江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。
2008-08-27
混浴だった江戸の湯屋で「間違い」は起こらなかった?
江戸時代には、庶民の暮らした貧乏長屋はもちろん、かなりのお屋敷に住む町民や下級武士の家にも、たいてい内風呂はなかった。自宅に風呂場をつくろうとすれば、専用の湯殿と井戸が必要だったが、江戸の町はもともと井戸水の出が悪かった。そのため、京や大坂に比べて江戸には湯屋が多く、江戸時代末期になると町内に一軒はあり、なかなか繁盛していた。
当時の湯屋は混浴で、町人や下級武士の娘も、職人たちと一緒の風呂に入っていた。混浴というと今では驚きだが、やはり江戸時代にも風紀上問題があるとして、寛政3年(1791年)には、いったん男女の浴場が分けられる。しかしその後は、混浴に戻っては再び禁止令が出される、のくり返しだった。
当時の湯屋の間取りは、今の銭湯とほとんど変らない。番台で料金を払ってなかへ入ると、脱衣場がある。そこで、鍵付きの衣棚に衣服を入れ、男女とも、鍵を頭の髪にさして洗い場に入る。当時、板で囲まれた浴槽は、灯油皿に火が一つ灯っているだけで薄暗く、チカンが出るのも、もっぱらこの浴槽のなかだった。わざわざ手足を伸ばし、女性の肌に触れようとする男もいれば、威勢のいいおかみさんのアソコに手を伸ばして怒鳴り返される男もいたという。
そんな物騒な浴槽に、町屋の娘さんも入ったのだが、娘さんもそれは承知のことだったとか。「物騒と知って合点の入込み湯」という川柳も残っている。もっとも、貞淑な下級武士の娘には、スケベな男たちから身を挺して守ろうとするおばさんたちが付いていたという。
ちなみに、江戸ではじめての銭湯は、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591年)、伊勢国出身の与一という男が、銭瓶橋(ぜにかめばし・現在の丸の内)に開業したとされている。ただこの湯屋は、ただの銭湯ではなく、“垢すり女”と呼ばれる女性がいて、お客の下半身の世話もする新手の風俗店だった。
当時の湯屋は混浴で、町人や下級武士の娘も、職人たちと一緒の風呂に入っていた。混浴というと今では驚きだが、やはり江戸時代にも風紀上問題があるとして、寛政3年(1791年)には、いったん男女の浴場が分けられる。しかしその後は、混浴に戻っては再び禁止令が出される、のくり返しだった。
当時の湯屋の間取りは、今の銭湯とほとんど変らない。番台で料金を払ってなかへ入ると、脱衣場がある。そこで、鍵付きの衣棚に衣服を入れ、男女とも、鍵を頭の髪にさして洗い場に入る。当時、板で囲まれた浴槽は、灯油皿に火が一つ灯っているだけで薄暗く、チカンが出るのも、もっぱらこの浴槽のなかだった。わざわざ手足を伸ばし、女性の肌に触れようとする男もいれば、威勢のいいおかみさんのアソコに手を伸ばして怒鳴り返される男もいたという。
そんな物騒な浴槽に、町屋の娘さんも入ったのだが、娘さんもそれは承知のことだったとか。「物騒と知って合点の入込み湯」という川柳も残っている。もっとも、貞淑な下級武士の娘には、スケベな男たちから身を挺して守ろうとするおばさんたちが付いていたという。
ちなみに、江戸ではじめての銭湯は、徳川家康が江戸に入った翌年の天正19年(1591年)、伊勢国出身の与一という男が、銭瓶橋(ぜにかめばし・現在の丸の内)に開業したとされている。ただこの湯屋は、ただの銭湯ではなく、“垢すり女”と呼ばれる女性がいて、お客の下半身の世話もする新手の風俗店だった。
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