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江戸時代は、いろいろな意味で、私たちの知る「日本が」始まった時代といっていい。
「日本文化」と呼ばれるものの多くが、この時代に誕生、あるいは洗練されたことはいうまでもない。
江戸時代に生きた人々のロハスな生活には、学ぶべきところが多いようである。


2008-05-31

町火消し「いろは四八組」に使われなかった平仮名とは?

江戸に町火消しが誕生したのは、1718年(享保3年)のこと。当初は、一つの町から2~5人の火消しを出して町火消しをつくったが、翌1719年(享保4年)には有名な「いろは四八組」ができあがる。
隅田川から西の町を四八の区画に分け、その一つ一つの区画に組がつくられたのだ。組の名はいろはの文字の順に呼ばれ、「い」組からはじまって、「は」組や「め」組などがあった。
そのいろは四八組の中で、いろは名ではない組がある。「百組」「千組」「万組」「本組」である。それぞれ本来なら「へ組」「ら組」「ひ組」「ん組」となる順番だったが、「へ・ら・ひ・ん」の文字は組名は使われなかったのである。というのは、「へ」「ら」「ひ」「ん」という文字には、それぞれ都合の悪い事情があるからだ。
「へ」は屁に通じて格好が悪いし、「ら」は「魔羅」の隠語であり、これまた体裁がよくない。「ひ」は火を連想させるから、火消しの組名としては論外。そして「ん」は単独では発音しにくい。そこで代わりに、「百」「千」「万」「本」が組名に使われていたのだ。

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2008-05-29

八百屋お七の事件から生まれた迷信とは何?

1966年(昭和41年)に生まれた人は、その前後の年に比べて極端に少ない。前年の65年が182万人、翌年の67年が194万人なのに、66年は136万人子どもの数が極端に減ったのは、江戸時代から、「丙午生まれの女性は気が強く、夫の命を縮める」という迷信が信じられてきたため、丙午にあたるこの年に出産を控えた人が多かったからだ。
60年に一度めぐってくる丙午は、「丙」も「午」も火性で、火性が重なる。そこからも丙午の年には火災が多く、またこの年生まれの女性は気が強いといわれる。加えて、放火事件を起こした「八百屋お七」が、丙午の生まれだという話から、とくに江戸中期以降、この迷信は広く信じられるようになった。ところが、八百屋お七は、実際には丙午生まれではなかったとみられる。
お七は、1682年(天保2年)12月の火事で、お寺へ避難した際、その寺の小姓にひと目惚れした。翌83年、彼女は恋しさから、愚かにも自宅が火事になれば再会できると考えて自宅に火をつけた。
放火の罪で捕らえられたが、彼女はまだ数えで16歳(満14歳)になったばかり、哀れんだ奉行は「15だろう」と尋ねた。15歳以下は罪一等を減じられ、死罪にはならなかったからである。ところが、お七は正直に16歳であると答え、鈴ヶ森で火刑に処せられた。のちに、井原西鶴がお七のことを『好色五人女』で描き、以降、歌舞伎や浄瑠璃で何度も上演された。その中で、お七が丙午の生まれであるという説が広まり、丙午生まれの女性は気が強いという迷信が広まったのである。
お七の生まれは明確ではないものの、1668年(寛文8年)生まれという説が有力で、それが正しければ、丙午の二年後、戊申の生まれになる。

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2008-05-27

江戸っ子のタブー「夜言葉」っていったい何?

「おかか」といえば、カツオブシを削って醤油で煮たもの。おにぎりの具やふりかけとして人気がある。この「おかか」という言葉が庶民の間に広まったのは、江戸時代のこと。本来は「カツオブシ」そのものを指すが、当時は夜だけに使われる言葉だった。
江戸時代の人々は闇が広がる夜という時間帯に恐れを覚え、夜にふさわしくない言葉があると考えていた。現在、結婚式や葬式では使えない”忌み言葉”があると同様、夜には使えない言葉があったのだ。その中には「カツオブシ」も含まれ、夜に限っては「おかか」と呼ばれていたのである。
「おかか」以外にも、野菜をアオモノ、醤油をオシダシ、塩をナミハナ、水をオヒヤ、田楽をオデン、箸をオテモト、銭をオアシ、母をオフクロ、髪をオミグシ、汁をオミオツケなどと言い換えるのも、夜の忌み言葉がルーツとなっている。
これらの言葉の多くは、室町時代以前の女房言葉に由来する。もともと、宮中に仕える女性が隠語的に使っていた言葉が、江戸時代に一般化。夜にふさわしくない言葉の言い換えとして、おもに女性の間で使われるようになった。

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2008-05-25

吉原の火事で得をした意外な人物とは?

江戸時代、吉原は21回も火事に見舞われた。しかも、火事が出るたび、ほぼ丸焼けになっている。
吉原がつねに丸焼けになったのは、誰も本気で消そうとはしなかったからだ。享保年間に町火消しが誕生してからも、町火消しは吉原の消防活動に消極的だった。町火消しが消極的だったのは、一つには、吉原を不浄の地と見なしていたことがあるとみられる。もう一つの大きな理由は、吉原が丸焼けになることを、関係者の多くが望んでいたからだ。
まずは、楼主である。吉原が全焼すれば、彼らが大損を被ると思ったら大間違いで、じつは儲かる仕組みになっていた。吉原に新たに建物ができるまでに、幕府は代替地を用意してくれた。代替地での仮営業では小屋程度ですむから、コストはかからない。なにより大きいのは、代替地で営業しているかぎり、無税だったことだ。今でいう「災害控除」を適応されたのだ。冥加金を納めないですめば、儲け放題ということで楼主はときおり丸焼けになることを望んだのだ。
江戸の商人たちも、吉原が丸焼けになると、そのたびに潤った。吉原を復興させるには、大量の木材や資材、調度品が必要になる。商人にとっては、ミニ・バブルがやってくるようなものだった。
町火消も、じつは得をしていた。形ばかりの消化活動をした火消しには、楼主からお礼が支払われた。その礼金の意味は、火事を放っておいてくれたことへのお礼である。火消しの中には、楼主の意をくんで、消化活動中、焼け広がるような行動をとる者さえいたという。

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2008-05-23

旅の難所、大井川を越すのにかかった料金は?

江戸時代 、東海道を旅する者にとっても、もっともやっかいだったのが静岡県中部を流れる大井川である。幕府が軍事上の理由から、橋をかけたり、渡し舟の運行を禁じていたため、川越人足に肩車で渡してもらわなければならなかったのだ。
当初、川越料金は、人足側の言い値に等しかった。実際、無茶苦茶な値段をふっかけたり、値切った客を川に落とすといったトラブルが少なくなかった。
そこで元禄年間(1688~1703年)、宿場の有力者によって料金システムが考案された。その日の水深を基準として川越料金を決めるというシステムである。
たとえば、享保年間(1716~36年)の料金は、川水が人足の股下までのときは48文、帯下のときは52文、帯上で60文、胸のあたりで78文、脇下までなら90~100文だった。それ以上は、水深が深くなると、「川留め」といって渡れなかった。
もっとも、値段の基準が決められても、人足のもいろんなタイプがいて、水深が深くなると酒代をねだったり、個別交渉でふっかける者もいた。さらに、水の中で膝をまげて姿勢を低くして、料金の”水増し”をする者もいたという。

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2008-05-21

丁稚から番頭への出世の道のりとは?

江戸時代の少年が、商家へ丁稚として奉公にあがったのは12、13歳のころ。その後の出世は。業種や店の規模によって異なるが、丁稚から手代に昇進し、番頭になるのが一般的なコースだった。
丁稚は、親元を離れて商店へ住み込み、まずは主人のお供や子守、掃除などの雑用にこき使われた。早朝の掃除から夜の後片付けまでびっしり働かされ、その後は読み書き、そろばんの稽古をする。文字を書きながら寝入ってしまう子も少なくなかった。また、先輩からいじめられることもあり、逃げ出したり、親元へ帰る子もいた。
しかし、そういったつらい日々に耐え抜かなければ、出世はできなかった。
丁稚が17、18歳になると、前髪を剃りあげ、手代の見習いになる。21、22歳ぐらいになると、一人前の手代として認められ、名前も△松、△吉、△七などに改めた。
手代は、今の社会でいえば、係長クラス。番頭の指示に従って仕事をこなし、部下の丁稚たちの面倒もみた。閉店後は自由時間となるので大人の遊びを覚えるのも、このころのこと。人形浄瑠璃などの心中物も、たいていは手代が主人公の一人である。
てだいが、番頭に昇格するのは30歳前後。このころになると、同期奉公組は一人か二人になっている。つまり、番頭は、出世競争に勝ち抜いたエリートともいえるのだ。会社でいえば、部長クラスである。名前を△助と改め、結婚することもできた。
当然ながら、店での責任は重くなり、主人に代わって、商品の仕入れから販売まで営業のすべてを取りしきった。また、丁稚や手代の働きぶりはもちろん、私生活を監視するのも重要な役割だった。
大きな店では、大番頭、中番頭、小番頭と序列のあるところもあったが、主人から番頭としての働きぶりを認められると暖簾わけとなり、晴れて店のオーナーになることが許されてた。

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2008-05-19

馬が通った直後に現れる専門業者とは?

江戸時代には、人や物の運搬に馬が利用されていた。武士が馬に乗っていたのは、テレビや映画でおなじみだが、それ以外にも、近郊農家でとれた米や野菜は馬で江戸市中まで運ばれたし、江戸で作られた衣服や日用品などは、馬によって郊外へ運ばれた。
もちろん、遠方への運搬には舟が利用されたが、江戸と近郊を結ぶ主要運搬手段は馬車だったのである。実際、東海道や甲州街道、中山道などの街道には、多くの馬が行き交っていた。
多くの馬が行き交いすれば、当然馬はあちらこちらで排泄したわけだが、街道筋には馬糞はほとんど落ちていなかったという。馬が排泄すると、間をおかず馬糞を拾って歩く人がいたからだ。「馬糞掻(ばふんか)き」や「馬糞(まぐそ)取り」などと呼ばれた専門業者である。
これは、馬糞が絶好の肥料になったから。近郊農家へ運べば買ってもらえたので、立派な商売として成り立ったのだ。しかも、馬糞を集める入れ物さえ用意すれば、だれでも開業できるビジネス。元手がかからないので、その日暮らしの人にとって、今日からでも始められる商売だった。
といっても、彼らは、馬糞を素手で拾い集めたりはしなかった。大きな貝を拾ってきて、それですくい取っていた。

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2008-05-17

「灰買い」という商売が成り立ったわけは?

ものを燃やすと灰になる。江戸時代には、その灰まで、さまざまな分野で利用されていた。なにしろ、江戸では、最盛期には100万人を超える人々が、木やワラを燃料として生活していた。毎日大量に出る灰を集めて、必要とする業者へ売れば、「灰買い」というビジネスが十分成り立ったのだ。江戸の前期には、この灰買いで巨万の富を築いた「灰屋紹由(じょうゆう」という豪商がいたと伝えられるくらいだ。
灰はアルカリ性なので、土壌の中和作用がある。とりわけ、火山灰が堆積した関東ローム層は、土壌が酸性で、そのままでは作物が生育しにくい。そこで、土壌を中和させる灰は、肥料として江戸近郊の農村地帯の必需品だったのである。
ほかにも、灰は、繊維の脱色や皮の脱脂、清酒の酸味の中和、焼き物の釉薬、藍染の触媒などにも利用された。さらに、石けんと似たような働きをするので、食器の洗剤としても需要があった。
灰を買い集める灰買いたちは、モッコ(ワラなどで造った桶のような入れ物)を天秤棒でかついで、江戸の町を歩いていた。
その姿は、灰で髪の毛が真っ白になっているので、若い人でもお年寄りのように見えたという。

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2008-05-15

「見倒屋」ってどんなビジネス?

今でも、引越しするときは、リサイクル業者に不用品を引き取ってもらうものだが、江戸時代にも似たようなことが行われていた。
たとえば、『東海道中膝栗毛』の弥次さんは、旅に出る前、八丁堀の借家に古物商を呼び、金目のものを売り払っている。
ただし、古物商といっても、弥次さんのような庶民が利用する業者は「見倒屋(みたおしや)」と呼ばれていた。古着や古道具、古い家具はもちろん、こわれ物や紙くずまで引き取ってくれたが、買取り価格は一般の古物商よりずっと安かった。安く買い叩くことを「見倒す」といい、そのような商いをする業者を「見倒屋」と呼んだ。
「見倒は刀を差して鍋をさげ」という川柳が残っている。これは、見倒屋が、刀も引き取れば、使い古しの鍋まで、なんでも引き取ることをからかったものである。
この見倒屋という商売、お客に同情していては商売にならないが、先立った亭主の遺品を買い取りながら、ふと後家さんに同情することもあったようで、「見倒屋  ついでに後家も仲人し」という川柳も残っている。後家さんの”リサイクル”まで面倒をみる見倒屋もいたようだ。

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2008-05-13

幕末の有名人が通った、江戸の三大道場とは?

江戸には時代を通じて剣術を教える道場が多数あったが、とりわけ幕末期に大いに流行した。通ったのは、江戸の武士に加えて、地方の雄藩から出てきた武士たちである。彼らは、道場で剣術を習いながら、親睦を深めていく。その人の縁が、幕末の志士たちを育て、幕末維新の動乱にも影響を与えたといわれる。
幕末の江戸の三大道場というと、玄武館と練兵館、士学館が挙げられ、「位は桃井(士学館)、技は千葉(玄武館)、力は斉藤(練兵館)」といわれていた。
神田お玉が池の玄武館は、北辰一刀流の千葉周作がその名を高め、3000人の門弟を集めていた。千葉周作が水戸藩の剣術師範役を務めていたことから、水戸藩系の武士が多かったのが特徴だ。
浪士組(のちの新撰組)を組織した清河八郎や、桜田門外の変で当時の大老・井伊直弼を討った有村次佐衛門も、この道場の出身であり、水戸の人だ。維新の志士として名高い土佐の坂本龍馬は、千葉周作の弟・貞吉の開いた桶町の小千葉道場に通っていた。
麹町三番町の練兵館は、神道無念流の斉藤弥九朗が開き、長州藩邸が近いこともあって、長州藩士でにぎわっていた。
のちの木戸孝允である桂小五郎は塾頭まで務め、高杉晋作も門弟だった。また薩摩からは、西郷隆盛の右腕の一人となる篠原国幹、土佐からは、のちの西南戦争で西郷軍を熊本城で食い止めた谷干城が通っていた。
京橋蜊河岸にある士学館は桃井春蔵が率い、土佐藩邸に近かったことから、土佐系の門人が多かった。のちに土佐勤皇派の首領となる武市半平太や、人斬り以蔵と恐れられた岡田以蔵らが通っていた。

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江戸時代の知りたかった「謎」と「疑問」を解説します。

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