サッカー選手が味わった栄光の日々と暗い影 「境界から」㉝イタリア、若手に差し伸べる手

7万人の歓声が響く。息詰まるようなPK戦。狙い澄ましたシュートがゴール左隅に決まった。1996年5月22日、ローマ。イタリア北部トリノの名門サッカーチーム「ユベントス」に入団して1年目、主力選手として欧州制覇に貢献した。
あの日がジャンルカ・ペソット(54)にとって「唯一無二の人生最高の瞬間」だった。10年後に現役を引退すると、栄光の日々が奪い去られるような恐怖に襲われた。記憶のない空白の一夜を過ごし、気付けば病床で重傷の体を横たえていた。
今は立ち直ってチーム幹部として若手選手に寄り添う。第一線の舞台で浴びた光が強いほど、その後に訪れる影は暗く感じる。「ただ、そこから必ず抜け出せる。それを後輩たちに分かってほしい。心を通わせ、手を差し伸べたい」と話す。
▽スター軍団
ベネチア近郊ラティザナ出身のペソットは、夢を追って14歳で強豪「ACミラン」の門をたたいた。5チームを渡り歩いてプロの階段を上り、24歳でスター軍団ユベントスに名を連ねた。
堅実なプレーが身上。「卓越した能力はなかったので、見限られないように必死だった」と人一倍、練習に励んだ。ローマでの決勝で蹴ったPKも、試合前日に何度も感触を確かめていた。「だから不安はなかった。1ミリもずれず、同じコースに飛んだよ」

その自信が、やがて折れる。出番が激減した2005~06年シーズン終了後、ユニホームを脱いだ。功労者としてフロントに椅子が用意され、進路には困らなかった。
だがスーツに身を包む新生活に違和感が募る。時を同じくして、史上最大規模の八百長疑惑が持ち上がった。チームの運営会社や関係者が訴追され、暗鬱(あんうつ)とした毎日を送った。「魂を盗まれたようで正気を失っていった」。引退から1カ月もたたないある日、ユベントス本部ビルの窓から、ロザリオを手に身を投げた。
車の上に落ちて衝撃が抑えられ、一命を取り留めた。入院生活で家族や友人の愛情に救われ、心身とも回復。退院後は職場に復帰し、日常が戻った。
それから18年、後輩たちの心のケアに尽力してきた。当時を振り返る表情は穏やかだ。「妥協できない性格が災いした。自分の世界に閉じこもり、孤独な日々に疲弊していたんだ」
▽悔恨
一方で影から脱せなかった選手もいる。
1994年、イタリア屈指の人気チーム「ローマ」の全盛期に主将として活躍したアゴスティノ・ディバルトロメイが、自らの命を絶った。「穴に閉じ込められた気分だ」と短い書き置きを残して。
手が届きそうだった欧州王者の栄光を逃した日から、ちょうど10年が過ぎていた。本拠地ローマでの決勝で惜しくもタイトルを逃した。傷心のディバルトロメイは翌シーズンに移籍。1990年に妻の故郷の地元チームでキャリアを終えた。
生まれ育ったローマには戻らなかった。決勝を共に戦った元チームメートで、同郷の後輩でもあったオドアクレ・キエリコ(65)は「彼の異変に気付けなかった。幸せなんだろうと思い込んでいた」と述懐する。
「現役時代の彼は友人が多かった。ただ選手なら誰でも、引退すると人が離れていくんだ。晩年の彼は何を思い悩んでいたのだろうか」。悔恨の念を拭えない。
華々しい舞台から降りた後、抑うつなどの精神症状に苦しむ元選手は多い。現役時代に味わった興奮や快感が忘れられず、引退して酒や麻薬、ギャンブルに依存する傾向も指摘される。
▽浮世離れ
国際プロサッカー選手会が2021年に発表した調査結果によると、現役選手の67%は引退後の明確な将来展望を持たない。また、元選手の30%は引退に伴う変化への対応に苦慮している。
ペソットは、早くから一般人と感覚が引き離される選手の現状を憂慮する。「サッカー界にも現代人の生活環境が反映されている。メディアや急速に普及した交流サイト(SNS)の影響で、芽が出たばかりの選手が過度にもてはやされる」
グローバル化の進展でサッカーの投資価値は急騰した。広告塔となるスター選手が得る富も異常なほど膨らんでいる。
20年前、年間収入額のトップはデービッド・ベッカムの2800万ドル(約41億円)だった。2024年の最高年収はクリスティアノ・ロナルドの2億6千万ドルとほぼ10倍で、他にも1億ドルを超える選手が4人もいる。キエリコは「現代サッカーはおぞましいほどビジネスに乗っ取られている」と嘆く。
世界中に4億人のファンを持つユベントスの選手は、毎日が浮世離れした輝きを放つ。その先の闇を知るペソットは、進退のはざまに立つ選手たちに目を配る。「幻想を抱きやすく、それが危険だ。彼らが生き方を見失う前に救い出さなければ」
【取材メモ/八百長問題の余波】

ペソットが引退したシーズンの終盤、ユベントスは八百長問題で捜査された。ペソットは「努力や献身の証しだと信じていた勝利が、不正の産物だとなじられた」とショックを振り返った。イタリア代表はシーズン後に開催されたワールドカップで優勝。主将のカンナバロやブフォン、デルピエロらユベントスのスター選手たちは大活躍して鬱憤(うっぷん)を晴らし、当時は彼らの姿に感動した。だが名誉回復の機会もなく表舞台を去った選手も多い事実に、改めて考えさせられた。
(敬称略、文は共同通信編集委員・戸部丈嗣、写真は共同通信契約カメラマン・ダニエレ・バドラート=年齢や肩書は2024年8月21日に新聞用に出稿した当時のものです)