Home > Regulars > 編集後記 > 編集後記(2017年12月15日)
昨日は午前は人間ドックで夜はドミューンというハードな1日だった。ドミューンでは、PHUTUREとして来日中のDJピエールとDJ EMMA君のトークの司会を務めさせてもらった。番組中では言い足りなかったことをここに書いておこうと思う。
DJピエールとスパンキーとハーブ・Jの3人が結成したPHUTUREによる“アシッド・トラックス”およびDJピエールの発明したワイルド・ピッチ・スタイルの影響をもっとわかりやすく言うと、アンダーワールドから石野卓球、URからリッチー・ホウティンにまでおよんでいるということだ。まさに歴史を切り開いたと言える、そんな偉人と同じ場を共有できたこと自体が嬉しいのだが、昨晩DJピエールは本当に良いことを喋ってくれた。そのポイントをまとめてみる。
当時(80年代半ば)のシカゴでは、他と違うことをやることが重要だった(ゆえに“アシッド・トラックス”は生まれた)。
ロン・ハーディにミュージックボックス(クラブ)でプレイしてもらうのが最高に嬉しかった。
イギリス人のジャーナリストがシカゴに取材に来るまで、自分たちの曲がヨーロッパで大ヒットしているなんてまったく知らなかった。たくさんのフォロワーを生んだことは名誉に思っている。
ざっとこんなところだが、言葉の端々からは、80年代半ばのシカゴがいかにピュアなアンダーグラウンドとして成り立っていたかを伺い知ることができた。
初期のシカゴのシーンでは、レコードがいくら売れてもレーベルはアーティストにギャラを払っていなかったという話は有名だが、そのことについて訊いても、自分の音楽をみんなに聴いてもらえるのがまずは嬉しかったから……と彼は答えた。金をもらうことは重要だけど、基本的にはいまでもその気持ちは変わらないよ、と。こうした言葉からも、DJピエールの謙虚な人柄が見て取れるだろう。まあ、なにせあのアシッド・ハウスの創始者ですから、ついついぶっ飛んだ人物だと妄想しがちですよね。しかし実物は、みんなをクレイジーにさせたあのワイルド・ピッチ・スタイルからは想像しにくい、シャイで物静かな人柄でした。
というわけで、ぼくにとって感動的な夜だった。宇川君、EMMA君、渡辺亮君、ドミューンのスタッフの皆様、ありがとうございました。ホンモノのワイルド・ピッチ・スタイルで踊れて最高でした(笑)。
最後にもうひとつ。彼らが発明した“アシッド・トラックス”がどれほどのインパクトであり、音楽のあり方を変革してしまったのかということは、すでにいろいろな論考があるのですが、来年は、そのもっともぶっ飛んだ解釈の本を一冊だそうと思っています。それはアフロ・フューチャリズムについての本です。どうぞお楽しみに。
なんてことを書いていたところに、磯部涼の『ルポ川崎』が届いた。川崎といえば、今年は川崎フロンターレにちんちんにやられたことがいまも脳裏に焼き付いている。まあ、清水がJ1に復帰して、華麗なサッカーやってんなーと感心した相手が川崎と浦和だった。清水がJ2に落ちるまで、比較的簡単に行ける等々力競技場にはほぼ毎年行っているのだけれど、今年はDAZN観戦だったので、川崎の強さをより詳細にわたって見せつけられた。その川崎が劇的な逆転優勝を果たした同じ時間に清水がようやくの残留決定を果たし、「やった、残留だ!」などとその日は最高に浮かれていたのだが、一夜明けてちょっと冷静になってみれば、川崎がJ1に上がってきたその年から等々力に行っている人間として、ただただ「はぁ、差を付けられちゃったな~」と。
とまれ。川崎フロンターレ優勝の年に磯部涼の『ルポ川崎』。これは何かあるだろう。1980年代のイングランド・リーグ時代、サッチャー政権に抵抗するもっとも強力な労働組合がいた街のチーム、リヴァプールが王者だった。同時にリヴァプールとは、あたかもフーリガニズムの象徴として世間から糾弾もされた。フットボール・チームの上昇には、その街のヴァイブレーションが少なからずリンクしているものだ。もっとも等々力競技場はクリーンに再開発されたエリアに立地しているし、この10年で新築のマンションも激増しているようにも思う。対して『ルポ川崎』は、そうした明るい川崎の裏側、取り残されたエリアにおけるラップやレイヴ・カルチャーなどを取材しながらその街の姿を描こうとするものだろう。それでもぼくは、自分なりのリスペクトを込めて、あの川崎フロンターレの超攻撃的サッカーの記憶を片隅に置きながら読んでみたいと思う。
※来週の19日(火曜日)、19:00~21:00、ドミューンにて、『ゲイ・カルチャーの未来へ』出版記念として、木津毅君が司会(&DJ)の田亀源一郎さんのトークがあります。ぼくと小林も出ます。ぜひ現場に来て下さい。よろしくお願いします。