3月はあまりいい月ではなかった。
どうにか浮上した、と思うと良くない出来事がある、という繰り返しで、(これがあと少し続いたら持ち直せないことになる)と明確に予測ができた。
「ママー!! 頑張るんだよほ」
その間、バジルだけが私の癒しだった。
変わらず夫や娘も大切なんだけど、それぞれが大きな課題を抱えていて、余裕がなさそうで。
なんでこんなに重なるの!?と不思議に思うほどだった。
「春っていいよね🌸」
お散歩に出て、揺れる背中を眺めてるのがしみじみ幸せだった。
でも心が疲れてきているのでその幸せすらも簡単に取り上げられそうで怖かった。
そういう思いにとりつかれたとき、いつもいつも前に暮らしていたシドニーのことを思い出した。
「わたちがシドニーよ😃」
彼女は本当に良くできた女の子で、きれいに私たちの前からいなくなってしまった。
15年も一緒にいたのに、私は29歳から一緒にいたのに、幻みたいに現実味がない存在になっている。
今も写真を探したら、携帯のなかに2枚しか写真がなかった。
なくなったあと、つらかった。
会いたくて 会いたくてあちこち探しに行った。
ご飯が食べられなくなって、かといって、静かにいなくなっちゃったので後悔とかもなかった。
ただ、会えないことが不思議で苦しかった。
「ちょっとなに言ってるかわかんない🌀」
なるべく当時の気持ちをちゃんと表したいんだけど、無理だ。
彼女がなくなって1か月が過ぎた。
祥月命日だった。
私は庭に出て洗濯物を干していた。
その日も会いたくて苦しくて泣かずにはいられなかった。
マンションの1階の我が家はリビングと娘の部屋から庭に出られるようになっている。
カーテンの見える所が開けられるようになっていて、それ以外ははめごろしの窓だ。
私は写真の花台の向かって左に立っていた。
すると後ろからツンと私の足になにかが当たった。振り替えると…
バランスボールだった。
あんな狭いところからリビングのなかを転がって庭に出てきたとはすぐにはわからず
「え、なんで?」と声が出た。
シドニーはバランスボールに乗ってストレッチをしていたのだけど、再びバランスボールに乗って私のところに来たのだ、と思い至った。
その他にも庭に黒い猫が入ってきて、窓からリビングを覗いたり、というのもあった。
私は2、3回しか見てないが、娘が春休みで一人で家にいるときは毎日来ていたという。
夫は一度も見ていない。
私はその黒い猫もシドニーだと確信している。
「そんな猫、いませんけど」
私がいま落ち込んでいるのは、人が必ず死ぬのだという事実を目の前にえぐりだされているせいだ。
ほとんどの人はその事実を受け入れるまでに、体はもちろん、心も苦しむ。
でも、犬はそれを飄々と受け入れ、乗り越え、死んだあとも私たちをとても愛していた、と知らせてくれる。
一緒に暮らした者として、その姿勢から学ばないのは情けない。
「ぼくだってそのうち教えてやりますよ?」
そんな日はまだまだ先でいい。
いっぱいお散歩へ行こうね!