らを歓迎してくれて、自分で作った鴨料理を振舞ってくれた。そして自分のデザイン思想を話してくれた。僕とマークはそれに聞き入ってしまった。

僕はセルジュを日本に招待して、僕らの工房を案内することを提案した。その時いた娘のステファニーも来る話になったが、彼女は結局来れなかった。セルジュは自分のオリジナルの型を見せてくれて、それを参考に作ったら良いと言ってくれた。

そして、日本では当時仏壇を作っていた兼松さんという金属加工業者に頼んで、この不思議なデザインのフレンチ50’sのランプを再生産する事になった。

過去のデザインを自分たちが発売するために、直接交渉するということは、今までのやり方とは全く違ったようだ。柳宗理氏のバタフライスツールもそうだった。柳宗理氏に会いに行った後、天童木工のデザイン開発者、天童木工の社長、大山勝太郎氏に会いに行った。

長大作氏のデザインした椅子の時も同じだった。とにかく良い物は良い、自分が見て良いと思うものを信じてやっていこうという気持ちが強かった。こうして一度廃盤になった過去のデザイン、名作が再生されることが世界中で起こるきっかけになった。

イデーの草創期 #4

December 29, 2023

1983-1984年頃は僕にとってはファションと建築とアートに目覚めた時期であった。コム・デ・ギャルソンの名刺を持ってニューヨークやシカゴやロスに行ったし、パリではショーの手伝いもした。

また、IDÉEではフィリップ・スタルクの家具を発表したり、新しいデザイナーとのコラボレーションを始めた。

ロンドンで友達になった1人に、建築家、デビッド・チッパーフィールドがいた。当時は若くて少人数で活動していた。そんな彼は、彼は今年プリツカー賞という建築界のノーベル賞のような賞をとったし、現在ではアシスタントが300人以上かかえる建築家になった。彼に後藤美術館の建築の仕事を紹介したりもした。

フィリップ・スタルクも僕が知り合った頃は一人でやっていた。カフェコストという古さと新しさが共存した空間を作っていた。フィリップ・テリアンというハンサムなフランス人の代理人と、彼のデザインで、日本での製作の家具を企画した。

IDÉEというアール・デコを基にしたブランドに続き、FORMというフレンチ50'sデザインを再生するブランドを打ち立てたのは、特筆すべき事だった。骨董品であった50'sや60'sのデザインの家具や照明器具や、デザイン雑誌のコレクションなどを買い集めていた。

日本の方では、柳宗理のバタフライスツールを再生すべく、天童木工の菅澤さんに会いに行った。今でこそバタフライスツールは再生産しているが、当時は生産をストップしていた。僕らが買うからまた生産を再開しないかと、当時の天童木工の社長に頼み込んだ。僕は家具業界では素人だったので、良いものならまた作ればいいという感覚だった。

イデーの草創期 #3

December 21, 2023

古い万年筆やオイルライターを修理したり、エジソンの蝋管蓄音機を売って儲けたお金で、ヨーロッパを買い付けで回った。イギリスからスコットランドまでも足を伸ばしたし、フランス/パリには頻繁に行った。

自分の好きなものや、綺麗だと思う骨董品を青山の骨董通り(この名前は、当時からくさという古い伊万里の陶器を扱っていた中島誠之助さんと西洋骨董を扱っていた僕が名付けた)の店で売った。かつては渋谷から六本木までの都電が通っていて都電通りと呼ばれ、今の国連大学の場所には都電の操車場があった。

当時は、Pan Americanの世界一周便が$999であり、香港出発でヨーロッパを周りニューヨークからサンフランシスコを回って帰国するというルートで、これを何度も利用した。世界一周する内に、世界中に友達を持つようになり、世界は一つという感覚が生まれた。

そして、インテリアや家具に興味が移り、建築にも興味を持つ様になった。祖父の家はフランクロイドライトの弟子の遠藤新が設計していた。祖母は自由学園の羽仁さんの事もよく知っていた。ただ、祖父の家が本に取り上げられていた事などは、僕にとってはうざいことであった。それぐらい祖母の言うことや両親に反発して独自の人生にこだわった。

その頃の骨董通りはまだ何もなく、コムデギャルソンの川久保さんが小さな店を出して、当時の副社長の片山くんはよく店を冷やかしにきた。ある時、僕の店にPaul Smithが顔を出して、骨董家具に塗るBriwaxというワックスをくれないか?と聞いてきたので、それを塗りに彼の店に出かけていった。それ以来ロンドンで会ったりしている。

1980年頃は、片山くんから今度コムデギャルソンがパリで展示会をするので手伝ってくれないか?と話があり、川久保さんにお会いして、パリのショウや展示会を手伝った。

それまでは会社との仕事には縁がなく、初めてファッションにも触れた。この時にコムデギャルソンのお手伝いできたのは良かったし、川久保さんの風変わりな人柄も気にいった。近くで色々仕事をする内に、その美意識、思想、デザイン、ファションは僕に影響を与えた。

その時、僕は家具で勝負しようと決心した。

骨董品の買い付けで行ったロンドンのキングスロードで、風邪をひき、薬屋に入ったら、そこの主人から、息子が日本住んでいるのでプレゼントを持っていってくれないか?と言われた。翌日に行くと小さな包みを渡され、それを吉祥寺に住んでいる息子さんに届けた。彼の名前はエイドリアン・ジョフィ、後にコムデギャルソンに入り、川久保さんのパートナーとなった。こうした偶然がたくさんある。こうした偶然がたくさんある。

家具の方は、アンティークのベントウッドチェアを沢山売った。その流れで日本でベントウッドチェアを作っていた秋田木工を訪問して社長とお話し、よりシンプルに作ってもらい、自社製品の販売を開始した。

イデーの草創期 #2

December 19, 2023

僕はずっと精神年齢が高校3年生のままであり、いつも心にはStonesの曲とDylanの歌詞があると言ったら、ちょっとカッコつけている様だが、ほぼその通りだった。

その頃、僕は新宿のジャズ喫茶のDUGや木馬によく行った。ジャズ喫茶は、私語を禁じられている空間で、ジャズだけを良いオーデイオシステムで静かに聴き、丁寧に一杯づつドリップでいれられたコーヒーを飲むという場所だった。そこでは学生運動で活動していた活動家も、ヘルメットを紙袋に入れて隠して、静かな調和を保っていた。僕はトックリセーターにベルボトムのジーンズに長髪という格好で静かにジャズなどを聴いていた。

当時の新宿は騒乱状態で、フォークゲリラが行われたり、ロック革命を言う若者が多く、学生運動も真っ盛りだった。当時の早稲田大学理工学部の学部長は建築家の吉阪教授だったので、大衆団交の際に、彼に対して国家権力と対峙してこそ大学の学問と真理を追求することができるのではないかと主張したことを覚えている。しかしその学生運動の構成セクトは年功序列、学閥重視の大人の社会をコピーしている様に思えたし、格好良くない人たちの様に思えた。

そこで、弟がロンドンに留学していたので、イギリス製の物を送らせてそれを日本で売る仕事を始めた。当時は西洋のアンティークがブームで、僕らはまずダンヒルのオイルライターと万年筆に特化して扱った。万年筆は夏目漱石も使っていた、抜群の書き心地のOnotoや、Waterman、Pelicanなどの古くても程度の良いものを集めて売った。また古い蓄音機を探して日本のジャズ喫茶に飾っている人に売ったり、効率の良い商売に目覚めていった。

弟がコレクター気質でオタクだったので、古いオイルライターでタバコを吸いながら音楽を聴き、古い万年筆でものを書くという、今の社会ではないライフスタイルに憧れ、それを元に事業を始めたという訳だ。当時の僕にはイギリスの骨董市やパリの蚤の市を廻って自分の好きなものを買って日本で売る事は魅力的だった。

イデーの草創期 #1

December 18, 2023

僕は学生時代から、どっかに就職してサラリーマンとしての生活をおくるなどと考えたことはなかったので、自分で稼いで自分で仕事を初めて事業化するということしか頭になかった。

多感な高校生だった1968年頃には世界中がざわついていて、ちょうど今の様だった。僕は、大学生になる意味、学問をする意義、そもそも大学とは何をするために行くのか?学問とは?大学の存在意義とは?などを考えざるを得ない時代の空気を感じていた。

父親も叔父も開成高校を卒業して、叔父は東北大を卒業して日立の中央研究所を立ち上げメンバーだったり、父は次男だったので家業の軍人になって将軍になるべく陸軍士官学校に行った。また、大叔父は二人とも一高、東大から三菱重工で  
航空機の開発や運需産業をやっていた。母の父、僕の祖父は陸軍参謀本部で陸軍中将の服部武士だった。

父の母のそのまた父、僕の曽祖父は明治時代にフランスに留学してフランスの火薬を日本にもたらし日本陸軍のフランス派で少将だったり、父方の祖父、黒崎貞彦は日露戦争での武勲から明治天皇から金鵄勲章を貰ったりと、皆、侍の血、武士の血を受け継いでいたらしい。おばあちゃんはそれをいつも言っていた。

一方の僕はブリテイシュロックかぶれで、Paint it black世代というか、ストーンズ、ビートルズ、ツェッペリンなどの世代で、BobDylanの歌詞から英語を学ぶような学生だったので、全てに反発した。また、サルトルやボーヴォワールやヒッピー思想に影響されていた。

しかし思い出してみると、もっと小さい時、小学校3年の頃は、ギリシャ思想や、アテネの民主制の元になった思想や、プルタルコスの対比列伝(プルターク英雄伝)の、テミストクレスやペリクレスに胸を踊らせ、ナポレオン伝などを与えられて来た。

今から考えると特殊な教育をされて来たと思う。これは日本の武士の志は血の中にあるので、西洋の思想を取り入れたらいいという父の考えが反映していたと思われる。そんな中、日本人は真面目でいい人が多いし、和して同ぜず、和むけれど同化しないということを教えられたことは良かったと思う。

しかし、高校時代はラジカルなロックが好きだったので、反戦思想とカウンターカルチャーの中で育った。その頃、隣の席にいた子が横浜国大の革マル派のリーダーになり、内ゲバで鉄パイプで頭を割られて亡くなったり、テレビで東大安田講堂事件を見ていたら、慶応に行ってた子が捕まって出て来たりなどが普通にあった。

Craft? Handmade?

August 29, 2023

最近Craft Beer FestivalをFarmers Market@UNUで企画しました。

最近はクラフト、という言葉を目にすることが多くなりました。クラフトとは、民藝、手作り、と行った意味がありますが、最近はクラフトビール、クラフトフードなど使われる様になってきました。

日本では大手のビール会社がほとんどのビールを作り、小さな、クラフトビール会社が作るビールはほんの少しです。大手のビール会社も毎年新しいビールを開発して、宣伝にも力を入れて、全体としては日本のビールは美味しいということが言えると思います。

しかし多様で個性的ないろいろな方向から考えられたビールはなかなか生まれにくい社会の状況です。

手作りとは?実際は機械で蒸留したり、すべてオートメーションではなく、手作り感と行ったものではないかと思います。全てが機械化されて、大きな会社が、たくさん売るための、考えられた宣伝ばかりではなく、小さく、個人で作られた手作り感のあるビールは外れることもあるけど僕はつい手を出してしまいます。

大量生産で安全に大手の会社でばかり作られたものではなく、個人の手の匂いが入ったもの全ては、無駄や駄目なところが含まれているけど、なぜかヒューマンな感じがまだある様に思えます。安心な味と品質だけでないものも楽しめるし、評価できる社会がなぜか魅力に思えてきます。

組織を創る

January 19, 2023

僕は今まで企業に就職した事はない。その代わりに、株式会社や有限会社や農業生産法人、NPO法人、社団法人などいろいろな会社や組織を設立して来た。

始まりは学生時代に、イギリスに留学していた弟の生活を成り立たせるために買い付けした骨董品を売るために、黒崎兄弟商会という組織を作った。そしてすぐに黒崎貿易株式会社という会社にした。

そして青山の現在の骨董通りを中島誠之助さん達と名づ、西洋アンテイークの店を作った。それまで古いものに興味があったわけではなかったが、祖父の家などには古いものそれもイギリス製のドローリーフテーブルや、フランス製の石の屋根瓦や、いろいろな骨董品にふれてはいた。

ただ海外に行くとまずは骨董街に行き古いものを見て買うのが好きだった。弟が住んでいたロンドンのバーモンジーには毎週金曜日には朝早く骨董市がたち、ありとあらゆる骨董品が売られていた。古いものを大切にして、その価値を説明して、値段を決めて思い思いに売っている様子を見るにつけ骨董品に興味が深まった。

その頃、古いエジソンの蝋管蓄音機を探して新宿のジャズ喫茶を経営している人に買ってもらったのをきっかけに、古い万年筆やオイルライターなどを弟に言って集めさせそれを日本で売る事を始めた。そうしているうちにアンティークに引き込まれて行った。

そして絵画やデザインにも惹かれて行った。もともと家では父や母と芸術論を闘わすような家ではあったが、特に骨董品について詳しかったわけではないが、もののデザインや歴史を熱心に話す骨董品のお客さんから影響を受けた。

それから僕の興味は古い家具からインテリアデザイン、建築、ライフスタイルに移っていった。外国で自分の好きな家具やデザインされたものにに囲まれて、好きな音楽を聴いているのを、羨ましいと思った。

その頃、受験勉強をして競争社会で大きな企業に入り安全に暮らすことに疑問を持ち始めていた。また外国で自分の好きな家具とインテリアに囲まれて、趣味と仕事に包まれて暮らす人に会うと羨ましく思った。

一方、日本で偏差値の高い大学に行き一流企業といわれるところで働いている人に羨望の気持ちは湧かなかった。おじさんたちは皆一高、東大出て偉そうにしていたけど羨ましく無く、父親も開成から陸軍士官学校出て技術将校になって、戦争に負け数年してから結婚して、僕が生まれ、自分の科学技術を生かすべく陶器の釉薬を研究する技術者の道に進んだようだ。

父の兄も開成から東北大、日立中央研究所設立メンバーから大学教授になリ、また大叔父2人も一高、東大出て三菱重工で飛行機を開発したり軍需産業の会社をしたり、また祖母の父、僕の曾祖父は東大で教えてからフランスに留学してフランスの火薬や武器や研究して、帰国してから日本陸軍のフランス派の将軍になった。こ

うした経歴が僕は嫌だった。恥ずかしくはあれ自慢ではなかった。僕の高校時代は60sでブリテイシュロック全盛で、ビートルズ、ストーンズ、ツェッペリンを始めパンクまで没頭していた。

歌詞で英語を学び影響を受けた。そしてアメリカではサンフランシスコのヘイトアシュベリーに行ったり、ベトナム反戦運動やヒッピー文化に影響を受けて、ボブディランやPPMの歌詞にも影響を受けた。

僕がいった早稲田の理工学部の応用物理学科には当時コンピューターの研究に向かう方向と物性論、素粒子の研究に向かう方向があった。僕は今の様なコンピュター社会が来るとは思はないで、ものの存在とは?とかサルトルの存在と無などを読んだりして考えていた。

目先のお金のことなど考えるのはダサいという考え方だった。そこで始めた骨董屋で始めてお金儲けに集中した。アンテイークの照明器具や家具をコンテナで輸入する様になって、そのリプロダクションをつくろうと思い、当時アーチィスト崩れで鉄工所をやっていた友人の鉄工所でビクトリアンの照明を作った。

また同時にアンテイークの曲木の椅子を日本の木工所で作らせたりして、IDEEというブランドで売り始めた。

その頃フランスによく行き、フィリップスタークに会ったりして彼のデザインを日本の家具屋として始めて日本で発表して展示会をした。骨董屋の頃は3人ぐらいの社員がいたがその後リプロの家具を作る頃には30人くらいになった。

もともと社長になりたいわけではなかったけど、昔から親分気質で長男なので自然に社長をやっていたけど、人は皆平等という所はあり、天は人の上に人は作らず、人の下に人は作らずと行った考えや、真理の前にはみな平等という風に考えていた。