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江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


2008-04-27

浅間山の噴火が東北に大打撃を与えたのはなぜ?

現在の長野県と群馬県の県境にある浅間山は、江戸時代に約20回も噴火しているが、中でももっとも被害が大きかったのは、1783年(天明3年)7月6日~8日の天明の大噴火である。
火砕流が群馬県側の鎌原村(現在の嬬恋村)を襲い、村全体が埋没、吾妻川流域を中心に1500人の死者を出し、日本最大の火山災害だったとされている。この大噴火で流れ出した溶岩流の跡が、今も見られる「鬼押出」の奇観である。
この年は、世界各地で火山の噴火が相次ぎ、浅間山の噴火もそれに連動したものと考えられている。この噴火によって、関東地方から東北地方にかけて大量の火山灰が降り、農作物に大打撃を与え、天明の大飢饉をもたらすことになった。東北地方を中心に約30万人もの餓死者を出し、江戸でも物価が急騰して庶民の生活を直撃した。
たとえば、その年の春、一両で6斗3升買えた米が、秋には4斗2升しか買えなかったという。時の老中田沼意次は、御救い小屋を設け、集まってきた窮民に一日3合の米を配給するとともに、関東近郊から江戸へ米を集め、なんとか危機を乗り切った。しかし、東方地方に対しては無策だったため、多くの犠牲者を出すことになった。

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2008-04-24

三大飢饉の被害はどれくらいだった?

江戸の「三大飢饉」といえば、享保の大飢饉(1732~3年)、天明の大飢饉(1782~7年)、天保の大飢饉(1833~6年)の三つ。もっとも被害が大きかったのは、天明の大飢饉である。
異常気象による冷害に加え、岩木山(現在の青森県)、浅間山(現在の長野県)の大噴火が重なって、とくに東北地方に大凶作をもたらした。米や野菜はたちまち不足し、人々は牛や馬、犬、草木の葉や根まで食べることになった。さらに疫病まで流行して、全国で30万人以上が死亡したとみられる。
『解体新書』で知られる杉田玄白も、その悲惨な様子を記録している。津軽や南部藩では、飢えた大人たちが子どもを殺し、頭蓋骨を割って脳みそをかき出し、それを草や葉にまぜて食べたと書き残しているのだ。ほかにも、空腹で半狂乱になった大人が、子どもを殺して食べたという例は多くの書物に記されている。
それほど事態が悪化した原因は、幕府が東北地方の被害に対しては、何の対策も講じなかったことである。事実、比較的余裕のあった西日本から東北地方へ、食糧が運ばれることは、ほとんどなかった。幕府が有効な手を打っていれば、東北地方の飢餓者の数ははるかに少なかっただろう。
ちなみに、享保の大飢饉では、冷夏とイナゴ、ウンカなどの害虫大量発生によって、四国、中国、九州を中心に凶作に見舞われ、およそ250万人が飢え苦しみ、約12000人の飢餓者が出たという。
また、天保の大飢饉は、冷害や洪水によって東北地方を中心に飢饉が広がった。天明の大飢饉を経験していただけに、幕府も今度は救済施設を設けるなどして対応。約70万人がそれらの施設によって救済されたと伝えられている。

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2008-04-22

虫歯になったときに歯に付けた妙薬とは?

日本人に虫歯が増え始めたのは、室町時代のこと。食生活が豊かになったことが、その原因とみられる。引き続き、江戸時代も虫歯の人が増え続けた。
では、虫歯になったとき、どうしていたのかというと、水戸黄門で知られる徳川光圀の命でつくられた『救民妙薬』という民間療法を記した本に、その処方が記されている。
「杉脂または檜脂を丸くして、虫歯の穴に入れるといい」という。また、「虫歯が痛むときには、あかざと昆布を黒焼きにして、粉にして付けるといい」とも書かれている。
さらに江戸後期には、津村浣庵という歌人が、随筆『譚海』に虫歯を直す法として、「ゴボウの種を煎って煎じたものを含むといい」と記している。一方、『妙薬いろは歌』という民間療法を紹介した冊子では、「松のみどりをよく焼いて痛むところにつける」という療法が紹介されている。
江戸の人々は、虫歯がチクチク痛みだしたとき、このような方法で対処していたのだ。
もちろん、江戸時代にも、歯を磨く習慣はあった。歯磨き粉は、海の砂や白土、白石などを粉末にして、白檀や丁子などの香木で香りをつけたもの。これを「房楊枝」と呼ばれる先が房状になった長い楊枝に付けて、毎日ブラッシングしていたのだ。

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2008-04-20

刀をさしていたのは武士だけではなかった?

江戸時代、刀をさすことを許されていたのは、武士だけだとよくいわれる。しかし現実には、町人にも刀をさしている者がいた。
武士以外で帶刀を許されていたのは、功労のあった町年寄、献金の多かった豪商、善行で表彰された農民、力士、能楽師らである。
さかのぼると、武士以外の者が原則的に刀をさせなくなったのは、1588年(天正16年)の豊臣秀吉の刀狩り以降のことだ。
それ以後、庶民は、公式には刀や鉄砲を持てなくなったが、実際には、刀狩りにどれほどの効果があったかは、はっきりしていない。
江戸中期でも、農民には刀や槍、鉄砲を所持していた者がかなりの人数がいたことがわかっている。
同じように、町人にも、帶刀を許されていなくても、刀を所持している者がかなりいた。ふだん腰にさすことはなくても、いざというときのため、所持していたのだ。
また、江戸時代には、基本的に自分の身は自分で守るのは当たり前のことと考えられていたので、自分の身を守るため、夜間外出するときには脇差しをさして、町を歩く町人もいた。

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2008-04-16

”ガイド本”にも記された旅人の必需品は?

江戸時代の旅の交通手段は、徒歩が中心だから、そんな大きな荷物を運ぶことはできなかった。通常、人々は小さな行李(こうり)か風呂敷包みを背負って、旅に出た。行李の素材も、竹や柳など、軽くて丈夫なものが選ばれた。
荷物が多いときは、行李を二つ用意し、手拭いに結び付けて肩にかつぎ、前後に振り分けた。人によっては風呂敷包みと行李を、手拭いで結んで振り分けた。これがいわゆる「振り分け荷物」である。
それでも運べる荷物は限られていた。文化7年、八隅盧庵という人物が著した『旅行用心集』には、道中の所持すべき品として以下のような品々が挙げられている。
矢立、扇子、糸針、懐中鏡、日記手帳、櫛、鬢付油、提灯、蝋燭、火打道具、懐中付木、麻縄、印板、かぎの手・・・・・。
このうち、矢立は携帯筆記用具のこと。カメラのなかった時代、道中の出来事を記録するには筆しかなかった。そのため、江戸時代の旅行者は相当な筆まめだった。
ただ実際には、この『旅行用心集』の指摘した品だけでは不十分で、着替えの衣類や薬、磁石、財布、草鞋、日時計、鼻紙なども必要だった。さらに、笠、蓑といった雨具も入れておかなければならない。
さらに忘れてならないのは、関所手形と往来切手である。関所手形がないことには関所を越えることができない。往来切手は、町人の身分証明のようなもののことだ。

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2008-04-14

凧揚げ禁止令が出された理由とは?

凧は古代中国で誕生した。おもに合戦場で、風力や風向きを調べたり、距離を測るために使われていた。
そんな凧が日本に伝わったのは、平安時代のこと。合戦の少なかった平安京では、豊作を占う行事の道具の一つとされた。
戦国時代には軍事目的で利用されることもあったが、天下泰平の江戸時代には子どもの遊びとして全国に広まっていく。季節を問わず、風が吹くと、凧揚げに興じる子どもの姿が見られるようになった。
ところが、幕府は、江戸初期の1656年(明暦2年)凧揚げを禁止する。その理由は、参勤交代のジャマになるというものだ。
凧揚げをする子どもには、上手な子もいれば、下手な子もいる。また、風向きが変ったり、風が弱くなると、凧はキリキリ舞しながら落ちてくる。落ちてきた凧が、武士の体や馬にからまって、行列の通行を妨げるという”事件”が起きていたのだ。
かといって、子ども相手に刀を抜くわけにもいかない。
そこで幕府は、大名からの苦情を受けて、凧揚げ禁止令を出したのである。しかし、凧揚げくらいでビシビシ取り締まるわけにも行かず、禁止令が出た後も、凧揚げをする子どもはいっこうに減らなかったという。
ちなみに、いわゆる「奴凧」が誕生したのは、江戸後期の1800年代のこと。あの姿は、武家の下級職である折助をモデルにしたもので、大ヒット商品となった。

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2008-04-10

寺子屋にも遠足はあったの?

江戸時代の寺子屋は、町民、農民、商人らの子どもが通った民間教育機関。要するに、塾である。
寺子屋の師匠を務めたのは、僧侶がもっとも多く、ほかに浪人、医者、書家らが、自宅の一室を開放し、20~30人の子らを教えていた。幕末には、江戸だけで1500もの寺子屋があって、読み書き、そろばんなどを教えていた。
寺子屋では、現代の学校と同じように、春と秋には遠足に出かけていた。行き先は、春は花見、秋は天神参りである。
江戸時代、花見はすでに春の風物詩になっていた。ただし、大人の花見は、三味線の鳴るアダルトな世界であり、子ども向きではなかった。
そこで寺子屋の師匠たちは、もっぱら上野の山に子どもを連れて出かけた。当時の上野は、将軍家の菩提寺の寛永寺との関係から、歌舞音曲が禁止されていたので、子ども向けにちょうどよかったのだ。
遠足の一行の様子は、今の修学旅行を思わせる。先頭を歩く男の子が寺子屋名を書いた旗を掲げ、これに男の子、女の子の順に続いた。師匠は最後尾を歩き、遅れたり迷ったりする子のないようにチェックした。子どもたちは上野につくと、弁当を広げ、午後4時ごろまで花の下で遊び回った。
秋の天神参りは、学問の神である天神様に詣でるのだから、やや学問色が強くなる。天神に着くと、硯で墨をすり、文字を書いて奉納した。さらに日ごろのお礼として、寺子屋で集めたいくばくかの金銭を奉納した。
これにはお返しがあって、神社側は子どもたちにお菓子をふるまった。お菓子をもらえるところから、秋の遠足も大人気だったようである。

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2008-04-07

江戸の人々の飲料水はどうやって供給された?

徳川家康が江戸を建設する際、もっとも苦労したのは、飲み水の確保だった。当時の技術では、井戸を深く掘ることができず、江戸湾に面する土地から汲み上げられる地下水には塩分がまじっていたからだ。
そこで家康は、1590年(天正18年)、大久保忠行に上水道の建設を命じる。忠行は、高田川から水を引き、初めての上水道である「小石川上水」を完成させた。そして、三代家光の時代にこの上水が拡張されて、井の頭池から取水する「神田上水」が完成する。
神田上水は、井の頭から和田(杉並区)、落合(新宿区)を経て、関口(文京区)に至り、そこに築いた大洗堰でせき上げたのち、水戸藩邸(現在の後楽園一帯)まで開削路を流し、さらに神田川を懸樋で渡して、神田や日本橋など江戸東北部に飲み水を供給していた。
一方、四谷、麹町、赤坂といった江戸の西南部には、赤坂の溜池(現在の「溜池」という地名の由来)を水源とする溜池上水によって水が供給されていた。
ところが、時代とともに、溜池の水質が悪化すると、幕府は、多摩川の水を江戸へ引き入れる壮大な計画を立て、民間の玉川庄右衛門、清右衛門兄弟に工事を命じる。工事は1653年(承応2年)4月に始まり、約八ヶ月かけて羽村取水口から四谷大木戸に至る約43キロの水路が完成した。
さらに、翌年には、虎ノ門まで石樋、木樋による地下水路も完成。江戸城をはじめ、四谷から赤坂、芝や京橋方面にも飲み水が供給できるようになった。
その後、江戸中心の飲み水は、幕末まで神田上水と玉川上水(千川上水などの分水も含む)によって供給されつづけた。

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2008-04-05

冷蔵庫のない時代、魚が腐るのをどうやって防いだ?

家康は江戸に入国したとき、摂津の佃村(現在の大阪府西淀川区佃町)の漁民33人を江戸へ呼び、江戸湾の佃島(現在の中央区佃)に住まわせた。
本能寺の変が起きたとき、わずかな手勢とともに堺にいた家康は、服部半蔵らの案内で岡崎城まで逃げのびたが、その際、道中の食糧として提供されたのが、摂津佃村の小魚煮だった。
その恩返しもあって、家康は摂津の漁民を江戸へ呼んだのだ。「佃煮」は、彼らが江戸に移り住んだ後に考案したものである。
さて、江戸時代には、佃島や房総、相模の漁民から、新鮮な魚が日本橋の魚河岸へと運ばれた。まず、タイやヒラメなどの高級魚は、高級武士の台所に届けられ、残った白身魚やアジ、サンマ、サバなどの青魚が江戸市中で売られた。
といっても、当時は冷蔵庫も冷凍庫もない時代。魚の腐敗を防ぐには、ひたすらすばやく売りさばくしかなかった。
売り子たちは、水を張った大桶に生きた魚を入れ、威勢よく売り歩いた。それでも青魚は、あっという間に鮮度が落ちてしまう。そこで、昼を過ぎれば大幅に値下げし、なんとか昼すぎまでには売り切ろうと懸命になった。
超高級品の初ガツオさえ、朝の早いうちには一尾4~5万円していても、午後になれば、切り身で安売りされた。
もちろん、庶民のおかみさんたちにとっては、値段が安くなるのを待つのが買い物の心得だった。

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2008-04-03

江戸っ子の注目を集めた菓子屋のアイディアとは?

江戸時代には、砂糖が普及し、さまざまな菓子が作られるようになった。羊羹(ようかん)や大福餅、串団子、牡丹餅などが人気を集め、大福餅や串団子は、今のお金にして100円程度で食べられた。
街道沿いの茶屋でも菓子が売り物となり、全国的に名物菓子が誕生するなか、江戸でも人気の菓子が続々と現れた。
江戸っ子がとくに好んだのは、餅菓子系である。その代表は、隅田川沿い向島の「山本屋」が考案した桜餅。
山本屋の初代は長命寺の門番をしていて、春になると花見客でにぎわう隅田川土手の様子を毎年見ていた。やがて、桜の残り香を生かす菓子として、塩漬けにした桜の葉で包んだ餡入り餅を考案する。
これが元祖桜餅であり、1717年(享保2年)の発売以来、大人気商品となった。1824年(文政7年)には、一日平均1000個以上売れていたという。
派手なパフォーマンスで有名になったのは、栗餅屋である。
「ソリャつく、ヤレつく、つく、つくつく、なにをつく」と囃しながら、杵を放り上げては、宙で受け止め、餅をつきあげた。つきあげるとさっと手でつかみ、指の間から四つの団子餅にしてみせる。その団子を2メートルほども離れた大皿に投げ入れて見せたというから、客はやんやの喝采だった。
このほか、飯倉片町のおかめ団子、黒船町の喜八団子、芝神明の桃太郎団子などが、当時、人気を集めた菓子だった。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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