『悪は存在しない』
2024年05月24日
舞台は、東京の芸能プロダクションからグランピング場開発計画を持ち掛けられた長野県の架空の町・水挽町。
主人公は、三世代に渡りそこで暮らし続けている男・巧。
妻はおらず、娘・花とふたり、山奥の居心地がよさそうな戸建てに住む。
生業は便利屋。
だが、丸太を割って薪を作り、移住者の生活をサポートする以外の描写はなく、発する言葉も少ないことからその生態は謎に包まれている。
自然を尊重し、都会からの移住希望者は拒絶するでもなくおだやかに受け入れ、開拓と保護のバランスを巧みにとって続けられてきた水挽町の静かないとなみは、グランピング場開発のための地域住民説明会のマイク音で破られることとなる。
と、いう話が美しい大自然を背景に淡々と描かれる本作。
自然さいこう、業界人さいてい、というわかりやすい善悪ものではなく、排他的な田舎こわい、無知な都会人かわいそう、という胸くそホラーでもなく、しかしただただおだやかでやさしい映画なのかと言ったらむしろ真逆で、澄んだ水とおいしい空気と肌によさそうなナイマスイオンが漂っているはずなのに、とにかく頭からしっぽまで不穏さがぎっちぎちに詰まっていうという不思議な映画だったのでした。
不穏さは映画のクライマックスに、誰も予想できないような凶暴さとともに爆発し、それまでの展開を「監督のメッセージはじゅうぶん伝わってきたぜ!おまえのハート、しかと受け取ったぜ!」と受け入れようとしていた観客が(心の中で)悲鳴をあげることに。
いったいあの行動はなんだったんだろう。
どうしてあんなことになってしまったんだろう。
悪は存在しない、の悪とはいったいなにを示すのだろう。
たくさんの「疑問」が浮かんではきえ、たくさんの「答え」が浮かんではきえていきました。
悪は存在しない。しないから。しないんだからね!マジでしないんだって!
(といわんばかりなNOTの存在感よ……)
何世代もこの土地に住み続けていて、土地のことならなんでも知っていて、東京から移住してうどん屋を開きたいという夫婦がいれば行って手伝いをし、生き物にも詳しく、区長さんからの信頼もあつい森の賢者みたいな主人公・巧。
正直わたしは、ほんとなのかよ?と思ってしまいました。
もちろんほんとはほんとだけど、知識もあるし経験もあるけど、賢者でもなんでもないふつうの男だったんじゃないの?と。
これはもう完全にわたしの決めつけですけどね、寡黙なおとこをあんまり信用していないんですよね、基本的にね。
いやちがう、寡黙はいいんです。 「かっこつけ」が見え隠れさえしなければ。
巧はきっと誰に対しても多くは語らなくて、言葉よりも態度でしめすタイプで、三世代の開拓者一族だから森にも精通しているから頼りになるもの事実で。
そこまではいいんす。そこまではいいですけど、言葉にしないとわからないことや伝わらないことがあるもの事実で。
劇中、「いない」とされている妻の存在。
はっきりと説明されませんし、ピアノの上に飾られた写真から亡くなったとみるのが妥当でしょうが、わたしは離婚、もしくは出て行ってしまったという「北の国から」パターンもあるんじゃないかと思うんですよね。
森で自然と対話しながらなによりも調和を重んじてストイックに暮らす。
多少の不便さは当然ある。
でも山だから。自然が相手だから。
困難とセットになった厳しい生活のなかで、全てのみ込んで生きてるオレかっこいい、と自己陶酔している部分がまったくないと言えるのか? 飲み込み切れていない同居者の苦労に対し、充分な感謝やねぎらいがあったのか?
少なくとも、花に対しての気遣いは足りていなかったようにしか見えなかったんですよね。
いや、すてきな関係性のようにも見えましたよ、ただ、決してうつくしく雄大なだけではない自然の中で幼い子どもを育てるにあたっての気遣いは、とうてい足りてないといわずにはいられない。
「自分、不器用っすから……」で寡黙さを美化するな。 それをやっていいのは、普段からやることはちゃんとやっている人か、肝心な時のフォローが万全な人か、高倉健だけだ。 言葉にしろ。 説明はしすぎるくらいにしろ。 気持ちはその都度つたえろ。 わかんないことは素直にわからんといえ。 寡黙な自分に酔うな。
どうしておまえはそこまで巧に厳しいんだ?
巧に村でも焼かれたのか? といいたくなった方もいらっしゃるでしょう。
まあね、焼かれはしなくても、あんな山奥のポツンと一軒家で学校からもめちゃ遠い環境にありながら、花ちゃんのお迎えを忘れてる時点で絶許案件まっしぐらなんですけどね。
わたしが巧にもっとも懐疑的となったのは、芸能プロダクション側の担当者・高橋と薫とのやりとりのシーンでして。
住民説明会で巧を含め、みんなからこてんぱんにされた高橋と薫。
東京に持ち帰り、社長とグランピングのコンサルに報告するも、すでにコロナ禍にともなう助成金を受け取っている彼らは計画を見直すつもりも中断するつもりもなく、巧をおだててグランピング場の管理人にでもなってもらえばコトがスムーズに運ぶんじゃないの?とクソバイスをぶちあげます。
再度交渉に向かう高橋は、実は自身もクソみたいな補助金ビジネスや芸能の仕事に嫌気がさしており、田舎でスローなライフしてえなあ!と弱音を吐く。
その流れのままおもむいた巧の仕事場で華麗な薪割りを見せつけられ、すっかり巧の寡黙芸に心酔してしまった高橋は、社長にうながされた「おだてる作戦」ではなく、自分自身の素直な気持ちから「グランピング場の管理人になってもらえませんか?」と問いかけるのですが、それをいわれた瞬間の巧の反射速度がすごかった。
「おれはそんなに暇じゃない」
光の速さで返される断りの言葉。
そして畳みかけるように放たれる、「それに金にも困っていない」
わたしはそれを、巧の防御反応だと思ったんですよね。
図星だった時の、それによって自尊心が傷つけられた時の。
で、あからさまにカチンときちゃってる巧を見て焦った高橋が、「いや違うんス!むしろオレが管理人をやりたいという気持ちがあるので、巧さんにはオレのスーバーアドバイザーになってほしいんス!、アニキからこの土地のすべてを学びたい!不肖タカハシにとってのメンターになってほしいんス!」と尻尾をふると、わりとすんなりご機嫌になるというね。
すげえじゃん。 完全にいい気持ちになっちゃってるじゃん。
うどんを食べ終わってみんなの伝票をスッと持っていく仕草、完全にもうアニキのそれじゃん。(その後レジで小銭が足りてなくて慌ててる姿のいたたまれなさよ……)
うどん屋さんから水汲みを依頼された時に高橋たちを連れて行く前提で引き受けてるの、完全にもう子分を引き連れている人のそれじゃん。
ひと仕事終わった高橋に「煙草吸う人?」と聞いてからの、おねだりムーブのかっこわるさといったらない。
結局巧は、うどん作りに欠かせないきれいな水を、手作業と徒歩で苦労して汲みだす経験を提供して、都会モンがふわっと抱いている「田舎すてき」的キラキラファンタジーを補強することに没頭しすぎて、またもや娘のお迎えを忘れてしまった、ただの自分酔いやらかし親父なんですよ。
森の賢者でもなんでもない。
それをいうなら、鳥の羽を拾いに野原に行ってきたという花に、「ひとりで行ったら危ないよ」と注意する区長の方が、よっぽど自然の恵みも脅威も知り尽くした賢者なんですよ。
グランピング場予定地が鹿の通り道であると薫に説明する巧。
「ただし鹿は人を襲わない」
「絶対に?」
「絶対襲わない」
「マジでマジの絶対に?」
「……まあ、手負いで子連れだったりしたらあるかもだけど……」
そんなやりとりが現実となるクライマックス。
迎えがなかったせいでひとり下校した花は家に戻ってこず、町の住民総出で野山を捜索しますが見つかりません。
ほうぼう探した末に、以前花が鳥の羽を集めていた野原に行きついた巧と高橋。
視線の先には静かに佇む花と、対峙する鹿の親子。
賢者として「絶対にない」と断言した状況が、レアケースとはいえ発生してしまった。
しかも終始アニキとしてドヤっていた都会モンの目の前で。
この時の巧の心境を言い当てられる自信は、わたしにはないです。
ただ、映画では「鹿の危険性を知らされていたので、花に駆け寄ろうとする高橋と、それを制止する巧」や、「なお振り切って花を助けようと・もしくは鹿を追い払おうとする高橋と、彼を羽交い絞めにして止める巧」や、「一心不乱に締め上げている間に高橋は意識を失い、花も鼻から血を出して倒れていた」ことだけが描かれ、そこから想像するしかない。
花の安否を、高橋の生死を、巧の真意を。
パニックになっていたのかもしれない。
まずありえないと断定していた、「手負いで子連れの鹿が人を、よりによって自分の娘を襲おうとしている」状況に。
都会モンから尊敬のまなざしを向けられていた、森のことならなんでも対処できる賢者としての地位が揺らぐ瞬間に。
自分が信じて大切にして調和もとれていると思っていた自然から、牙を剥かれた現実に。
いけると思ったのかもしれない。
もしかしたら、自分よりも森と一体化していたように見える花なら、鹿と一戦交えずに済むのではないか。
目と目で会話して上手にやり過ごすか、下手したら鹿とわかりあっちゃって、手当とかし始めちゃうのではないか。
だから高橋くん、ちょっと手を出さないで。
賢者の娘として、前人未到の異種間コミュニケーションを成し遂げようとしている花の邪魔をしないで。
そう思ったから制止したのか。
だがしかし、高橋くんも必死だからアホな父親に代わって子どもを救おうと全力で抵抗しますよね、巧も巧で本気ですよね、無我夢中で締めますよね、ワンパンで丸太を割るような男が手加減なしで行きますよね、死にますよね、死ぬんか???!!!!
気がつくと、都会モンは泡を吹いて倒れており、鹿は消え、娘は動かなくなっている。
この時の巧の表情が、わたしには「動揺」に見えたのですよ。
自然を知り尽くしてなどない、思慮深くもない、特別でもなんでもないふつうの男が、ふつうにしくじった時の動揺。
殺してしまったのか?死んでしまったのか?ふたりを死なせてしまったのか?
花に近づき呼吸を確かめた巧は、娘のからだを抱き上げ森に飛び込む。
まるで助けを求めるように、急げばなにかに間に合うように、急いでなにかから逃げるように、黙々とに駆ける巧。
画面に映るのは、冒頭と同じように空を仰いだ森の木々。
どうか花の視線であってほしい。
父に抱かれた花の瞳にうつった景色であってほしい。
だって、このすばらしい森に悪なんて存在してはいけないから。
賢者とおだてられて自然をなめてて娘のお迎えを忘れた自分も悪なんかじゃないから。
鹿にとどめをさしそこなって、手負いのまま逃がしてしまった猟師も悪なわけじゃないから。
ましてや鹿さんも悪じゃないから。
なにもかも悪なんかじゃないんだから、花が死ぬわけはない。
悪なんて、この大自然に存在しないから、だから花はもとに戻る。
この森を抜ければ、きっともとに戻る。
巧の息遣いを聞きながら、わたしはそう願っていました。
悪は、存在しない。 絶対に。
ということで、結論からいうと悪は存在しないけど巧はアホ。 カムバック花ちゃん。
薫が男たちのいろいろな面を冷静に見ていたところがとてもおもしろくて、「こいつ薄っぺらいなぁ」とか「わかりやすい性格してんなぁ」みたいな感じで観察してたんじゃないかなぁと思いました。
きっといろいろ感じるところはあったんでしょうね、薫には。 巧に対しても、高橋に対しても。
転職先では、もっと本領が発揮できるといいですね!
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妻はおらず、娘・花とふたり、山奥の居心地がよさそうな戸建てに住む。
生業は便利屋。
だが、丸太を割って薪を作り、移住者の生活をサポートする以外の描写はなく、発する言葉も少ないことからその生態は謎に包まれている。
自然を尊重し、都会からの移住希望者は拒絶するでもなくおだやかに受け入れ、開拓と保護のバランスを巧みにとって続けられてきた水挽町の静かないとなみは、グランピング場開発のための地域住民説明会のマイク音で破られることとなる。
と、いう話が美しい大自然を背景に淡々と描かれる本作。
自然さいこう、業界人さいてい、というわかりやすい善悪ものではなく、排他的な田舎こわい、無知な都会人かわいそう、という胸くそホラーでもなく、しかしただただおだやかでやさしい映画なのかと言ったらむしろ真逆で、澄んだ水とおいしい空気と肌によさそうなナイマスイオンが漂っているはずなのに、とにかく頭からしっぽまで不穏さがぎっちぎちに詰まっていうという不思議な映画だったのでした。
不穏さは映画のクライマックスに、誰も予想できないような凶暴さとともに爆発し、それまでの展開を「監督のメッセージはじゅうぶん伝わってきたぜ!おまえのハート、しかと受け取ったぜ!」と受け入れようとしていた観客が(心の中で)悲鳴をあげることに。
いったいあの行動はなんだったんだろう。
どうしてあんなことになってしまったんだろう。
悪は存在しない、の悪とはいったいなにを示すのだろう。
たくさんの「疑問」が浮かんではきえ、たくさんの「答え」が浮かんではきえていきました。
悪は存在しない。しないから。しないんだからね!マジでしないんだって!
(といわんばかりなNOTの存在感よ……)
何世代もこの土地に住み続けていて、土地のことならなんでも知っていて、東京から移住してうどん屋を開きたいという夫婦がいれば行って手伝いをし、生き物にも詳しく、区長さんからの信頼もあつい森の賢者みたいな主人公・巧。
正直わたしは、ほんとなのかよ?と思ってしまいました。
もちろんほんとはほんとだけど、知識もあるし経験もあるけど、賢者でもなんでもないふつうの男だったんじゃないの?と。
これはもう完全にわたしの決めつけですけどね、寡黙なおとこをあんまり信用していないんですよね、基本的にね。
いやちがう、寡黙はいいんです。 「かっこつけ」が見え隠れさえしなければ。
巧はきっと誰に対しても多くは語らなくて、言葉よりも態度でしめすタイプで、三世代の開拓者一族だから森にも精通しているから頼りになるもの事実で。
そこまではいいんす。そこまではいいですけど、言葉にしないとわからないことや伝わらないことがあるもの事実で。
劇中、「いない」とされている妻の存在。
はっきりと説明されませんし、ピアノの上に飾られた写真から亡くなったとみるのが妥当でしょうが、わたしは離婚、もしくは出て行ってしまったという「北の国から」パターンもあるんじゃないかと思うんですよね。
森で自然と対話しながらなによりも調和を重んじてストイックに暮らす。
多少の不便さは当然ある。
でも山だから。自然が相手だから。
困難とセットになった厳しい生活のなかで、全てのみ込んで生きてるオレかっこいい、と自己陶酔している部分がまったくないと言えるのか? 飲み込み切れていない同居者の苦労に対し、充分な感謝やねぎらいがあったのか?
少なくとも、花に対しての気遣いは足りていなかったようにしか見えなかったんですよね。
いや、すてきな関係性のようにも見えましたよ、ただ、決してうつくしく雄大なだけではない自然の中で幼い子どもを育てるにあたっての気遣いは、とうてい足りてないといわずにはいられない。
「自分、不器用っすから……」で寡黙さを美化するな。 それをやっていいのは、普段からやることはちゃんとやっている人か、肝心な時のフォローが万全な人か、高倉健だけだ。 言葉にしろ。 説明はしすぎるくらいにしろ。 気持ちはその都度つたえろ。 わかんないことは素直にわからんといえ。 寡黙な自分に酔うな。
どうしておまえはそこまで巧に厳しいんだ?
巧に村でも焼かれたのか? といいたくなった方もいらっしゃるでしょう。
まあね、焼かれはしなくても、あんな山奥のポツンと一軒家で学校からもめちゃ遠い環境にありながら、花ちゃんのお迎えを忘れてる時点で絶許案件まっしぐらなんですけどね。
わたしが巧にもっとも懐疑的となったのは、芸能プロダクション側の担当者・高橋と薫とのやりとりのシーンでして。
住民説明会で巧を含め、みんなからこてんぱんにされた高橋と薫。
東京に持ち帰り、社長とグランピングのコンサルに報告するも、すでにコロナ禍にともなう助成金を受け取っている彼らは計画を見直すつもりも中断するつもりもなく、巧をおだててグランピング場の管理人にでもなってもらえばコトがスムーズに運ぶんじゃないの?とクソバイスをぶちあげます。
再度交渉に向かう高橋は、実は自身もクソみたいな補助金ビジネスや芸能の仕事に嫌気がさしており、田舎でスローなライフしてえなあ!と弱音を吐く。
その流れのままおもむいた巧の仕事場で華麗な薪割りを見せつけられ、すっかり巧の寡黙芸に心酔してしまった高橋は、社長にうながされた「おだてる作戦」ではなく、自分自身の素直な気持ちから「グランピング場の管理人になってもらえませんか?」と問いかけるのですが、それをいわれた瞬間の巧の反射速度がすごかった。
「おれはそんなに暇じゃない」
光の速さで返される断りの言葉。
そして畳みかけるように放たれる、「それに金にも困っていない」
わたしはそれを、巧の防御反応だと思ったんですよね。
図星だった時の、それによって自尊心が傷つけられた時の。
で、あからさまにカチンときちゃってる巧を見て焦った高橋が、「いや違うんス!むしろオレが管理人をやりたいという気持ちがあるので、巧さんにはオレのスーバーアドバイザーになってほしいんス!、アニキからこの土地のすべてを学びたい!不肖タカハシにとってのメンターになってほしいんス!」と尻尾をふると、わりとすんなりご機嫌になるというね。
すげえじゃん。 完全にいい気持ちになっちゃってるじゃん。
うどんを食べ終わってみんなの伝票をスッと持っていく仕草、完全にもうアニキのそれじゃん。(その後レジで小銭が足りてなくて慌ててる姿のいたたまれなさよ……)
うどん屋さんから水汲みを依頼された時に高橋たちを連れて行く前提で引き受けてるの、完全にもう子分を引き連れている人のそれじゃん。
ひと仕事終わった高橋に「煙草吸う人?」と聞いてからの、おねだりムーブのかっこわるさといったらない。
結局巧は、うどん作りに欠かせないきれいな水を、手作業と徒歩で苦労して汲みだす経験を提供して、都会モンがふわっと抱いている「田舎すてき」的キラキラファンタジーを補強することに没頭しすぎて、またもや娘のお迎えを忘れてしまった、ただの自分酔いやらかし親父なんですよ。
森の賢者でもなんでもない。
それをいうなら、鳥の羽を拾いに野原に行ってきたという花に、「ひとりで行ったら危ないよ」と注意する区長の方が、よっぽど自然の恵みも脅威も知り尽くした賢者なんですよ。
グランピング場予定地が鹿の通り道であると薫に説明する巧。
「ただし鹿は人を襲わない」
「絶対に?」
「絶対襲わない」
「マジでマジの絶対に?」
「……まあ、手負いで子連れだったりしたらあるかもだけど……」
そんなやりとりが現実となるクライマックス。
迎えがなかったせいでひとり下校した花は家に戻ってこず、町の住民総出で野山を捜索しますが見つかりません。
ほうぼう探した末に、以前花が鳥の羽を集めていた野原に行きついた巧と高橋。
視線の先には静かに佇む花と、対峙する鹿の親子。
賢者として「絶対にない」と断言した状況が、レアケースとはいえ発生してしまった。
しかも終始アニキとしてドヤっていた都会モンの目の前で。
この時の巧の心境を言い当てられる自信は、わたしにはないです。
ただ、映画では「鹿の危険性を知らされていたので、花に駆け寄ろうとする高橋と、それを制止する巧」や、「なお振り切って花を助けようと・もしくは鹿を追い払おうとする高橋と、彼を羽交い絞めにして止める巧」や、「一心不乱に締め上げている間に高橋は意識を失い、花も鼻から血を出して倒れていた」ことだけが描かれ、そこから想像するしかない。
花の安否を、高橋の生死を、巧の真意を。
パニックになっていたのかもしれない。
まずありえないと断定していた、「手負いで子連れの鹿が人を、よりによって自分の娘を襲おうとしている」状況に。
都会モンから尊敬のまなざしを向けられていた、森のことならなんでも対処できる賢者としての地位が揺らぐ瞬間に。
自分が信じて大切にして調和もとれていると思っていた自然から、牙を剥かれた現実に。
いけると思ったのかもしれない。
もしかしたら、自分よりも森と一体化していたように見える花なら、鹿と一戦交えずに済むのではないか。
目と目で会話して上手にやり過ごすか、下手したら鹿とわかりあっちゃって、手当とかし始めちゃうのではないか。
だから高橋くん、ちょっと手を出さないで。
賢者の娘として、前人未到の異種間コミュニケーションを成し遂げようとしている花の邪魔をしないで。
そう思ったから制止したのか。
だがしかし、高橋くんも必死だからアホな父親に代わって子どもを救おうと全力で抵抗しますよね、巧も巧で本気ですよね、無我夢中で締めますよね、ワンパンで丸太を割るような男が手加減なしで行きますよね、死にますよね、死ぬんか???!!!!
気がつくと、都会モンは泡を吹いて倒れており、鹿は消え、娘は動かなくなっている。
この時の巧の表情が、わたしには「動揺」に見えたのですよ。
自然を知り尽くしてなどない、思慮深くもない、特別でもなんでもないふつうの男が、ふつうにしくじった時の動揺。
殺してしまったのか?死んでしまったのか?ふたりを死なせてしまったのか?
花に近づき呼吸を確かめた巧は、娘のからだを抱き上げ森に飛び込む。
まるで助けを求めるように、急げばなにかに間に合うように、急いでなにかから逃げるように、黙々とに駆ける巧。
画面に映るのは、冒頭と同じように空を仰いだ森の木々。
どうか花の視線であってほしい。
父に抱かれた花の瞳にうつった景色であってほしい。
だって、このすばらしい森に悪なんて存在してはいけないから。
賢者とおだてられて自然をなめてて娘のお迎えを忘れた自分も悪なんかじゃないから。
鹿にとどめをさしそこなって、手負いのまま逃がしてしまった猟師も悪なわけじゃないから。
ましてや鹿さんも悪じゃないから。
なにもかも悪なんかじゃないんだから、花が死ぬわけはない。
悪なんて、この大自然に存在しないから、だから花はもとに戻る。
この森を抜ければ、きっともとに戻る。
巧の息遣いを聞きながら、わたしはそう願っていました。
悪は、存在しない。 絶対に。
ということで、結論からいうと悪は存在しないけど巧はアホ。 カムバック花ちゃん。
薫が男たちのいろいろな面を冷静に見ていたところがとてもおもしろくて、「こいつ薄っぺらいなぁ」とか「わかりやすい性格してんなぁ」みたいな感じで観察してたんじゃないかなぁと思いました。
きっといろいろ感じるところはあったんでしょうね、薫には。 巧に対しても、高橋に対しても。
転職先では、もっと本領が発揮できるといいですね!
『#マンホール』
2023年02月12日
あらすじ・・・
社長令嬢との逆タマ結婚を翌日に控えたエリートサラリーマンがどこかの穴におちます。
映画の冒頭、「おもしろかったよ!ってSNSで拡散してください!ただしネタバレは絶対しないでください!」というお願いという名のかん口令が敷かれていましたのでいちおう書いておきますが以下ネタバレしています。気になる方はご鑑賞後にお読みいただけるとさいわいです。
マジなのか・・・?
日本で本格的なシチュエーション・サスペンス映画が作られるなんて、それはそれはとても喜ばしいことであります。
ということで、全力でべた褒めしていく気満々で劇場に向かったのですが、実際観てみると「2分に一度ピンチが訪れる」というよりは「2分に一度“マジなのか・・・?”とつぶやきたくなる」ような作品でしたので、(わたしの)感動が新鮮なうちにその胸の内を書き記しておこうと思います。
聞いてください。 『#マンホール』、最低5回はマジで死ぬ。
■ 1回目「落ちて死ぬ」
主人公の川村さんは不動産会社のエリート営業マン。
社長令嬢をはらませたおかげで逆玉の輿の座も射止めたラッキーな男ですが、挙式前夜に会社のみんなからお祝いされた帰り道、突然意識がもうろうとし、気づいたら知らない穴に落っこちていました。
穴の直径は約1.5メートル。
深さはおよそ3メートル。
いや、死ぬぞ。 落とし穴なめてんのか。
意識がある状態でも普通に着地したら足にダメージを負う深さなのに、意識がほぼない状態で落っこちて擦り傷だけってありえますか。ありえませんね。 つまり、おまえはもう、死んでいるのだ。
■ 2回目「出血が多くて死ぬ」
なあんて、ゴメンゴメン! 死んでなかったんだよね!
ホントになにがどうなってるのかさっぱりわからないんですけども、ふつうに寝落ちしてたくらいのニュアンスで目覚めてたですもんね! 骨の一本も折れてるかと思ったらそれすらない! じょうぶに生まれてよかった!
ただ、さすがに無傷というわけにはいかず、起き上がろうとした瞬間脚にはしる激痛。
落ちる最中、穴の壁に渡してあった梯子で太ももに大きな創傷が。
しかもこの傷、血管に対して縦にズッパリ切れているらしく、なかからじゃんじゃん血が流れ出てきます。
ネクタイで傷の上部を縛り上げてしばらく経ちましたが、止血には至っていない模様。 噴き出し方からみて動脈ではなさそうですが、静脈だって太いんだから血が出続けりゃあ死にます。 そうです、おまえはもう、死んでいるのです。
■ 3回目「毒泡で死ぬ」
断定すんなって!そんな簡単に人は死なないし、もうホッチキスで傷を縫合したから心配もねえんだよ!
そうなのです。 ラッキーな川村さんは友人運にも恵まれていたようで、救援を求める鬼電に誰一人返答しない中唯一折り返してくれた女性がなんと医療関係者だったおかげで、電話越しに救急措置を教わり、たまたま持っていた筆箱の中にたまたまホッチキスがあったため一命をとりとめたのでした。
このホッチキスのシーン、「ホッチキスあったんか!」「ああ・・でも医療用のホッチキスじゃないんだよね・・・うーん・・どうだろ・・」という女性サイドの妙にリアルな逡巡がよかったですね。 ふつう持ち歩いてねえだろ!医療用のホッチキスは!
というか、ふだんダクトテープやホッチキスや火薬などが医薬品扱いになっている映画を観すぎているせいで、川村さんと女性がどうして迷っているのかわからなくなるというねじれ現象が起こっていました、わたしに。 ごめん、そこは迷ってもいいかもしれない。
傷も治ったし(治ってはない)、あとは救助を待つだけといきたいところの川村さんでしたが、なぜかGPSは誤作動を起こし、誰にも自分の正確な居場所を知らせることができません。
ヤケを起こして床にあったブロック片を投げつけると、むき出しの配管にあたりそこからガスが漏れ出て咳き込む川村さん。
死ぬのか? ガスでおだぶつなのか?
いえいえ、そんな荒唐無稽なことがあるものですか。 穴の上部は開放されているのですから、少々ガスが下にたまったところで中毒死なんて・・・クスクス・・・んなアホな・・・ ねえ?・・・いやですわ・・・アホなのか・・・
配管の割れ目をたまたま持っていた(略)セロテープで塞いでいっちょ上がり。
果たしてセロテープごときでガスが抑えられるのか? という疑問はなきにしもあらすですが、抑えられたんだからしょうがないじゃないか!
問題はガスじゃないんです!
問題は、穴の底に空いていた横穴からチョロチョロと流れ込んでいた泡(有害物質)が、知らない間にめちゃくちゃ増えていたことなのです!
詳しい成分は明かされませんが、たぶん有害なんです。
イメージとしては『バットマン』でジョーカーが落ちたようなアレです。
最初のうちこそ、そんな有害なやつを傷につけようものなら即死間違いなしという危機感のもと、身を縮めて泡から距離をとっていた川村さんでしたが、なんやかんややっているうちにそこいらじゅう泡(有害物質)だらけになって、傷はおろか目にも口にも顔全体にもつきまくりの浸透しまくり。
わたくしどもとしましても、いつ顔が融けだすのか、いつ酸の海に足が浸かったナウシカみたいなことになるのかと、一日千秋の思いで見守りたい所存であります。 さようなら、川村さん。 出来れば最後は泡の中から半分融けた状態で、片目をポロッとはみ出させ、あちらこちらから骨をチラ見せしながら一回ザバーッと飛び出してほしい。 それがロマンというものなのだから。
■ 4回目「ガス爆発で死ぬ」
バカいってんじゃねえっつうの。 天下のジャニーズ事務所所属タレントが目玉なんかはみ出させるかっつうの。
泡に包まれ万事休すの川村さんでしたが、機転を利かせセロテープに手を伸ばします。
そう、ガスを抑え込んでいたあのセロテープです。
ほどかれたセロテープの隙間から勢いよく噴き出すなんらかのガス。
ほどよく充満した瞬間、川村さんは手に持っていたライターを点火。
すさまじい爆音とともに、穴から間欠泉のごとく噴きあがる泡柱。
泡の脅威はたしかに去った。 しかし川村さんよ、充満したガスに火をつけるということはすなわち、その爆風を一身に浴びることでもあるのではなかろうか。 衝撃と熱と炎からの逃げ場などあるはずがない。なぜならそこは、地中深くあいた穴なのだから。
追い詰められた人間は思いもよらない行動をとることがある。 これはそのいい例である。 ガスに火をつけたらボカンとなる。 君から得た教訓を、ぼくらは忘れやしないだろう。 川村俊介、安らかに眠れ。
■ 5回目「落ちて死ぬ」
Q.海は死にますか、山は死にますか、ガス爆発をもろに浴びた人は死にますか。
A.死なないこともあります。
もちろんそうですとも。 雨ニモマケズ、爆風ニモマケズ、ガスニモ毒泡ニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ、ときどき癇癪を起こす、そんな川村さんに不可能などないのです。 なんてったって、さっきのアレは泡を吹きとばすためだけのアレですから。 でんじろう先生のダンボール空気砲みたいなものですから。
ガスの脅威も泡の危機も無事回避したものの、依然現在地は不明なままの川村さん。
しかし、怪我の功名というべきか瓢箪から駒というべきか、なんと爆風でむき出しになった穴の底からミイラが顔をのぞかせたではありませんか。
このミイラこそ、川村さんがこの穴に落ちた本当の理由。 いや、落とされた本当の理由。
すべてを悟った川村さんは、医療関係者の女性に自分の現在地を教えます。
ここは自分が罪を背負った場所。
今の自分を生み出すために、別の自分を葬った場所。
なにを隠そう川村さん、本当は吉田さんという名前のパッとしない男性で、工場勤務から一流不動産会社へ華麗なる転職をキメ込んだ川村さんを殺し、そっくりな見た目に整形を施すことで本人に成り代わっていたなりすましだったのです。
10年前に殺した川村さんには恋人がいました。
恋人だった折原さんが吉田さんの正体に気づいたのが先だったのか、廃校になった母校のマンホールの底に遺体を見つけたのが先だったのか、ともかく彼女は犯人の自白を誘い、同時に復讐も果たすため吉田さんを穴に落とし、奪われた愛する人の顔を取り戻そうとした。
一度穴から助け出された吉田さんは、襲い掛かる折原さんと格闘になり、なりすましの犯人らしい卑怯な作戦で一度は優位に立ちますが、彼女に思わぬ助っ人が現れたことで再び穴へと落ちてゆく。 しかも今回は頭から真っ逆さまです。 傷を負った状態で受け身も取れずに真っ逆さま。 んなもんポキ~でしょ。 首の付け根から真横にポキ~でしょ。 さもなくば『女優霊』ばりの開脚でしょ。 今度こそ死んでくれ。 川村俊介、もとい吉田よ、わたしの中のリアリティラインを最後の最後でなんとか保つため、ここはひとおもいに死んでくれ。
■ 死んでなかった
まあそれでも死なないのが吉田なんですけどね!
ということで、ワンシチュエーションに緊張感を持たせ続けることやありえない話をありえはしないけどふつうにこわい、と感じさせることの難しさを再認識させられた『#マンホール』。
全編出ずっぱりで大変な目に遭い続ける主人公を全力で演じ、天下のジャニーズ事務所所属タレントとは思えないほどのクズ演技(演技がクズなのではなくクズな人の演技)を存分に見せつけてくれた中島裕翔さんは見事でしたし、目玉ポロリもあるといえばあった。ある意味本人だった。よしとしよう、よしとしようではないか皆の衆。
上の文章にはいっさい登場しませんが、本作の大きな見せ場はSNSを駆使した主人公のサバイバル術であり、
「穴に落ちた→友達に電話繋がらない→警察呼びたくない→せや!ツイッター(実際はツイッターを模した架空のSNS)で捨て垢つくって拡散したろ!」
という流れるような所作からは吉田青年のツイ廃度が垣間見えて草がもりもりはえるところですね。
とはいえ、いきなり作ったあからさまな捨て垢をバズらせようだなんて、ツイッターの現実を知らな過ぎてさっきはえてた草がもう枯れますし、いくら有名人に捕捉されたからといってあんな夜中の一時間やそこらでフォロワー数千人も増えるわけないだろ!そんな簡単じゃねえんだよ!ふざけるのもたいがいにしろ!こっちはバズりに命と株価かけてんだよ!とどこかのCEOが顔を真っ赤にして怒っていそうです。
もちろん実際、ふとした出来事をネットに投げかけ、そこに寄せられた集合知が謎を解いたり、問題を解決したり、創作実話をガセであると見抜いたりすることはありますし、時々思い出したようにツイッターで開催される「きさらぎ駅もどき」の催し物も、はたから見ている分にはとても楽しいものであります。
きっと本作も、そういうノリをサスペンスに交わらせることで現代っ子(と一部のツイ廃)の共感を得ようとしたのではないでしょうか。
わざわざ垢を女性名義にすることで同情を誘おうとする主人公や、かわいい自撮り風アイコンにつられ予想通りホイホイと寄ってくるユーザー、救出よりも容姿いじりに夢中になるユーザーや、ひとりよがりな正義に酔うユーザーなどの描写ははずかしくて見ていられないほどリアル。
惜しむらくは、そのリアルなSNSのやりとりがあくまで「ツイッターあるある」にとどまっており、緊迫感を盛り上げるほどではないことでしょうか。
宣伝文句として「2分に一度ピンチが訪れる」とありましたが、まぁ多少盛ってるとか多少どころじゃなく盛ってるとかいうのはさておき、そんな頻繁でなくていいので、もうちょっと主人公がどうにもならないほどの苦痛や絶望を味わうようなピンチを用意して、なおかつそれを鮮やかな手法で回避してくれるシーンがあればもっとハラハラできたのになぁ・・と思いました。 少なくともガス爆破じゃない。 地面がくずれて、埋まっていたミイラが出てくるほどの爆破をノーガードで受けるのは、それは鮮やかとはいえない。
「これはほんとうにマジでやっているのか・・・?」と、いちいちアンニュイな気持ちにさせないでほしい。
最後にシークレットキャストで登場する黒木華さんが、出てきた瞬間とんでもなく作品を引き締めていて、救われたようなもったいないような不思議な気持ちになりました。 (まぁ、その後で出てきた少年で台無しになっちゃったんですけどね。あいつに永山絢斗さんが倒せるのか?無理やろ)(そういうとこです)
『ヘルドッグス』
2022年09月22日
あらすじ・・・
元警官がヤクザ組織に潜入します。
深町秋生さんによる人気バイオレンス小説「地獄の犬たち」が映画化される。 と聞いた時は心が躍りました。
しかも主演は格闘技を極めし「アイドル」として有名だった岡田師範こと俳優・岡田准一さん。
こんなもん、期待するなというほうが無理というもの・・・
しかし一方、原作小説には深町印とでも呼びたくなるような、陰惨極まりない暴力や拷問、人の心を破壊してゆく無情な展開がてんこ盛り。
我々は原作のそれを愛しているがゆえに、はたして日本の映画界がどこまでこの世界観を表現できるのかという不安を抱きました。
そして、今日、ついに映画を観てきて、わたしはおおいに胸をなでおろしたのでした。
まあね・・・ まあ・・・ ま、そりゃカットするわな・・・!
(※ キャラクター紹介PV。 ナイスなセンスが光るキャスティング)
(※ 以下原作含めネタバレしています)
まずは原作で現役警官だった主人公兼高が元警官に変更。
まあね・・・ 潜入捜査ものとはいえ、現役をうたった警官がヤクザになって殺し拷問なんでもござれってのはマズいですよね・・・ いちおう法治国家ですからね・・
そして元力士や元レスラーなど、実際みんなうすうすは感じているけどはっきりと反社との関係を描くわけにはいかない部分もカット。
まあね・・・ 元ボクシング世界チャンピオンで暴力団関係者とかふつうにいましたけどね・・・ そもそも「興行」ってそういうシノギだったわけですし・・・ ただまあマズいかもしれないですよね・・・いろいろと・・
潜入捜査官(現役警官)がヤクザのトップになってるし、なんだったら次のトップも現役警官にさせて、警視庁が関東ヤクザを牛耳ろうとするというくだりも省かれていましたね。
いやいちおうね・・・ 現トップが実は潜入捜査官だったというタネ明かしはありましたが、えらくあっさり流されていましたよね・・ まあそこあんまり深堀りしないほうがいいもんね・・・ いちおう法治国家ですからね・・
なにより、原作で一番むごくて一番壮絶だった、警視庁組織犯罪対策部の阿内とその家族の拉致監禁エピソードがバッサリいかれていたのは、もう納得も納得も超なっとくですよ。
いやぁ~、むりむり! 岡田師範主演の映画で「さらってきた小4の女の子とその母親を裸にむいて、その目の前で父親を拷問し、さらには女の子への性的拷問未遂」なんかできるわけないって!!! っていうか誰が主演でもむりだって!! 今自分で書いててもどうかしてるって思いましたからね!
というわけで、倫理的にアウトと判断されたのか、もしくは日本の商業映画としては無理と判断されたのか、わたしが不安に感じていた部分はほぼ取り除かれ、その分岡田師範がいかに強く、いかに頼れて、いかに面倒見がよくて、いかにかっこよくて、いかに無精ひげが似合うかにリソースが割かれた結果、岡田師範史上最強の愛されヒロインが爆誕することに。
関東最大のヤクザ組織の会長・十朱(MIYAVIさん)は岡田師範の根性に惹かれ、
十朱の右腕である組長・土岐(北村一輝さん)は岡田師範の腕に惹かれ、
土岐の愛人・恵美裏(松岡茉優さん)は岡田師範の男っぷりに惹かれ、
制御不能のサイコボーイ・室岡(坂口健太郎さん)は岡田師範のなにもかもに惹かれるという、全方位モテが展開され、もはやバイオレンス潜入捜査ものを観ているのか別冊少女マーガレット連載の学園恋愛ものを見ているのかわからなくなってきます。
いや、わかるけど。
っていうか、「制御不能のサイコボーイ」ってすごいキャッチコピーですよね。
昭和のアイドルか! ちょっとエッチな美新人娘(ミルキーっこ)なのか!
最強のモテ力を手にした岡田師範とヤクザの面々とが織りなす恋模様。
恋模様といったら語弊があると思われるかもしれませんが、実際のところ、原作の時点でも強く描かれていたブロマンス要素が、映画では匂わせをさらに超え、強制的に嗅がせるぐらいのレベルでこれでもかと押し寄せてくるのですから、これはもう実質恋模様でいいと思います。
特に、お互い身元がバレた十朱と兼高があえて頭への銃撃は避け、防弾チョッキ越しでのみ撃ちあい倒れ込むシーン。
寄せ合った顔と顔、上気した頬、乱れた吐息、十朱のうっとりとしたまなざし。
これ事後じゃん!完全にコトが終わったあとのお布団タイムじゃん!!
室岡に至っては「オレとこの女どっちが大切なんだよ!」って告白してますし。
その直前、恵美裏から「あたしを撃ったら兼高が怒るわよ・・・だってあたしは兼高の女だから!」と渾身のマウントをかまされていたとはいえ、ド直球にしてピュアピュアな告白じゃないですか。
もうこれはね、兼高さんは答えてあげないといけない。
照れてる場合じゃないですよ。 真剣な告白なんだから、真剣に答えてあげるのが礼儀というものです。
それにだいじょうぶ、我々はもうみな、あなたの答えなど聞くまでもなくわかっているのだから・・・
言っておあげなさい・・・ 室岡くんに言っておあげなさいな・・・
・・そうそう・・・ 答えは 「マッドドッグで始まって、ヘルドッグで終わる、か・・・」 ・・っていうね・・・・
え っ ?? そ う じ ゃ な く な い ????!!!!
ここまでブロマンス一直線でやってきたんだから、そこは「もちろんお前だったよ」じゃない?撃った上での過去形じゃない?なにその唐突な犬大喜利?うまいこと言うてはるわ~じゃなくない?っていうか劇中マッドドッグって呼ばれてたのほぼ無かったことない?大丈夫そ?
映像化に際して無理そうな部分は潔く省き、原作にはなかった異性間での色恋描写を盛り込み、ヤクザの事務所は打ちっぱなしのコンクリートでひたすらスタイリッシュに、廃墟は東南アジア風の美術装飾でオリエンタルに、泥臭かったカラオケ大会はイタリアンオペラに、兼高の精神的脆さ(まともさ)は封印し、サイコパス設定だった室岡は幼馴染エピソードで人間臭く。
原作がすきなわたしから観ると、正直「毒を抜かれて漂白されちゃったか~?ヘイヘ~イ?」と感じてしまった部分もありましたが、処理場での戦闘、室岡や十朱や典子などの原作から抜け出してきたようなキャスト陣、そしてなにより岡田師範による格闘技指南の数々は非常に見ごたえがありましたし、これはこれでおもしろかったと思います。
あとね、もしも、万が一原作未読という方がいらしたら、ぜひ「地獄の犬たち」に始まる三部作を読んでみていただきたい・・・エグくて悲惨でめちゃくちゃサスペンスフルでちょうおもしろい小説ですよ!
- おまけ -
・ いちばん岡田師範にガチ恋だったのは、原田監督だった説ある
・ 冒頭、師範に格闘技を指南してもらった室岡の中の坂口健太郎さんのキャハハウフフ演技、お芝居を超えたサムシングを感じた
・ 正直、師範に直接指南してもらえたら誰だってみんなふつうにキャハハウフフしちゃうと思う
・ 巨大ヤクザ組織の抗争を描いたお話なので、対立関係や人間関係などは作品を理解する上での肝になってくると思うのですが、「いうてもヤクザの名前とか生息地とかシノギとかいちいち説明しても覚えきれないだろうしみんな大して興味ないっしょ?」とばかりに、喋っている途中で他の音をかぶせたりして説明セリフをびゅんびゅん飛ばしてゆく姿勢、きらいじゃない
・ 要するに殺し合いですよ、殺し合い! という強気の姿勢、きらいじゃない
・ ただ、説明をとばした結果「MIYAVIがえらい人なのはわかるけど、どれぐらいえらいのかよくわからない」状態になり、抗争のスケール感がぼんやりしてしまったことは否めない
・ 尺の都合上なのか、関西ヤクザがすぐMIYAVIを裏切るのもよくない。 あれではMIYAVIがただ3億をすった人に見えてしまってすごさが伝わらない
・ 大物MIYAVIの護衛についた兼高と室岡の描写が全部よくない。 わざわざ説明セリフで「防弾バッグを常備すること」って言ってたのにほとんど持ってなかったし、移動警護中にバッグで壁を作るシーンに至っては皆無だった
・ でっかい車から降りて無防備に歩いてゆくMIYAVIと、その後ろをてくてくついてゆく護衛3人。 いや守れてねえじゃんそれ
・ 処理場の管理人を村上淳さんが個性的に演じているのですけども、個性出しすぎじゃないかなあ
・ ヤクザの闇仕事を一手に担う場所を守る人が、足をひこずっているっていう設定、どう考えてもおかしい。 なんかあった時すぐ動けないとかありえない。 いくらなんでも危機管理できてなさすぎ
・ ムラジュンさんならふつうに出てきても雰囲気ばっちりだったと思うんですけどね
・ 岡田師範の原動力になっているのが、交番勤務時代にすきだった女子高生の弔い合戦なところもよくない。 創作物といわれたらそれまでだけど、原作にない改変ポイントであるにも関わらず倫理的にアウトなエピソード足してくるのおかしいやろ
・ 女子高生がアルバイトしているスーパーを巡回して、女子高生をガン見する岡田巡査。 「デートの約束したんだ~」と喜ぶ女子高生
・ 少女マンガ『PとJK』のノリをバイオレンス映画にぶちこんでくるの、情緒がおかしくなるからやめてくんろ
・ ヤクザに素性がバレたら命はない、という潜入捜査官ならではの恐怖を、先に潜入していた麻薬取締官のエピソードで紹介しておきながら、雇い主の阿内と人目に触れる場所でふつうに会っていたり整形で顔を変えてもいなかったり昔の勤務先を懐かしそうに眺めていたりと、緊張感ガバガバな描写が続々登場。 挙句、昔の名前で元同僚から呼ばれているところを偶然通りがかった下っ端ヤクザに目撃される始末。 どうしたいんだよ・・・
・ 突然の象牙推し
・ ドラッグとか臓器売買とか人身売買とかゼネコン贈賄とかじゃなく象牙。 いや、別に象牙が悪いわけじゃないけど、ホントにメインのシノギが象牙・・・?その方向性で行くの・・・?大丈夫そ・・?
・ アクションは見応えがあったものの、関東最大のヤクザ組織による血で血を洗う抗争という全体像が見えてこないままだったし、国家権力を脅かす機密書類もおざなりだったし、作品としての緊張感を維持するところまでは手が回ってなかった気がします。 あくまで岡田師範の格闘術と、ブロマンスがメインというのなら、そこはたしかに大成功だと思うし大満足です
『さかなのこ』
2022年09月21日
あらすじ・・・
さかなをすきになった子どもがおさかな博士を目指します。
冒頭、スクリーン一面に映し出される「男か女かはどっちでもいい」の文字。
そう、これはとある男の子でも女の子でもない、ひとりの子どもの物語。
猛烈になにかに興味をひかれ、寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱいになり、成長しても関心は冷めないどころかどんどん高まり、一心不乱にすきですきで、すきでいつづけた子どもの物語なのです。
そう、これは一部はフィクションであり、一部は主観によるノンフィクションであり、ほとんどはファンタジー。
あってほしいけど、そうそうありえない世界の物語。
大人から子どもまできっとみなさんがご存じの「さかなクン」。
ご本人による自叙伝をもとに作られた映画『さかなのこ』は、さかなクンの分身こと「ミー坊」を中心に、100%の献身で支える母やしずかに見守ってくれる友人や理解をしめしてくれる社会人の姿を、ユーモアを交えつつひょうひょうと描いていきます。
ミー坊はあくまで架空の存在であり、さかなクンではない。
しかし、ベースになっているのが自叙伝である以上、登場人物の中にはモデルが存在することもある。
だからってわけではないと思うんですよ。
実際がそうだったんだと思うんですよ。
ただ、結果としてこの映画の世界にはやさしい人しか出てきません。
ミー坊の願望を最優先で叶える母、その巻き添えで毎日魚類を食べさせられる海鮮ぎらいの兄、同じく父、「すき・きらい」の感覚が一般的なそれとは違うミー坊のピュアな告白に巻き込まれるクラスメイト、授業そっちのけでおさかな新聞の発刊に取り組むミー坊を支持する釣り好き教師、釣りで意気投合する地元のヤンキー、釣りたてのイカで篭絡される隣町のヤンキー、仕事を教えてもメモもとらないし勝手な行動に走るミー坊を根気強く指導してくれる水族館の上司、飲み屋に誘ってくれる寿司屋の大将、常連であるミー坊が無職になったのを見かねて雇い入れてくれる熱帯魚ショップの店長、オシャレ水槽を依頼したら出来上がったのはめんどくさいオタク臭全開のこじらせ水槽だったけど決して怒らずお金も払ってくれるオシャレ歯科医師、勝手にシャッターに絵を描かれても気づかずにいる商店街の人、勝手にシャッターに書かれた絵を大絶賛してくれる商店会の人々、もうなにもかもがやさしい。
なにもかもが寛容。
なにもかもがミー坊ウェルカム状態。
ミー坊の「個性」は、少なくない子ども(そのまま成長した大人も含め)が抱えるもので、人生にプラスに働くことももちろんあれど、多くの場合生きづらさにつながるものなんですよね。
ミー坊だって、さかなに向ける関心が友人たちには向けられなかったり、さかなで埋め尽くされた脳内に学校のお勉強が入り込む余地はなかったり、好奇心のアンテナが常に十個ぐらい立っている状態であるがゆえの多動であったり、社会からつまはじきにされかねない要素はたっぷりあった。
しかし、ミー坊は孤立しなかったし「すき」のせいで行き詰まることもなかった。
それはひとえに周囲の人々に恵まれていたから、そのひとことに尽きると思うわけで。
これはですね、同じく「コントロールが困難」な「個性」をもつ子どもを育ててきた身からすると、マジで理想郷だしファンタジーと言わずにはいられない。
ただ、この作品がすごいのは、そんな「そうそううまくはいかんやろ・・・」という現実の世知辛さが、映画を観ている間は不思議と感じられないというところでもありまして。
「すき」を応援してくれる人しか出てこないという、徹底的にやさしい世界をゆうゆうと泳ぐミー坊の姿が、同じような「個性」を抱える子どもたちの未来の姿になってほしいと願うし、女性でも男性でも大人でも子どもでもないミー坊がこの先の世界の「ふつう」の中のひとつであってほしいと願うし、なんかもうね、みんなしあわせになってほしいというあたたかな気持ちに包まれるんです。
きっとその大きな要因はキャスティングだと思うわけで。
そう、本作はとにかくそのキャスティングが抜群にはまっている、いや、はまりすぎているといっても過言ではない。
ミー坊を演じるのんさんが、過去のどの作品ののんさんでもなく完全に「ミー坊」だったことがまずすごい。
誰と絡んでいても性的なものを感じさせないその空気感。
現実離れしているようだけど、しっかり地に足をつけている様子も伝わってくる繊細な感情表現。
他のどの俳優さんでも成り立たなかったのではないかと思います。
そしてミー坊を取り巻く人々もキャスティングも百点満点。
お母さん役の井川遥さんの圧倒的包容力、地元のヤンキーたちを演じる磯村勇斗さんや岡山天音さんや前原滉さんや三河悠冴さんによる秀逸すぎる掛け合い、理解力のある水族館職員・賀屋壮也さん、日本映画で見かけない日はないという活躍っぷりの宇野祥平さんのおだやかな笑顔、やさぐれアラサーが抱える複雑な感情の機微をつぶさに表現する夏帆さん、強すぎる「個性」を目の前にしたときのごくごく一般的なリアクションをしただけで彼氏に捨てられてしまうぱるるさん、友達の夢を純粋に応援し続けることができる勇敢な青年を演じる柳楽優弥さんなどなど、神懸かった適材適所っぷりで作品のクオリティを激しく向上させていました。
そして幼い俳優さんたち。
日本の子役はその演技の不自然さを語られることが多いものですが、本作で登場人物の幼少期を演じる俳優さんたちのなんと自然でなんといとおしいことか。
冒頭パートでいきなり心をつかまれ、その後も柳楽さんや磯村さんと同じようにミー坊を応援したくなる(柳楽さんたちのことも応援したくなる)のは、この幼少期があったからこそなんですよね。
無邪気で素直でちょっと大人ぶってみるけどやっぱり子どもで、そんな自分たち以上にまっすぐなミー坊を当たり前に受け入れる子どもたち。
振り返れば、最初はみんなこうだったんだんですよね。
わたしもあなたも子どもたちも、みんなこうだったはずなんですよ。
でも「ふつう」の枠を突きつけられ、「ふつう」か「そうでない」かの選択を迫られ、諦めたり順応したり悟ったりしているうちに、「そうでないもの」に対しての新たな視点を植え付けられてしまった。
結果、「そうでないもの」は異質なものとして認識され、排除され、冷笑を浴びせられ、生きづらさだけが増してゆくことになる。
別に「ふつう」を責めているのではなく、「そうでないもの」が特別だとかそういうことが言いたいんじゃないんですよ。
大多数の「人が「ふつう」でもいい。
ただ中に「そうでない」があったとしても、受け入れ見守って行ければいいだけの話で。
そんな気持ちを改めて感じさせてくれた幼少期パート、本当にすばらしかったと思います。
(あと、幼い俳優さんでいうと夏帆さんの子どもさんを演じていた永尾柚乃さんがくるおしいほどかわいらしくて悶絶しました。他人の子とは思えない圧倒的「うちの子」感・・・!きっと不特定多数の親御さんが「うちの子みたいでかわいい・・・・!!!」ってなる安心のかわいらしさ。ミー坊でなくても画材をプレゼントしたくなること必至・・・!)
と、まぁ絶賛に次ぐ絶賛をお送りしてきたわけなのですが、『さかなのこ』には「ええはなしやなぁ・・・」の気持ちだけで劇場をあとにさせない、隠し毒針のような仕掛けも施されていまして、そこがマジで看過できないほどの劇薬だったことをお伝えしておこうと思う次第です。
そう、観た方ならわかるでしょう、「さかなクン」ご本人登場のくだりです。
幼少期、ミー坊が暮らしていた地域には「ギョギョおじさん」と呼ばれる不審者がいました。
いやいやいや、不審者の定義ってなんやねん?
そもそも「ギョギョおじさん」演じてるの、さかなクンさんご本人なんやから不審者呼ばわりは不適切やろ?
ごもっとも、ごもっともなんですけど、「ギョギョおじさん」の描写はというと「真夏でもトレンチコートで、四六時中魚の手作り帽子をかぶり、下校中の小学生に話しかけ、逃げても無視してもついてきて、たのしげな誘い文句で自宅へ連れ込もうとする」という不審者事案の満漢全席みたいな内容で、もうこれは明らかに確信犯的キャラクター設定なんですよね。
演じているのがさかなクンさんだから絶対変質者じゃないけど、客観的にみたら完全にアウトなギョギョおじさん。
演じているのがさかなクンさんだから家に遊びに行っても何もなかったと思うけど、客観的に見たら最悪の展開も想定しないといけないギョギョおじさん。
実際、劇中おじさんの家に単身遊びに行ったミー坊は、その後クラスメイトから「いたずらされた子」扱いされます。
誤解だから気にしない、じゃないじゃないですか。
ファンタジーだから気にしない、じゃないじゃないですか。
「いたずらされた子」って、冗談めかして使っていい言葉じゃないじゃないですか。
ミー坊の先を走るかのようにさかなを愛し、さかなに人生を捧げ、「個性」がゆえに社会になじめず自宅にこもり、唯一できたのが小学生の友達だったギョギョおじさん。
警察に連行され、もうその土地には住めなくなってしまったギョギョおじさん。
ミー坊が歩んだかもしれないもうひとつの人生、で済ませるには不審者事案要素にリアリティがありすぎるし、その後の人生も悲惨すぎる。
それをさかなクンさん本人に演じさせるってどういう意図やねん。
このくだりだけ感情グチャグチャで、さかなクン部分を飲み込み切れなかったっちゅうねん。
あと、そんなギョギョおじさんの家に小学校低学年の子どもをひとりで行かせちゃうお母さんもね、相当やばいんですよね。
ミー坊を最も理解しすべてを全肯定するほとけのような母の胆力は、「個性」に振り回される子どもをもつ親から見たら本当にあっぱれで、「こうありたいしこうあれればいいんだろうけど現実そうもできない」という悩みへの究極のアンサーを突きつけられた感じがすごい。
実際その接し方の結果、さかなクンが存在しているわけですし。
ただ、ギョギョおじさんの家に誘われたミー坊に「危ないから」と反対するお父さんとは違い、そこでも「子どもには他人を信用する人間に育って欲しいから」という理由で「行っておいでよ」と背中を押す母のそれは、ちょっと違うのではないかと思うのですよ。
理由はわかる。
もちろんそう育って欲しい。
けれど、だから子ども一人でほとんど知らない人の家に行かせていいのか? いや、よくない。
子どもの意志を全肯定するということと、判断のつかない子どもを判断が迫られるような環境にひとり放り込むこととは別問題だし、それを「フィクション」というふわふわしたものに包んでいい話に紛れ込ませるのは不誠実ではないでしょうか。
お母さんの寛容さステキ~!、じゃないし、一歩間違えたらこうなっていたかもしれないさかなクンの悲劇・・・!、でもないですよ。
子どもを育てる親としても、個性による生きづらさを理解している身としても、ギョギョおじさんの描き方とお母さんの描き方は諸手を挙げて受け入れられないところがあった。
「お母さん」をファンタジーの世界の妖精かなんかだと思ってないか。 とまで思う瞬間があった。
全編通してやさしい世界だったし、いとおしい関係性だったし、役者さんは輝いていたし、やりとりもほほえましかったのですが、この部分の毒素がわたしには強すぎたあまり、ずっと心の奥にひっかかることとなったのでした。
なんだったら、エンディング前の本来心温まるであろう「おさかな博士になったミー坊が先頭を切り、その後ろを子どもたちが歓声をあげながらついてくる」シーンで、どんどん増えてゆく子どもたちを眺めながら一瞬不安になってしまいましたからね。
だいじょうぶかな。 ミー坊も通報されちゃわないかな。
ギョギョおじさんがそうしてくれたように、子どもたちにおさかなの魅力をつたえようとしているのかミー坊よ。
ギョギョおじさんと同じ轍は踏まないように、家には招かず海で課外授業をするというのかミー坊よ。
大勢の子どもたちをいざなった先には海がある。
足を止めないミー坊は、駆け抜けた勢いそのまま白波に飛び込む。
「ハーメルンの笛吹き・・・なのか・・・まさか・・・」
おさかなになったミー坊、すべては夢かまぼろしか。
原作もいい、俳優もいい、音楽もいい、映像もいい、ただ、解釈が合わない部分があった。
わたしにとってはそういう映画だったのでした。
『牛首村』
2022年02月19日
あらすじ・・・
北陸で最も有名な心霊スポットで姿を消した女子高生の謎を、彼女にそっくりな別の女子高生が解き明かします。
実在する心霊スポット・犬鳴トンネルを舞台に犬ニンゲンの恐怖を描いた『犬鳴村』、実在する国立公園・青木ヶ原樹海と有名な都市伝説・コトリバコを題材に樹海ニンゲンの恐怖を描いた『樹海村』に続く、実録・恐怖のニンゲン・・じゃなかった村シリーズ第三弾『牛首村』を観てきましたよ! 実録じゃないか!ほぼ創作実話か!
今回舞台となるのは、北陸では知らない人はいないといわれる心霊スポット・牛首トンネルと、平成の時代に一世を風靡したとある霊能力者が入るのを拒んだといわれる最恐スポット・坪野鉱泉。
牛首トンネルの方は寡聞にして存じませんでしたが、後者は数年前に見たニュースで記憶に残っていました。
地元で有名な心霊スポット。 そこに出かけたまま消息不明となった子どもたち。 数十年後に発見された遺骨。
どこの地元にもある心霊スポットですが、そこを危険な場所にしているのは霊のいるいないではなく、肝試しの場として多くの若者が集まる場所になっていることなのではないか。
不特定多数の若者が夜集まる場所がいつしかゴミだらけになり荒れ始め、徐々に治安は悪化、新聞に載らない程度の事件が起こり、誇張を加えられた事件はおもしろおかしく拡散され、新たな心霊ネタとして若者たちをを呼び寄せる蜜となる。
本当にこわいのは幽霊ではない、人間なのだ。 なんてよく耳にしますが、噂話や都市伝説ではない、実際に起こってしまった事件を目にしてしまうと複雑な気持ちになってしまいますね。
恐怖を消費してしまうことの愉悦。
その恐怖を装飾する材料にされてしまっている誰かの痛み。
人間は怖いですよ。 そりゃもう、相当おそろしい。
そんなおそろしくもいたましい事件を引き起こした忌まわしき場所を舞台に映画を作るのですから、もしかしたら今回は過去二作と異なったアプローチのホラー映画になるのかもしれない。
今度はマジなやつになるのかもしれない。
そう思っていた時期が、わたしにもありました。
蓋を開けたらまんま牛でやんの!ずばり牛ニンゲン!! 牛首村だから牛の首をかぶったニンゲン!それはもう偶然ではなく必然!笑うなよオレ真剣!hey!yo!
と、いうわけで、結局シリーズのお約束をきっちりと踏襲し、良くも悪くも裏切りのないいつものアレになっていたわけですが。
見方を変えれば、「いつものアレ」なんていえること自体がしあわせなことなんですよね。
毎回賛否をよびつつも第三弾ですからね! このご時世、ホラーをシリーズなんてそんなにできないって!「村」でくくっといてホントによかったね!日本なんてもうそこいらじゅう村だらけだもん!
毎度おなじみかわいい動画配信者のちょっとした大冒険で幕をあける本作。
いわくつきの心霊スポットにて撮影を開始するも、今回の「アッキーナ」はシリーズ最高に底意地がわるいと言うか、配信にもバズりにも興味のない友人を半ば無理やり参加させ、しかも「乗り込んだら最後、異次元空間へ送られてしまう」と噂されるエレベーターに押し込むという非道をはたらきます。 おまえそれほぼ犯罪やろ。
押し込まれた友人・詩音は噂のとおり姿を消し、その動画はまたたくまに拡散され、偶然それを目にした高校生・蓮の恋人・奏音が詩音にそっくりだったことから、物語は「なぜ・だれ・どうして」に突入してゆくわけなのですが、この導入部から序盤の展開はすこぶるよかったですね。
画面の端に見切れる人の影や、ガラスに映った顔が別人になるなど、今までもあった表現ではありますがとても効果的に使われていた。
誰もいないのになにかに反応する音声アシストなんてとても今風だし、シンプルだけどじんわりイヤな感じが醸し出されているじゃないですか。
なにか見えたらこわいけど、画面の余白を確認せずにはいられないことによる緊張感と、実際なにかがほんの一瞬映り込んだあときの心のザワつき。
こういう緩急のつけかた、わたしはとてもすきですね。 初演技とは思えない程ビビり上手な主演俳優・Kōki,さんも華があった。
ただ、自分と瓜二つな事件被害者を探しに富山へ向かうあたりから、雲行きはいつもどおりに怪しくなってきてしまいまして。
これはもう、すべてわたしの勝手な想像で、本当のところはわかりませんけどね。
なんつうか、「撮りたいもの」と「実際撮ることができるもの」のすり合わせがうまくいっていない印象なんですよ。
映画を撮る、っていっても今の日本映画で監督に与えられる裁量って、決して多くないのではないでしょうか。
俳優のキャスティング、レイティング、セリフの内容、撮影スケジュール、許された予算。
制約がないはずないし、本当にイメージしたものとはかけ離れてしまうこともあるでしょう。
撮ることを約束したものは抑えつつ、自分が撮りたかったものもどこかに残しておきたい。
清水監督の『こどもつかい』で唐突に登場した、有名連続殺人鬼に似たおばけなんて、まさにそれなんじゃないかと思ったのですよ、わたしは。
まあね、まあね、あれはあれでいい映画でしたけどね。
タッキーのビジュアルやキャラクターとしての位置づけと、お客さんを怖がらせられるホラー描写とを両立させるという困難さをあえてぶつけあうことで、こわいとかこわくないとかいう次元を超えたエンターテイメントへと昇華した感ありますもん。
タッキーがいちいち衣装をフル紹介していくシーンとか、無駄に尺長くてさいこうでしたよ。
『こどもつかい』を一度も観たことのない方は、ぜひ一度ご賞味ください。
だいすきな『こどもつかい』の話はさておき、あの辺りからみえはじめていたすり合わせの難しさが、恐怖の村シリーズではどんどん顕著になっており、今回マジでちぐはぐだったんですよね。 非常にきびしい状態でした。
やたらと多い顔面アップのせいで画面は単調になり、きれいな顔は拝めるものの起きていることが不明瞭に。
一人二役をほぼ合成なしで乗り切ろうとしたからなのか、生き別れた姉妹の十数年ぶりの再会は、互いに目も合わさないし会話もろくにしないし怪我した相手を支えにもいかないという不自然なシーンに。
撮影期間が長くなかったからなのか、舞台をほぼ富山に絞った結果、心霊スポットを訪ねる主人公と恋人には現地で次々と仲間が現れ、しかも合流のきっかけや理由づけは非常に薄く、しまいには主人公を置いて出張していたはずの父親や死んだはずの母親と祖父祖母まで富山に登場、彼らの生き死にも富山で完結するというオール富山決戦。
他の人は富山市民だからいいとしても、恋人は東京の子だし、高速バスで東京にもどっている途中で突然死したはずなのに、なぜか富山の病院(霊安室でもなく診察室)で家族ですらない主人公が身元確認という「そうはならんやろ」現象はどうにかならんかったんか。 バスで富山まで戻ったんか。 最悪そうだとしても親呼ぶやろ。
恋人の遺体を前に号泣するKōki,さんですが、そもそも彼女と恋人の関係もめちゃくちゃ謎で、初登場シーンからずっと冷たいんですよ、対応が。 ツンデレとかそういうじゃない冷たさ。
いうても、要所要所では「もう彼氏くんったら・・・」みたいなのがあればね、恋人感もでるんですけどね、まったくべたつきがないですからね。 冬場の脛かっていうくらい乾燥してるから。 (そういうのがNGだったのかどうなのかわかりませんけど)
あとね、なぜか主人公も恋人も相手を待とうとしない。これホント謎でした。
こわい場所・見知らぬ場所に来ているのに、相手がそばにいるかどうかもついてきているかどうかも一切気にするそぶりはない。
そしていちいち置いてゆく。
ホラーなんだから置き去りにしないとこわくないでしょ? っていう話かもしれませんけど、ふたりが別の場所にいなければならない状態にするのなら、きちんとした経緯があるほうがいいと思うんですよね。 それはね、丁寧さに欠けると思うんですよね。
ふたりの関係性があまりに不足しているのに、彼女のためにどこにでもついてくる献身と、彼氏を失った悲壮感だけみせられてもなぁって話ですよ。
呪われる原理も相変わらず謎ルール。
むかしむかしとある村で行われていた子殺しの風習(双子は忌み子だから一人しか生き残せない)が原因となり、人違いで穴の中に放置された双子の片割れちゃんが、自分以外の放置子を生食しつつ生き延びて、なんかシャクにさわるヤツらを呪い殺していたっぽい感じって、ずいぶんとずいぶんなルールじゃねえの。
坪野鉱泉が立っている場所が、もともと村のあった場所らしいので、生家を荒らす奴は許せねえ!みたいなアレなのでしょうかね。
まぁ、廃墟だからって屋上から排尿をかましちゃう蓮くんは呪われてもしゃーない気がしますが、その蓮くんがほぼ無傷の突然死なのに対し、主人公たちを乗せていってあげただけの富山市民はエレベーターで胴体まっぷたつって、失うものデカすぎんか?
勝手に入り込んで撮影していた配信者が呪い殺されるのなら、今までこの場所でやらかしてきた若者全員抹殺しないといけない計算にならんか? だいじょうぶか? 双子ちゃん、肝試しの盛んな夏場は過労で倒れるんとちがうか?
まあね、まあね、毎回ストーリーは割とこんな感じですけどね。
制約の範囲内で撮れたショックシーンとそれ以外のつなぎがバランス悪かったなぁって、それだけ言いたかったんすよ。 ごめんごめん、わがまま言ってごめん。
でもね、ホントこわいシーンはいっぱいあったし、その後の展開に絡むのかと思いきやなげっぱなしだった蜃気楼のシーンとかも、すごくよかったと思うんですよ。
映画初出演で初主演とは思えない程こなれた怯え顔をみせたKōki,さんもよかった。
とんでもなく悪天候な駅のシーンも、「もしかしたらこれ、めちゃくちゃく天気が崩れてきたから急遽よーしカメラを回せ―!ってなったのかな」と思ってしまう程不穏でうつくしかった。
実在する廃墟でロケをした点も、わたしの個人的モットーは「こういう場所は霊が実在するかしないかはさておき、面白半分で足を踏み入れるもんじゃない」なので、マジで胆力がすごいと思います。 よく撮影したなぁ。こわかったろうに。
村シリーズがもしもまた来年あるとするならば、謎システムの呪いや時間軸移動の謎ルールや謎因習にもう少し統合性をもたせていただけると、恐怖描写がより説得力を増すと思いますので、もしもまたあるとするならばよろしくおねがいします、あるとするならばですけど。
都市伝説(ネット怪談)では知らぬ者のいない有名作「きさらぎ駅」も別会社で映画化されるなど、認知度の高いネタの争奪戦は今後より激しくなっていくかもしれませんが、「洒落怖」でググりながら是非いい村づくりを! また観にいきますんで!
― おまけ ―
・ 双子=忌み子という風習なんですけど、子殺しをやっていた主人公の祖父母世代の服装が微妙に古すぎるし、貧困ゆえの子減らしっつったらだいぶ昔にさかのぼらないかと思うんですけど・・・
・ いや、そんなこたあねえ。田舎の貧しい農村は戦後もバリバリ子減らしやってたぞ。という情報をお持ちの方はおしえてくれなくてもいいのでそっと心にしまっておいてください。 ちなみにわたしは主人公の親世代の地方在住者ですが、そういう話は聞いたことねえですだ。
・ もしかしたら樹海村の村民の衣装再利用してたのかな・・・
・ ここぞという箇所だけはちゃんと特殊効果でダブルKōki,さんを実現させていましたが、本当にCGなしでお送りされた双子のシーンもありまして。 終盤、分裂するかのように、村民一人一人が二人へと増えるシーン。 合成とは思えないほど自然(微妙に髪がはねていたり口の傾きが違っていたり)だとは思ったのですが、エンドクレジットを観てビックリ! 同じ苗字がペアセットでぞろぞろ流れてゆくではありませんか。
・ 老若男女の双子さんがこんなに・・・ よくそろえたなぁ! 種類は違いますけど、クロエ・ジャオ監督の『ザ・ライダー』のエンドクレジットを観た時のような良い驚きでした。
・ 今回のMVPは、車で接触してしまった罪悪感からか見ず知らずの若者を心霊スポットまで乗せて行ってあげて、ついでに有名な心霊トンネルも紹介してあげて、復路が困るだろうからと心霊スポットでのデートが終わるのを待ってあげて、屋上から尿をひっかけられても「おいなにやってんだよ」程度で許してやり、待ってる間の心霊スポットで自身も怪奇現象を目の当たりにするも逃げることなく、デート終わりの若者を自分の事務所に連れてきて話を聞いてやり、悩みの解決に尽力してあげる富山市民・松尾諭さんです。
・ あんたいったいなんなんだよ・・・ 新種のやさしい妖精か・・・? (そして派手に死んで映画にも貢献する)
・ 車での接触事故が発生した場合、負傷の有無は関係なく必ず通報しましょう。
前作の感想
村シリーズ第二弾『樹海村』