宗教を論じる多くの人が宗教を本質的な問題とせず自らの理解に基づく確固つきの「宗教」についておしゃべりをする。そのようないなしかたがあるのは理解できる、くさしたいわけではない。
2009-11-02 10:54:56@edouard_edouard 自らの理解に基づく「宗教」以外の「本質的な」宗教なんて存在するの?各自が宗教という物語にめいめい読み込みたいものを勝手に読み込んでいる、だから他者のリアリティを尊重したいならばその人の信仰行為自体を軽んじるなというならばわかるけれど
2009-11-02 11:10:00宗教に対して傾けてる熱意の多寡によって宗教に対する理解の深さ=宗教に関して自分が紡いだ物語の豊かさや精緻化の度合いが異なってくる、だから豊かさや精緻化の程度が高い者が低い者を「軽々しく宗教語るな」とする批判はありうるかもな。でもそれは宗教の「本質」とは関係がない。熱意と誠実さの話
2009-11-02 12:03:13神学は宗教の「本質」を客観的な手続きにてあきらかにしようとする。だがその「本質」はその宗教を信仰している者にとっては存在するだろうけれど非信仰者の私にとっては無に等しい。つまり客観的実在物ではない。宗教がもつ制度体や歴史的史実や現実世界への影響力→科学の対象としての宗教外の本質
2009-11-02 12:04:14「私にとってそれが何であるか」という一人称的な宗教の本質→各自バラバラだけれど完全に知りえないのだから「宗教の意味するところがズレでいるかもな」という尊重必要。私とあなたで共有する二人称的宗教→同様。三人称的宗教の本質→その宗教がそれまで築いてきた歴史?制度としての宗教?神学?
2009-11-02 12:04:47宗教を自らの本質的な問題として生きる、ということは社会的にみれば狂気だろうな。誠実さでもなんでもなく、宗教というもの、端的に言えば神に襲われてしまうことがある人にはあるのだろうな。
2009-11-02 13:49:41当人にあっては物語の豊かさも精緻さも何の意味も持たない、といっていいのだろうか、な。「非信仰者」の前に宗教はないよ、そしてしかし実はあるよ。
2009-11-02 13:51:45ようし、放言。これはどちらの側からも浅慮、傲慢として非難されるべき言葉だろうな、が、言ってみる。僕は八木をちょっと生きてみようとしている、とゆうかそのような仕方で八木から世界を見るような形で彼の著作を開いている。
2009-11-02 13:54:10又吉イエスの狂気もみえないわけではない。そしてそこでは異言を叫ばされるほかないような場所であって、「宗教」だの「神学」だのの言葉はどっか別の世界の話。でそれがいけないとか誠実でないとかうんたらかんたらではない。ああ世界が違うなと遠目にぼんやり。帰りたいぜ、うう、なんてこともない。
2009-11-02 13:56:12でもっというと、又吉イエスワールドは実はうっすらと君の生活圏を覆っている、というか底にあるのはそれかもよ、といった狂気。申し訳ないけど、まあ、じゃあこれを狂気と呼ぶとして狂気に人は勝てないよ。放言おわり。
2009-11-02 13:58:07@edouard_edouard 「非信仰者」の前に宗教はないよ、【そしてしかし実はあるよ】というのはどういう意味において?これは批判でも論駁したいわけでもなく、純粋に、わからなくて。自らの本質的な問題として生きる存在を誰もが持っている―たとえば恋人であれ仕事であれ―ということ?
2009-11-02 14:01:02@genxx ただ、genxxさんのtwitterに触発されてつぶやいたことは事実であり、その流れでgenxxさんへの「くさし」と映ることは充分想定できました。そうした仕方で、僕は僕の大好きなgenxxさんに「くさし」のようなものをぶつけたい、とは思っていませんでした。
2009-11-02 14:01:44@genxx いえ、難しいのですが、八木の内側から世界を見た場合に、「非信仰者」に既に常に神というはたらきははたらいているように映る、といって不十分なのですが、これを「信仰者」が勝手につくりあげた「前提」と棄却できるとも、僕は思うのですが
2009-11-02 14:05:21@genxx すみません、もう少し、考えてみます。そしてこの「考えてみます」というのは、僕にぼんやりとできてしまった八木への回路、それはつまり(放言すれば)イエスへの回路を通じて見え、感じれるものを言葉にしてみたいと思います、ということです。
2009-11-02 14:06:47@edouard_edouard 了解です。そして「くさし」だと思っていないし「くさし」であろうと言葉をぶつけるべき仲であると思うので、その点は気にせずに。
2009-11-02 14:10:03@edouard_edouard 非信仰者である自分にとっては、1.宗教は実存的には(≒避けがたい生の問題としては)無に等しい、2.宗教という現象を機能的に把握することはできる(たとえば宗教が社会で果たしている役割、認知的・進化的起源など)
2009-11-02 14:11:45とゆうか単純にgenxxさんにかまってもらえて嬉しい。しばらく音信不通だったので、ああ、こんなくねくね野郎はやっぱ嫌われてしまっただろうか、と思っていたりした。まあ、相変わらずくねくねしてはいるが。
2009-11-02 14:13:27@edouard_edouard でも3.避けがたき生の根拠を負わせることができる存在がたくさんあるなかで、なぜ宗教でなくてはならないのか、なぜイエスその人でなくてはならないのか、更にいえば@edouard_edouardにとってはなぜ「八木を通したイエス」でなくてはならないのか
2009-11-02 14:14:02@edouard_edouard 4.生の根拠を負わせる存在が「八木を通したイエス」「イエス一般」「その他の宗教」「恋人」「仕事」「息子」になってしまうとき、それぞれ一人称的な意味で・二人称的な意味で・三人称的な意味で(科学の問題として)どう異なってくるのか、とか。
2009-11-02 14:15:56「これを「信仰者」が勝手につくりあげた「前提」と棄却できるとも、僕は思うのですが」、と、これは「が」でつながれる。で、言葉に降ろす努力を放棄して(これは非常に「不誠実」なことだ)、あえてものを言うとすれば、それ以上は語れないんだってば!、いや、違うな、違う。
2009-11-02 14:17:41@genxx 応答になっていないかもしれません、くさしでもありません、3.について、「ほんとうにそのような存在はたくさんありますか」「それは選べるような仕方であなたの前に並びましたか」「<○○でなければならない>というのが物語以上のなにかであることはありますか」
2009-11-02 14:25:10「xのため、のxは、具体的な顔を持った存在以外にはあり得ないという自分の「思想」」、ああ、えっとこう単純にいっては誤りなのですが、ええ、イエスは具体的な顔をもって、そこに立っているのでしょう(八木の目から見た世界においては)
2009-11-02 14:27:24@edouard_edouard 少なくとも、家族も恋人も仕事も「物語以上のなにか」であるのは間違いないし、どれか一つでも失うことで決定的に生は喪失されるし、選ぶ必要がないと思っている、という感じかなぁ。(生の根拠は創発特性でありひとつに還元できない=選択できない)と思っている
2009-11-02 14:28:25@edouard_edouard こういう尋ね方は今のecoleちゃんに対して配慮に欠けるかもしれないけれど、(かつての)ランボオがそれなりにecoleちゃんの想いに応じて具体的なインタラクションと持続的で濃密な応酬が続いていたら「八木を通したイエス」はどうなっていたのだろう。
2009-11-02 14:31:33東京で 回文 よみながら 脳と ことばと 音楽と 意識について 研究しています/おもえ 曙光の ときを!/SYNAPSE by academic groove 編集・企画 http://www.synapse-academicgroove.com/ゆるふわモテ形而上学研究会